TwitterにTwitterサークルという機能が実装されたそうです。
この機能が実装されてまず思ったことは、何かを告発するためにこの機能を使う人が現れるかもしれない、ということでした。
#Metoo 運動の成果もあって、告発というと性暴力に関わるものだというイメージが根付いてきたように感じていますが、いじめや労働問題、企業の不正など、あらゆる不公正・不正義が告発の対象となります。今日学校で友達からこんなことを言われた、とか、仕事で退勤した後に残業をさせられた、とか、いわば愚痴に近い、もしくは愚痴そのものであるつぶやきも、広い意味では告発といえるでしょう。
軽い愚痴のつもりであったとしても、人物や場所などが特定される場合はリスクが伴います。誰かに知ってもらいたい、でも不特定多数の人に知られるとまずい。そんな時、Twitterサークルが役に立つ場面が出てくるのだと思います。
しかし、たとえTwitterサークルを使用したとしても、告発のリスクが0になるわけではありません。告発が大きなもの――相手が有名人だったり、差別が含まれていたり、など――であればあるほど、反響や報復など様々な面で自身に降りかかる危険はより大きくなります。
そもそも告発を行う可能性がある状況に置かれるという事態そのものが不当なことなのです。だからたとえ告発をしないという選択を当人がとったとしてもそれは尊重されるべき選択です。告発をしないという行動もまた「勇気」がいる選択だからです。
それを確認したうえで、告発をするという選択をした人にとって喫緊の課題となるのが「いかにリスクを減らし、安全に告発をするべきか」ということです。
何らかの相談機関や運動団体に関わることができれば、告発の安全性を増すことはできるでしょう。匿名で相談し、信頼できる担当者とつながり、多くの人に支えられながら告発を行うことができれば、それに越したことはないでしょう。
では、相談機関や運動団体とも繋がれない(あるいは「繋がりたくない」)場合、一人もしくは少人数で告発を準備する場合、誰にやり方を教えてもらうのがよいのでしょうか。ここでタイトルに書いた問題意識が出てきます。告発を準備する者にとって最も助けとなる思想家は誰なのでしょうか。
先述のように、わたしのなかでは告発というと性暴力に関わるものだというイメージが先行しているほど、性暴力に関わる告発が相次いでいます。性暴力の告発に関して最も意見を表明しているのはおそらくフェミニストです。これまでの歴史をみても、フェミニストは男性中心の社会の歪みを告発し、告発を擁護する理論も提供してきました。では、告発を準備する者はフェミニストの理論家の意見を参考にすべきなのでしょうか。
実は、わたしはそうではないと考えています。というのもフェミニストの理論は告発をした者にとっては役立つと思いますが、これから告発をする者にとって”有用”なのかは疑問に思うからです。
もしフェミニストの理論家に「これから告発をしたいのでより安全でリスクの低いやり方を教えてほしい」と聞いたらおそらく次のように答えると思います。
「告発のやり方がどのようなものであれ、わたしたちフェミニスト理論家はあなたの告発を尊重し、あなたに向けられた不正義や憎悪をともに闘い擁護します」
フェミニストの理論の多くは、告発者に向けられた非難から告発者を擁護するものである。起きてしまったことに対して擁護するのだから、フェミニストの態度は必然的に後手にまわる。フェミニストの理論は告発の戦略を提供することはあっても戦術を提供することはない。
しかし、これから告発を考えている者からすればそれでは困るのだ。後からあなたのことを擁護しますと言われても、誰だって当人の意向を無視した毀誉褒貶にはさらされたくないものだ。告発を準備する者にとって必要なのは、告発のリスクを減らすための先手である。
では、先手を打つ戦術を提供してくれる理論家とはいったい誰なのか。それはマキャベリに他ならないと私(わたし)は考えます。
ここまでまわりくどい書き方をしてきましたが、それは告発のために支配者側の思想家の意見を参考にしろ、という私(わたし)の結論を意外に思う人が多いだろうと思ったからです。私(わたし)も右翼の思想家よりはなるべく左翼の思想家を参考にしているので自分が一番意外に思っています(だからブログを書こうと思ったわけですが)。
実はマキャベリを読み始めて気づいたのですが、マキャベリの思想とはいわば「よきこと」を為す人々のための理論だったのです。そして彼は「よきこと」を為す人々のために、支配者に反逆する人々を分析し対策まで講じています。これが逆説的に告発の準備に必要な認識と方法を提供しているのです。
…脅迫を加えられて、相手の言いなりになるか、あるいは拒否して害を加えられるか、二つに一つの道をどうしても選ばなければならないはめにたたされた人間こそ、君主にとってもっとも危険な存在となる。*1
いかに相手を支配し服従させたとしても、服従した相手が「よきこと」を為す人々を裏切らないとは限りません。むしろ支配者はその相手に対し常に後ろめたさを感じ、潜在的な恐怖を抱き続けるのです。
…陰謀をたくらむのは、いつにかかわらずたいへんな危険を伴うものである。というのは、陰謀を計画し、実行し、成就するという一連の経過を通じて、初めから終わりまで、陰謀は危険をまきちらすからである。*2
性暴力等の現代における告発はマキャベリにとっての「陰謀」である。ここでいう陰謀とは「君主に向けられた陰謀」*3である。
すでに述べたように、陰謀をくわだてるにあたって、まちかまえている危険は、三つの段階に分けられる。すなわち、計画を練る段階、実行に移す段階、実施後の段階がこれである。この三つの関門を首尾よくくぐり抜けることは至難のわざであるので、目標にたどりつける者はごくわずかである。
さて、はじめに第一の段階の危険を論じることにしよう。 このばあい、もっとも重要なことは、きわめて慎重な配慮に加えて非常な幸運が伴なわなければならない。この二つがあってこそ、陰謀を露見させずに運んでいくことができるからである。
陰謀が露見してしまうのは、密告されるか、それとなく感づかれるかのどちらかである。密告されるのは、主謀者が陰謀を打ち明けた相手が信用のおけない人物か、慎重を欠く人物のばあいである。信用のおけない人物は、簡単に見破ることができる。諸君が大事を打ち明けることのできる人物とは、諸君のためなら命を捨てることもいとわないと信じられる者か、あるいは君主に対して不満をいだいている者である。
信用のおける人物というのは、せいぜい一人か二人くらいしか見つからないものである。諸君が計画をさらに多くの人々に打ち明けようと思っても、できない相談である。これらの人々はあなたがたに最大の好意をささげ、どんな危険でもおかし、どんな罰をも恐れず事にあたる人でなければならない。
人間は他人が自分に好意をよせていると買いかぶりすぎて、裏切られがちなものである。だから、実際の経験に照らしてみる以外にはこれを確かめる方法はない。ところが、これを経験の場に移すのは危険このうえもない。ほかの危険な仕事に使ってみたうえで、はじめて信用するようにしても、これだけでその人物に全幅の信頼を寄せるわけにはいかない。なぜなら、本番としてひかえている陰謀は、それまでの仕事とはくらべものにならないほど危険なものであるからである。
また、現に君主に不満をいだいている人物になら大事を打ち明けられる、と考えると大まちがいのもとになりかねない。この不平家に腹のなかを打ち明けでもしようものなら、この男が君主に投じてその寵を回復するための密告の材料を与えることになるからである。したがって、この男を信用するにあたっては、この男の君主嫌いがどこまで徹底したものであるか、また諸君にこの男をおさえつける力がどれほどそなわっているかを、考えて判断しなければならないのである。
したがって、陰謀というものは、はじめたばかりのところで露見し、つぶされてしまうことがたいへん多いものなのである。そのため、多くの人の心のなかでひそかに陰謀がはぐくまれ、長いあいだにわたって秘密が保たれているという例は、じつに驚くべき現象といえるだろう。(下線部筆者、読みやすさのために段落ごとに一行開けた)*4
このような危険(筆者注:陰謀が露見する危険)を避けるためには、次のような方法をとらなければならない。第一にあげるべきいちばん確実な方法、というより唯一最上の方法は、仲間のだれに対しても、密告できる時間を持たせないようにすることである。すなわち、主謀者はいざ実行というまぎわに、内容を参加者に知らせるようにし、それ以前にはけっしてもらしてはならない。(下線部筆者)*5
告発を準備する者にとって、これほど具体的かつ”有用”なアドバイスはない。既に何らかの告発を実行に移した人ならば、これらの記述が意味するところは実感をもって理解できるだろう。
もちろん歴史的背景や現代との時代状況との差を考慮して読み進めなければならないですが、何らかの告発への準備を考えている人にとって、マキャベリは幾分かの助けを与えてくれると思われます。この記事が、必要のある人にとって参考になってくれれば幸いです。