一橋大学で差別禁止ルールの制定を求めた有志は反トランス本の出版中止要求を擁護せよ

KADOKAWAで出版企画が頓挫したアビゲイル・シュライアー著『あの子もトランスジェンダーになった』(邦題)が産経新聞出版から刊行されるという。

 

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トランス差別に加担する「左翼」たちが産経に「ありがとう!」とお礼を言っているらしい。

 

この「左翼」たちが反トランス本の刊行を擁護する理由の一つに「表現の自由」を挙げている。ここでいう表現の自由とはブルジョワの権利であり、要するに彼らは「市場への介入を許すな!」というスローガンを推進しているのだ。あまりにも古典的なネオリベラリズムの主張だと思う。

 

それ故に、このスローガンは反トランス本の出版中止が正当な要求であることを示してくれる。

 

資本の運動はG (貨幣)-W(商品)-G'(G+GΔ)の式で表される。商品販売のボイコットはW-G'の運動への介入を意味する。反トランス本の出版中止要求は、差別的な言説を媒介として価値増殖を目論む資本の運動を止める反資本主義運動であるといえる。

 

また、「左翼」たちは反差別運動を「キャンセル・カルチャー」だと批判する。その際に「焚書」や「言論弾圧」といった言葉を濫用して反差別運動を他者化する。

 

他者化の動員によって漁夫の利を得るのは国家である。国家が行為者として遂行するはずの「焚書」や「言論弾圧」を市場内の問題に落とし込むことによって、国家権力による弾圧が免責される。右派勢力による「キャンセル・カルチャー」批判なるものは国家と共謀することによって初めて成立するのだ。

 

そして今回の件で最も重要な点は、一連の騒動がオルグであるという点である。差別扇動の目的はヘイトスピーチの拡散だけにとどまらない。反差別運動を他者化し、さも扇動する側に正当性があるかのような演出をすることによって、右派勢力は新規のシンパを勧誘し取り込むのである。

 

 

 

さて、ブルジョワの権利を擁護する「左翼」たちの問題を整理したところで本題に入る。

 

最近、社会運動に関わり始めた方々はご存知ないかもしれないが、7年ほど前に一橋大学のKODAIRA祭で百田尚樹の講演会が企画されたことがあった。その後、同大学の学生有志らが中心となり、差別禁止ルールの制定を求める運動が展開された。

 

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有志らは、百田が在日朝鮮人等をターゲットにするヘイトスピーチを行っており、講演会の開催が多様なルーツを持つ大学内の人々を危険に晒すと考えた。講演会でヘイトスピーチが起きる可能性は十分に考えられたため、有志らはKODAIRA祭の実行委員会に対し、百田に差別扇動を行わないことを誓約させ、差別禁止ルールを制定するよう求めたのである。

 

今回の反トランス本をめぐる出来事は百田講演会の件と多くの共通点がある。どちらも差別扇動の危険性を憂慮し、差別が再生産される過程を断つことを目的としている。

 

KODAIRA祭の実行委員会が発表した講演会中止の声明もKADOKAWAの声明と似ている。講演会/刊行がもたらす差別扇動の危険性を訴える運動の存在に触れず、中止の明確な理由を示していない。にもかかわらず、差別扇動を擁護する人々は公式声明の内容を無視して中止の責任を反差別運動の側に押し付けている。過剰な想像力が反差別運動を悪魔化する例といえる。

 

ところで、KODAIRA祭の差別禁止ルールの制定を求める運動に関わった人々は今何をしているのだろうか?

筆者は、この時中心的役割を果たした運動家たちを常に監視し続けている。トランス差別が爆発的に広がった現在でさえ、彼らは明確にトランス差別にNOと言わない。

 

反差別という点からすれば、大元はどちらもヘイトスピーチであり、これを止めることは共通の課題であるはずである。しかしながら、彼らはトランス差別について頑なに意見を表明しない。

 

彼らがトランス差別に対してこのまま沈黙を続けることは階級的裏切りであるといってよい。何が差別で何が差別でないか。それを決めるのはいつも活動家の側にある。取り組むべき課題を選別し特定の差別を放置する活動家が「反差別」を掲げることの愚は言うに及ばないだろう。

 

一橋大学で差別禁止ルールの制定を求めた有志は反トランス本の出版中止要求を擁護せよ