#ありえないデモ0716 に参加しました

#ありえないデモ0716

やっと参加できました。

#ありえないデモ0716

昨年11月末、本人が性別変更を望む際、「未成年の子どもがいないこと」を要件としている性同一性障害特例法の規定が最高裁で「合憲」と初めて判断されました。

www3.nhk.or.jp

この最高裁判断に抗議するため「#子なし要件が合憲なんてありえないデモ」が2021年12月16日に行われました。

www.huffingtonpost.jp

 

以来、今年4月15日と5月29日に「私の性別を国が決めるなんてありえないデモ」、TransGenderJapanとの合同開催で6月26日に#ありえないデモ0626 が行われてきました。

 

何回か参加している知人もいて、わたしも過去のデモに参加したかったのですが、タイミングが合わずこれまで参加することができていませんでした。

 

しかし、昨日7月16日、たまたまTwitterをみていたら当日にデモをやるということを知り、空いている時間帯だったので参加しようと決めました。

 

いろいろあって20分遅れで現地に合流しましたが、行きたかったデモになんとか参加することができました。

 

「七夕はいらない」

新宿駅東南口の改札前、階段側を背に主催の頼(たのみ)さんが代読も含めてスピーチを行なっていました。

 

時々、その場で参加している方が発言に加わることもありました。どのスピーチも素晴らしかったと思いますが、全体を通して印象的に残っているのは、あるノンバイナリーの方のスピーチでした。

 

「織姫と彦星」という有名な話がありますが、恋仲の二人を織姫の父親の天帝が引き離そうとしたり、そもそも天帝が織姫を誰かと結婚させようとするなど、家父長制や性別二元論の影響が色濃く出ている話でもあります。織姫たちがなぜ悲しい思いをしなければならないのかわからない。七夕伝説の語りが再生産されることで、恋愛至上主義や性別二元論がより強固なものとなり、ノンバイナリーをはじめ多くの人が苦しんでしまう。だから七夕はいらない。そのような内容であったかと思います。

 

性別二元論が強固な社会において、シスジェンダー以外の人たちは政治の場だけでなく、他人の振る舞いや物語などを通してマイクロアグレッションを受けることが多々あります。政治的・制度的な差別だけでなく、日常に埋め込まれた微細な攻撃に対する抵抗として、人々が多く集まる場所でスタンディングを行い、自らの存在を知らしめることの意味は非常に大きいでしょう。

 

より多くの人に声を届けるために

ありえないデモは複数人で運営されているそうですが、有志で当日のデモの場作りに加わった方もいたようです。

 

デモはインスタグラムやYouTubeで中継していたほか、カメラマンの方がいらっしゃっていたので、カメラが映る場とカメラに映りたくない方が立つスペースが設定されました。

 

有志の方はカメラNGエリアを示すプラカードを持って立っていて、時々、参加者の方に点字ブロックを塞がないよう声掛けもしていました。運営の方がTwitter点字ブロックの周りに十分な空間がなかったことを反省されていましたが、運営、参加者が両者とも視覚障害のある方に対する配慮をまったくしていなかったわけではないことは、主催の方の名誉ために付け加えておきます。

 

また、ありえないデモの特徴の一つとして、手話通訳者の同行が挙げられるでしょう。わたしの知り合いに手話通訳を勉強している方がいるのですが、その人の話によればそもそも手話通訳者の数は多いわけではないし、特に政治や社会運動の場になると圧倒的に人数が足りないのだそうです。だからデモを運営される方がちゃんと通訳を確保していることはすごいと思いますし、より多くの人にスピーチを聞いてもらいたいという思いをしっかり実現させていると思いました。

 

実際、デモには手話を話す方がたくさん参加されていました。デモの後、通訳の方たちと参加者が手話で会話をしているのをみて、「こんなに多くの人が参加されていたのか」と驚きました。より多くの人々と連帯できたという意味で、主催者側の思いや努力が報われていたのではないかと思います。

 

国家権力との対峙

デモ終了後、警察が主催者の頼さんに話しかけていました。頼さんに伺ったところ、ありえないデモを開催して警察が来たのは今回が初めてだそうです。

 

デモや社会運動に警察が介入してくることは残念ながら多いです。警察うざいなあと思いながら話を聞いていましたが、とりあえずは言い争い等が発生せず終わりました。

 

今回の一件をポジティブに評価するとしたら、警察が注視を始めるくらいデモの存在が無視できないものになってきた、ということではないかと思います。わたしはありえないデモの最大の意義の一つはデモを続けていることだと考えているので、地道な運動の結果が可視化できるほどにまであらわれてきたことは、大いに意味のあることではないでしょうか。

 

デモ後の出会い

先頃の参議院選挙でも出馬していた村田しゅんいちさんもデモに参加されていました。以前からデモに来られているそうで、現場を大切にする政治家として側面に親しみを持ちました。

 

村田さんは先日、社民党が回答した差別主義者の団体のアンケート結果がトランスフォビア扇動に利用されたことについて、矢面に立って謝罪されていました。

 

わたしの知り合いのなかには、村田さんの一連の行動を評価して村田さんに投票したという方もいました。デモの後にあの事件についても伺いましたが、同時に村田さんが事態の収集に努めてくださったことについてお礼も伝えました。

 

その後、なんと村田さんからスムージーを飲みにいかないかと誘われたのでついていくことにしました。数名で近くのお店に行き歓談をしましたが、初めて会った人を誘ってくれるなんて気さくな方ですね笑

新宿某所にてスムージーを満喫

村田さんたちと別れた後、一緒にスムージーを飲みに行った方とご飯を食べに行きました。今月14日に「ノンバイナリー研究会」という団体が立ち上がりましたが、その方は団体のメンバーなのだそうです。

 

デモの後に今回のような初めての出会いがあるというのは、社会運動らしくていいですね。おすすめの書籍を紹介していただいたので、ブログでも取り上げておきます。

 

「声なきものたち」などいない

過去に何度も話していることですが、わたしはある社会運動に長期間参加していたことがあります。その経験も踏まえ今回改めて思ったことは、マジョリティ中心の運動にはマイノリティは来れないよな、ということでした。運動に限らず、ある団体の中核にいる人々の大半がシスジェンダーなどマジョリティ属性の強い人で構成されていたら、それだけでマイノリティにとっては脅威なのです*1。でもマジョリティ側は、マイノリティが自分たちの運動に参加しないことはマイノリティの「怠慢」であり「社会を変える気がない=やる気がない」とさえ思ってしまいます。

 

しかし、今回のデモをみてもわかるように、マイノリティはずっと前から声をあげていたのです。ただ、マジョリティがマイノリティの存在や声をみようとしなかった、聞こうとしなかった、感じようとしなかっただけなのです。マジョリティの左翼はいい加減、自分たちの特権や傲慢さに気づくべきではないでしょうか。

 

インド出身の作家でアルダンティ・ロイという方がいます。911の際にアメリカ合国の軍事政策に対して批判を行うなど、2000年代前半によく議論が紹介されていた方だと思います。その方が2004年にシドニー平和賞という賞を受賞した際のスピーチがウェブ記事やYouTubeに載っています。そこに出てくる一節を紹介して締めの言葉といたします。

ほんとうは、「声なきものたち」など存在しない。ただ、故意に沈黙を強いられたり、選択的に傾聴されないものたちがいるだけだ。*2

youtu.be

*1:デラルド・ヴィン・スー著、マイクロアグレッション研究会訳『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション 人種、ジェンダー性的指向:マイノリティに向けられる無意識の差別』明石書店、2020年、p66

*2:https://www.smh.com.au/national/roys-full-speech-20041104-gdk1qn.html。これはメインの文章ではなく()表記内の言葉、すなわち、何か別のことやこの言葉自体を強調したものではないため、この一節を掘り下げた文章があるわけではない。しかし、わたしは図らずもこの言葉が、マジョリティ特権というものが注目されている今の時代において重要な意味を持つのではないかと考えている。なお、訳文はスナウラ・テイラー『荷を引く獣たち』邦訳で紹介されていた今津訳をそのまま使用した。