書評『フェミニスト・シティ』

レスリー・カーン『フェミニスト・シティ』はインターセクショナリティ概念を軸に都市・地理学の問い直しを試みた作品である。

 

 

本書には意識すべき/関心を引くような論点がいくつかあったため、重要だと思う事項をピックアップしブログにまとめることとした。『フェミニスト・シティ』が広く読まれ議論が喚起されることを期待したい。

 

 

セックスワーク/トランスジェンダーをめぐるモラル・パニック

 

序章から既に言及されるように、本書では繰り返しセックスワークをめぐるモラル・パニックについて大幅に紙幅が割かれている。現在、人身売買とセックスワークを結びつけてセックスワーカーの根絶を図るグローバルな反ジェンダー運動が世界的に展開されており、日本でも一部、フェミニストを名乗る極右勢力がこれに加わっている。本書はこのようなバックラッシュの状況下で執筆、刊行、訳出されており、時代の影響を多分に受けていることがうかがえる。

 

モラル・パニックとは、ある現象がマスメディアや識者、行政機関によって脅威として喧伝され、人々が必要以上の危機感を抱くような事態を指す*1。アンジェラ・マクロビーとサラ・ソーントンは1995年に提出した論文のなかで、後期近代においてモラル・パニックが引き起こされる頻度は増しており、また、何が「パニック」なのか、という議論を引き金として激しい論争が起きてしまうという特徴を指摘している。さらに、モラル・パニックは即時的な反動を引き起こすことも述べている*2

 

近代都市にとって女性は言わば「厄介者」、すなわちモラル・パニックの対象だった。 ヴィクトリア朝時代の社会規範には、厳格な階級の区別に加え、白人女性の高潔な身分を守るための厳しいエチケットが組み込まれていた。しかし、そのようなエチケットは、都市で男女が接触する機会が増え、女性が都市に進出することによって次第に解体されていった。

 

自明と思われていた階級の区別が脅かされ、社会的地位を守ってくれる壁も揺らいでいる。当時の多くの論者にとって、このことは都市生活そのものが文明社会への脅威となることを意味していた。ウィルソンによれば、「都市生活に下される審判の試金石」になったのは「女性をめぐる状況」だった。だんだんと拡大する女性の自由は、セックスワークから自転車に乗ることに至るまで、あらゆる場面でモラルパニックを引き起こすようになったのだ。*3

 

エリザベス・ウィルソンは、ヴィクトリア朝時代のロンドンでは(原文ママ)女性が街で人目に触れるようになったことで引き起こされたモラルパニックについて論じている。よく知られているように、<公共の女(パブリックウーマン)>といえばセックスワーカーの古くからある婉曲表現である。まともな地位のある女が貧者や娼婦と勘違いされるかもしれないという憂慮はきわめて重大に受け止められ、そのため女には夫、兄弟、父親、年長の女といった付き添い人が必要だ、ということが改めて強く主張されることになった。*4

 

従来の淑女=女性像から逸脱した女性が都市へ社会進出することによって不必要に危機感が扇動され、従来の規範へ従属させるよう引き戻す、という揺り戻しが歴史的に繰り返されてきたのである。

 

ところで、モラル・パニックという概念はスチュアート・ホールに由来している。ホールの場合、この現象は「戦後合意に基づく福祉国家の危機が進展するなかで人々が感じていた社会不安や恐怖感の原因を、社会体制の危機そのものではなく逸脱的集団に転嫁し、当該集団を取り締まることで一時的な安定を得ようとする現象」として捉えられている*5。つまり、後期近代のモラル・パニックは単に社会不安を煽るだけでなく、福祉国家の再編と新自由主義の台頭を時代背景とした統治戦略に組み込まれたものということができる。

 

マクロビー=ソーントンの論文はこのホールの概念を引き継いだものであり、後期近代におけるモラル・パニックの変容はマスメディアの拡大と多様化に原因があると述べている*6。これらの議論を踏まえれば、SNS上のセックスワーク差別/トランス排除のモラル・パニックは、グローバルな極右ネットワークを主体とする、ジェンダーなど既存の秩序・規範を強化し再編する過程のなかに位置付けられたものと認識すべきではないだろうか*7

 

世界的な反動を前にしてフェミニズムは岐路に立たされている。この情勢下でカーンが重要視するのが、インターセクショナリティを軸としたフェミニズムだ。『フェミニスト・シティ』のなかでカーンが語るのは<夜を取り戻せ>の記憶である。これは1970年代半ばに北米で発祥したデモで、「女性にはいつでも、街のあらゆる場所に、自信をもって安全に立ち入る権利がある」ということを強く訴えたものだった*8

 

トロントのウェストエンドの少女だった私には、チャーチ通りのゲイ・ヴィレッジより東側にはほとんど縁がなかった。だからデモ行進で街の東に足を踏み入れるのはわくわくするような出来事だった。一人では決して立ち入ることのなかった場所だ。当時は土地勘がなかったので、どこをどう歩いたのかはよく覚えていない。覚えているのは、デモ隊がトロントの有名なストリップクラブのひとつの前で足を止めたことだ。クイーン通りとブロードビュー通りの四つ角に近い <ジリーズ>だったと思う。そのときは、果たしてこのデモではセックスワーカーは排除されているのか、それとも、彼女たちもまた私たちが夜をその手に取り戻そうとする女性たちとして想像されている人びとの一部なのだろうか、という疑問が頭に浮かぶことはなかった。当時の私は、一九九〇年代の<夜を取り戻せ>をとりまく大きな政治的状況を把握するにはまだ未熟で、興奮してばかりの物知らずだった。そのころフェミニズムではいわゆる「セックス・ウォーズ」、つまりアンドレア・ドウォーキンやキャサリン・マッキノンらの反ポルノグラフィ・反暴力運動と、性の解放に肯定的な第三波フェミニズムの対立が最高潮に達していた。<夜を取り戻せ>はフェミニズムのアンチ・セックス政治運動の最たるものであり、それを売春やストリップ、ポルノと いったセックスワークに携わる女性の役割を認められない狭量さの現われと見なす者もあった。(中略)残念に思っているのは、<ジリーズ>の前で声を張り上げていた私がそうした状況を何ひとつ意に介していなかったことだ。*9

 

フェミニスト・デザインとマテリアル・フェミニズム

 

本書を読んで気付かされたのが、ドロレス・ハイデンの重要性である。筆者はトランス排除や現在進行形で襲撃が続けられている渋谷区によるジェントリフィケーションの問題について、「空間」というテーマからこれを捉え直したいと考えていたところだったのだが、その際にマテリアル・フェミニズムの潮流を参照しなかったのは不覚であった*10

 

ドロレス・ハイデンはフェミニストの建築家で、アメリカの建築や都市計画に関する書籍を多数執筆している。ハイデンは、男性による(主に女性が担う)家事労働の経済的な搾取が、男女間で不平等があることの根本的な原因であると主張したアメリカ合衆国フェミニストを「マテリアル・フェミニスト」と呼んでいる*11

 

ハイデンはまた、超高層建築には男性的な権力や生殖能力のファンタジーが反映されていると批判したことでも知られている。

 

ハイデンによれば、超高層オフィスビルは「棒、オベリスク、尖塔、柱、時計塔といった歴史上の男根的モニュメントの系譜」に連なるもので、建築家は基部や柱体や頂部といった[訳注:いずれも建築用語だが、英語では男性器の部位を示す卑語としても用いられる]単語を使い、まっすぐ上に突き出してスポットライトから光を夜空に射出(筆者注:原文は傍点部で強調)するビルを構想してきた。ハイデンは、超高層ビルの男根的ファンタジーの陰には建設労働者の事故や、破産、火災、テロリズム、構造設計の不備による倒壊といった資本主義の暴力性が隠されていると述べる。*12

 

ハイデンの主著の一つに『家事大革命』という本がある。ハイデンは本書で失われたマテリアル・フェミニストの伝統を発見、再評価しており、そこには早期のフェミニストによるユートピア的構想のほか、現実に実践された住宅設計やコミュニティについての詳細がまとめられている。

 

 

フェミニストになる」ことは他者と連帯できることを担保しない

 

本書において、実践的な面で最も重要なのは4章だろう。特に4-3「アクティヴィズムにおけるジェンダー」から4-5「行動が教えてくれるもの」までの文章は、何らかのかたちで社会運動に関わる人は絶対に読んでおくべきだと思う。デモ行進の途中で託児所へ子どもを迎えに行くために隊列を離脱する際に抱いた葛藤の描写は筆者自身の経験からも共有できるものだった。持続的な社会運動を形成していくための課題として運動関係者には受け止めてほしい。

 

近年のTwitterでは「〇〇に連帯します」というようなハッシュタグで様々な問題の渦中にいる人や団体を応援するということが流行っている。しかし、ハッシュタグを使って発信している人のなかには、「連帯する」と宣言することが必ずしも問題に巻き込まれた人々と連帯できるわけではない、ということを理解できているか疑問に思われるような人がいることも少なくないと感じている。少し長くなるが、カーンの記述を引用したい。

 

学生、アクティヴィスト、教員、そして研究者として過ごしてきた年月で私が学んだのは、フェミニズムと都市におけるアクティヴィズムの間には緊張関係があり、ときには反目も生じるということだ。私は、自ら反暴力の抗議行動に参加して逮捕された時点では異議申し立てとはいかなるものかを何も知らなかった。フェミニストになる」だけで連帯できるのだと思っていた。 運動における断絶がどこまで大きなものになりうるかを本当に理解したのは、逮捕された後のことだ。私を含め、逮捕され、騒ぎを起こした嫌疑で起訴された二十名ほどのメンバーは今後の方針を話し合うために会合をもつことを求めた。 テレサと私はトロント大学の学生宿舎にある共用スペースを使えたので、大きな場所を提供することができた。 変な匂いのするカーペットやバネ入りのソファのある部屋で、テレサや私にとっては古くさくて幾分みすぼらしい部屋だった。ところが、年長のアクティヴィストの中にはそれが豪勢な石造りの建物で、大きな暖炉やハードウッドの床には特権意識がにじみ出ているという者があった。彼らは正しかった。私はそれまで、その部屋を彼らのような目で見ることができていなかったのだ。 テレサと私はそのとき、自分たちは彼らにとって完全に信用するには値しないということを悟った。

こうしたことを含めて、年齢や階級や人種の違いは鋭い対立に発展しがちだった。ある者は、司法制度そのものが階級差別的・人種差別的で家父長主義的であり、司法への協力は極力拒むべきだと主張した。かと思えば、まだ未成年なので両親の意向が問題になるメンバーもいた。あるいは、次の展開にかける時間を優先するために、最小限のエネルギーで起訴に対応すべきという者もいた。どの立場もそれなりに筋が通っていた。ところがその対立は、抗議の計画や実行の際に感じていたお互いへの誇りと団結をショッキングなほど急激に崩壊させた。女性学を学ぶ学生であることは、単純に他のフェミニストと同じ側から社会変革のコミットメントに身を投じる仲間とは見なされず、場合によっては不信の原因にもなると知ったのもこのときだった。自分の受 けてきた教育がフェミニズムの社会運動のプラスにならないとは考えたこともなかった。ぐらぐら揺さぶられる思いがしたが、私にとってそれは同時にインターセクショナリティについて学ぶ機会でもあった。*13

 

SNS上で発信活動を続けているフェミニストのなかで、このような社会運動の緊張関係を意識している人がどのくらいいるのだろうか。つまり、何かを訴えたり誰かとつながろうとするとき、本当に必要なのは特定の知識や素朴な変革意識ではなく、適切な距離を保った緊張感のある他者との関係性である、ということを果たしてどれだけの人が理解しているのだろうか、ということである。

 

カーンはまた、デザインで社会問題のすべてが解決するわけではない、ということも強く主張している。どれだけ「安全」な空間を創ろうとデザインを考えたとしても、それだけで資本主義や家父長制の矛盾は解消されない。「フェミニスト・シティ」を築くために最低限求められることは、他者の声を聞くこと、それも声を上げ続けてきたのに「声を上げた」とみなされないような立場に置かれた人の声を聞く、というようなインターセクショナルなアプローチといえるだろう*14

 

翻訳について

 

最後に、翻訳の問題について少し触れておきたい。訳者の東辻さんはレベッカ・ソルニット『私のいない部屋』などの翻訳に関わっているとのことだが、訳者自身はフェミニズムや地理学について「門外漢」であり、『フェミニスト・シティ』の解説をほどこすには適任といえないだろうと述べている*15

 

実際、Sara Ahmedを「サラ・アハメド」と訳すくらいには昨今のフェミニズムに関する翻訳事情に疎いといえる。また、本書では専門用語が出てくる度に簡単な解説が記されているのだが、その解説が微妙なのである。

 

例えば、冒頭で紹介したモラルパニックは「社会の道徳秩序を脅かす問題に対して、大衆が懸念や恐怖に襲われること」と説明されている。この説明では、マクロビーらの指摘するメディアによる扇動の問題や、懸念や恐怖に襲われた大衆が反動を引き起こすというパニックの性質を看過しているため、社会不安をわざわざ難しい言葉で置き換えた用語という印象を与えかねない。この語だけでなく、間違いではないだろうが核心を外しているような用語の解説が随所に登場するため、訳書を読む際は注意した方がいいだろう。とはいえ、訳文は読みやすかったので誤訳等がなければ本筋に影響はないものと思われる。

 

 

 

以上、『フェミニスト・シティ』の書評を執筆した。東辻さんが「門外漢」なりに「推す」べきだと感じたように、筆者も広く読まれてほしいと思ったのでブログを書いた。インターセクショナリティをテーマとした本が出ることはとても重要なので、このような書籍の出版、翻訳が増えることを期待したい。

*1:ジョック・ヤング著、青木秀男ほか訳、『排除型社会』洛北出版、2007年、p74

*2:

www.arasite.org

*3:レスリー・カーン著、東辻賢治郎訳『フェミニスト・シティ』晶文社、p9

*4:同、p144-145

*5:牛渡亮「スチュアート・ホールのモラル・パニック論 1970年代の逸脱をめぐるメディア報道と新自由主義の台頭」社会学年報 No.42、2013年

*6:ヤング、前掲書、p76。ヤングはマクロビーらの指摘に対し、モラル・パニックの増加を理解するためにはメディアや政治家などのパニックを「供給」する側だけではなく、それを「需要」する市民の側についても検討しなければならないと批判している。反ジェンダー運動とセックスワーク/トランスジェンダーをめぐるモラルパニックを例にすると、「需要」側として主に当てはまるのは、喧伝された偽りの”危機”に不安を感じて疑うことなく差別扇動に加担する極右フェミニストやシス女性だろう。

*7:今日のセックスワーク/トランスジェンダーに対するモラル・パニックについては以下の論文を参照されたい。

www.jstage.jst.go.jp

また、一般社団法人colaboに対する苛烈なバッシングも、ジェンダー秩序の再編過程という枠組みのなかに位置付けることができるだろう。しかし、colabo関係者は国内外の極右フェミニストとのつながりが強く、バッシングに対する一部の対抗勢力自体が反動であるという複雑な構図ができてしまっている。筆者は、誰が敵でどっちの味方につくか、というような二項対立的な構図を「偽の対立」構図だと考えているので、敵味方の立場性を強調する構図を拒否しつつフェミニスト・バッシングに対抗するオルタナティブな勢力の形成を模索する方が重要なのではないかと思う。

*8:カーン、前掲書、p175

*9:同、p175-176

*10:ジェントリフィケーションは本書で語られる主要なテーマであるが、ホームレス状態の人が被る問題と直接に結びつけて論じていないところが気になった。

*11:ハイデン著、野口美智子ほか訳『家事大革命』勁草書房、1985年、p3

*12:カーン、前掲書、p26

*13:同、p199-200、太字は筆者の強調

*14:原文では「いちばん弱い立場にある者の考え方や必要とするものを出発点にしたインターセクショナルなアプローチ」(p 240)と書かれているが、「いちばん弱い立場」という表現に筆者は同意しない。誰が「いちばん弱」くて誰が真に助けられるべきなのか、という問題設定では結局、助けられるべき人物像の序列化を招いてしまい、「弱い立場」とされた人々の社会的な位置を固定化してしまうからである。このような「真に弱い立場」の声を聞くというようなアプローチこそ、インターセクショナルなアプローチからは遠い立場ではないだろうか。

*15:同、p257