- 日本の社会運動における3つの傾向
- 結果主義とは何か
- 「女性が闘わないから女性差別がなくならない」?
- 結果主義は現状肯定のための主張である
- 業績が欲しい運動家たち
- 属人主義と結びついた結果主義はハラスメントや暴力を看過する
- 結果主義はサバイバーの葛藤を否定する
- 結果主義は組織内抵抗の存在を否定する
- 過程の検証なくして革命はありえない
日本の社会運動における3つの傾向
日本の社会運動にはいくつかの傾向が存在すると考えている。
一つは会議主義である。直接行動や組織運営の方針は多くの場合、現場ではなく会議で決まる。大抵は少数の活動家を中心に何度もミーティングを重ねて検討することがほとんどだ。
何事も会議で決める方針それ自体は問題とは思わない。しかし、現状の会議主義は「少数の」活動家が「密室で」物事を決め、「上位下達」式にそれを通達する様式をとっている。
公安対策を含めた情報漏洩のリスクを鑑みていることは理解できる。ただ、この様式が「会議に参加できる者を選別する(その選別基準に差別や偏見が作用する)」「現場の活動家に対する組織幹部の優位性を前提とする」等の問題を含んでおり、現状の会議主義に検討の余地がないとは言い難い。
また、英雄主義も運動が抱える大きな問題の一つである。「社会運動をやっている俺たちが一番偉い」という自意識が活動家の高慢な態度を助長させ、自分たちが関わる運動以外の活動を他者化しその優位性を主張する。この不毛さについては別の機会に改めて検討したい。
そして、日本の社会運動にはもう一つ深刻な傾向が存在する。それが今回考察する結果主義*1の問題である。
結果主義とは何か
日本の社会運動で主張される結果主義とは、活動の成果や活動家の業績のみを評価の対象とし、その過程で起きた一切の出来事を評価から切り離す態度のことである。
下記はその最もわかりやすい例である。
約20年社会活動していると正しさを求めながら、生き残れずに消滅していった団体や活動が数多ある。非難や攻撃対象を誤って失墜してきた活動も数多ある。それでも社会活動が残るにはそれなりの理由がある。生き残った活動への批判や攻撃が必要なら、相応の覚悟をもって闘いを挑んでほしい。
辛かったらすみません。だから始めから実績を積み重ねよ、と伝えました。覚悟をもて、社会はもっともっと辛く厳しく当たるぞ、と。もうやめましょう。そんな社会だと受け入れて我慢してください。我慢できないなら死ぬ気で闘ってください。
無力さを自覚してください。社会活動は甘くない。実績なく活動だけをしているなら交替するメンバーが数多います。ジェンダーバイアスを乗り越える運動を組織して発言権を得られないなら、むやみに「男」社会に近づくべきではない。女性解放運動をつくってください。
いつみてもひどい発言だと思うが、これはただ藤田が露悪的な道化を演じているだけであって、実際に藤田のような考えを持っている社会活動家は腐るほどいる*2。
ポイントは2つの主張である。一つは「実績を伴わない活動家は発言権を持たない」。もう一つは「女性解放運動が成功していないのは女性が実績を残していないからだ」という趣旨。
後者には「女性差別がなくならないのは、女性が闘わないからだ」という含意がある。女性が差別を受けているという結果だけを評価し、その現状が改善されない理由を被差別者に帰責させる。これは「いじめられる方が悪い」という論理である。
「女性が闘わないから女性差別がなくならない」?
差別の原因は被差別者にあるという主張がいかに転倒したものであるかを指摘することは容易い。この論理は差別を煽動する者や差別に加担する者の責任を問わない時点で破綻している。
ここまで露骨ではなくても、被差別者の方に差別の責任を問うバリエーションは多い。「黒人が頑張らないから黒人に対する差別がいつまでもなくならないのだ」「トランスジェンダーがマジョリティのために自身のことを説明してくれないから差別がなくならないのだ」etc...
"頑張る"ことや"説明する"コストを払わなければならないその理由を結果主義が主張することはない。
結果主義は現状肯定のための主張である
活動家はしばしば「結果を出した奴だけが意見を主張できるのだ」と豪語する。これは英雄主義と結果主義が結びついた主張である。
結果を出した奴だけが物を言う権利を獲得すると自ら規定してしまうことによって、自分が常に意見を言う権利があるのだと第三者にアピールする必要が生じる。「俺は結果を出したけど、お前は何か実績を残したのか?」と常に他人に問うことに勤しむ(そして自分には他人にそれを問う資格があると無意識のうちに思っている)。自分が規定した考えに自らが縛られるという意味で、結果主義を信奉する活動家は「疎外」*3されている。
結果主義がただの自縄自縛であるならまだかわいかった。しかし、本当に深刻なのは既存の規範や差別を再生産させるという点である。
結果を出した奴が偉い、と規定するならば、マイノリティはいつまでも"偉く"はなれない。そもそも結果を出すために用意されたルートがマジョリティと異なるのだから。マイノリティは社会的障壁を自らの努力で突破し、マジョリティと同等かそれ以上の成果を出すことによって初めて意見を言う権利をマジョリティから与えられる。
そう、結果主義とは現状を肯定するための論理なのだ。結果主義はマイノリティが結果を得ることを難しくさせている過程、すなわち構造を問わないことによって初めて成立する論理である。
業績が欲しい運動家たち
結果主義に縛られる活動家は、当然のことながら業績を積むことを第一の目的とする。
「マーチを主催した」「国会で答弁した」「法律制定に関与した」etc...
あらゆる社会的活動は「被抑圧者のため」という大義名分の下、運動家の業績づくりのために利用される。しかし、実際にその活動が「被抑圧者のため」になっているのかどうかはどうでもよい。結果主義に基づく運動家の関心は、自らが「よき人」であることを示すためのステータスをつくることにしかないからだ。
業績を積み上げることにのみ関心が向くことで、その過程で起きるさまざまな問題に対して鈍感になる。社会運動内部で起きるハラスメントや暴力、すなわち「よきこと」の問題が看過されてしまう。
属人主義と結びついた結果主義はハラスメントや暴力を看過する
運動内部でハラスメントや暴力が起き、その問題が提起された際、運動家はその提起を行った者の意見が傾聴に値するものであるかどうかをふるいにかける。この時、その品定めに属人主義が動員される。
「この人は〇〇だから」(〇〇には業績や属性が入る)という結果だけを参照して判断することは現状を肯定することにしかならない。なぜならば、属人評価に基づく判断は最終的に「結果を出してから言え!」と発破をかけることにしかならず、問題を提起した者の属人的要素が変化しない限りいつまでも放置される。
運動家に意見する者は、ハラスメントや暴力の問題を自らが指摘するに至った過程、すなわち属人的要素に紐づけられた思考や経験を運動家に対して開示しない限り、正当な主張であると認められることはない。
本来、ハラスメントや暴力それ自体が不当であり、誰が問題を提起しようとその悪質さは変わらないはずである。しかし、運動家が属人的評価を動員することによって「この人は実績があるからその意見はとても有意義だ」「この人はマイノリティの属性を持っているから話を聞こう」「この人は(少なくとも自分たちには周縁化された属性を持っていることを開示してこなかったから)大事な意見だとしても後回しにしよう」といった判断が下される。運動家に意見する者にとって、そういったジャッジをされてしまうという点で二重に不当な経験をすることになる。
結果主義はサバイバーの葛藤を否定する
少し前に話題になったスレッドがある。
反差別や社会運動の中で言語化能力(?)の能力主義が中心になっていることを以前から気にしています。なにかの主張、批判、行動、話し合い、合意形成などをする際にその立証責任をその人が自分自身で負わなければいけない(自己責任)場面に良く遭遇します。
— R4LM📚BookClubFukuoka✊ (@_R4LM) 2024年3月25日
大事な問題提起であることを認めつつも、スレッドを読んだうえでこの方の関心とはまったく逆方向のことを考えてしまった。それは自らの経験や考えを言語化し語ることができるマイノリティのことである。
特に気になるのは次の発言である。
個人的にはいくつかの反差別のコミュニティで知識主義的でマッチョな空気に居心地が悪くなる経験をしたこともあります。知識と思考とそれを明瞭に伝えることができるのは物凄く重層的な特権があるからこそ出来る営みで、実は「話し合い」というのは、本来それ自体は公正とは言い難いものだと思ってます
— R4LM📚BookClubFukuoka✊ (@_R4LM) 2024年3月25日
「知識と思考とそれを明瞭に伝えることができるのは物凄く重層的な特権がある」。この方の経験や考えは尊重されるべきであり、一理あることは否定しない。と同時に、この指摘が常に成り立つものであるとも思わない。
ハラスメントや暴力を受けること。差別を受けること。それ自体が不当である。サバイバーはしばしば自らの身に降りかかった不当な出来事が何だったのかを考える。その過程もまた不当である。
自らの不当な境遇に向き合ったサバイバーはその思考の過程を経て、ある時、言葉を獲得する。言葉を獲得したサバイバーは自身の経験を少しずつ明確にしていく。文字通りサバイブするために。
サバイブの過程は自身の尊厳を肯定するために必要である。過程で獲得した言語や知識はその結果でしかない*4。その知識の質や量を他者と比較することはサバイブの過程にとってまったくどうでもいいものであり、無意味で不毛である。
しかし、知識量を特権とみなす結果主義はサバイバーの葛藤を否定してしまう。サバイバーが知識を獲得する過程で経験した葛藤を否定する。なぜなら結果主義は、どのような境遇や経験を経たとしても知識を持っているという結果のみを糾弾のための評価対象とするからである。
このことから、知識の有無や言語化能力の比較は、公正な社会運動を実践するための緒になりえるが、実は最終着地点ではないと考えられる。大事なのは個々が経験する不当さと向き合うこと、それを出発点として社会的不正義に向き合うこと、不正義に向き合う過程で個々の尊厳が尊重されること、ではないだろうか。
結果主義は組織内抵抗の存在を否定する
なぜ上記のことを考えたかというと、知識を持つ者は特権的であるという考え方を流用して差別やハラスメントを看過する運動家の存在を知ったからである。
例えば、ある組織の刊行物に差別的な表現が使用され、また、社会問題に対する理解が不十分な記述があり、それを組織内で問題提起した方のお話しを伺ったことがある。その際、指摘を受けた活動家からは次のような反応があったという。
「みんながみんな、正しい知識を持っているとは限らないし常に正しい実践ができるとは限らない」
「差別だと指摘できるだけの知識があるということは、差別を認識することができなかったわたしたち運動家と比べてあなたは特権がある」
自分たちの過誤を棚に上げ、問題を指摘した者をむしろ特権的だと攻撃する。ここでは自らが無垢かつ無謬であることを強調するために他者化が動員されている。社会運動に関わる者たちが自らを正当化するために責任を他者に押しつける、そのグロテスクな言動に驚きを隠せない*5。
しかし、組織内部で問題を改善しようと奮闘したとても、組織の外にいる者たちからは評価されない。組織外部の者にとって、ある組織に所属する者はみな同じ思想を共有しており、その組織に所属している時点で問題だと考えてしまうのである。
このような画一化と他者化は、自らが「よき人」であることを第三者にアピールする以外の目的を伴わない。組織に所属する者を画一化し他者化する評価は反差別の実践から最も遠いところにある。
組織のなかで問題が起こってしまったこと。その問題を自分が提起するに至ったこと。その提起が無下にされたこと。そしてその抵抗が外部から一切評価の対象にならないこと。このすべての過程が不当であると思う。組織に所属しながら「わたしはあいつら組織の人間とは違うのだ」という意識をもって組織内抵抗に奮闘する者たちをわたしは擁護したい。
過程の検証なくして革命はありえない
過程を検証することは構造を把握することである。過程の検証なくして構造の変革はありえない。
社会運動において結果は確かに重要であるが、しかし、結果がすべてではない。運動において重要なのは、成果を得る過程で自身が何を獲得したのか、それを自らに問うことである。
運動の経験で得た成果を自らに問う。この弁証法的な過程を通じて人格が陶冶される。逆に言えば、その過程を伴わない運動は組織や人格を腐敗させる。他者化が目的の運動は次第に品位を落とし活動家を堕落させる。
社会運動にはびこる結果主義をわたしは否定したい。
*1:本記事で扱わなかった事項として「功利主義としての結果主義(帰結主義)」の検討がある。社会運動における功利主義の問題を結果主義の問題として考察することは個人的に重要なテーマだと考えており、いずれ検討したい
*2:これは2019年の発言だが、筆者は藤田が考えを改めたとみなしておらず、また、たとえ本人が考えを変えたと主張してもそれを認めるつもりはない。なぜなら、当時の発言と同根の発言が現在まで腐るほど垂れ流されているからである。
*3:ここでいう疎外とは「人間がつくりだしたものが人間に敵対する」ことを意味する。
*4:さらに言えば、言語や知識を身につけざるをえなかったその過程自体が不当である
*5:このような反応が引き出される要因の一つに、運動の個人主義化の進行があると筆者は考えている。近年、左派の間で運動の垂直性が批判され水平的な運動が称揚される傾向がある。しかしながら、水平的な運動内部でも権力構造を前提とした組織運営が行われてしまう例が存在する。古典的には「無構造の暴政」(ジョー・フリーマン)として指摘されてきた問題であり、水平性を志向する運動が抱える問題の大きさは筆者個人の経験からも理解できる。この点において、今後の社会運動を組織するうえで重要なのがジョディ・ディーンの議論であると筆者は考えている。cf.水島一憲「ジョディ・ディーン」(『メディア論の冒険者たち』(東京大学出版会、2023年)所収)