震災後の障害をめぐる言説について

 

1月1日以降、能登半島地震の被害状況を毎日追っていた。発生当初から政府の初動対応の拙速さや被災者への対応の劣悪さについても憂いていた。岸田政権の震災対応はあまりにも酷すぎると思う。

 

一方で、震災に関連してある特定の言説が広まっていることもまた懸念している。一つはボランティアをめぐる言説で、以前の大震災とは明らかに変化している。そしてもう一つは障害をめぐる複数の言説に対する懸念である。今回は後者について取り上げたい。

 

#障害者を消さない というハッシュタグ

 

震災後のSNSで「#障害者を消さない」というハッシュタグが流行していた。

 

はじめは奇妙なハッシュタグだと思った。避難所から障害者が排除される制度的・空間的構造の改善を要求するでもなく、障害者の立場からその存在の可視化を訴えるでもないため、ハッシュタグの目的がよくわからなかったからだ。しかもこのハッシュタグを訴える立場はアライ、即ち第三者の立場に基づくものであることがその不可解さを増幅させた。考えてみれば、社会の側が障害をつくりだしておきながら障害者の存在を"消さないようにしよう"という試みはある種のマッチポンプのように思え、アライの傲慢さを感じずにはいられない。

 

それでも地震発生後のSNSでこのハッシュタグが流行し、クィアフェミニストを名乗る人々もこれに便乗している様を見て、よくわからないがおそらくどこかの運動団体が頑張っているのだろうと思いしばらくはただ眺めていた。

 

しかし、よくよく調べてみると出処が運動団体ではなく「ヘラルボニー」という一企業の発案であることが判明した。社会運動の標語ではなかったということにまず驚き、そして左翼が何の警戒心も抱かずに資本の言語を拡散していたことに愕然とした。

 

 

もちろん、改良主義は常に否定されるべきものではない。しかし、例えば、湯浅誠駒崎弘樹のような福祉事業家の実践が福祉の市場化を推進するものとして多くの福祉活動家が批判してきたように、障害や福祉と資本主義は緊張関係にある。今回のハッシュタグの便乗について、左翼は明らかに無警戒すぎたと思う。

 

#能登の障害者に届け プロジェクト

同じく流行したハッシュタグとして「#能登の障害者に届け」がある。

 

 

自治体と連携して被災地の障害者に物資を届けるプロジェクトで、多くの著名人がこれを支援していた。

 

プロジェクトで気になったのは企画・運営者の名前である。「障害攻略課」という一般社団法人で2017年から活動しているそうだ。

shogai-koryaku.com

 

2020年には中能登町で「障害攻略課プロジェクト」を立ち上げ、「ハード面のバリアフリーだけでなく、「心のバリアフリー」を推進する」。「社会にあるいろいろな障害を「攻略士」と呼ばれる方々と一緒に楽しくゲーム感覚で攻略していく世界に類をみないプロジェクト」だそうだ*1

 

ロゴやホームページも洗練されており、今時の取り組みとしては受けるのだろう。しかし、自分はこのプロジェクトにも懸念を持っている。

 

まずはその名前である。障害を「攻略」するとは即ちその世界で成功者になるということであって、社会を変えることとはまた違う。成功者になることは社会改良ですらない。

 

変革の実践をゲームに喩えるのであればデバッグの方が遥かに原義に合っている。それでもデバッグはシステムの変革に踏み込むものではないため、開発や運営への介入が必要となる。デバッグや開発、運営は「攻略」に比べると地味なため印象はよくないかもしれない。しかし、社会で成功者になる攻略の楽しさを追求してディスアビリティを生み出す制度や構造の是正に切り込まないのであれば、健常者にばかり利益が集中する体制はずっと維持されるだろう。

 

もう一つの懸念として、福祉団体が行政の下請として事業を担うことの問題がある。この度の震災対応について言えば、福祉団体の頑張りが国家の責任を回避してしまうというジレンマがある。プロジェクトのメンバーから政府対応への批判もないわけではないが、根本的な改善にはもっと社会運動の介入が必要ではないかと思う。

 

「反優生思想」一辺倒の社会運動

 

震災の話題から少し離れるが、ここ数日、障害者を「よくわからない存在」「健常者に危害を加える存在」として扱い排除しようとする言説がSNSで流行している。

 

既に指摘がみられるように、それは確かにあからさまな優生思想ではある。ただ、筆者としては障害者に対する偏見や差別、排除を直接、優生思想と結びつけることには躊躇がある。

 

というのも、「優生学が照準してきたのは、障害の中でも、そのごく一部分を占めるにすぎない先天的な障害」であったにもかかわらず、優生学を「障害全般や治癒不能な疾患一般に対する敵意と不寛容を如実に示」*2す学問として把握しようとする姿勢への不信感が筆者のなかで大きくなっているからである。

 

これは全くの主観であるが、日本の社会運動は障害をめぐる問題をディスアビリティ理論ではなく反優生思想の観点から捉えようとする傾向が強かったのではないかと考えている。

 

事実、2017年の津久井やまゆり園で起きた障害者殺傷事件では犯行者の思想を優生思想と断じて批判するものが多かった。また、障害を考えるにあたり、社会運動に関わる人たちの間で常に参照されてきたのは小松美彦や市野川容孝ら生命倫理を専門とする学者たちであった。一方で、障害の「社会モデル」を社会変革の構想に援用したり、「できること」「できないこと」という”能力”(ないし「非能力」)を根本から問うような左翼思想家は――立岩真也等の例外を除いて――ほとんどおらず、健常者中心の社会運動では顧みられることが少なかった。

 

このことの持つ意味は極めて重い。小松はミソジニーが強いし、市野川は巧妙に隠しているがアンチ・フェミニズムが根底にある学者だと筆者は思っている(これについてはいずれどこかで書くかもしれない)。彼らの議論が障害者擁護=反優生思想の基本的理解として共有されてきたことの問題は何か。

 

それは優生思想を持つとみなした者を他者化することで自らの正統性を示そうとする権威主義的な姿勢である。このような態度をとる人々はまず、優生思想に基づいたわかりやすい言動を取り上げ、それに反対することで自らを障害者の権利擁護者として位置づける。自分たちの想定に反する主体は虚偽意識を持つ哀れな客体として再び他者化し、やはり自身の正統性を示す。そして「内なる優生思想」というマジックワードを多用することで内省をアピールする。そのような正統化を繰り返すことで左翼としての地位を確立する。

 

しかし、根底にあるミソジニー、アンチ・フェミニズム、障害に対する解像度の低さは更新されない。そもそも障害の問題と優生思想の問題はすべて一致するわけではないのに、反優生思想を掲げることで障害者の権利に賛同していることにしてしまう。こうしたズレが健常者中心の社会運動とフェミニズム、障害者運動との間に溝を作ってきたのではないか。筆者はそのような仮説を立てている。

 

「ともにある」ために

 

障害者を排除するためによく使われるフレーズの一つが「わたしだったら」である。「もし家族に知的障害や自閉の人がいたら」「私の子どもがそうだったら」と勝手に思考実験を展開し障害者を貶める。それは仮想条件である限り、具体的な痛みは存在せずリアリティもないのでこれを一蹴することは簡単だ。

 

しかし、現実に強烈な痛みが存在した時、仮想条件として論じていた時のような軽やかさでは論じ続けられなくなる*3。つまり周囲の人々にとっては排除のための理由が正当化されるのだ。障害者の「暴力」を排除するために「安心・安全」な空間をつくらねばならないという被害者意識がマジョリティのなかに生まれてしまう。

 

だが、ここで重要な論点を加える必要があると三井さよは言う。「暴力」が見られない場は安心で安全な場だと考えられているが、それは誰にとっての安心・安全なのか、と*4

 

筆者は以前の記事で「搾取に反対することは生きることに反対することだ」と述べた*5。人間は誰かを搾取しなければ生きていけない存在であり、だからこそ搾取に自覚的であるべきだ。そして搾取そのものに反対するのではなく、いかなる搾取に反対するべきかを考えるべきなのだ。

 

言い換えると、ただ「暴力」を否定する、などということは、実は私たちには不可能である。すでにもう私たちの社会において「暴力」は偏在している。そこで、ただ「暴力」を否定する、というだけでは、ある特定の「暴力」だけを糾弾するような、非常に恣意的な判断をしていることになる。

(中略)

私たちは、常にさまざまな意味において被害者でありうる。だが同時に、知らないうちにさまざまな意味において加害者でもある。何もしていないつもりでも、実は私たちの手は常に汚れている。

そして、奇妙な言い方になるかもしれないが、「ともにある」ということは、自分が被害者になる可能性を高めると同時に、私たちの手がいかに汚れているかを知ることである。ある種の人たちをどこかに閉じ込めて、それでいいということにしてしまっているときには、見えない/感じられない痛みがある。そのことに気づかされるということでもあるからである。*6

 

筆者の考えは三井の考えに近い。「ともにある」ためには、「わからない」存在を他者化するのではなく、粘り強く向き合い、時にせめぎ合うことが必要なのではないだろうか。

 

 

 

*1:

www.town.nakanoto.ishikawa.jp

*2:市野川容孝「優生思想の系譜」p128(石川准・長瀬修編『障害学への招待』1999年、明石書店に所収)

*3:三井さよ『知的障害・自閉の人たちと「かかわり」の社会学』生活書院、2023年、p412-413

*4:同、p414

*5:

zineyokikoto.hatenablog.com

*6:前掲書、p417-418