書評:『学ぶことは、とびこえること』

先頃、ベル・フックスの著作がちくま学芸文庫で刊行されました。

 

 

元々は2006年に『とびこえよ、その囲いを (副題:自由の実践としてのフェミニズム教育)』というタイトルで日本語に訳され出版された著作で、出版元の新水社が倒産したこともあり長らく流通していませんでした。今回、ちくま学芸文庫で復刊され多くの人が読めるようになったことは喜ばしいことだと思います。

 

そこで、今回は本書の概要や旧版と新版で変わったこと等を紹介していきます。

 

 

パウロフレイレとティック・ナット・ハン

 

ベル・フックスは『フェミニズムはみんなのもの』や『アメリカ黒人女性とフェミニズム』等の著作で知られるフェミニストです。これらの本がフックス流のフェミニズムを理論的に書いたものであるのに対し、本書は教育という実践的側面に主軸を置いています。

 

フックスの教育論は2人の人物に大きな影響を受けています。一人はブラジルの教育者パウロフレイレで、もう一人はベトナムの仏僧ティック・ナット・ハンです。

 

パウロフレイレには『被抑圧者の教育学』という主著があり、そのなかで既存の学校教育を批判し社会的な抑圧を受けている人々を解放するための教育的実践のあり方を説いています。フレイレは学生が教師からただ知識を詰め込まれ情報を消費させられるような学校教育を銀行になぞらえて「預金型教育」と呼び批判しました。『学ぶことは~』では、フックスがいかにフレイレから影響を受けたかということが語られています。*1

 

ティック・ナット・ハンは西洋に仏教と「マインドフルネス」という瞑想法を普及させた人で、キング牧師とともにベトナム戦争に反対しノーベル平和賞候補にノミネートされたこともあります。2022年1月に95歳で亡くなるまで平和活動家として国際的に活躍しました。フックスはハンの教育者としての思想と実践にも影響を受けており、それを示すかのように『学ぶことは~』では身体や「情熱」に関する話題が多く登場します。

 

「関与の教育学」

 

2人の議論から多くの示唆を得たフックスですが、他方でそれらの議論や批判教育学、フェミニズム教育学について批判的な立場を取りました。というのも、フレイレ自身が白人男性であるように、当時、既存の教育を批判する教育論を書いていたのは白人が多く、黒人や黒人以外の非白人系の立場から書かれた理論がほとんどなかったためです。このような状況から、偉大な教育者の思想・実践を取り入れると同時に、それらの限界を乗り越えるような教育実践をフックスは目指しました。それがフックスのいう「関与の教育学」です。

 

進歩的でホリスティックな教育、「関与の教育学」は、これまでの批判的教育学、もしくはフェミニズム教育学よりも、さらに要求するところが大きい。「関与の教育学」は、後者の二つの教育実践とは異なって、「心身の よきありよう("ウェルビーイング"とルビ)」、が重視されるからである。それは、もし教師が学生をエンパワーするようなやり方で教えようとするならば、まずは教師自身が自らの生のありようを証しする作業に積極的に関与し、己れの心身のありようを高めていかなければならない、ということを意味している。*2

 

今日、フックスの理論は交差性というキー概念を通して理解されることが多いと思います。実際、フックス自身も「わたしの教育実践は、反植民地教育学、批判的教育学、フェミニズム教育学の互いに啓発的な相互作用を通して形づくられたものだ」(p23)と述べており、インターセクショナリティを意識しているからこそその理論は時代を越えて読み継がれるほどの耐久性や柔軟性があるともいえるでしょう。

 

それと同時に、「心・からだ・魂の統一を重視する哲学に立脚」(p41)する本書の教育実践の意義についても読み込んでほしいと思っています。フックスの教育は声の使い分けをはじめとする行為のレベルにまで踏み込んだもので、それは「関与的な声は固定した絶対のものであってはならない」(p26)という思想に基づいています。また、フックスは「教えることのなかに見つけ出してきた豊穣な歓び」が本書で伝えたいことだと書いています。教える側に教育実践の再考を促すさまはマルクスの「教育者自身、教育されなければならない」(ドイツ・イデオロギー)を彷彿とさせますが、フックスはそれだけ固定的な教育のあり方に批判的な姿勢をみせていました。

 

経験の情熱

 

是非多くの人に読んでほしいので内容についてはあまり書かないようにしたいですが、ここでは6章の議論だけ紹介したいと思います。6章は「本質主義と経験」というズバリなタイトルがつけられており、このなかでダイアナ・ファスというフェミニストが「経験の権威」と呼ぶものを批判しています。

 

ファスによれば、「本質、アイデンティティ、経験」などの諸問題は、主として周縁化された諸グループの投ずる批判によって浮上するものだといいます。ファスは自身の本のなかでさまざまな学生の事例を引き合いに出し、その学生たちが社会的に周縁的な立場に置かれたグループのメンバーで「本質主義者的な立場をとることで議論を支配し、「経験の権威」を振りかざすことによって他者を沈黙させようとしたがる」(p141)というのです。当然、フックスはそのような主張に対し丁寧に反論するのですが、私(わたし)がここで伝えたいのはその反論の内容ではなく、「経験の権威」に対するフックスの葛藤です。

 

「いつだったか、フェミニストの著作のなかに「経験の権威」ということばをみつけたときは、わたしは感謝した」(p155)というように、フックスは黒人女性としての自身の経験の価値を声高に言うことで黒人女性が排除されている現実を伝えようとしました。しかし、ファスのような議論が台頭したことで「経験の権威」という言葉がマイノリティを排除・口封じをするための手段として使われていることを日々痛感するようになったのです。それでもなお、「わたしは、経験に根をおいた知的認識のかけがえのない価値を肯定する言葉が必要なのだと思う」(p156)と葛藤をみせています。その葛藤を通じて「受難に由来する、ある独特な知」としての「経験の情熱」(p158)という言葉を生み出します。

 

筆者が旧版を読んだのはフェミニズムの理論を本格的に学び始めた頃で、6章は単にフックスの本質主義批判が書かれた箇所として読んでいました。しかし、文庫版で改めて読んでみると、筆者は6章を差別や交差性について書かれた章としてのみならず、ハラスメントの告発を考えるうえで多くの示唆を与えてくれる章としても読むことができると考えるようになりました。ハラスメントの告発はまさに「経験の権威」が現れる場面で、それこそ被害者は経験の権威を振りかざしているというような二次加害も度々発生します。「経験の権威」は両義的な言葉なのです。それでも、筆者はハラスメントの告発に際しては「受難に由来する、ある独特な知」があると信じています。6章はそれを考えるヒントになりそうだと思ったのが文庫版を読んでの収穫でした。

 

旧版と文庫版の違い

 

今回、文庫化にあたりいくつかの修正・変更がありました。

 

筆者がよかったと思った修正は、旧版の役割言葉が文庫版で修正されたことです。本書では対話形式の章が2つあるのですが、旧版ではフックスの台詞に「~わね」や「~なのよ」といった女性的な役割語の語尾がついていました。それが新版では標準的な文章に書き換えられています。また、元々読みやすい訳文でしたが、若干冗長的だった言葉を簡潔なものに置き換えるといった修正も見受けられました。

 

しかし、下記の書評で指摘されている「白眼視」という言葉の使用は文庫版でも修正されませんでした。また、旧版では問題がなかったのに、文庫版ではなぜか意味が通らない文章に変更されているものもありました*3

https://www.jstage.jst.go.jp/article/wsj/14/0/14_103/_pdf

 

旧版と文庫版での大きな変更点は、訳者あとがきです。

 

旧版の訳者あとがきは、訳者全員がそれぞれ文章を寄稿しています。そのなかで堀田碧さんはベル・フックスの解説を書いていますが、「ベル・フックスの名は、欧米とりわけ英語圏での知名度の高さに比すとき、日本では驚くほど知られていない」(旧版p246)というように、翻訳が出版された2006年当時はほとんど無名でした。いつから彼女の名が日本で知られるようになったのかは不明ですが、現在は「フェミニズムといえばベル・フックス!」と言わんばかりの知名度になったと思います。文庫版のフックスの解説は坂下史子さんの文章をお読みください。

 

吉原令子さんは旧版で「関与の教育学」の解説を書いており、これは本書の要約として非常に読みやすいです。また、フレイレやティック・ナット・ハンの紹介、フェミニズム教育学が1960年代後半の女性運動で生まれた意識高揚運動の影響を受けている等、本書の背景にある思想の解説が行われています。これらの記述は文庫版で簡潔な文章としてまとめられました。

 

旧版の最後では「日本でベル・フックスを読むことの意味」と題する朴和美さんの文章があります。筆者としては、この文章が文庫版で読めなくなってしまったことが残念でなりません。文庫版では朴さんの参加が翻訳プロジェクトにとって重要な位置を占めていたことが書かれていますが、その詳細は旧版の文章を読めば深く同意できます。

 

そして、復刊にあたり大きく変わったことといえば何と言っても関係者の逝去でしょう。ベル・フックスは2021年12月、里見さんは2022年5月に亡くなりました。里見さんはフレイレの研究者として活躍しただけでなく、実際の教育現場でもフレイレやフックスの教育実践を取り入れていました。「年配の男性大学教授にありがちな上から目線や説教めいた物言いがまったくなく、学生たちを「静かに見守り、辛抱強く待つ」姿勢を持ち続けた教育者」で「若者や被抑圧者の潜在能力や抵抗の力を信じ続けた人でもあった」(p348)といいます。筆者は「抵抗の力を信じ続けた」人たちの思想が復刊を機に広まってほしいと願っています。

 

家父長主義、人種差別、階級格差にもとづく暴力の嵐が世界を席巻し、ともすれば人々の抵抗の無力さにうちひしがれそうになる現在にあって、私たちに求められていることは、ベル・フックスが、そして里見実が燃やし続けた権力への抵抗の炎を絶やさないことではないだろうか。*4

 

*1:フックスは本書で、フレイレジェンダーに鈍感だ、と彼の性差別をはっきり批判しているが、その批判とフレイレの著作から学ぶことには矛盾がないとも強調している。他方、フレイレフェミニストからの批判を受け入れ、自身の教育実践に取り入れるといった相互関係が築かれている。2人がこのような関係であったからこそ、『アンカット・ファンク』のような対談が実現したというようにも思える。

*2:ベル・フックス著、里見実監訳『学ぶことは、とびこえること』ちくま学芸文庫、2023年、p36-37

*3:例えば、p24後ろから3行目の文章。

*4:同、p348-349