一橋大学で差別禁止ルールの制定を求めた有志は反トランス本の出版中止要求を擁護せよ

KADOKAWAで出版企画が頓挫したアビゲイル・シュライアー著『あの子もトランスジェンダーになった』(邦題)が産経新聞出版から刊行されるという。

 

www.sankei.com

 

トランス差別に加担する「左翼」たちが産経に「ありがとう!」とお礼を言っているらしい。

 

この「左翼」たちが反トランス本の刊行を擁護する理由の一つに「表現の自由」を挙げている。ここでいう表現の自由とはブルジョワの権利であり、要するに彼らは「市場への介入を許すな!」というスローガンを推進しているのだ。あまりにも古典的なネオリベラリズムの主張だと思う。

 

それ故に、このスローガンは反トランス本の出版中止が正当な要求であることを示してくれる。

 

資本の運動はG (貨幣)-W(商品)-G'(G+GΔ)の式で表される。商品販売のボイコットはW-G'の運動への介入を意味する。反トランス本の出版中止要求は、差別的な言説を媒介として価値増殖を目論む資本の運動を止める反資本主義運動であるといえる。

 

また、「左翼」たちは反差別運動を「キャンセル・カルチャー」だと批判する。その際に「焚書」や「言論弾圧」といった言葉を濫用して反差別運動を他者化する。

 

他者化の動員によって漁夫の利を得るのは国家である。国家が行為者として遂行するはずの「焚書」や「言論弾圧」を市場内の問題に落とし込むことによって、国家権力による弾圧が免責される。右派勢力による「キャンセル・カルチャー」批判なるものは国家と共謀することによって初めて成立するのだ。

 

そして今回の件で最も重要な点は、一連の騒動がオルグであるという点である。差別扇動の目的はヘイトスピーチの拡散だけにとどまらない。反差別運動を他者化し、さも扇動する側に正当性があるかのような演出をすることによって、右派勢力は新規のシンパを勧誘し取り込むのである。

 

 

 

さて、ブルジョワの権利を擁護する「左翼」たちの問題を整理したところで本題に入る。

 

最近、社会運動に関わり始めた方々はご存知ないかもしれないが、7年ほど前に一橋大学のKODAIRA祭で百田尚樹の講演会が企画されたことがあった。その後、同大学の学生有志らが中心となり、差別禁止ルールの制定を求める運動が展開された。

 

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hit-press.org

 

masterlow.net

 

有志らは、百田が在日朝鮮人等をターゲットにするヘイトスピーチを行っており、講演会の開催が多様なルーツを持つ大学内の人々を危険に晒すと考えた。講演会でヘイトスピーチが起きる可能性は十分に考えられたため、有志らはKODAIRA祭の実行委員会に対し、百田に差別扇動を行わないことを誓約させ、差別禁止ルールを制定するよう求めたのである。

 

今回の反トランス本をめぐる出来事は百田講演会の件と多くの共通点がある。どちらも差別扇動の危険性を憂慮し、差別が再生産される過程を断つことを目的としている。

 

KODAIRA祭の実行委員会が発表した講演会中止の声明もKADOKAWAの声明と似ている。講演会/刊行がもたらす差別扇動の危険性を訴える運動の存在に触れず、中止の明確な理由を示していない。にもかかわらず、差別扇動を擁護する人々は公式声明の内容を無視して中止の責任を反差別運動の側に押し付けている。過剰な想像力が反差別運動を悪魔化する例といえる。

 

ところで、KODAIRA祭の差別禁止ルールの制定を求める運動に関わった人々は今何をしているのだろうか?

筆者は、この時中心的役割を果たした運動家たちを常に監視し続けている。トランス差別が爆発的に広がった現在でさえ、彼らは明確にトランス差別にNOと言わない。

 

反差別という点からすれば、大元はどちらもヘイトスピーチであり、これを止めることは共通の課題であるはずである。しかしながら、彼らはトランス差別について頑なに意見を表明しない。

 

彼らがトランス差別に対してこのまま沈黙を続けることは階級的裏切りであるといってよい。何が差別で何が差別でないか。それを決めるのはいつも活動家の側にある。取り組むべき課題を選別し特定の差別を放置する活動家が「反差別」を掲げることの愚は言うに及ばないだろう。

 

一橋大学で差別禁止ルールの制定を求めた有志は反トランス本の出版中止要求を擁護せよ

震災後の障害をめぐる言説について

 

1月1日以降、能登半島地震の被害状況を毎日追っていた。発生当初から政府の初動対応の拙速さや被災者への対応の劣悪さについても憂いていた。岸田政権の震災対応はあまりにも酷すぎると思う。

 

一方で、震災に関連してある特定の言説が広まっていることもまた懸念している。一つはボランティアをめぐる言説で、以前の大震災とは明らかに変化している。そしてもう一つは障害をめぐる複数の言説に対する懸念である。今回は後者について取り上げたい。

 

#障害者を消さない というハッシュタグ

 

震災後のSNSで「#障害者を消さない」というハッシュタグが流行していた。

 

はじめは奇妙なハッシュタグだと思った。避難所から障害者が排除される制度的・空間的構造の改善を要求するでもなく、障害者の立場からその存在の可視化を訴えるでもないため、ハッシュタグの目的がよくわからなかったからだ。しかもこのハッシュタグを訴える立場はアライ、即ち第三者の立場に基づくものであることがその不可解さを増幅させた。考えてみれば、社会の側が障害をつくりだしておきながら障害者の存在を"消さないようにしよう"という試みはある種のマッチポンプのように思え、アライの傲慢さを感じずにはいられない。

 

それでも地震発生後のSNSでこのハッシュタグが流行し、クィアフェミニストを名乗る人々もこれに便乗している様を見て、よくわからないがおそらくどこかの運動団体が頑張っているのだろうと思いしばらくはただ眺めていた。

 

しかし、よくよく調べてみると出処が運動団体ではなく「ヘラルボニー」という一企業の発案であることが判明した。社会運動の標語ではなかったということにまず驚き、そして左翼が何の警戒心も抱かずに資本の言語を拡散していたことに愕然とした。

 

 

もちろん、改良主義は常に否定されるべきものではない。しかし、例えば、湯浅誠駒崎弘樹のような福祉事業家の実践が福祉の市場化を推進するものとして多くの福祉活動家が批判してきたように、障害や福祉と資本主義は緊張関係にある。今回のハッシュタグの便乗について、左翼は明らかに無警戒すぎたと思う。

 

#能登の障害者に届け プロジェクト

同じく流行したハッシュタグとして「#能登の障害者に届け」がある。

 

 

自治体と連携して被災地の障害者に物資を届けるプロジェクトで、多くの著名人がこれを支援していた。

 

プロジェクトで気になったのは企画・運営者の名前である。「障害攻略課」という一般社団法人で2017年から活動しているそうだ。

shogai-koryaku.com

 

2020年には中能登町で「障害攻略課プロジェクト」を立ち上げ、「ハード面のバリアフリーだけでなく、「心のバリアフリー」を推進する」。「社会にあるいろいろな障害を「攻略士」と呼ばれる方々と一緒に楽しくゲーム感覚で攻略していく世界に類をみないプロジェクト」だそうだ*1

 

ロゴやホームページも洗練されており、今時の取り組みとしては受けるのだろう。しかし、自分はこのプロジェクトにも懸念を持っている。

 

まずはその名前である。障害を「攻略」するとは即ちその世界で成功者になるということであって、社会を変えることとはまた違う。成功者になることは社会改良ですらない。

 

変革の実践をゲームに喩えるのであればデバッグの方が遥かに原義に合っている。それでもデバッグはシステムの変革に踏み込むものではないため、開発や運営への介入が必要となる。デバッグや開発、運営は「攻略」に比べると地味なため印象はよくないかもしれない。しかし、社会で成功者になる攻略の楽しさを追求してディスアビリティを生み出す制度や構造の是正に切り込まないのであれば、健常者にばかり利益が集中する体制はずっと維持されるだろう。

 

もう一つの懸念として、福祉団体が行政の下請として事業を担うことの問題がある。この度の震災対応について言えば、福祉団体の頑張りが国家の責任を回避してしまうというジレンマがある。プロジェクトのメンバーから政府対応への批判もないわけではないが、根本的な改善にはもっと社会運動の介入が必要ではないかと思う。

 

「反優生思想」一辺倒の社会運動

 

震災の話題から少し離れるが、ここ数日、障害者を「よくわからない存在」「健常者に危害を加える存在」として扱い排除しようとする言説がSNSで流行している。

 

既に指摘がみられるように、それは確かにあからさまな優生思想ではある。ただ、筆者としては障害者に対する偏見や差別、排除を直接、優生思想と結びつけることには躊躇がある。

 

というのも、「優生学が照準してきたのは、障害の中でも、そのごく一部分を占めるにすぎない先天的な障害」であったにもかかわらず、優生学を「障害全般や治癒不能な疾患一般に対する敵意と不寛容を如実に示」*2す学問として把握しようとする姿勢への不信感が筆者のなかで大きくなっているからである。

 

これは全くの主観であるが、日本の社会運動は障害をめぐる問題をディスアビリティ理論ではなく反優生思想の観点から捉えようとする傾向が強かったのではないかと考えている。

 

事実、2017年の津久井やまゆり園で起きた障害者殺傷事件では犯行者の思想を優生思想と断じて批判するものが多かった。また、障害を考えるにあたり、社会運動に関わる人たちの間で常に参照されてきたのは小松美彦や市野川容孝ら生命倫理を専門とする学者たちであった。一方で、障害の「社会モデル」を社会変革の構想に援用したり、「できること」「できないこと」という”能力”(ないし「非能力」)を根本から問うような左翼思想家は――立岩真也等の例外を除いて――ほとんどおらず、健常者中心の社会運動では顧みられることが少なかった。

 

このことの持つ意味は極めて重い。小松はミソジニーが強いし、市野川は巧妙に隠しているがアンチ・フェミニズムが根底にある学者だと筆者は思っている(これについてはいずれどこかで書くかもしれない)。彼らの議論が障害者擁護=反優生思想の基本的理解として共有されてきたことの問題は何か。

 

それは優生思想を持つとみなした者を他者化することで自らの正統性を示そうとする権威主義的な姿勢である。このような態度をとる人々はまず、優生思想に基づいたわかりやすい言動を取り上げ、それに反対することで自らを障害者の権利擁護者として位置づける。自分たちの想定に反する主体は虚偽意識を持つ哀れな客体として再び他者化し、やはり自身の正統性を示す。そして「内なる優生思想」というマジックワードを多用することで内省をアピールする。そのような正統化を繰り返すことで左翼としての地位を確立する。

 

しかし、根底にあるミソジニー、アンチ・フェミニズム、障害に対する解像度の低さは更新されない。そもそも障害の問題と優生思想の問題はすべて一致するわけではないのに、反優生思想を掲げることで障害者の権利に賛同していることにしてしまう。こうしたズレが健常者中心の社会運動とフェミニズム、障害者運動との間に溝を作ってきたのではないか。筆者はそのような仮説を立てている。

 

「ともにある」ために

 

障害者を排除するためによく使われるフレーズの一つが「わたしだったら」である。「もし家族に知的障害や自閉の人がいたら」「私の子どもがそうだったら」と勝手に思考実験を展開し障害者を貶める。それは仮想条件である限り、具体的な痛みは存在せずリアリティもないのでこれを一蹴することは簡単だ。

 

しかし、現実に強烈な痛みが存在した時、仮想条件として論じていた時のような軽やかさでは論じ続けられなくなる*3。つまり周囲の人々にとっては排除のための理由が正当化されるのだ。障害者の「暴力」を排除するために「安心・安全」な空間をつくらねばならないという被害者意識がマジョリティのなかに生まれてしまう。

 

だが、ここで重要な論点を加える必要があると三井さよは言う。「暴力」が見られない場は安心で安全な場だと考えられているが、それは誰にとっての安心・安全なのか、と*4

 

筆者は以前の記事で「搾取に反対することは生きることに反対することだ」と述べた*5。人間は誰かを搾取しなければ生きていけない存在であり、だからこそ搾取に自覚的であるべきだ。そして搾取そのものに反対するのではなく、いかなる搾取に反対するべきかを考えるべきなのだ。

 

言い換えると、ただ「暴力」を否定する、などということは、実は私たちには不可能である。すでにもう私たちの社会において「暴力」は偏在している。そこで、ただ「暴力」を否定する、というだけでは、ある特定の「暴力」だけを糾弾するような、非常に恣意的な判断をしていることになる。

(中略)

私たちは、常にさまざまな意味において被害者でありうる。だが同時に、知らないうちにさまざまな意味において加害者でもある。何もしていないつもりでも、実は私たちの手は常に汚れている。

そして、奇妙な言い方になるかもしれないが、「ともにある」ということは、自分が被害者になる可能性を高めると同時に、私たちの手がいかに汚れているかを知ることである。ある種の人たちをどこかに閉じ込めて、それでいいということにしてしまっているときには、見えない/感じられない痛みがある。そのことに気づかされるということでもあるからである。*6

 

筆者の考えは三井の考えに近い。「ともにある」ためには、「わからない」存在を他者化するのではなく、粘り強く向き合い、時にせめぎ合うことが必要なのではないだろうか。

 

 

 

*1:

www.town.nakanoto.ishikawa.jp

*2:市野川容孝「優生思想の系譜」p128(石川准・長瀬修編『障害学への招待』1999年、明石書店に所収)

*3:三井さよ『知的障害・自閉の人たちと「かかわり」の社会学』生活書院、2023年、p412-413

*4:同、p414

*5:

zineyokikoto.hatenablog.com

*6:前掲書、p417-418

「活動家ガー」という時の「活動家」とはいかなる存在を指しているのか

他者化の動員としての「活動家」

 

日本のジャーナリストは本当に腐敗がすさまじいと思う。

 

 

 

これに茶谷さやか氏や貴堂嘉之氏らが「いいね!」をつけているのだから、日本の歴史学者のトランス差別に対する関心もその程度だったのかとあきれるほかない。

 

 

ところで、治部のツイートで使用されている「活動家」という語は「よきマイノリティ」との対比として右翼がしばしば用いるものである。

 

マジョリティは自分達に都合のいい存在として、既存の制度や規範に異議申し立てをせず黙って差別を受け入れるマイノリティという表象を作り上げる。少しでも差別や不正義に抗議するマイノリティは他のマイノリティ集団と区別され他者化される。大多数のトランスジェンダーは"よきマイノリティ"であるのに活動家らが子どもたちを不幸にしているんだ、という陰謀も他者化の例に倣ったものである。

 

「活動家」という揶揄が他者化を伴ったマイノリティへの憎悪の動員であることはこれまで多くの人々によって指摘されてきた。しかし、この揶揄にはもう一つ重要な意味が込められている。それは、賃労働規律に束縛されず市場からも自由な独立した存在として浮上する「活動家」である。

 

労働倫理の形成

 

社会学者であるジグムント・バウマンはその著書のなかで近代の労働倫理について言及している。バウマンによれば、労働倫理とは一つの戒律であり、二つの明示的な前提と、二つの暗黙の信念から構成されている。

 

第一の明示的な前提は、幸福に暮らすために必要な何かを得るために、人は、賃金を受け取るに値すると他の人々からみなされることを行わねばならず、「無料のランチなどなく」、常に「ギブアンドテイク」の関係にあり、後で与えられたいのなら、最初に与える必要があるということである。

 

第二の明示的な前提は、すでに獲得したもので満足してしまって、それ以上を望まず、それ以下で我慢してしまうのは悪いこと(道徳的に有害で愚かなこと)であり、自分の持っているもので満足できそうだと、それ以上手を伸ばそうとしないのは恥ずべき不合理なことであり、また、さらなる労働の活力を得る以外の目的で休息を取るのは不名誉なことだというものである。言い換えると、働くことそれ自体が崇高で賞賛される活動なのである。

 

戒律は次のように続く。自分にもたらされるものが、自分がまだ持っていないものなのか、自分には必要でなさそうなものなのかがわからなくても、人は働き続けるべきである。働くことは善であり、働かないことは悪である。*1

 

一方の暗黙の前提とは、第一に、「大半の人間は労働力を保有しており、それを売ることで生活の糧を得て交換に値するものを得る」ということである。労働こそが人間の正常なあり方であって、働かないことは異常なのだ。そして第二に、「他の人々から承認される価値ある労働は、給与や賃金を要求し、売却できて購入してもらえそうな労働、労働倫理が命じる道徳的価値のある労働だけだ」というものである*2

 

労働倫理は長い時間をかけ、厳格で融通が利かない工場規律を労働者間に浸透させ、人間が維持している習慣や嗜好、欲望の正統性を否定した。その過程で貧窮者や老人、障害者を切り捨てる論理が発達した。労働倫理は、賃金労働によって支えられる生活であれば、どれほど悲惨な生活でも道徳的に超越していると主張する倫理であった*3

 

労働倫理の教義を推進する初期のイギリスにおいて救貧法は重要な役割を果たした。法の推進者は決まりきった労働の不快さを避けようとする"偽装貧民"と「真の貧民」を区別し、真の貧民とされた者が救貧院以外で生計を立てる道を閉ざした*4。また、救貧院の環境を劣悪にすることで貧民に労働を受け入れやすいものにし過酷な労働に耐える強度を高めた。このようにして「働くことは善であり、働かないことは悪」という規律や価値観が強制されていったのである。

 

労働倫理から逸脱する「活動家」

 

さて、このようにして形成された近代の労働倫理が現代の価値観にどのような影響を与えているかをみてみよう。

 

例えば、生活保護バッシングである。賃労働従事者にとって、市場の承認を得た収入こそが唯一「正当な」収入である。そのうえで、生活保護受給者は働かないばかりでなく市場を媒介とせず「不正に」収入を得る存在として映る。受給者は労働倫理から逸脱しているために激しい攻撃の対象となるのである。

 

冒頭の話題に戻ろう。労働倫理を疑わない人々にとって活動家は、本来であれば賃労働に充てられるべき時間と労力を、社会正義という市場外の活動に充てるために労働倫理から逸脱した存在として映る。実際に「活動家」と揶揄される人々が賃労働に従事しているかどうか、どのような生活を送っているのかについてはどうでもよい。揶揄の時点で既に他者化がなされているからである。

 

シスジェンダーはなぜ「特権」を否定するのか

 

筆者は、トランス排除派がシスジェンダーの特権を否定する動機についても労働倫理から説明を試みたい。

 

在日特権」や「同和利権」などの差別語に代表されるように、差別主義者は「特権」をマイノリティが特別な利益を享受するものとして捉えている。このイメージを援用してシスジェンダージェンダー構造に基づく「特権」の存在を否定する。我々シスジェンダーは市場に隷属することで「正当な」権利を得ているのだから、市場の外で「不正に」取引を行い利益を享受するような奴らと一緒にするな、ということだ。

 

トランス排除のための口実としてトイレや風呂の安全性が度々引き合いに出される。現代では共同トイレにしても共同風呂にしても必ず私的所有権を持つ者がいる。共同のトイレや風呂の利用はその私的所有を脅かさない範囲で許されているにすぎない。トイレや風呂へアクセスする”正当な”権利とはブルジョア的権利に他ならない。

 

特権を立場理論の用語として解釈しても同様のことが言える。立場理論において特権とは「与えられた社会的条件が自分にとって有利であったために得られた、あらゆる恩恵」のことを指す*5ブルジョア的権利は所与のものとして自然化されているため、自分がその恩恵に浴していることに気がつかない。それどころか、特権を持たない者については労働倫理ないし私的所有のルールに違反しているがために権利を持たないのだとして構造的不平等の存在を否定する。特権を否定することは資本主義の倫理を内面化しているがゆえに可能な振る舞いなのだ。

 

労働倫理とジェンダー規範

 

ここまでは労働倫理の観点から賃労働規律に従わない存在に対するバッシングについて説明してきた。しかし、セクシストが動員する「トランス活動家」という他者化の背景を理解するには、近年の労働倫理の変容と政治の再編という背景について押さえておく必要があると思う。

 

スチュアート・ホールとアラン・オシアはグラムシの理論を用いて、福祉国家が解体され新自由主義に基づく新たな政治に移行する過程を明らかにした。その際に大きな役割を果たしたのがタブロイド紙リアリティTVの連続番組等の大手メディアだった*6。緊縮財政の下、福祉を縮小させるためにメディアは生活保護を不公平なものとして描き、人々の生活保護受給者に対する共感を低下させた。アンジェラ・マクロビーは、この政治体制の移行過程で女性性の規範が変容、強化されることを指摘した。

 

...イギリス社会が完全にネオリベラルな体制へと変遷した際に鍵となる要素の一つは、恵まれない立場に置かれた女性たちが、母としての義務や実際に母親になりたいという欲求よりも、有給労働と(しばしばもっとも低賃金の)「妊娠阻害雇用」を優先せざるを得ないということだ。仕事をすることは女性の人口層にとって確たる社会的地位を示すものとなる。というのも、彼女たちには働いているという自己定義が必要不可欠でありながら、与えられないことが多いからである。商業的に承認されているだけでなく国家に後援されている女性性は、一世紀以上にわたって白人ミドルクラスに基づく容姿や性質、行動、ものの見方に関する規範を定義づけられ、推奨されてきた。そうした価値観およびそれらが暗に示す社会的地位を遵守できないというのは、事実上、女性になることに失敗しているということだ。*7

 

セクシュアリティアイデンティティが社会的地位を獲得できるかどうか問われている現在、女性の労働倫理は新しい道徳経済を構成している。生活保護を受けることは経済的困難よりもはるかに多くのことを示唆し、女性性の維持に失敗したことや根深い羞恥の感覚も意味している。*8

 

福祉制度の再編と女性性の強化がトランス排除に与える影響は少なくない。その社会でモデルとされる女性性から逸脱することは恥であるため、より一層自身の女性らしさをアピールすることが求められる。一方で、トランスジェンダーの経験はシスジェンダーのそれと違うばかりでなく、雇用や経済状況において深刻な問題を抱えている。さらにメディアもトランスジェンダーの経験を「失敗」であるとシスジェンダーの立場からジャッジする。そして「活動家」は福祉が縮小されている状況でも市場外の活動に勤しんむ者として非難される。「活動家」という他者化は資本主義の問題なのだ。

 

*1:ジグムント・バウマン著、伊藤茂訳、『新しい貧困 労働、消費主義、ニュープア』、青土社、2008年、p14-15

*2:同、p15

*3:同、p28

*4:同、p28-30

*5:キム・ジヘ著、尹怡景訳、『差別はたいてい悪意のない人がする 見えない排除に気づくための10章』、大月書店、2021年、p30

*6:アンジェラ・マクロビー著、田中東子、河野真太郎訳、『フェミニズムレジリエンスの政治 ジェンダー、メディア、そして福祉の終焉』、青土社、2022年、p136、143

*7:同、p136-137

*8:同、p137

搾取に反対することは生きることに反対することだ

「ケアしケアされ生きて」いかなければならないという不当さ

 

善悪の彼岸』に次のような記述がある。

 

侵害・暴力・搾取を互いに抑制し、自己の意志と他人の意志とを同列に置く、――このことは、もしそのための諸条件が与えられているならば(すなわち、彼らの力量や価値規準が実際に相似しており、しかも彼らが同一の団体の内部に共に属しているならば)、或る大雑把な意味では個々人の良俗となりうる。しかしこの原理を更に広く取って、できうべくんば社’会’の’根’本’原’理’としようとするや否や、それは直ちに生の否’定’への意志であり、解体と頽廃の原理であるというその正体を露わにするであろう。ここでは、その理由を徹底的に考えて、すべての感傷的な弱弱しきを斥けなければならない。生そのものは本’質’上’、他者や弱者をわがものにすることであり、侵害することであり、圧服することであり、抑圧・峻酷であり、自らの形式を他に押しつけることであり、摂取することであり、少なくとも、最も穏かに見ても搾取である。(強調部は原文傍点部、下線部筆者)*1

 

いましも到るところで、科学的な仮面すらつけて、「搾取的性格」がなくなるはずの社会の来るべき状態について熱狂的に云々されている。――これは私の耳には、有機的な諸機能を停止した生といったものの発明を約束することのように聞こえる。「搾取」とは頽廃した社会や不完全で原始的な社会に属するものではない。それは有機的な根本的機能として、生あるものの本’質’に属する。それは生の意志そのものにほかならぬ本来の力への意志の一つの帰結である。(同上)*2

 

私(わたし)は常々「よきこと」を為す人々の狡猾さや搾取について問題を提起している。しかし、狡猾さや搾取そのものは問題であると思っていない。なぜならば、狡猾さは生きるための知恵であり、搾取は生きるために不可欠な要素であるからだ。

 

人は生まれながらにして一人では生きていくことができない。この世に生くるものは「ケアしケアされ生きていく」存在である。この事実が不当でなくてなんだろうか。誰かに助けてもらわなければ生きていくことができない。この不当さを認識することから出発しないケア論はすべて無価値であるとすら思う。

 

搾取を自覚することで初めて対等な関係が築かれる

 

先日の記事で私(わたし)は当事者研究発の「依存先を増やす」言説の欺瞞を批判した。
zineyokikoto.hatenablog.com

 

ここで言いたかったことは、搾取だから悪いということではなく、搾取していることを自覚しろということだった。他者を搾取しなければ生き物はその生を全うできない。この理こそが不当である。だから各々はせめて搾取をしている現実に向き合うべきなのだ。そうすることで初めて他者との対等な関係は築かれるとわたしは信じている。

 

イスラエルパレスチナと自己陶酔的な他者否認の思考

 

かつてニーチェは、「搾取」に反対することは、生きることに反対するようなものだと警句を発した。問題なのは、搾取があるかどうかではなく、いかなる種類の搾取がはびこっているかなのだ。植民地化について、同じことがいえる。もっとも一般的にいえば、植民地化することは、特定の空間に移り住み、占拠し、住まうことである。植民地化をこのように広義に理解することは重要であり、なぜならそれにより、植民地化にはそれに代わる別のもの(オルタナティブとルビ)など存在しないという事実を、私たちは突きつけられるからである。地上に存在したければ、私たちは移り住み、占拠し、住まわなければならないのだ。その環境を誰’が’植民地化しそこに移り住むのか、ど’の’よ’う’に’占拠し住まうのか、という問いに向き合うときこそが、根源的(ラディカルとルビ)な再-植民地化。もうひとつの(オルターとルビ)植民地化の可能性が開けるときなのだ。*3(強調部は原文傍点部、下線部筆者)

 

ガッサン・ハージ『オルター・ポリティクス』はその紙幅の大半をパレスチナ問題に割いている。イスラエルパレスチナを通じてハージが批判するのは、自己陶酔的な他者否認の思考である。

 

ハージは「自己陶酔的なナショナリズム」という分析概念を提出しており、それを駆動させるのは自分が帰属するホームとなる空間の創出である。一方で、ホームの創出を妨げるのは、敵対的意志を持った「他者」である。ハージはまた「政治的虐殺」(バールフ・キマーリングの語)という概念を援用しているが、それは他者を客体化させ彼らの政治的意志を否認する。そして他者の政治的意志の否認は他者の非人間化に直結する。まさにこの瞬間、ガザで行われていることは「政治的虐殺」であり「他者の非人間化」「他者の否認」を伴った自己陶酔的なナショナリズムが辿り着く極点なのだ。*4

 

一方で、パレスチナもまた自己陶酔的なナショナリズムを示してきた。それは驚くべきことではない。「なぜなら、このナショナリズムの様式がもっとも強く生起してきたのは、反アンチ植民地主義ナショナリズムの歴史においてだから」である*5

 

それは「私たちは被害者であり続けてきた。(中略)だからこそ私たちにとっての目標とは、私たち自身が再び力を得ることなのだ」と言う諸集団の歴史である。目的は「私たち」の方にあるのだ。

(中略)こういうナショナリズムは、自己陶酔的(ナルシスティックとルビ)だといえる。なぜなら、ときに根源的(ラディカリーとルビ)なところから、それは「[他者と]共に在る(be with)」ことへの願望を失っているからだ。たとえば、あらゆる抑圧や搾取が伴っていたとしても、植民地主義とは、一つの関係性であり、共に在ることのひとつの形式だといえる。悪い関係性ではあっても、関係性は関係性なのだ。そうであるがゆえに、理念的には――そして、多くの人が理想主義的な観点から述べていると私は確信するが――、反(アンチとルビ)植民地主義植民地主義権力による自己陶酔的ナショナリズムにとって、それとは本当に異なるナショナリズムのあり方をもたらす別の選択肢(オルタナティブとルビ)であるならば、植民地化された人々が植民地化した人々を犠牲にして、ただ自己肯定感を得る以上のことを、それはめざすべきなのだ。それは、元植民者との関係性が存在することを受け入れ、その「悪い」関係を「良い」関係へと変えていくことも、めざさなければならない。*6(下線部筆者)

 

イスラエルパレスチナは特にそうだが、難しい政治的問題に際しては友/敵の論理があてはめられ、どれだけ慎重に語ろうとも「どちらの側につくのか」という党派的関心に回収されてしまう。それは不当なことだ。その不当さを斥けるために、ハージの言う「関係論的な要請」*7、すなわち、悪い関係性をどのように良い関係性に変えられるのかが求められる。イスラエルパレスチナについて向き合う者、批判的知識人はこの重要な問いの前に立ち尽くすべきではないだろうか。

 

エンパワリングと自己陶酔

 

長くなるが先に引用した箇所直後の段落を抜粋したい。

 

パレスチナ人は、それとは程遠い状況にある。だが、被害者に「関係性」について考えさせるのではなく、「自らを力づける(エンパワリングとルビ)」ように励ます論理は、植民地主義的な現象には留まらない。それは反(アンチとルビ)レイシズムのあらゆる形式においても見られる。レイシズムの標的となってきた人々は打ちのめされてきたのであり、だから反レイシズムの目標は力づける(エンパワーとルビ)ことなのだ。これはセクシズムと反(同)セクシズムの論理においても見られる。女性たちは打ちのめされてきたから、反セクシズムは彼女たちを力づけることをめざすのだ。力を奪われた者を力づける(エンパワリングとルビ)という概念は、こうした闘争のいたるところで健在であり、遂行されている。だから、まさにこうした闘争が不当にも本質的に自己陶酔的(ナルシスティックとルビ)なやり方で遂行され、被害者が関係的世界から逃避して、自分たち自身のことだけを考えることが正当化されているように感じている状況を、認識すべきときなのだ。*8(下線部筆者)

 

この文章を読んでトランス差別を扇動するセクシストのことを想起せずにはいられなかった。ちょうど性別変更の不妊化要件が違憲と判断されたタイミングなのでなおさらである。反レイシズムは自己陶酔的なエンパワリングを歴史的に行ってきた。そしてそのやり方は決して他者と良い関係を築こうという方向にはいかない。「わたしは面倒なことには二度と関わりたくない。自分で自分を律することができなくなるような場面に、でくわさないようにしよう」といった発想である*9。こうした反レイシズムは、しかしながら、植民地主義的・反植民地主義ナショナリストの自己陶酔と同根だとハージは言う。「悪い関係性をどのようにして良い関係性へと変えられるのか。関係論的に考え、そして自己陶酔的な存在の自己肯定という観点から考えないことが、進むべき道なのである」*10

 

*1:ニーチェ著、木場深定訳『善悪の彼岸岩波文庫、1970年、p267-268

*2:同、p268-269

*3:ガッサン・ハージ著、塩原良和監訳『オルター・ポリティクス』明石書店、2022年、p8-9

*4:同、p249-250、p368-369

*5:同、p251

*6:同、p251-252

*7:同、p262

*8:同、p252

*9:同、p253

*10:同、p262

「彼女は被害者なのだから」 "ハーパシー"の論理

加害者女性への共感

 

次の記事が話題になっている。

mainichi.jp

 

この記事の反応で次のようなものがあった。

 

 

これは女版ヒムパシーといえる反応だと思う。

 

ヒムパシーとは簡単に言えば男性の加害者に対する共感のことだ。詳しくは下の記事でも論じた。

zineyokikoto.hatenablog.com

 

冒頭の反応が女版ヒムパシーだと思ったのは、それが引き起こされる構造的要因がヒムパシーのものとまったく一緒だからである。

 

女版ヒムパシーは、女性の加害行為を一度棚上げし、現行の社会が男性優位のジェンダー秩序に基づいていることを確認する。そのうえで、女性はあらゆる地位や制度から排除された「被害者」であることを前景化し、加害行為とその「被害」を(明確な根拠もなく)結びつける。この過程を通じて女性の行為を免責するのである。

 

この論理が破綻しているのは、女性の加害行為への共感が男性優位の社会秩序をむしろ強化する方向にはたらくからである。ヒムパシーは男性の性暴力を免責することで既存のジェンダー秩序を強化しレイプ文化を温存する。女版ヒムパシーもまた、女性を「被害者」という地位に固定化、貶めることで女性の主体性を奪い、女性の男性に対する従属的地位を強化するのである。私(わたし)に言わせれば女性の加害者への同情こそミソジニーに基づくものだ。女性だからという理由であらゆる行為に共感し正当化することはフェミニズムでもなんでもない。

 

概念として扱われなかった”ハーパシー”

 

ヒムパシーと呼ばれる現象があるなら女版ヒムパシー、いうなれば”ハーパシー”もあるのではないか。インターネットで検索するとそのような疑問を持つ人が少なからずいたようである。

 

管見の限り、ハーパシーは学問上認められた概念ではない。造語の提唱者であるケイト・マンもそのような現象には言及していないように思われる。

 

その理由はおそらく、ハーパシーが男性優位の社会構造を問題化するにあたって役に立たないとみなされたからではないだろうか。また、犯罪を含む加害行為を行った女性に対する非難がしばしばミソジニーを伴うものであるため、ハーパシーなる現象を積極的に問題化しようとする動きが生まれなかったことも大きいだろう。

 

既存のフェミニズムはハーパシーを概念化することができなかった。しかし、後述するように、実はハーパシーはフェミニズムの枠組みを用いても理解可能な現象である。ただ、そのフェミニズムは主流のそれとは大きく異なる。わたしが思うに、ハーパシーは「よきこと」を通じて初めて理解することが可能な概念である。

 

「被害者中心主義」という問題

 

韓国のフェミニストによるグループ「トランス」は、2000年代以降に韓国社会で広まった「被害者中心主義」という言葉を批判している。この言葉は韓国社会が性暴力加害者中心につくられていることを批判し、性暴力と闘う言説的武器として受け入れられた。しかし、トランスはこの概念が①ジェンダーに基づく暴力の根幹である性差別的構造を説明できず、②性暴力の社会的意味を再構成することもできず、③むしろ性暴力をさらに被害者個人の固有な経験としてのみ構成し被害者を社会から孤立させることになると憂慮した*1

 

「この言葉が加害者中心社会に対する批判という次元でいくら効果的であっても、中心主義は中心と周辺のヒエラルキーを作り出す権力装置だという批判を放棄することになってしまいます。「被害者の立場」ないしは「被害者の観点」程度で十分なのです。」*2

「被害者中心主義を批判するもう一つの理由は、被害者に対する強調が、性別二分法を強化する方向へと向かいがちだからです。女性と子どもの脆弱さそれ自体が強調されるときになって初めて性暴力問題に対する世論の注目と怒りが生じるという状況において、しばしば反性暴力運動の言語が性別二分法を前提とし強化する方向へとまきこまれていきました。(中略)誰かから「いまだにフェミニズムが有効なのか?」と問われたとき、最も速く相手を納得させることのできる方法は、性暴力被害者のほとんどが女性だという点に言及することでしょう。だからといって女性=被害者、男性=加害者ということを繰り返し強調すればいいのでしょうか?被害の原因が被害対称のアイデンティティにあるという仮定は、結局のところ回り巡って再び被害者を非難する行為に加担することになります。」*3

 

 

グループ「トランス」のフェミニストたちは、被害者中心主義に対する批判がバックラッシュを仕掛ける加害者側の武器に使われるのではないかと悩んだ。それでも執筆を決意したのは、被害者の勇気ある行動が非難され問題が解決されない事態が繰り返されてきたためであった。

 

グループ「トランス」の主張は、わたしの言葉でいえば「よきこと」そのものであり、よきことを為す人々に対する有効な批判である。

 

以前に書いた記事で、女性の声を聞くというポーズをとることで女性の味方かのように振る舞いトランスジェンダーを迫害する差別主義者の論理を論じた。

zineyokikoto.hatenablog.com

 

『被害と加害のフェミニズム』はまさにこの点を論じていた。被害者の声を聞くというポーズをとる人々はしばしば、被害者の主体性を認めないばかりか、被害者が受けた暴力が引き起こされる社会構造を温存する言動をとる。重要なのは「当事者」を中心に据えることではない。誰が「加害者」なのかを問うことでもない。暴力が引き起こされる構造ないし暴力の不当さを問うことである。

 

被害者中心主義とハーパシー

 

ハーパシーは被害者中心主義という言葉を検討することで初めて理解可能となる。ハーパシーとは被害者中心主義の行きつく先に登場する現象なのだ。

 

被害者中心主義は、女性を被害者という従属的地位に置き、男性優位の社会構造を補完する役割を持つ。そしてハーパシーは女性を構造的差別の被害者という枠にはめ、そこからの逸脱を阻止する。差別がなければ女性は加害者にならなかったとその将来を憂うのだ。これは加害者男性が将来獲得するはずと期待されていた業績の損失を嘆くヒムパシーとパラレルの関係にある。

 

被害者中心主義という言葉は日本では使われていない。一方で、当事者を中心に据えるべきだという主張が当事者研究からなされたり、#Metoo以降のSNS上のフェミニズムで「女性の声を聞け」「マイノリティの声を聞け」と主張されたりと、韓国と似たような状況にあると思われる。しかし、当事者研究では「べてるの家」関係者が性暴力事件を起こしたり、SNS上では「フェミニスト」がセクシュアル・マイノリティにヘイトスピーチを繰り返している。

 

今起きている現象は、「よきこと」という名の、「反差別」という名の囲い込みであると思う。囲い込みをやめさせ解放する試みが社会運動には必要なのではないだろうか。

*1:クォンキム・ヒョンヨン著、影本剛、ハン・デイディ監訳『被害と加害のフェミニズム #Metoo以降を展望する』解放出版社、2023年、日本語版序文p4-5

*2:同、p5

*3:同、p6

気遣いという労働 「性搾取」という言葉の不思議

気遣いという労働

賃労働をしていて気がついたことがある。

 

もちろん気分や疲労にもよるが、私(わたし)は他の人が忙しそうにしていて自分に少しの余裕があれば労働をいくらか肩代わりすることにそれほど抵抗がない。反対に、他人に仕事をお願いしたり質問をすることには躊躇いを覚えてしまう。そのため、もっと頼っていいと職場の人から言われてしまうこともしばしばある。

 

一方で、他人が忙しそうにしていても自分の仕事しかやらない人もいる。この前、わたしが事務処理をする暇もないほど忙しくしていたら「なぜこの仕事をやっていないのだ」と鬼の首を取ったかのように上司に突っ込まれてしまった。誰がやってもいい仕事で空いていたのだからあなたがやればいいのでは、と一瞬思ってしまったが、この時、これは労働に対する考え方の違いでしかないから責められないなと思った。

 

自分が空いていたら仕事を手伝うとは、言い換えれば他人の労働を減らすために自分が労働をする、ということだ。わたしがこれを行う理由は、発生する総労働量は変わらないのだから労働を分配すれば総労働時間を短縮できると考えるためである。

 

反対に、他人の仕事を手伝わない人は、手伝った時点で自分の労働が発生してしまうことに嫌悪感を覚えるからやらないのだ。これはこれで正当な立場である。むしろ「労働の拒否」という社会主義アナーキズムの系譜に連なる態度である。他者を気遣うかどうかは労働に対する考え方の違いによって変わるものであり、どちらがいいとか悪いということはないのだ。

 

マイクロアグレッションの裏にある労働の搾取

他人に気を遣うことが労働であることに気がつくと、他人に気を遣われることに申し訳なさを感じる理由もわかる。気を遣われるというのは、他人の労働を搾取しているといえなくもないからだ。気を遣わない人というのは、誰かに搾取されたくないから敢えてやらないだけなのである。

 

ただ、気遣いに関して軽蔑すべきタイプの人間も存在する。それは他人が気を遣ってあげているのにそのことに気が付かない人間だ。このタイプの人間こそ、他人の労働を不当に搾取する資本家タイプの人間であるといえる。

 

おそらく多くの場合、マイクロアグレッションとはこのタイプの人々に関わった際に起こってしまうのではないかと思う。差別やマイクロアグレッションが不当なのは、差異に基づいて序列化・秩序化された世界で特権的地位に与る者がその地位を維持・強化するためにマイノリティの労働を搾取するからに他ならない。少なくとも差異そのものに差別が由来しているわけではない。「差異は差別の根拠ではない」(江原由美子)のだ。

 

マイクロアグレッションという概念を経由すれば、気を遣わないことが差別に直結するケースも出てくると思われる。もっとも、わたしはあくまで限定的に当てはめるべきだという立場に留まる。マイノリティに気を遣わないことが全て差別であると主張してしまうと、他人にケアを常に要求し続けるという搾取が恒常化するだけでなく、交差性という概念の重要性が希薄化されると考えるからである。

 

「依存先を増やす」という搾取

近年、「依存先を増やそう」という当事者研究発のスローガンが人口に膾炙するようになった。

 

わたしはこの種の言説にひどく違和感を覚えていたが、その理由がようやくわかった。依存先を増やすとはつまるところ、搾取先を増やすということでしかないからである。

 

ケアとは相互作用があって初めて対等な関係として成り立つものだ。しかし、「依存」という一方的に"ケア"を求める関係は、ケアを請け負う立場の負担を一切考慮しない。"ケア"を請け負う側がいなくなれば、"ケア"を求める側は次の搾取先を探すだけである。依存先を無限に作るさまは、まるで次々と市場を開拓し価値を自己増殖させる資本の運動のようだ。

 

依存先を増やそうと呼びかけるなら、それがケアの名の下に他人の労働を不当に搾取することであるとせめて自覚していただきたい。

 

「社会なんてなくなれ」というフェミニストの欺瞞

以前のブログでケアが胡散臭い代物であると書いたことがある。

zineyokikoto.hatenablog.com

 

その考えは今も変わらないが、一方で、あまりにもケアについて考えないフェミニストが目立つようになってきたため、むしろケアを擁護する立場をとらなければならないと感じることも多くなった。

 

相変わらずケアの重視を訴える声は続いている。同時に、最近は某書の影響で「生存は抵抗」というスローガンを唱える声も大きくなってきた。わたしは自身の信条から後者の言説をくさすこともあるが、とはいえ今の政治状況からすればどちらの立場も尊重されるべきように思う。

 

しかし、一部の"クィアフェミニスト"を名乗る人々から「私たち(=マイノリティ)の存在を認めないなら/差別するなら社会なんてなくなった方がいい」という声も聞かれるようになった。そういう人たちに限って「生存は抵抗」だとアジったりする。

 

わたしにはこの2つの主張がどうして同時に成り立つのかさっぱりわからない。生存のためにはケアが絶対に必要なのに、前者はケアを軽視することによって初めて成り立つ主張だからだ。社会なんていらない!でも私は生きていく。それができるのはロビンソン・クルーソーだけ。つまりホモ・エコノミクス的発想なのである。

 

ホモ・エコノミクスフェミニストばかりなら、そりゃあナンシー・フレイザーフェミニズムの未来を憂うなあと同情する。

 

「性搾取」という言葉の不思議

労働と搾取の考察を深めていたら、「性搾取」という言葉の摩訶不思議さに気づいてしまった。

 

性搾取とは実に不思議な言葉だ。なぜなら性そのものは搾取できないからである。

 

性そのものを搾取するとはどういう現象を言うのだろうか?そもそもここでいう性とは何を指しているのだろうか?

 

思うに、性にまつわる労働が搾取されている、という方が正しく現実を捉えている。

 

仮に性がセクシュアリティを指しているのだとしてもおかしな話だ。マルクス主義の労働にあたるものがフェミニズムにとってのセクシュアリティだ、とマッキノンは言ったが、これにしたってセクシュアリティそれ自体が労働であるとマッキノンが認めたわけではない。セクシュアリティは搾取できない。搾取されるのはセクシュアリティを序列化した権力関係において行われる労働だ。

 

性搾取という言葉を使うことによって、性にまつわる他人の労働が不当に搾取されている現実が覆い隠される。多くのフェミニストの想定に反して、性搾取という言葉は反動的なのだ。

 

搾取という言葉にかまけて労働を抹消することは許されない。かつてロベール・カステルは「労働は社会問題の震源である」と述べた。フェミニストであるからこそ、この古典的な命題に何度も立ち返るべきなのである。

『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション』がマイクロアグレッションをしている件について① ―能力主義編―

まえがき(2023年9月)

実をいうと、この記事は2年前に書いたものである。いい加減出さないといけないと思いつつ、気が付けばいつの間にか時が経ちすぎていた。

 

記事を書いたきっかけは本書の読書会に参加したことである。知人に誘われて毎月一度開かれるオンラインの読書会に度々参加した。コロナによる雇用不況が続いており、自分もあらゆる場所から放逐された時期だったため時間的余裕があったのだ。当初は、記事後半に書いたような自分が経験したことを言い表してくれる記述を求める読み方をしていた。しかし、それをズバリ表した文章には出逢えなかった。それどころか、2回目の読書会に参加した際は本書の違和感をはっきりと自分の言葉で表明するにまで至り、以来、同書を批判的に読むようになった。

 

記事をすぐに出さなかった理由がいくつかある。本書の翻訳者と知り合う機会があり、本記事を読んでもらってから公開しようと考えていた。また、雑誌『福音と世界』で「教会におけるマイクロアグレッション」の連載が始まった時期だったので、その連載を読んでからマイクロアグレッションについて語ろうとも考えた。しかし、翻訳者の方が多忙なため連絡が取れなくなり、連載も長期で終わりがみえないため、一度現時点での批判点をまとめておこうと思い公開に至った次第である。

 

はじめは能力主義異性愛規範、種差別の3つの点からそれぞれ記事を書く予定だった。ただ、日本語の能力主義は「メリトクラシー」と「エイブリズム」の2つの意味を表すため、両概念が混同されマジックワードとして使われている印象がある。そのため、能力主義の意味を峻別しそれをマイクロアグレッション概念と照らし合わせる作業が別に必要と考えている。その作業にはまた時間が必要なので、今回は以前書いた文章をそのまま掲載することとした。

 

翻訳版が出版されてからあと数か月で3年にもなろうというのに、このテーマを正面から扱った書籍は未だ少ない。批判的に受容した反応となると、管見の限りではほとんどない。本連載が議論を喚起するきっかけとなるのであれば幸いなことと思う。

 

 

 

マイクロアグレッションとは

最近、「マイクロアグレッション」という「隠された差別」を告発する考え方が注目され始めている。

 

この概念が日本で浸透し始めたきっかけは、おそらくデラルド・ウィン・スーの『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション』の邦訳書が2020年末に出版されたことにある。

 

 

マイクロアグレッションとは何か。本書でスーは以下のように説明している。

 

マイクロアグレッションというのは、ありふれた日常の中にある、ちょっとした言葉や行動や状況であり、意図の有無にかかわらず、特定の人や集団を標的とし、人種、ジェンダー性的指向、宗教を軽視したり侮辱したりするような、敵意ある否定的な表現のことである(Sue, Capodilupo, et al.,2007)。(同書、P34)

 

ある特定の属性の人々に対して日常的に向けられる、わかりにくくしばしば自動的に行われるけなしや侮辱、それがマイクロアグレッションである。チェスター・ピアースという人が1970年代に「人種的マイクロアグレッション」という概念を提起し、ブラックアメリカンに向けられる日常的な攻撃を言い表そうとしたことが始まりとされる。

 

特定の属性を持つ人たちは、より目立たない偏見や差別によって、見えにくいがダメージの大きな結果がもたらされる。しかも、「加害者はたいてい、自分が相手を貶めるようなやりとりをしてしまったことに気づいていない」(p34)。

 

マイクロアグレッションの類型や具体例などについては本書を読んでほしい。また、マイクロアグレッションについてはネット記事や、本書の翻訳に関わった金友子氏の論文がわかりやすくまとまっているので、以下にリンクを貼り付けておく。

「マイクロアグレッションとは何か?様々な立場の人が「日々」積み重なるように体験している【解説】」

www.huffingtonpost.jp

 

金友子「マイクロアグレッション概念の射程」

http://www.ritsumei-arsvi.org/uploads/center_reports/24/center_reports_24_08.pdf

 

問題の所在

さて、ここからが本題なのだが、私(わたし)はこの本がマイクロアグレッションという題材を扱っておきながら、特定の属性に対してマイクロアグレッションを行なっているのではないかと考えている。

 

予め断っておくが、私(わたし)は本書の重要性を認めている。わかりやすい差別やレイシズムとは異なり、何気なく過ごしていると流してしまいそうな、だけどそれが差別だったのかどうかわからず、やはり自分が悪かったのかもしれないと苦悩するような場面に出くわしたことが何度かある。私(わたし)が本書を読み始めた動機もそこにある(さらに言えば、今まで生きてきて私(わたし)が他人に対してやってしまったかもしれないという経験も含んでいる)。だからわかりにくい差別や侮辱というものを問題化し概念を提起するマイクロアグレッションは、私(わたし)がほしかった言葉であり、本書から多くの学びを得たことは事実である。

 

しかしながら、マイクロアグレッション概念の射程の広さに反して、本書がこの概念をいかしきれていない、不十分だと感じる部分が多かった。確かに本書は人種、ジェンダー性的指向のマイクロアグレッションに焦点を当てて分析を試みているため、それ以外の属性について記述がないのは仕方がないかもしれない。ただ、私(わたし)は本書に感じる不十分さが、分析対象を絞った結果というよりも、もっと根本的なところに由来しているのではないかと考えている。そこで今回は、私(わたし)が本書を読んで感じた違和感や問題を一つずつ説明し、この概念の理解を深めていきたい。

 

能力主義信仰

本書で最も問題だと思うのは、能力主義に関するものである。本書では度々能力主義信仰が問題視されている。

 

能力主義信仰は、人種やジェンダー性的指向は人生の成功になんら影響しないと主張するテーマである。これは、すべてのグループは成功する機会を平等に与えられ、私たちが競争している競技場は平坦であるという仮定に立っている。そのため、成功も失敗も、知的能力や努力、モチベーションや家族の価値観といった個人の特性の結果ということになる。うまくいった人は、その人の個人的な努力によって成功を成し遂げたと見なされる。裏を返せば、成功できなかった人は何か欠陥があるとも見なされる(怠け者、頭が良くない等)(Jones,1997)。有色人種の人々の場合、失業率の高さ、学歴の低さ、そして貧困がシステム的な力(個人、組織、あるいは社会のレイシズム)の結果だとは、あまり認識されていない。被害者を非難することは能力主義信仰の表れである。」(同、p81)

 

能力主義信仰をテーマとするマイクロアグレッショの例は、例えば次のようなものである。ある人が有色人種の人に向かって「僕は、最も能力のある人が仕事を得るべきだと思っているんだよ」と言ったとする。この発言に隠されたメッセージは、「有色人種の人々は、人種によって不当に余計な利益を得ている」というものだ。

 

また、「男性と女性は、成功する機会を等しく与えられている」という発言にあった時、そこに隠されたメッセージは「勝負のフィールドは平等で、女性が成功できないとしたら、その人に問題がある」というものだ。

 

前者はアファーマティブ・アクションのような措置を想定していると思われる。アファーマティブ・アクションのせいで、能力を有していないはずの黒人やアジア人などのマイノリティが「不当に」評価され、本来そのポストに就くべきだったマジョリティの白人のパイを食っている、という偏見を考えてみよう。この偏見から導き出されるメッセージは、「有色人種の人々は通常白人よりも能力が劣っているはずだ」。だから社会的に高い地位に就いている人種的マイノリティは、よほど能力が高いか、「不当に」評価され得をしているかの二択である。

 

既に読者はお気づきだと思うが、このような偏見は差別の構造的な側面を無視している。そもそもアファーマティブ・アクションはマイノリティの権利要求の妥協の産物であり、「不当に能力が評価され得をしてい」たのはむしろ白人をはじめとするマジョリティの方である。

 

後者も同様に女性差別の構造的側面を無視している。「女性」というカテゴリーの枠に当てはめられるだけで大学入試や就職などで不当な差別を受けることはまだまだ多い。そもそも「勝負のフィールド」は何ら平等ではない。このように、能力主義信仰に関するマイクロアグレッションは、社会の構造的な問題を軽視し、マイノリティが被る不利益を全て個人の問題に帰することで発動する。

 

他の例も見てみよう。

 

スクールカウンセラーが、黒人の学生に「努力すれば、他の人々と同じようにあなたも成功できるよ」と言うこと

・女性のクライエントが、彼女のほうが適しており会社にも長くいるにも関わらず(ママ)男性の同僚が管理職に選ばれたことに対する懸念を話すためにキャリアカウンセラーのもとを訪れた。それに対してカウンセラーは「彼はきっとその仕事で必要とされるより適した資質を持っていたのでしょう」と答えること

 

メッセージ:有色人種の人々や女性たちは怠け者や、無能であり、努力しなくてはいけない。もし成功出来ないのだとしたら、それは自分自身の責任である(犠牲者非難)

(同、p437のより作成)

 
健常者中心主義=能力主義の称揚

ところで、この本では、意図的にdisabilityに関する議論を排しているようである。

 

「ピアースの議論は人種的マイクロアグレッションにのみ焦点を当てていたが、マイクロアグレッションは我々の社会の中で周縁化されているあらゆるグループに対して向けられる可能性がある。それはジェンダーに基づくこともあれば、性的指向、階級、障害の有無に基づくこともある(Sue & Capodilupo, 2008)。本書では、人種・ジェンダー性的指向という三つの形態のマイクロアグレッションに焦点をあてる。」(同p 33、筆者傍線部)

 

著者の障害に関するマイクロアグレッションについての見解は、残念ながら今のところ日本語で読むことは難しいものの、スーはdisabilityに基づく隠された差別を無視しているわけではないようである。また、マイクロアグレッションが障害に関するものを取り扱っていることは本書の邦訳者の一人である丸一俊介氏も述べており、このことは時代状況とともにこの概念が更新されているものだということを示している。

 

「その後差別研究が進む中でMAの概念は整理、再定義され、現在では「人種、民族的マイノリティ、女性、セクシュアルマイノリティ(LGBTQ)、高齢者、障がい者」などに対するMAが報告されています。」*1

 

著者はこの問題を無視しているわけでもなく、むしろ能力主義信仰について詳細に検討を加えている。ではこの本の能力主義に関する記述の何が問題なのだろう?

 

先に挙げた例は全て、能力主義信仰の問題が人種やジェンダー(、性的指向)に由来するものだということを示す例である。

 

要するに、人種や性別、性的指向を通して語られる能力主義が問題なのであって、能力主義そのものは問われていないのである*2

 

穿った見方をすれば、「人種や性別、性的指向に由来しない」能力主義の問題はマイクロアグレッションではない、といっているようにも読めてしまう。

 

一つ例を挙げてみる。出生地が日本で、出生時に「男性」の性別を割り当てられ、20数年日本で暮らし日本語も難なく話すことができる人がいたとする。その人はある会社で働いているが、職場の人たちからは「仕事が出来ない」人とみなされている。挨拶をしても同僚に無視され、プロジェクトのメンバーからも外される。上司からは「無能な人間はいらない」と直接罵倒され、言われた本人は精神疾患を発症し休職に追い込まれてしまった。

 

この人はなぜ周りから「仕事が出来ない」とみなされてしまったのだろうか。朝起きることが苦手で会社に遅刻ばかりしていたのかもしれない。同僚や上司と上手にコミュニケーションできなくて迷惑をかけてしまっていたのかもしれない。今やるべきタスクよりも緊急度の低いタスクを優先しまうことが多くて納期に間に合わない事態が多発していたのかもしれない・・・。

 

何が言いたいかというと、本書の能力主義概念の前提には「あるべき人間の姿」というものがあって、その規範から外れた人間のことを想定していないのではないか、ということだ。言い換えれば、スーの人間観が「健常者中心主義」に基づいているのではないか、という批判である。

 

健常者中心主義は必然的に障害=disabilityを軽視し、当然のごとく能力主義そのものについては疑義を抱かない。「本来は皆持っている能力を発揮できない」ことが問題なのだから、その差別がなければ発揮できたとされる「『人間』なら誰もが持っている能力」は前提とされてしまう。しかし、「『人間』なら誰もが持っている能力」とは、本当に誰もが持っているものなのだろうか。

 

筆者が挙げた例では、本書で言われるようなマイクロアグレッションの射程からは外れてしまう。人種、ジェンダー性的指向に関する隠された攻撃が問題なのだから、「日本人」で「男性」の人が「仕事が出来ない」とみなされることは、「人間ならば本来持っているはずの能力を、社会的に不利益を被る属性を持っていないにもかからず発揮できない」のだから、それによって周りから忌避され罵倒されることは「自己責任」である、ということだ。

 

人間なら誰でも早起きできて指定の時間に目的地に行くことができ、人間ならば誰でも意思疎通ができ、タスク管理が出来る。これらのことが当たり前に出来ないのは、その人の努力が足りないからであり、怠惰な性格や生活は既存の社会に合わせて修正すべきである。果たして本当にそうなのだろうか?

 
社会運動と能力主義

本書を読み始めた動機について先程ふれたが、私(わたし)がここまで能力主義の問題にこだわるのはその動機に由来している。

 

ブログでは何度も書いているが、私(わたし)はとある社会運動に関わっていたことがある。その運動団体ではハラスメントが日常的に蔓延していた。

 

「無能は助けない」

「社会運動に向いていない人もいるから」

うつ病を患っている人に社会運動は難しい」

 

本人の気持ちに関係なく、「能力」がない、やる気がない、とみなされた人は容赦なく切り捨てられる環境だった。私(わたし)もそのような環境下で運動のために貢献しようと頑張り、仲間同士で総括を競い合った。ただ、自身の性格や家庭内事情からしばしば「いじり」の対象となり、時には「活動家として相応しくない能力の低さ」を咎められ人格を否定されることもあった。

 

他の場所ではどうだろう。Twitterでは政策や政治家に対する批判をよくみかけるが、批判対象である政府や政治家が「無能」なことを殊更に言うツイートがしばしば見受けられる。批判者たちは、政策の不備や政治の腐敗を主張すると同時に、「能力のない人間は『高度な』仕事に関わるべきではない」というマイクロアグレッションを起こしている。しかしながら、そうした批判者に対する批判は残念ながら少ない。

 

現状の社会では、あらゆる能力主義が正義とされている。それは政策や制度レベルのみならず、「左翼」を自称する人々や社会運動団体でも蔓延している。既存の健常者中心主義を変革せずして、どうして革命など起こすことができようか。本当に差別をなくしたい、社会を変革したいと思うなら、まずは自身が持っている能力主義を相対化すべきだと思う。

 

次回

次回は「性的指向の軽視と交差性の不在」について書く予定*3

 

*1:丸一俊介「心理支援の現場から見るマイクロアグレッション 在日コリアンカウンセリング&コミュニティセンターの歩みから」p188『現代思想 特集 インターセクショナリティ』2022年5月号

*2:筆者は、本書で能力主義そのものが問われていない理由の一つに、能力主義アメリカで重要なイデオロギーとなっているということがあるのではないかと考えている。同様の印象は『99%のためのフェミニズム』でも感じた

*3:まえがきで書いた通り、次回扱うテーマはあくまで当時考えていたものである。能力主義論を改めて書くか、当時のテーマをそのまま扱うかはこれから考えるため、記事の更新も不定期で行われることはご承諾いただきたい(2023年9月)。