おめでとう、そして、ありがとう

人気バンドSHISHAMOのドラマーの吉川美冴貴さんが、交際していた女性とパートナーシップの宣誓を行ったことを発表した。

 

 

 
 
 
 
 
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SHISHAMOを聴いていたのはもう随分昔のことだ。それも有名な2,3曲しか知らないにわかファンなのだが、報告を受けて昔の自分のことを思い出し、感傷的な気持ちになった。

 

SHISHAMOの代表曲に「僕に彼女ができたんだ」という曲がある。

 

www.youtube.com

 

自分に彼女ができたのが嬉しくて周りに言いふらしたいけど、二人だけの秘密だから自慢したくてもできない。そんな恋心を歌った曲だ。

 

私(わたし)にはこの曲にまつわる、あまり嬉しくない思い出がある。

 

たびたびブログで紹介しているが、以前、ある社会運動組織に関わっていたことがある。その組織では個人の生活よりも社会運動を優先するべきだという価値観が支配的だった。ただ、運動に参加して間もない人たちと親睦を深めるという名目でカラオケに行っていた時期があり、その時間は自分にとって数少ない息抜きの時間でもあった。

 

しかし、本来は息抜きになるはずが、実際には人格を否定されるなどの辱めを受けることも少なくなかった。例えば、アニメを視聴する人間を毛嫌いするメンバーに、当時流行していたアニメの主題歌を無理やり歌わされてそれを嗤われるということがあった。最近、職場の人たちと久しぶりにカラオケに行く機会があったのだが、誰がどんな曲を歌ってもそれをバカにするといったことがなかったので、自分が受けた経験は特殊だったのだなとしみじみ感じた。

 

さて、カラオケの場で先の曲を歌った時も例にもれず不興をかってしまった。彼らからすれば、この曲は(社会のことに関心を抱かず)恋愛にうつつを抜かす男の歌だという意味で「キツい」曲なのだそうだ。そもそも自分に彼女ができたことを喜ぶような男は幼稚であり、少なくとも社会運動に関わる人間が抱いていい心性ではないと。歌った時の場の空気が微妙だったので自分が恥ずかしくなり、以後、自分の記憶からも曲の存在を消してしまっていた。

 

それから数年を経て今回、吉川さんの発表に接したことでこの曲のことを思い出した。そして、彼女ができたことが嬉しいのに、同性愛者であることをカミングアウトできないが故にもどかしい思いを抱く女性の内面を歌った曲であるという解釈が可能なことにも気づいたのだ。別の解釈に気がつかなかったのは悔しいが、あの時の私(わたし)では無理だっただろうと思う。この曲を歌うことすら嘲笑の的にされ、歌の存在を記憶から消し去り抑圧していた身としては、あの時の自分を肯定していいんだという嬉しさがあり、涙がこぼれてしまった。

 

男と女の情事以外を想定することができないような、ホモソーシャルの湯船に浸かる健常者のシスヘテロ左翼男性どもには、この曲を理解することなど所詮不可能だったのだ。「キツい」曲だと嗤ってくれたことでお前らはやっぱりクズなんだと安心することができた。クズでいてくれてありがとう!

 

「そしていつか、結婚できる日が来たらもっともっと嬉しいです!」という吉川さんたちのパートナーシップの宣誓を素直に喜んでいいのかどうかはわからない。パートナーシップは結婚と同等ではないのはその通りだし、そもそも「結婚制度は廃止するべきだ」という左翼から宣誓を言祝ぐことすらお叱りを受けそうだ。それでも、本人たちがカミングアウトして伝えてくれた吉報をまずは受け止めたいと思う。2人のためにも、わたしのためにも。

 

あの曲を好きだといったことで自分の尊厳を奪われるようなこともあったけれど、今回のことでかつての自分の尊厳を少しは取り返せたかもしれない、そんな気持ちでいる。おめでとう、そして、ありがとう。

しんどさは平等であるべきだ

 

生きとし生けるもののしんどさは平等なはずである。

 

戦争の時代の悲惨

 

柄谷行人がしばしば言うように、世界は戦争の時代に突入しているかもしれない。

 

ミャンマーの軍事クーデター、ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルによるパレスチナ人民に対する虐殺………ここに例を挙げきることができないほど今日の世界では一方的な支配や弾圧、殺戮が行われている。

 

それら一連の出来事に呼応して様々な抵抗が起きている。日本でも大規模なデモから数人規模のスタンディングまで幅広い方法による抵抗が行われている。様々なやり方で連帯を呼びかける方々、それに共鳴する方々には敬意を表したい。

 

苦しみの競争

 

しかし、出来事が悲惨で酷たらしいものであればあるほど、左翼は苦しみを競わせようとする。

 

戦争や虐殺で苦しむ人々の痛みに比べれば、それを経験せずに済む自分が/お前が今抱えている苦しみなど大したことはないと決めつける。

 

わたしは、しんどさに差をつけるような考え方をはっきりと間違いだと言うべきだと思う。

 

このようなことを言うと左翼は必ず反発する。

 

戦争で今にも殺されそうになっている人と、日々の生活に苦しみ藻掻いている人の苦しみが等価であるはずがないと言う。そう主張するのは左翼の直感に反するからである。

 

戦争や虐殺の犠牲になる人は圧倒的劣位に置かれている人々で、憐れみを受ける庇護すべき対象でなければならないという左翼の直感に反するからである。

 

わたしは、その直感を正面から否定する。

 

誰であろうと、どのような種であろうと、苦しみを受けること自体が不当なことであり、どのような苦しみであれそれは尊重されるべきものだからである。

 

苦しみの競争はしんどさに対する差別である

 

この記事を書こうと思ったきっかけはTwitter上である投稿をみかけたからである。

 

筆者とは関係ない第三者間でのやり取りで、フェミニストを名乗る一方が「ヴィーガンに対する差別は差別ではない」と主張していた。その趣旨は、差別とは「属性」に対するものを指し、ヴィーガンは属性ではなく思想信条によるものであるから差別ではない、というものだった。「思想信条に対する偏見や差別的扱いは存在しても、社会構造に組み込まれ選択の余地のない「属性に対する差別」」を並列に語ることは暴力的だ、とのことだ。

 

この方の主張の誤りを指摘することは簡単である。「思想信条に対する偏見や差別的扱い」を差別ではないことにしてしまうと、職業差別や宗教差別が正当化されてしまうからである。

 

「社会構造に組み込まれ選択の余地のない「属性に対する差別」」が他の差別より上位に扱われるべき問題であり、属性に対する差別と他の差別を同様に扱うべきではない。このような考えは差別の囲い込みである。

 

ひとの苦しみに優劣はないのに、しんどさは平等であるべきなのに、左翼はひとの痛みや悲しみに差をつけようとする。

 

痛みや苦しみ、悲しみに差をつけるということは、しんどさには差別があるとでっち上げるようなものだ。

 

お前が受ける抑圧は差別ではない。お前が受ける抑圧など他者に比べれば大したものではない。差別を囲い込み抑圧を競争させるようなことは非難されるべきだ。

 

国家の不正とマイクロアグレッションは何が違うのか

 

しんどさは平等であるべきだ。左翼はこれを全力で否定する。

 

しんどさには優劣がある。苦しみは平等ではない。痛みや悲しみを平等だとする考えこそ恥ずべき思考だという罵倒が寄せられる。

 

その根拠は差別の規模の違いにある。例えば、国家暴力と、日常生活で受けるマイクロアグレッションは、差別を行う主体も暴力の程度も異なる。二つのしんどさを同じように扱うことは左翼の直感に反する。

 

わたしは、2つの苦しみやしんどさに違いをつけるべきではないと考える。では違いは何で判断されるのか。

 

国家の不正とマイクロアグレッションは、解決のために費やされる社会的総労働量及び社会的総労働時間が違うのだ。動員される労働が違うだけなのだ。だから両者はその重要性、重大性において違いはなく、両者ともに反差別の重要課題として扱われるべきである。

 

しんどさに差がないということは、巨大な不正や抑圧、戦争や殺戮を過小評価することにはならない。むしろそれらと同様の抑圧が日常的に起きていることを明らかにする。お前の苦しみは彼らの苦しみより楽だと言うことは、当の「彼ら」の苦しみを易くすることにはつながらない。他者の苦しみをジャッジし競わせる人は、自らが「よき人」であることをアピールするためのステータスづくりに勤しんでいるだけなのだ。

 

ひとの苦しみに差はなく、それぞれの痛みや悲しみは尊重されるべきである。しんどさは平等であるべきなのです。

社会運動における結果主義の問題

 

日本の社会運動における3つの傾向

 

日本の社会運動にはいくつかの傾向が存在すると考えている。

 

一つは会議主義である。直接行動や組織運営の方針は多くの場合、現場ではなく会議で決まる。大抵は少数の活動家を中心に何度もミーティングを重ねて検討することがほとんどだ。

 

何事も会議で決める方針それ自体は問題とは思わない。しかし、現状の会議主義は「少数の」活動家が「密室で」物事を決め、「上位下達」式にそれを通達する様式をとっている。

 

公安対策を含めた情報漏洩のリスクを鑑みていることは理解できる。ただ、この様式が「会議に参加できる者を選別する(その選別基準に差別や偏見が作用する)」「現場の活動家に対する組織幹部の優位性を前提とする」等の問題を含んでおり、現状の会議主義に検討の余地がないとは言い難い。

 

また、英雄主義も運動が抱える大きな問題の一つである。「社会運動をやっている俺たちが一番偉い」という自意識が活動家の高慢な態度を助長させ、自分たちが関わる運動以外の活動を他者化しその優位性を主張する。この不毛さについては別の機会に改めて検討したい。

 

そして、日本の社会運動にはもう一つ深刻な傾向が存在する。それが今回考察する結果主義*1の問題である。

 

結果主義とは何か

 

日本の社会運動で主張される結果主義とは、活動の成果や活動家の業績のみを評価の対象とし、その過程で起きた一切の出来事を評価から切り離す態度のことである。

 

下記はその最もわかりやすい例である。

togetter.com

約20年社会活動していると正しさを求めながら、生き残れずに消滅していった団体や活動が数多ある。非難や攻撃対象を誤って失墜してきた活動も数多ある。それでも社会活動が残るにはそれなりの理由がある。生き残った活動への批判や攻撃が必要なら、相応の覚悟をもって闘いを挑んでほしい。

 

辛かったらすみません。だから始めから実績を積み重ねよ、と伝えました。覚悟をもて、社会はもっともっと辛く厳しく当たるぞ、と。もうやめましょう。そんな社会だと受け入れて我慢してください。我慢できないなら死ぬ気で闘ってください。

 

無力さを自覚してください。社会活動は甘くない。実績なく活動だけをしているなら交替するメンバーが数多います。ジェンダーバイアスを乗り越える運動を組織して発言権を得られないなら、むやみに「男」社会に近づくべきではない。女性解放運動をつくってください。

 

いつみてもひどい発言だと思うが、これはただ藤田が露悪的な道化を演じているだけであって、実際に藤田のような考えを持っている社会活動家は腐るほどいる*2

 

ポイントは2つの主張である。一つは「実績を伴わない活動家は発言権を持たない」。もう一つは「女性解放運動が成功していないのは女性が実績を残していないからだ」という趣旨。

 

後者には「女性差別がなくならないのは、女性が闘わないからだ」という含意がある。女性が差別を受けているという結果だけを評価し、その現状が改善されない理由を被差別者に帰責させる。これは「いじめられる方が悪い」という論理である。

 

「女性が闘わないから女性差別がなくならない」?

 

差別の原因は被差別者にあるという主張がいかに転倒したものであるかを指摘することは容易い。この論理は差別を煽動する者や差別に加担する者の責任を問わない時点で破綻している。

 

ここまで露骨ではなくても、被差別者の方に差別の責任を問うバリエーションは多い。「黒人が頑張らないから黒人に対する差別がいつまでもなくならないのだ」「トランスジェンダーがマジョリティのために自身のことを説明してくれないから差別がなくならないのだ」etc...

 

"頑張る"ことや"説明する"コストを払わなければならないその理由を結果主義が主張することはない。

 

結果主義は現状肯定のための主張である

 

活動家はしばしば「結果を出した奴だけが意見を主張できるのだ」と豪語する。これは英雄主義と結果主義が結びついた主張である。

 

結果を出した奴だけが物を言う権利を獲得すると自ら規定してしまうことによって、自分が常に意見を言う権利があるのだと第三者にアピールする必要が生じる。「俺は結果を出したけど、お前は何か実績を残したのか?」と常に他人に問うことに勤しむ(そして自分には他人にそれを問う資格があると無意識のうちに思っている)。自分が規定した考えに自らが縛られるという意味で、結果主義を信奉する活動家は「疎外」*3されている。

 

結果主義がただの自縄自縛であるならまだかわいかった。しかし、本当に深刻なのは既存の規範や差別を再生産させるという点である。

 

結果を出した奴が偉い、と規定するならば、マイノリティはいつまでも"偉く"はなれない。そもそも結果を出すために用意されたルートがマジョリティと異なるのだから。マイノリティは社会的障壁を自らの努力で突破し、マジョリティと同等かそれ以上の成果を出すことによって初めて意見を言う権利をマジョリティから与えられる。

 

そう、結果主義とは現状を肯定するための論理なのだ。結果主義はマイノリティが結果を得ることを難しくさせている過程、すなわち構造を問わないことによって初めて成立する論理である。

 

業績が欲しい運動家たち

 

結果主義に縛られる活動家は、当然のことながら業績を積むことを第一の目的とする。

 

「マーチを主催した」「国会で答弁した」「法律制定に関与した」etc...

 

あらゆる社会的活動は「被抑圧者のため」という大義名分の下、運動家の業績づくりのために利用される。しかし、実際にその活動が「被抑圧者のため」になっているのかどうかはどうでもよい。結果主義に基づく運動家の関心は、自らが「よき人」であることを示すためのステータスをつくることにしかないからだ。

 

業績を積み上げることにのみ関心が向くことで、その過程で起きるさまざまな問題に対して鈍感になる。社会運動内部で起きるハラスメントや暴力、すなわち「よきこと」の問題が看過されてしまう。

 

属人主義と結びついた結果主義はハラスメントや暴力を看過する

 

運動内部でハラスメントや暴力が起き、その問題が提起された際、運動家はその提起を行った者の意見が傾聴に値するものであるかどうかをふるいにかける。この時、その品定めに属人主義が動員される。

 

「この人は〇〇だから」(〇〇には業績や属性が入る)という結果だけを参照して判断することは現状を肯定することにしかならない。なぜならば、属人評価に基づく判断は最終的に「結果を出してから言え!」と発破をかけることにしかならず、問題を提起した者の属人的要素が変化しない限りいつまでも放置される。

 

運動家に意見する者は、ハラスメントや暴力の問題を自らが指摘するに至った過程、すなわち属人的要素に紐づけられた思考や経験を運動家に対して開示しない限り、正当な主張であると認められることはない。

 

本来、ハラスメントや暴力それ自体が不当であり、誰が問題を提起しようとその悪質さは変わらないはずである。しかし、運動家が属人的評価を動員することによって「この人は実績があるからその意見はとても有意義だ」「この人はマイノリティの属性を持っているから話を聞こう」「この人は(少なくとも自分たちには周縁化された属性を持っていることを開示してこなかったから)大事な意見だとしても後回しにしよう」といった判断が下される。運動家に意見する者にとって、そういったジャッジをされてしまうという点で二重に不当な経験をすることになる。

 

結果主義はサバイバーの葛藤を否定する

 

少し前に話題になったスレッドがある。

 

大事な問題提起であることを認めつつも、スレッドを読んだうえでこの方の関心とはまったく逆方向のことを考えてしまった。それは自らの経験や考えを言語化し語ることができるマイノリティのことである。

 

特に気になるのは次の発言である。

 

「知識と思考とそれを明瞭に伝えることができるのは物凄く重層的な特権がある」。この方の経験や考えは尊重されるべきであり、一理あることは否定しない。と同時に、この指摘が常に成り立つものであるとも思わない。

 

ハラスメントや暴力を受けること。差別を受けること。それ自体が不当である。サバイバーはしばしば自らの身に降りかかった不当な出来事が何だったのかを考える。その過程もまた不当である。

 

自らの不当な境遇に向き合ったサバイバーはその思考の過程を経て、ある時、言葉を獲得する。言葉を獲得したサバイバーは自身の経験を少しずつ明確にしていく。文字通りサバイブするために。

 

サバイブの過程は自身の尊厳を肯定するために必要である。過程で獲得した言語や知識はその結果でしかない*4。その知識の質や量を他者と比較することはサバイブの過程にとってまったくどうでもいいものであり、無意味で不毛である。

 

しかし、知識量を特権とみなす結果主義はサバイバーの葛藤を否定してしまう。サバイバーが知識を獲得する過程で経験した葛藤を否定する。なぜなら結果主義は、どのような境遇や経験を経たとしても知識を持っているという結果のみを糾弾のための評価対象とするからである。

 

このことから、知識の有無や言語化能力の比較は、公正な社会運動を実践するための緒になりえるが、実は最終着地点ではないと考えられる。大事なのは個々が経験する不当さと向き合うこと、それを出発点として社会的不正義に向き合うこと、不正義に向き合う過程で個々の尊厳が尊重されること、ではないだろうか。

 

結果主義は組織内抵抗の存在を否定する

 

なぜ上記のことを考えたかというと、知識を持つ者は特権的であるという考え方を流用して差別やハラスメントを看過する運動家の存在を知ったからである。

 

例えば、ある組織の刊行物に差別的な表現が使用され、また、社会問題に対する理解が不十分な記述があり、それを組織内で問題提起した方のお話しを伺ったことがある。その際、指摘を受けた活動家からは次のような反応があったという。

 

「みんながみんな、正しい知識を持っているとは限らないし常に正しい実践ができるとは限らない」

「差別だと指摘できるだけの知識があるということは、差別を認識することができなかったわたしたち運動家と比べてあなたは特権がある」

 

自分たちの過誤を棚に上げ、問題を指摘した者をむしろ特権的だと攻撃する。ここでは自らが無垢かつ無謬であることを強調するために他者化が動員されている。社会運動に関わる者たちが自らを正当化するために責任を他者に押しつける、そのグロテスクな言動に驚きを隠せない*5

 

しかし、組織内部で問題を改善しようと奮闘したとても、組織の外にいる者たちからは評価されない。組織外部の者にとって、ある組織に所属する者はみな同じ思想を共有しており、その組織に所属している時点で問題だと考えてしまうのである。

 

このような画一化と他者化は、自らが「よき人」であることを第三者にアピールする以外の目的を伴わない。組織に所属する者を画一化し他者化する評価は反差別の実践から最も遠いところにある。

 

組織のなかで問題が起こってしまったこと。その問題を自分が提起するに至ったこと。その提起が無下にされたこと。そしてその抵抗が外部から一切評価の対象にならないこと。このすべての過程が不当であると思う。組織に所属しながら「わたしはあいつら組織の人間とは違うのだ」という意識をもって組織内抵抗に奮闘する者たちをわたしは擁護したい。

 

過程の検証なくして革命はありえない

 

過程を検証することは構造を把握することである。過程の検証なくして構造の変革はありえない。

 

社会運動において結果は確かに重要であるが、しかし、結果がすべてではない。運動において重要なのは、成果を得る過程で自身が何を獲得したのか、それを自らに問うことである。

 

運動の経験で得た成果を自らに問う。この弁証法的な過程を通じて人格が陶冶される。逆に言えば、その過程を伴わない運動は組織や人格を腐敗させる。他者化が目的の運動は次第に品位を落とし活動家を堕落させる。

 

社会運動にはびこる結果主義をわたしは否定したい。

*1:本記事で扱わなかった事項として「功利主義としての結果主義(帰結主義)」の検討がある。社会運動における功利主義の問題を結果主義の問題として考察することは個人的に重要なテーマだと考えており、いずれ検討したい

*2:これは2019年の発言だが、筆者は藤田が考えを改めたとみなしておらず、また、たとえ本人が考えを変えたと主張してもそれを認めるつもりはない。なぜなら、当時の発言と同根の発言が現在まで腐るほど垂れ流されているからである。

*3:ここでいう疎外とは「人間がつくりだしたものが人間に敵対する」ことを意味する。

*4:さらに言えば、言語や知識を身につけざるをえなかったその過程自体が不当である

*5:このような反応が引き出される要因の一つに、運動の個人主義化の進行があると筆者は考えている。近年、左派の間で運動の垂直性が批判され水平的な運動が称揚される傾向がある。しかしながら、水平的な運動内部でも権力構造を前提とした組織運営が行われてしまう例が存在する。古典的には「無構造の暴政」(ジョー・フリーマン)として指摘されてきた問題であり、水平性を志向する運動が抱える問題の大きさは筆者個人の経験からも理解できる。この点において、今後の社会運動を組織するうえで重要なのがジョディ・ディーンの議論であると筆者は考えている。cf.水島一憲「ジョディ・ディーン」(『メディア論の冒険者たち』(東京大学出版会、2023年)所収)

一橋大学で差別禁止ルールの制定を求めた有志は反トランス本の出版中止要求を擁護せよ

KADOKAWAで出版企画が頓挫したアビゲイル・シュライアー著『あの子もトランスジェンダーになった』(邦題)が産経新聞出版から刊行されるという。

 

www.sankei.com

 

トランス差別に加担する「左翼」たちが産経に「ありがとう!」とお礼を言っているらしい。

 

この「左翼」たちが反トランス本の刊行を擁護する理由の一つに「表現の自由」を挙げている。ここでいう表現の自由とはブルジョワの権利であり、要するに彼らは「市場への介入を許すな!」というスローガンを推進しているのだ。あまりにも古典的なネオリベラリズムの主張だと思う。

 

それ故に、このスローガンは反トランス本の出版中止が正当な要求であることを示してくれる。

 

資本の運動はG (貨幣)-W(商品)-G'(G+GΔ)の式で表される。商品販売のボイコットはW-G'の運動への介入を意味する。反トランス本の出版中止要求は、差別的な言説を媒介として価値増殖を目論む資本の運動を止める反資本主義運動であるといえる。

 

また、「左翼」たちは反差別運動を「キャンセル・カルチャー」だと批判する。その際に「焚書」や「言論弾圧」といった言葉を濫用して反差別運動を他者化する。

 

他者化の動員によって漁夫の利を得るのは国家である。国家が行為者として遂行するはずの「焚書」や「言論弾圧」を市場内の問題に落とし込むことによって、国家権力による弾圧が免責される。右派勢力による「キャンセル・カルチャー」批判なるものは国家と共謀することによって初めて成立するのだ。

 

そして今回の件で最も重要な点は、一連の騒動がオルグであるという点である。差別扇動の目的はヘイトスピーチの拡散だけにとどまらない。反差別運動を他者化し、さも扇動する側に正当性があるかのような演出をすることによって、右派勢力は新規のシンパを勧誘し取り込むのである。

 

 

 

さて、ブルジョワの権利を擁護する「左翼」たちの問題を整理したところで本題に入る。

 

最近、社会運動に関わり始めた方々はご存知ないかもしれないが、7年ほど前に一橋大学のKODAIRA祭で百田尚樹の講演会が企画されたことがあった。その後、同大学の学生有志らが中心となり、差別禁止ルールの制定を求める運動が展開された。

 

www.buzzfeed.com

 

hit-press.org

 

masterlow.net

 

有志らは、百田が在日朝鮮人等をターゲットにするヘイトスピーチを行っており、講演会の開催が多様なルーツを持つ大学内の人々を危険に晒すと考えた。講演会でヘイトスピーチが起きる可能性は十分に考えられたため、有志らはKODAIRA祭の実行委員会に対し、百田に差別扇動を行わないことを誓約させ、差別禁止ルールを制定するよう求めたのである。

 

今回の反トランス本をめぐる出来事は百田講演会の件と多くの共通点がある。どちらも差別扇動の危険性を憂慮し、差別が再生産される過程を断つことを目的としている。

 

KODAIRA祭の実行委員会が発表した講演会中止の声明もKADOKAWAの声明と似ている。講演会/刊行がもたらす差別扇動の危険性を訴える運動の存在に触れず、中止の明確な理由を示していない。にもかかわらず、差別扇動を擁護する人々は公式声明の内容を無視して中止の責任を反差別運動の側に押し付けている。過剰な想像力が反差別運動を悪魔化する例といえる。

 

ところで、KODAIRA祭の差別禁止ルールの制定を求める運動に関わった人々は今何をしているのだろうか?

筆者は、この時中心的役割を果たした運動家たちを常に監視し続けている。トランス差別が爆発的に広がった現在でさえ、彼らは明確にトランス差別にNOと言わない。

 

反差別という点からすれば、大元はどちらもヘイトスピーチであり、これを止めることは共通の課題であるはずである。しかしながら、彼らはトランス差別について頑なに意見を表明しない。

 

彼らがトランス差別に対してこのまま沈黙を続けることは階級的裏切りであるといってよい。何が差別で何が差別でないか。それを決めるのはいつも活動家の側にある。取り組むべき課題を選別し特定の差別を放置する活動家が「反差別」を掲げることの愚は言うに及ばないだろう。

 

一橋大学で差別禁止ルールの制定を求めた有志は反トランス本の出版中止要求を擁護せよ

震災後の障害をめぐる言説について

 

1月1日以降、能登半島地震の被害状況を毎日追っていた。発生当初から政府の初動対応の拙速さや被災者への対応の劣悪さについても憂いていた。岸田政権の震災対応はあまりにも酷すぎると思う。

 

一方で、震災に関連してある特定の言説が広まっていることもまた懸念している。一つはボランティアをめぐる言説で、以前の大震災とは明らかに変化している。そしてもう一つは障害をめぐる複数の言説に対する懸念である。今回は後者について取り上げたい。

 

#障害者を消さない というハッシュタグ

 

震災後のSNSで「#障害者を消さない」というハッシュタグが流行していた。

 

はじめは奇妙なハッシュタグだと思った。避難所から障害者が排除される制度的・空間的構造の改善を要求するでもなく、障害者の立場からその存在の可視化を訴えるでもないため、ハッシュタグの目的がよくわからなかったからだ。しかもこのハッシュタグを訴える立場はアライ、即ち第三者の立場に基づくものであることがその不可解さを増幅させた。考えてみれば、社会の側が障害をつくりだしておきながら障害者の存在を"消さないようにしよう"という試みはある種のマッチポンプのように思え、アライの傲慢さを感じずにはいられない。

 

それでも地震発生後のSNSでこのハッシュタグが流行し、クィアフェミニストを名乗る人々もこれに便乗している様を見て、よくわからないがおそらくどこかの運動団体が頑張っているのだろうと思いしばらくはただ眺めていた。

 

しかし、よくよく調べてみると出処が運動団体ではなく「ヘラルボニー」という一企業の発案であることが判明した。社会運動の標語ではなかったということにまず驚き、そして左翼が何の警戒心も抱かずに資本の言語を拡散していたことに愕然とした。

 

 

もちろん、改良主義は常に否定されるべきものではない。しかし、例えば、湯浅誠駒崎弘樹のような福祉事業家の実践が福祉の市場化を推進するものとして多くの福祉活動家が批判してきたように、障害や福祉と資本主義は緊張関係にある。今回のハッシュタグの便乗について、左翼は明らかに無警戒すぎたと思う。

 

#能登の障害者に届け プロジェクト

同じく流行したハッシュタグとして「#能登の障害者に届け」がある。

 

 

自治体と連携して被災地の障害者に物資を届けるプロジェクトで、多くの著名人がこれを支援していた。

 

プロジェクトで気になったのは企画・運営者の名前である。「障害攻略課」という一般社団法人で2017年から活動しているそうだ。

shogai-koryaku.com

 

2020年には中能登町で「障害攻略課プロジェクト」を立ち上げ、「ハード面のバリアフリーだけでなく、「心のバリアフリー」を推進する」。「社会にあるいろいろな障害を「攻略士」と呼ばれる方々と一緒に楽しくゲーム感覚で攻略していく世界に類をみないプロジェクト」だそうだ*1

 

ロゴやホームページも洗練されており、今時の取り組みとしては受けるのだろう。しかし、自分はこのプロジェクトにも懸念を持っている。

 

まずはその名前である。障害を「攻略」するとは即ちその世界で成功者になるということであって、社会を変えることとはまた違う。成功者になることは社会改良ですらない。

 

変革の実践をゲームに喩えるのであればデバッグの方が遥かに原義に合っている。それでもデバッグはシステムの変革に踏み込むものではないため、開発や運営への介入が必要となる。デバッグや開発、運営は「攻略」に比べると地味なため印象はよくないかもしれない。しかし、社会で成功者になる攻略の楽しさを追求してディスアビリティを生み出す制度や構造の是正に切り込まないのであれば、健常者にばかり利益が集中する体制はずっと維持されるだろう。

 

もう一つの懸念として、福祉団体が行政の下請として事業を担うことの問題がある。この度の震災対応について言えば、福祉団体の頑張りが国家の責任を回避してしまうというジレンマがある。プロジェクトのメンバーから政府対応への批判もないわけではないが、根本的な改善にはもっと社会運動の介入が必要ではないかと思う。

 

「反優生思想」一辺倒の社会運動

 

震災の話題から少し離れるが、ここ数日、障害者を「よくわからない存在」「健常者に危害を加える存在」として扱い排除しようとする言説がSNSで流行している。

 

既に指摘がみられるように、それは確かにあからさまな優生思想ではある。ただ、筆者としては障害者に対する偏見や差別、排除を直接、優生思想と結びつけることには躊躇がある。

 

というのも、「優生学が照準してきたのは、障害の中でも、そのごく一部分を占めるにすぎない先天的な障害」であったにもかかわらず、優生学を「障害全般や治癒不能な疾患一般に対する敵意と不寛容を如実に示」*2す学問として把握しようとする姿勢への不信感が筆者のなかで大きくなっているからである。

 

これは全くの主観であるが、日本の社会運動は障害をめぐる問題をディスアビリティ理論ではなく反優生思想の観点から捉えようとする傾向が強かったのではないかと考えている。

 

事実、2017年の津久井やまゆり園で起きた障害者殺傷事件では犯行者の思想を優生思想と断じて批判するものが多かった。また、障害を考えるにあたり、社会運動に関わる人たちの間で常に参照されてきたのは小松美彦や市野川容孝ら生命倫理を専門とする学者たちであった。一方で、障害の「社会モデル」を社会変革の構想に援用したり、「できること」「できないこと」という”能力”(ないし「非能力」)を根本から問うような左翼思想家は――立岩真也等の例外を除いて――ほとんどおらず、健常者中心の社会運動では顧みられることが少なかった。

 

このことの持つ意味は極めて重い。小松はミソジニーが強いし、市野川は巧妙に隠しているがアンチ・フェミニズムが根底にある学者だと筆者は思っている(これについてはいずれどこかで書くかもしれない)。彼らの議論が障害者擁護=反優生思想の基本的理解として共有されてきたことの問題は何か。

 

それは優生思想を持つとみなした者を他者化することで自らの正統性を示そうとする権威主義的な姿勢である。このような態度をとる人々はまず、優生思想に基づいたわかりやすい言動を取り上げ、それに反対することで自らを障害者の権利擁護者として位置づける。自分たちの想定に反する主体は虚偽意識を持つ哀れな客体として再び他者化し、やはり自身の正統性を示す。そして「内なる優生思想」というマジックワードを多用することで内省をアピールする。そのような正統化を繰り返すことで左翼としての地位を確立する。

 

しかし、根底にあるミソジニー、アンチ・フェミニズム、障害に対する解像度の低さは更新されない。そもそも障害の問題と優生思想の問題はすべて一致するわけではないのに、反優生思想を掲げることで障害者の権利に賛同していることにしてしまう。こうしたズレが健常者中心の社会運動とフェミニズム、障害者運動との間に溝を作ってきたのではないか。筆者はそのような仮説を立てている。

 

「ともにある」ために

 

障害者を排除するためによく使われるフレーズの一つが「わたしだったら」である。「もし家族に知的障害や自閉の人がいたら」「私の子どもがそうだったら」と勝手に思考実験を展開し障害者を貶める。それは仮想条件である限り、具体的な痛みは存在せずリアリティもないのでこれを一蹴することは簡単だ。

 

しかし、現実に強烈な痛みが存在した時、仮想条件として論じていた時のような軽やかさでは論じ続けられなくなる*3。つまり周囲の人々にとっては排除のための理由が正当化されるのだ。障害者の「暴力」を排除するために「安心・安全」な空間をつくらねばならないという被害者意識がマジョリティのなかに生まれてしまう。

 

だが、ここで重要な論点を加える必要があると三井さよは言う。「暴力」が見られない場は安心で安全な場だと考えられているが、それは誰にとっての安心・安全なのか、と*4

 

筆者は以前の記事で「搾取に反対することは生きることに反対することだ」と述べた*5。人間は誰かを搾取しなければ生きていけない存在であり、だからこそ搾取に自覚的であるべきだ。そして搾取そのものに反対するのではなく、いかなる搾取に反対するべきかを考えるべきなのだ。

 

言い換えると、ただ「暴力」を否定する、などということは、実は私たちには不可能である。すでにもう私たちの社会において「暴力」は偏在している。そこで、ただ「暴力」を否定する、というだけでは、ある特定の「暴力」だけを糾弾するような、非常に恣意的な判断をしていることになる。

(中略)

私たちは、常にさまざまな意味において被害者でありうる。だが同時に、知らないうちにさまざまな意味において加害者でもある。何もしていないつもりでも、実は私たちの手は常に汚れている。

そして、奇妙な言い方になるかもしれないが、「ともにある」ということは、自分が被害者になる可能性を高めると同時に、私たちの手がいかに汚れているかを知ることである。ある種の人たちをどこかに閉じ込めて、それでいいということにしてしまっているときには、見えない/感じられない痛みがある。そのことに気づかされるということでもあるからである。*6

 

筆者の考えは三井の考えに近い。「ともにある」ためには、「わからない」存在を他者化するのではなく、粘り強く向き合い、時にせめぎ合うことが必要なのではないだろうか。

 

 

 

*1:

www.town.nakanoto.ishikawa.jp

*2:市野川容孝「優生思想の系譜」p128(石川准・長瀬修編『障害学への招待』1999年、明石書店に所収)

*3:三井さよ『知的障害・自閉の人たちと「かかわり」の社会学』生活書院、2023年、p412-413

*4:同、p414

*5:

zineyokikoto.hatenablog.com

*6:前掲書、p417-418

「活動家ガー」という時の「活動家」とはいかなる存在を指しているのか

他者化の動員としての「活動家」

 

日本のジャーナリストは本当に腐敗がすさまじいと思う。

 

 

 

これに茶谷さやか氏や貴堂嘉之氏らが「いいね!」をつけているのだから、日本の歴史学者のトランス差別に対する関心もその程度だったのかとあきれるほかない。

 

 

ところで、治部のツイートで使用されている「活動家」という語は「よきマイノリティ」との対比として右翼がしばしば用いるものである。

 

マジョリティは自分達に都合のいい存在として、既存の制度や規範に異議申し立てをせず黙って差別を受け入れるマイノリティという表象を作り上げる。少しでも差別や不正義に抗議するマイノリティは他のマイノリティ集団と区別され他者化される。大多数のトランスジェンダーは"よきマイノリティ"であるのに活動家らが子どもたちを不幸にしているんだ、という陰謀も他者化の例に倣ったものである。

 

「活動家」という揶揄が他者化を伴ったマイノリティへの憎悪の動員であることはこれまで多くの人々によって指摘されてきた。しかし、この揶揄にはもう一つ重要な意味が込められている。それは、賃労働規律に束縛されず市場からも自由な独立した存在として浮上する「活動家」である。

 

労働倫理の形成

 

社会学者であるジグムント・バウマンはその著書のなかで近代の労働倫理について言及している。バウマンによれば、労働倫理とは一つの戒律であり、二つの明示的な前提と、二つの暗黙の信念から構成されている。

 

第一の明示的な前提は、幸福に暮らすために必要な何かを得るために、人は、賃金を受け取るに値すると他の人々からみなされることを行わねばならず、「無料のランチなどなく」、常に「ギブアンドテイク」の関係にあり、後で与えられたいのなら、最初に与える必要があるということである。

 

第二の明示的な前提は、すでに獲得したもので満足してしまって、それ以上を望まず、それ以下で我慢してしまうのは悪いこと(道徳的に有害で愚かなこと)であり、自分の持っているもので満足できそうだと、それ以上手を伸ばそうとしないのは恥ずべき不合理なことであり、また、さらなる労働の活力を得る以外の目的で休息を取るのは不名誉なことだというものである。言い換えると、働くことそれ自体が崇高で賞賛される活動なのである。

 

戒律は次のように続く。自分にもたらされるものが、自分がまだ持っていないものなのか、自分には必要でなさそうなものなのかがわからなくても、人は働き続けるべきである。働くことは善であり、働かないことは悪である。*1

 

一方の暗黙の前提とは、第一に、「大半の人間は労働力を保有しており、それを売ることで生活の糧を得て交換に値するものを得る」ということである。労働こそが人間の正常なあり方であって、働かないことは異常なのだ。そして第二に、「他の人々から承認される価値ある労働は、給与や賃金を要求し、売却できて購入してもらえそうな労働、労働倫理が命じる道徳的価値のある労働だけだ」というものである*2

 

労働倫理は長い時間をかけ、厳格で融通が利かない工場規律を労働者間に浸透させ、人間が維持している習慣や嗜好、欲望の正統性を否定した。その過程で貧窮者や老人、障害者を切り捨てる論理が発達した。労働倫理は、賃金労働によって支えられる生活であれば、どれほど悲惨な生活でも道徳的に超越していると主張する倫理であった*3

 

労働倫理の教義を推進する初期のイギリスにおいて救貧法は重要な役割を果たした。法の推進者は決まりきった労働の不快さを避けようとする"偽装貧民"と「真の貧民」を区別し、真の貧民とされた者が救貧院以外で生計を立てる道を閉ざした*4。また、救貧院の環境を劣悪にすることで貧民に労働を受け入れやすいものにし過酷な労働に耐える強度を高めた。このようにして「働くことは善であり、働かないことは悪」という規律や価値観が強制されていったのである。

 

労働倫理から逸脱する「活動家」

 

さて、このようにして形成された近代の労働倫理が現代の価値観にどのような影響を与えているかをみてみよう。

 

例えば、生活保護バッシングである。賃労働従事者にとって、市場の承認を得た収入こそが唯一「正当な」収入である。そのうえで、生活保護受給者は働かないばかりでなく市場を媒介とせず「不正に」収入を得る存在として映る。受給者は労働倫理から逸脱しているために激しい攻撃の対象となるのである。

 

冒頭の話題に戻ろう。労働倫理を疑わない人々にとって活動家は、本来であれば賃労働に充てられるべき時間と労力を、社会正義という市場外の活動に充てるために労働倫理から逸脱した存在として映る。実際に「活動家」と揶揄される人々が賃労働に従事しているかどうか、どのような生活を送っているのかについてはどうでもよい。揶揄の時点で既に他者化がなされているからである。

 

シスジェンダーはなぜ「特権」を否定するのか

 

筆者は、トランス排除派がシスジェンダーの特権を否定する動機についても労働倫理から説明を試みたい。

 

在日特権」や「同和利権」などの差別語に代表されるように、差別主義者は「特権」をマイノリティが特別な利益を享受するものとして捉えている。このイメージを援用してシスジェンダージェンダー構造に基づく「特権」の存在を否定する。我々シスジェンダーは市場に隷属することで「正当な」権利を得ているのだから、市場の外で「不正に」取引を行い利益を享受するような奴らと一緒にするな、ということだ。

 

トランス排除のための口実としてトイレや風呂の安全性が度々引き合いに出される。現代では共同トイレにしても共同風呂にしても必ず私的所有権を持つ者がいる。共同のトイレや風呂の利用はその私的所有を脅かさない範囲で許されているにすぎない。トイレや風呂へアクセスする”正当な”権利とはブルジョア的権利に他ならない。

 

特権を立場理論の用語として解釈しても同様のことが言える。立場理論において特権とは「与えられた社会的条件が自分にとって有利であったために得られた、あらゆる恩恵」のことを指す*5ブルジョア的権利は所与のものとして自然化されているため、自分がその恩恵に浴していることに気がつかない。それどころか、特権を持たない者については労働倫理ないし私的所有のルールに違反しているがために権利を持たないのだとして構造的不平等の存在を否定する。特権を否定することは資本主義の倫理を内面化しているがゆえに可能な振る舞いなのだ。

 

労働倫理とジェンダー規範

 

ここまでは労働倫理の観点から賃労働規律に従わない存在に対するバッシングについて説明してきた。しかし、セクシストが動員する「トランス活動家」という他者化の背景を理解するには、近年の労働倫理の変容と政治の再編という背景について押さえておく必要があると思う。

 

スチュアート・ホールとアラン・オシアはグラムシの理論を用いて、福祉国家が解体され新自由主義に基づく新たな政治に移行する過程を明らかにした。その際に大きな役割を果たしたのがタブロイド紙リアリティTVの連続番組等の大手メディアだった*6。緊縮財政の下、福祉を縮小させるためにメディアは生活保護を不公平なものとして描き、人々の生活保護受給者に対する共感を低下させた。アンジェラ・マクロビーは、この政治体制の移行過程で女性性の規範が変容、強化されることを指摘した。

 

...イギリス社会が完全にネオリベラルな体制へと変遷した際に鍵となる要素の一つは、恵まれない立場に置かれた女性たちが、母としての義務や実際に母親になりたいという欲求よりも、有給労働と(しばしばもっとも低賃金の)「妊娠阻害雇用」を優先せざるを得ないということだ。仕事をすることは女性の人口層にとって確たる社会的地位を示すものとなる。というのも、彼女たちには働いているという自己定義が必要不可欠でありながら、与えられないことが多いからである。商業的に承認されているだけでなく国家に後援されている女性性は、一世紀以上にわたって白人ミドルクラスに基づく容姿や性質、行動、ものの見方に関する規範を定義づけられ、推奨されてきた。そうした価値観およびそれらが暗に示す社会的地位を遵守できないというのは、事実上、女性になることに失敗しているということだ。*7

 

セクシュアリティアイデンティティが社会的地位を獲得できるかどうか問われている現在、女性の労働倫理は新しい道徳経済を構成している。生活保護を受けることは経済的困難よりもはるかに多くのことを示唆し、女性性の維持に失敗したことや根深い羞恥の感覚も意味している。*8

 

福祉制度の再編と女性性の強化がトランス排除に与える影響は少なくない。その社会でモデルとされる女性性から逸脱することは恥であるため、より一層自身の女性らしさをアピールすることが求められる。一方で、トランスジェンダーの経験はシスジェンダーのそれと違うばかりでなく、雇用や経済状況において深刻な問題を抱えている。さらにメディアもトランスジェンダーの経験を「失敗」であるとシスジェンダーの立場からジャッジする。そして「活動家」は福祉が縮小されている状況でも市場外の活動に勤しんむ者として非難される。「活動家」という他者化は資本主義の問題なのだ。

 

*1:ジグムント・バウマン著、伊藤茂訳、『新しい貧困 労働、消費主義、ニュープア』、青土社、2008年、p14-15

*2:同、p15

*3:同、p28

*4:同、p28-30

*5:キム・ジヘ著、尹怡景訳、『差別はたいてい悪意のない人がする 見えない排除に気づくための10章』、大月書店、2021年、p30

*6:アンジェラ・マクロビー著、田中東子、河野真太郎訳、『フェミニズムレジリエンスの政治 ジェンダー、メディア、そして福祉の終焉』、青土社、2022年、p136、143

*7:同、p136-137

*8:同、p137

搾取に反対することは生きることに反対することだ

「ケアしケアされ生きて」いかなければならないという不当さ

 

善悪の彼岸』に次のような記述がある。

 

侵害・暴力・搾取を互いに抑制し、自己の意志と他人の意志とを同列に置く、――このことは、もしそのための諸条件が与えられているならば(すなわち、彼らの力量や価値規準が実際に相似しており、しかも彼らが同一の団体の内部に共に属しているならば)、或る大雑把な意味では個々人の良俗となりうる。しかしこの原理を更に広く取って、できうべくんば社’会’の’根’本’原’理’としようとするや否や、それは直ちに生の否’定’への意志であり、解体と頽廃の原理であるというその正体を露わにするであろう。ここでは、その理由を徹底的に考えて、すべての感傷的な弱弱しきを斥けなければならない。生そのものは本’質’上’、他者や弱者をわがものにすることであり、侵害することであり、圧服することであり、抑圧・峻酷であり、自らの形式を他に押しつけることであり、摂取することであり、少なくとも、最も穏かに見ても搾取である。(強調部は原文傍点部、下線部筆者)*1

 

いましも到るところで、科学的な仮面すらつけて、「搾取的性格」がなくなるはずの社会の来るべき状態について熱狂的に云々されている。――これは私の耳には、有機的な諸機能を停止した生といったものの発明を約束することのように聞こえる。「搾取」とは頽廃した社会や不完全で原始的な社会に属するものではない。それは有機的な根本的機能として、生あるものの本’質’に属する。それは生の意志そのものにほかならぬ本来の力への意志の一つの帰結である。(同上)*2

 

私(わたし)は常々「よきこと」を為す人々の狡猾さや搾取について問題を提起している。しかし、狡猾さや搾取そのものは問題であると思っていない。なぜならば、狡猾さは生きるための知恵であり、搾取は生きるために不可欠な要素であるからだ。

 

人は生まれながらにして一人では生きていくことができない。この世に生くるものは「ケアしケアされ生きていく」存在である。この事実が不当でなくてなんだろうか。誰かに助けてもらわなければ生きていくことができない。この不当さを認識することから出発しないケア論はすべて無価値であるとすら思う。

 

搾取を自覚することで初めて対等な関係が築かれる

 

先日の記事で私(わたし)は当事者研究発の「依存先を増やす」言説の欺瞞を批判した。
zineyokikoto.hatenablog.com

 

ここで言いたかったことは、搾取だから悪いということではなく、搾取していることを自覚しろということだった。他者を搾取しなければ生き物はその生を全うできない。この理こそが不当である。だから各々はせめて搾取をしている現実に向き合うべきなのだ。そうすることで初めて他者との対等な関係は築かれるとわたしは信じている。

 

イスラエルパレスチナと自己陶酔的な他者否認の思考

 

かつてニーチェは、「搾取」に反対することは、生きることに反対するようなものだと警句を発した。問題なのは、搾取があるかどうかではなく、いかなる種類の搾取がはびこっているかなのだ。植民地化について、同じことがいえる。もっとも一般的にいえば、植民地化することは、特定の空間に移り住み、占拠し、住まうことである。植民地化をこのように広義に理解することは重要であり、なぜならそれにより、植民地化にはそれに代わる別のもの(オルタナティブとルビ)など存在しないという事実を、私たちは突きつけられるからである。地上に存在したければ、私たちは移り住み、占拠し、住まわなければならないのだ。その環境を誰’が’植民地化しそこに移り住むのか、ど’の’よ’う’に’占拠し住まうのか、という問いに向き合うときこそが、根源的(ラディカルとルビ)な再-植民地化。もうひとつの(オルターとルビ)植民地化の可能性が開けるときなのだ。*3(強調部は原文傍点部、下線部筆者)

 

ガッサン・ハージ『オルター・ポリティクス』はその紙幅の大半をパレスチナ問題に割いている。イスラエルパレスチナを通じてハージが批判するのは、自己陶酔的な他者否認の思考である。

 

ハージは「自己陶酔的なナショナリズム」という分析概念を提出しており、それを駆動させるのは自分が帰属するホームとなる空間の創出である。一方で、ホームの創出を妨げるのは、敵対的意志を持った「他者」である。ハージはまた「政治的虐殺」(バールフ・キマーリングの語)という概念を援用しているが、それは他者を客体化させ彼らの政治的意志を否認する。そして他者の政治的意志の否認は他者の非人間化に直結する。まさにこの瞬間、ガザで行われていることは「政治的虐殺」であり「他者の非人間化」「他者の否認」を伴った自己陶酔的なナショナリズムが辿り着く極点なのだ。*4

 

一方で、パレスチナもまた自己陶酔的なナショナリズムを示してきた。それは驚くべきことではない。「なぜなら、このナショナリズムの様式がもっとも強く生起してきたのは、反アンチ植民地主義ナショナリズムの歴史においてだから」である*5

 

それは「私たちは被害者であり続けてきた。(中略)だからこそ私たちにとっての目標とは、私たち自身が再び力を得ることなのだ」と言う諸集団の歴史である。目的は「私たち」の方にあるのだ。

(中略)こういうナショナリズムは、自己陶酔的(ナルシスティックとルビ)だといえる。なぜなら、ときに根源的(ラディカリーとルビ)なところから、それは「[他者と]共に在る(be with)」ことへの願望を失っているからだ。たとえば、あらゆる抑圧や搾取が伴っていたとしても、植民地主義とは、一つの関係性であり、共に在ることのひとつの形式だといえる。悪い関係性ではあっても、関係性は関係性なのだ。そうであるがゆえに、理念的には――そして、多くの人が理想主義的な観点から述べていると私は確信するが――、反(アンチとルビ)植民地主義植民地主義権力による自己陶酔的ナショナリズムにとって、それとは本当に異なるナショナリズムのあり方をもたらす別の選択肢(オルタナティブとルビ)であるならば、植民地化された人々が植民地化した人々を犠牲にして、ただ自己肯定感を得る以上のことを、それはめざすべきなのだ。それは、元植民者との関係性が存在することを受け入れ、その「悪い」関係を「良い」関係へと変えていくことも、めざさなければならない。*6(下線部筆者)

 

イスラエルパレスチナは特にそうだが、難しい政治的問題に際しては友/敵の論理があてはめられ、どれだけ慎重に語ろうとも「どちらの側につくのか」という党派的関心に回収されてしまう。それは不当なことだ。その不当さを斥けるために、ハージの言う「関係論的な要請」*7、すなわち、悪い関係性をどのように良い関係性に変えられるのかが求められる。イスラエルパレスチナについて向き合う者、批判的知識人はこの重要な問いの前に立ち尽くすべきではないだろうか。

 

エンパワリングと自己陶酔

 

長くなるが先に引用した箇所直後の段落を抜粋したい。

 

パレスチナ人は、それとは程遠い状況にある。だが、被害者に「関係性」について考えさせるのではなく、「自らを力づける(エンパワリングとルビ)」ように励ます論理は、植民地主義的な現象には留まらない。それは反(アンチとルビ)レイシズムのあらゆる形式においても見られる。レイシズムの標的となってきた人々は打ちのめされてきたのであり、だから反レイシズムの目標は力づける(エンパワーとルビ)ことなのだ。これはセクシズムと反(同)セクシズムの論理においても見られる。女性たちは打ちのめされてきたから、反セクシズムは彼女たちを力づけることをめざすのだ。力を奪われた者を力づける(エンパワリングとルビ)という概念は、こうした闘争のいたるところで健在であり、遂行されている。だから、まさにこうした闘争が不当にも本質的に自己陶酔的(ナルシスティックとルビ)なやり方で遂行され、被害者が関係的世界から逃避して、自分たち自身のことだけを考えることが正当化されているように感じている状況を、認識すべきときなのだ。*8(下線部筆者)

 

この文章を読んでトランス差別を扇動するセクシストのことを想起せずにはいられなかった。ちょうど性別変更の不妊化要件が違憲と判断されたタイミングなのでなおさらである。反レイシズムは自己陶酔的なエンパワリングを歴史的に行ってきた。そしてそのやり方は決して他者と良い関係を築こうという方向にはいかない。「わたしは面倒なことには二度と関わりたくない。自分で自分を律することができなくなるような場面に、でくわさないようにしよう」といった発想である*9。こうした反レイシズムは、しかしながら、植民地主義的・反植民地主義ナショナリストの自己陶酔と同根だとハージは言う。「悪い関係性をどのようにして良い関係性へと変えられるのか。関係論的に考え、そして自己陶酔的な存在の自己肯定という観点から考えないことが、進むべき道なのである」*10

 

*1:ニーチェ著、木場深定訳『善悪の彼岸岩波文庫、1970年、p267-268

*2:同、p268-269

*3:ガッサン・ハージ著、塩原良和監訳『オルター・ポリティクス』明石書店、2022年、p8-9

*4:同、p249-250、p368-369

*5:同、p251

*6:同、p251-252

*7:同、p262

*8:同、p252

*9:同、p253

*10:同、p262