マルクスの犯罪論

たとえ共産主義者であったとしても、マルクスが犯罪についてまとまった文章を書いていることは、余程の物好きでない限り知られていないことだろう。

 

マルクスの犯罪論は「資本論第4巻」に位置付けられる『剰余価値学説史』のなかに見出される。「余論(生産的労働について)」と題する文章は次のように始まる。

 

哲学者は思想を、詩人は詩を、牧師は説教を、教授は概説書を生産する、等々。犯罪者は犯罪を生産する。このあとのほうの生産部門と社会全体との関連をもっと詳しく考察すれば、多くの偏見を免れるであろう。犯罪者は犯罪を生産するだけでなく、刑法をも、またそれと同時に刑法を講義する教授をも、またさらに、この同じ教授が自分の講義を「商品」として一般市場に投ずるために必要な概説書をも、生産する。これによって国民的富の増加が生ずる。有能な一証人、ロッシャー教授が、概説書の原稿がその著者自身に与えてくれると語っているような、私的な楽しみなどはまったく別としても。*1

 

『剰余価値学説史』における大きな論点の一つは、「生産的労働」と「不生産的労働」に関する議論である。アダム・スミスは、資本のために剰余価値を生産する労働を「生産的」労働と呼び、スミスやリカードは国や労働者の「収入」から支払われる人々を「不生産的労働者」と呼んだ*2。マルクスはスミスの議論を検討しつつ、同時にスミスの見解が俗流化されていく過程を分析し、スミスを批判した経済学者たちに批判を加えている。

 

哲学者や詩人、牧師、教授は不生産的労働者のカテゴリーに区分される。生産的労働と不生産的労働との区分は、ここでは常に労働者の立場からではなく、「貨幣所持者、資本家」の立場から規定されているからである*3。不生産的労働者による生産とは、剰余価値の生産ではなく、人類史的、共同的「富」の生産を意味していると思われる。だから当然、犯罪者は不生産的労働者であり、犯罪者による犯罪は人類にとって「生産的」なのである。

 

犯罪者はさらに、警察および刑事裁判所、刑吏、判事、絞首刑吏、陪審員などの全部を生産する。そして、これらのいろいろな職業部門はすべて、社会的分業のそれだけの数の部類を形成しつつ、人間精神のいろいろに違った諸能力を発展させ、新たな諸欲望とそれらを満たす新たな諸方法とをつくりだす。拷問だけでも、きわめて巧妙な機械的発明のきっかけを与え、その道具の生産にたくさんの尊敬すべき職人たちを従事させた。*4

 

犯罪(原初は狼藉の類であっただろう)が起きれば、その犯罪を規制するために支配者側が行政・司法機関を作り出す。それに対して犯罪者は抵抗し、その抵抗を鎮静させるために新たな法律や執行権力が整備される。人類はそれを繰り返しながらその社会の秩序を形成し社会を発展させてきた。

 

犯罪者は、半ば道徳的な、半ば悲劇的な印象を生産し、こうして公衆の道徳的および審美的感情の動きに、ある「サーヴィス」を提供する。彼は、刑法概説書を生産するだけでなく、刑法典としたがってまた刑法立法者を生産するだけでなく、技術、文学、物語、さらには悲劇をも生産するということは、ミュルナーの『罪』やシラーの 『群盗』ばかりではなく、〔ソフォクレスの〕『エディプス』や〔シェークスピアの〕『リチャード三世』さえもが証明するとおりである。犯罪者は、ブルジョア生活の単調と日常の平安とを破る。それによって彼は、停滞を予防し、また、それなしには競争の刺激さえ鈍くなるにちがいないかの不安な緊張と可動性とを呼び起こす。こうして彼は生産諸力に刺激を与える。犯罪は、過剰人口の一部を労働市場から取り去り、それとともに労働者間の競争を減少させ、それによって最低限以下への労質の低下をある点まで阻止するのであるが、他面、犯罪にたいする闘争が同じ人口中の他の一部を吸収する。このようにして犯罪者は、正しい釣り合いを生みだして「有用な」就業部門の全体の展望を開くところの、かの自然的な「均等化」の一つとして登場するのである。*5

 

極めて独特な主張であるが、これは『資本論』を貫くマルクスの基本姿勢に由来する。彼は『資本論』において、人間の生活がますます非人間的に支配され、人間の意識的コントロールから遠ざかる方向に押しやっている社会的諸形態を描写した。資本の形態すべてがこの転倒した性格を持ち合わせており、それは交換価値の持つ基本的な転倒に起因するのである*6。経済学者はその原理を解き明かそうとするが、彼らの生活もまた疎外されているために、経済学者たちが資本主義社会における疎外された人間存在のあり方を考えるやり方はますます幻想的になってしまう*7。マルクスは幻想に取り憑かれた経済学者たちを批判し、外的な力によって動かされているようにみえる人間の生活や歴史が、実際には資本によって疎外され非人間化されていることを暴露した。「国民経済学の領域外にいる亡霊」*8として扱われてきた犯罪者が社会の生産力の発展に影響を与えてきたことを正当に評価するマルクスの姿勢が、この文章に反映されているのである。

 

犯罪者が生産力の発展に及ぼす影響は詳しく実証することができる。一人の泥棒もいなかったとすれば、いったい錠前が今日のように完成されていたであろうか?一人の鋳貨偽造者もいなかったとすれば、銀行券の製造が現在のように進んだであろうか?商業において詐欺がなかったなら、通常の商業部面に顕微鏡の用途が見いだせたであろうか(バベジを見よ)?応用化学は、尊敬すべき生産熱のおかげであるのと同じように、商品偽造とそれを摘発しようとする努力のおかげではないのか?犯罪は、つねに新しい財産攻撃手段によって、つねに新しい防御手段を生じさせ、こうして、機械の発明にたいするストライキとまったく同様、生産的な作用をする。また、私的犯罪の部面は別としても、いったい、国民的犯罪なしに世界市場は、いや諸国民でさえも、成立したであろうか? また、罪の樹は、アダムの時代以来、同時に知恵の樹ではなかったか?マンデヴィルは、その『蜜蜂物語』(一七〇五年)のなかで、すでに、ありうるすべての種類の職業等々の生産性を証明していたのであり、 総じて、こうした議論全体の傾向を次のように述べていたのである。


「われわれがこの世の中で悪と呼ぶものは、道徳的なものも自然的なものもともに、われわれを社交的な動物たらしめる大原理であり、例外なくすべての職業と仕事との確固たる基礎、生命および支柱であって、そこに、 われわれは、すべての芸術と学問との真の起源を求めなければならない。そして、悪がなくなる瞬間に、社会は、すっかり破壊されないまでも、損なわれるにちがいない。」〔第二版、ロンドン、一七二三年、四二八ページ。〕

もちろん、マンデヴィルは、ただ、ブルジョア社会の俗物的弁護論者よりも無限により大胆であり、またより誠実であっただけである。*9

 

この箇所は『ゲンロンy創刊号 落選論文集』に収録されている拙稿でも引用した。『蜜蜂物語』、すなわちマンデヴィルの『蜂の寓話』は、「私悪すなわち公益」という副題が付けられているように、虚栄心や欺瞞をはじめとする人々の悪徳が公益を生み市民社会の土台をなすと主張した古典である。ヒューマニストとしてのマルクスの顔が垣間見える文章だと思う。

 

注意しなければならないことは、マルクスは犯罪者のような不生産的労働者が「(資本主義的)生産」に貢献していると主張したいわけではないことだ。生産的労働と不生産的労働の区分はあくまで資本家の立場から見たもの、すなわち、資本主義的生産に貢献しているかどうか基準となる。不生産的労働者もまた「生産」しているのだという主張を展開したのはむしろマルクスが批判した”俗流”経済学者たちで、『剰余価値学説史』はそれらの学説を批判した書物である。「余論(生産的労働について)」は『学説史』の補論の一部として最後に加えられている短い文章にすぎない。そのため、マルクスの犯罪論を資本主義的生産様式に関する議論と安易に直接結びつけて論じるべきではないと筆者は思う。

 

一方で、「国民経済学にとっては実存せず」*10、警察や裁判官の前に対してだけ存在する犯罪者の実存が不当に評価されていたことも事実である。それに対して、マルクスが社会の生産力の発展という人類史的視覚から犯罪を論じたのは彼なりの人間讃歌の表現だったのではないだろうか。

 

その後のマルクス主義の歴史において「マルクス主義犯罪学」という分野が誕生するが、犯罪や非行の原因を資本主義的経済構造に求める傾向が強く、マルクスのように犯罪そのものに対する評価を行う理論ではなかった。マルクス主義者はしばしば経済理論や構造の解明に執着して人間の情緒や実存を軽く扱う傾向にある。しかしながら、突発的であれ計画的であれ、犯罪という「罪の樹」が社会に及ぼす影響を共同的「富」として、いわば「知恵の樹」として評価することは、今を生きる生を肯定する一つの試みとなるのではないかと筆者は信じたい。

 

*1:カール・マルクス著、マルクス=エンゲルス全集刊行委員会訳(1974)「余論(生産的労働について)」『剰余価値学説史 『資本論第四巻』』大月書店、p 492

*2:西野勉(2000)「翻訳 シリル・スミス『最良の時代を迎えたマルクス』(ロンドン、プルート出版、1996年)「序文」「第3章 社会化された人間性の観点」(続) 」『高知論叢 : 社会科学 : Kochi University review of social science (68)』高知大学経済学会、p109

*3:マルクス、前掲書、p167-168

*4:同、p492

*5:同、p492-493

*6:西野、前掲論文、p111

*7:マルクスは『資本論』第三部「三位一体的定式」で次のように述べている。

 

「資本—利潤、またはより適切には資本—利子、土地—地代、労働—労賃では、すなわち価値および富一般の諸成分とその諸源泉との関係としてのこの経済的三位一体では、資本主義的生産様式の神秘化、社会的諸関係の物化、物質的生産諸関係とその歴史的社会的規定との直接的合成が完成されている。それは魔法にかけられ転倒され逆立ちした世界であって、そこではムッシュー・ル・カピタルとマダム・ラ・テル〔資本氏と土地夫人〕が社会的な登場人物として、また同時に直接にはただの物として、怪しい振舞をするのである。このようなまちがった外観と欺瞞、このような、富のいろいろな社会的要素の相互間の独立化と骨化、このような、物の人格化と生産関係の物化、このような日常生活の宗教、およそこのようなものを解消させたということは、古典派経済学の大きな功績である。(中略)それにもかかわらず、古典は経済学の代弁者たちの最良のものでさえも、ブルジョア的立場からはやむをえないことながら、自分たちが批判的に解消させた外観の世界にやはりまだ多かれ少なかれとらわれており、したがって、みな多かれ少なかれ不徹底や中途はんぱや解決できない矛盾におちいっている。」(カール・マルクス著、岡崎次郎訳(1972)「三位一体的定式」『マルクス=エンゲルス全集版 資本論(8)』大月書店、p355-356)

 

*8:カール・マルクス著、城塚登、田中吉六訳(1964)『経済学・哲学手稿』岩波文庫、p109

*9:マルクス、『剰余価値学説史』、p493-494

*10:マルクス、『経済学・哲学手稿』、p108

『ゲンロンy落選論文集』に論考が掲載されました

 

『ゲンロンy落選論文集』に論考が掲載されます!

 

今年3月、株式会社ゲンロンが『ゲンロンy』という新しい雑誌を創刊しました。

webgenron.com

 

『ゲンロンy』の創刊にあたり、昨年夏、編集部が新雑誌に載せる投稿論文を募集していたのですが、実は私(わたし)も論文を送っておりました。

webgenron.com

 

結局、本誌には掲載されなかったのですが、編集部のご好意でこの度『ゲンロンy落選論文集』(以下、『落選論文集』)に載せてもらえることになりました。興味のある方は是非お読みください。

 

今回投稿した論文は、以前、当ブログで発案した「ハーパシー」に関する議論です。

zineyokikoto.hatenablog.com

 

このブログは時たまSNSで感想を見かける程度には読まれているようで、筆者としてはありがたいと思っています。ただ、今回の投稿論文はこのブログの議論の原型を残しつつも、内容が大幅に変わっております。今後、「ハーパシー」について言及する際は『落選論文集』所収の拙稿をご参照ください。

 

Kathi Weeksの"The Lumpenproletariat and the Politics of Class"

 

論考が掲載されて良かったと思うことは、Kathi Weeksの"The Lumpenproletariat and the Politics of Class"を(おそらく日本で初めて)紹介できたことです。この論文は2023年5月公開のCRISIS AND CRITIQUE Vol.10に掲載された論文の一つで、PDFをネットで読むことができます。

https://www.crisiscritique.org/storage/app/media/2023-05-18/kathi-weeks.pdf

 

家族廃止論の研究で知られるソフィー・ルイスも過去に自身の講座で取り上げたことがあり、労働倫理の問題に関心のあるフェミニストからも注目されているようです。

 

筆者はこの論文を読み、とても面白い議論だと思いました。と同時に、私(わたし)の「ハーパシー」論はこの内容を踏襲することで完成するという直感がありました。そんな折、投稿論文への応募を友人から勧められ、編集部に原稿を送ったというのが今回の経緯です。

 

編集委員からの評

 

編集部からメールにて『落選論文集』への掲載をご提案いただいた際、編集委員の植田将暉様から次のような評をいただきました。

 

宮本さまの問題意識がきわめてクリアに打ち出されている文章で、とても重要な議論であり、現代的な意義があると思います。結論にも説得力を感じました。

 

植田様をはじめ、編集委員の方々には入稿直前の校正作業にご尽力いただきました。『落選論文集』がまだ手元にないため確認できていませんが、誤字等はほぼ修正されているかと思います。この場をお借りして、編集部のみなさまに感謝を申し上げます。

 

『ゲンロンy』投稿論文

 

『ゲンロンy』に掲載された4つの投稿論文はどれも興味深い内容でした。

 

のしりこさんの論文は、読みやすく主張がはっきりと伝わってくる文章で、編集部が評価対象とした「書き手の実存と大きな問題とがうまく接続された論考」*1に最も当てはまると思います。ここから「共病」という表現が広がっていくことを願います。

 

杉村一馬さんの論文は、口腔表現の系譜を丹念に追いながら説得力のある主張を展開しています。考察の対象となるメディア作品を探すのはたいへんだったのではないかと思うので、それらを調べ上げて一つの論文としてまとめたのは見事でした。

 

四宮駿介さんの論文は、手堅く非常に優れた構成でありながら、絵画や建築の話題から「ティーザー」形式の話題に移る際にK-POP産業のファンの追っかけとしての体験を語りだすなど、ウィットに富んだ表現もあり巧みな筆致で書かれた文章だと思いました。

 

河村賢さんの論文は、筆者が関心を寄せる分野と近いこともあり、個人的には最も惹かれ経験的に頷くところが多くありました。活動のなかで体験する「ヒューモア」が倫理を問い直すきっかけになるようなエピソードを私(わたし)はもっと読みたいと思いました。

 

『落選論文集』の論考はどれも面白そうなので読むのが楽しみです。拙稿も是非ご一読ください。

 

よろしくお願いします。

 

*1:『ゲンロンy』、株式会社ゲンロン、2026年、p320

なぜ反人身取引運動はよりラディカルに”なれない”のか ──高市政権の買春規制を問う

 

 

高市政権の買春規制

 

現在、高市政権の下で買春行為に罰則を設ける規制が検討されている。

 

www.sankei.com

 

現行の売春防止法は売春行為の斡旋や勧誘等に罰則を設けている一方で、児童買春以外の買春行為に規制がないことが問題とされていた。そのため、高市首相による規制指示は議員だけでなくフェミニストからも支持されている。

 

買春規制の法制化を求める声が強くなっている背景には、同時期にタイ国籍の未成年女性が性的サービスを強要されていた事件が報道されたことも影響している。

 

マッサージ店でタイ国籍の少女(12)を働かせたとして、警視庁は6日、東京都調布市飛田給、同店経営者の男(51)を労働基準法違反(最低年齢)容疑で逮捕したと発表した。少女は母親と来日し、男性客に性的サービスをさせられており、同庁は人身取引の被害に遭ったとみている。

www.yomiuri.co.jp

 

この事件を受け一般社団法人「Colabo(コラボ)」が院内集会を開いた。そのなかでColabo理事で大東文化大特任教授の斎藤百合子は、日本人の若い女性たちも性売買を強要されている実態を説明し、人身取引禁止法を包括的に適用すべきだと訴えている。

www.bengo4.com

 

性的サービスの提供と人身取引を結びつける主張はColaboだけでなく、いわゆる「セックスワーク」を否定するフェミニストによって訴えられてきた。しかし、セックスワークを人身取引と同一のものとみなし、「搾取」であるとすることが、女性の人権を擁護するどころか、女性のみならずマイノリティの人権を脅かし否定してしまうこともまた多くのフェミニストによって主張されている。以下、その主張を取り上げ、高市政権による買春規制を支持することの問題を指摘する。

 

パレルモ議定書における「人身取引」の定義

 

人身取引とは何か。初めて公的に示されたのは2000年に締結された「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する人(特に女性及び児童)の取引を防止し、抑止し及び処罰するための議定書 (略称:国際組織犯罪防止条約人身取引議定書)」、通称「パレルモ議定書」と呼ばれる文書においてである。

 

『人身取引』とは,搾取の目的で,暴力その他の形態の強制力による脅迫若しくはその行使,誘拐,詐欺,欺もう,権力の濫用若しくはぜい弱な立場に乗ずること又は他の者を支配下に置く者の同意を得る目的で行われる金銭若しくは利益の授受の手段を用いて,人を獲得し,輸送し,引き渡し,蔵匿し,又は収受すること*1

 

「搾取の目的で」とあるが、パレルモ議定書では搾取を「少なくとも,他の者を売春させて搾取することその他の形態の性的搾取,強制的な労働若しくは役務の提供,奴隷化若しくはこれに類する行為,隷属又は臓器の摘出を含める」*2ものとして説明している。

 

議定書のタイトルに記されているように、パレルモ議定書における人身取引は女性と子どもの性的搾取の防止と撲滅を主眼としている。また、議定書締結以降、男性被害者をも含む労働搾取の防止と撲滅にもスポットが当たり、強制労働の問題が人身取引というアプローチから照射された*3。今日における人身取引は議定書をめぐる国際的な議論をベースとして論じられている。

 

日本の人身取引対策

 

過去の人身取引は、他者を物理的かつ強制的に運搬ないし移動させることが典型とされた。しかし、山田美和によれば、現代において人身取引の潜在的被害者は,物理的に強制的に自らの身体を運ばれるのではなく,高額の賃金などの虚偽の労働条件にだまされたり,脆弱な立場につけこまれたりして,自ら交通手段を利用して移動する場合が多いという*4。そのような過程を経た雇用の目的が搾取であるならば、それが人身取引の構成条件を満たすということだ。

 

日本の人身取引対策は米国の「人身取引報告書(TIP報告書)」に大きな影響を受けている。米国は人身取引を「現代奴隷制」と位置づけて対策をたててきた。米国国務省が毎年発行しているTIP報告書によれば、人身取引の核心は「隷属化 enslavement」にあるとされ、対策の最終目的は「奴隷状態に捉われた人々の解放」であると述べている*5

 

佐々木綾子らは、TIP報告書が日本の人身取引対策に与えた影響は大きく3つあると述べる。「1つ目は、2004年に出された「人身取引対策行動計画」の策定のきっかけを与えたこと、2つ目は、2007年以降に対策が積極的に「日本人女性と子ども」の性的搾取を含むようになったこと、そして3つ目に「技能実習制度」を中心に外国人労働者の労働搾取を指摘することで、結果として技能実習制度の改定および廃止への動きを後押ししたということが挙げられる」*6

 

2001年から発行されている米国のTIP報告書は、発行当初より、日本人男性による海外での児童買春目的のツアーの問題や「援助交際」などを含め、日本が子どもの性的搾取に関する問題に真剣に取り組んでいないことを批判していた*7。これに対し、2009年に犯罪対策閣僚会議によって策定された「人身取引対策行動計画2009」では、「児童に対する性的搾取について、『ゼロ・トレランス(不寛容)』の観点から対処する」(犯罪対策閣僚会議 2009 6)ことが明記されるようになる*8

 

日本の人身取引対策の課題として挙げられるものは、「JKビジネス」や「パパ活」と称される「子どもの性的搾取」と、外国人技能実習制度である。近年の日本の人身売買禁止ネットワーク(JNATIP)は、TIP報告書の批判に呼応するように、「JKビジネス」や「AV出演被害」を人身取引とみなす語りを取り入れるようになった。佐々木らは、日本の市民活動における「人身取引」の語りは、日本国内の日本人女性の性的搾取と技能実習生の労働搾取を中心とし、そうした課題を支援対象としてきた団体が中心となって啓発活動を再開することとなったと述べている*9

 

朝日新聞の買春規制キャンペーン

 

高市政権が進める買春規制は近年の人身取引対策の一環とみなすことができる。そして、大手メディアもまた高市の政策に呼応し買春規制キャンペーンを大々的に展開している。

 

朝日新聞の連載「買春は暴力 ―フランス 性売買の現場から―」は、高市が買春規制の検討をし始めてすぐ、各記事が立て続けに配信された。これはフランスの買春処罰法を、女性への暴力に対する「成功例」として紹介し、高市政権の買春規制実現を後押しするものである。

www.asahi.com

 

また、2025年11月8日、買春処罰法制定に携わったモード・オリビエが来日し、大妻女子大学で開かれたシンポジウムに登壇している*10朝日新聞は彼女のインタビュー記事を掲載し、セックスワークに対するオリビエの見解を紹介している。

www.asahi.com

 

セックスワーク(性的労働)という言葉は、性搾取の現実を隠蔽(いんぺい)するためのプロパガンダ用語だ」

 

「性売買は経済的な理由で強制され、隷属状態におかれる行為。労働ではありえない」

 

迅速かつ大々的な朝日新聞のキャンペーンは、高市政権による買春規制の実現がまるでフェミニストの悲願であるかのような印象を与える。決して少数ではないフェミニストの支持がその印象を強く裏づける。

 

しかし、現政権の政策は本当に女性に対する暴力をなくす取り組みとなるのだろうか。極右政権とフェミニストの利害が一致することに問題はないのだろうか。

 

おそらく問題は「人身取引」という議題設定と「搾取」の解釈にある。ここで筆者は、反人身取引運動に対する批判と「搾取」の再解釈を通して、買春規制をめぐる問題を深掘りしたい。

 

マルクス主義の「搾取」概念

 

搾取とは資本主義の生命線である

 

先に紹介したパレルモ議定書の「搾取」は、定義されていないうえに例示も必要最小限にとどまっている。そのため、各国や各自治体、各運動体によって人身取引や搾取の解釈が異なり、それぞれの解釈の下で取り組みが進められているのが現状だ。

 

この「搾取」の解釈が人身取引をめぐる議論を混乱させている。オリビエの発言がそのことを端的に示している。オリビエは人身取引とセックスワークを同一のものとみなし、セックスワークという言葉は性搾取を隠蔽するためのプロパガンダであるとまで言っている。

 

このような「搾取」の解釈は恣意的かつ不正確であるばかりか、女性に対する暴力を根絶するための取り組みを誤った方向に進めてしまう危険がある。このことを理解するための手引きとなるのがマルクス主義における「搾取」の理解である。アントニオ・ネグリとの共著『帝国』『マルチチュード』で知られるマイケル・ハートと、マルクス主義フェミニストの理論家であるキャシー・ウィークスは、パレルモ議定書の批判的検討を進めるにあたり、マルクスの搾取概念を次のように整理する。

https://www.opendemocracy.net/en/beyond-trafficking-and-slavery/exploitation-rule-not-exception/

 

第一に、搾取は資本主義社会において常態化している。搾取とは腐敗の一形態ではなく、資本主義経済システムの生命線である。労働者は生きるために労働力を売るしかなく、働くことで賃金やその他の報酬として受け取る以上の価値を生み出す(これを剰余価値という)。

 

資本家は資本主義経済システムのルールに従い他者を搾取しているに過ぎない。つまり、人々が搾取されるのは、経営者が違法行為や不道徳な行為をしているからではなく、経済システムのなかで搾取が内在されているからである。搾取とは資本主義の「適切な」機能を構成するものであり、例外的な逸脱でも個人的な犯罪計画でもないのである。

 

いかに優れた雇用契約であっても、労働者は資本家の指揮命令下にあり、服従関係が生み出される。議定書が例に挙げている犯罪的搾取と、資本主義社会における通常の経済活動との間に線引きをすることは、実はそれほど自明なことではない。資本主義社会で労働がどのように搾取されているかを完全に把握するためには、あらゆる階層構造を把握する広範な視野が必要となる。議定書は個々の労働者の状況やそれぞれの支配関係の差異を全く認識しておらず、ましてやその対処方法を検討することもない。

 

強制労働 ──人身取引は例外ではなくシステムそのものである

 

ハート=ウィークスは続ける。人身取引の定義は、既に述べた搾取関係への勧誘方法にも焦点を当てている。しかし、ここでも、例外的な行為として提示されているものが、実は構造的な条件であることが判明する。

 

議定書の文言では、犯罪的な勧誘方法のリストは、暴力や詐欺の使用をはるかに超えて、「脆弱な立場の濫用」という驚くほど曖昧な概念まで含まれている。しかし、そもそも脆弱性とは一般的な社会的条件であるとハート=ウィークスは言う。実際、議定書の曖昧な文言の運用・体系化を試みるなかで、ILO欧州委員会が「脆弱な立場の濫用による勧誘の指標リスト」に「経済的理由」を含めていることは、示唆に富むものである。

 

マルクスは再び、この問題をより明確に理解させてくれる。経済的脆弱性は、人々を所得と利潤を生み出す仕事に駆り立てる例外的で不当な手段ではなく、資本主義が労働を強制し、規律づける正常かつ必要な手段なのだ。労働者がこれらの仕事を受け入れるのは、自らの労働力を所有階級に売り渡す以外に選択肢がないからだ。そのため、たとえ奴隷ではなく賃金労働者であったとしても、彼らの労働が自由に提供されたものだとは到底言い難い。「だから彼の労働は、自発的なものではなくて強いられたものであり、強制労働である」*11。言い換えれば、経済的脆弱性は、労働に駆り出された労働者の正常な状態である。資本は労働者を搾取する必要があり、ほとんどの労働者は搾取される以外に選択肢がない。

 

人身取引への勧誘の例外的な性質を明確に定義するための様々な努力にもかかわらず、資本主義社会における賃労働と犯罪行為の境界線は絶えず崩れている。パレルモ議定書が例外的なものとして描写しているものは、結局はシステムそのものの状況を描写したものに過ぎない。

 

セックスワークと性的人身取引の混同 ──廃止論者の戦略は移民支援を犯罪化する

 

日常的な資本主義による搾取と、”例外的な”犯罪的搾取との間にある境界は、セックスワークと人身取引をめぐる議論では特に曖昧になる。

 

性的人身取引とセックスワークの混同は、過激な売春廃止論者団体の主要な戦略である。例えば、女性人身売買反対連合(The Coalition Against Trafficking in Women(CATW))*12は、「売春の搾取と人身取引は切り離せない」と主張し、あらゆる形態の売春を性的暴力や虐待と同一視している。パレルモ議定書と、それをモデルとした各国の人身取引対策は、セックスワーカーに対する取り締まりと訴追をより広範に活性化させる手段として機能してきた。

 

人身取引法の適用範囲が広範であるが故に、同法は移民や移民支援ネットワークに対する弾圧のために利用されている。法律があらゆるセックスワークを人身取引とみなす傾向があるように、移民支援も「人身取引」として訴追の対象とされるようになったのだ。その結果、地中海で遭難した移民を救助する活動をはじめとする人道支援プロジェクトが犯罪化され、人身取引防止法の下で繰り返し訴追されてきた。

 

議定書の起草に大きな影響力を持ったフェミニストの売春廃止論者たちが、マルクスの議論のある側面を、歪曲され限定的なかたちではあるものの、実際に繰り返しているのは皮肉なことだ。彼女らもまた、セックスワークと性的人身取引の区別を拒絶している。もしかしたら、「すべてのセックスワークは搾取である」という枠組みを「すべての資本主義的労働は搾取である」へと単純に拡大すればいいのではないか、と考える人もいるかもしれない。

 

しかし、売春廃止論者たちは、セックスワークが他の労働と同じであるという考えを受け入れることができない。廃止論者の非難が根本的に道徳的な根拠に基づいていることもあり、セックスワークは例外的なものであり続ける必要がある。そしてその結果、彼女らが好む解決策は、セックスワークを破壊するために性的サービスの消費者を犯罪者として扱う北欧モデルのような刑事訴追を中心に展開せざるを得ない。

 

以上がハート=ウィークスの主張である。

 

「被害者」とは労働をしない存在である

 

オリビエの主張をもう一度検討してみよう。

 

労働という言葉を使うことで搾取が隠蔽される、これは間違いである。正しくは「搾取」という言葉を使うことで「労働」が隠蔽されるのである*13。オリビエの主張こそ、廃止論者がセックスワークを否定するためのプロパガンダである。

 

セックスワークという語を嫌うフェミニストは、搾取という語を資本主義社会において例外的な状態を意味するものとして用いる。これらフェミニストの最大の関心は「被害」の有無にある。セックスワークという語を嫌うフェミニストが「労働」より「搾取」という語を好むのは、それが搾取者被搾取者というわかりやすい二項対立を提示してくれるからである。

 

オリビエに限らず、日本の反人身取引運動もまたこの種の二項対立に陥ってきた。

 

このように変化してきた反人身取引をめぐる日本の市民活動の語りは、国際社会における「現代奴隷制」の廃止に向けた社会運動と呼応しながら「典型例」をつくりだすようになっていく。国際組織犯罪としての「人身取引」の語りは、国家の安全や秩序維持のために加害者を取り締まり、さらなる被害を予防するために被害者を保護支援するという流れのなかで構築されるが、「現代奴隷制」の語りは、被害者とみなされるカテゴリーに属する人々の側から「奴隷の解放」や奴隷的な労働形態の廃絶を訴えるものとして構築される。このような市民活動や社会運動は、二項対立的に立ち上がった舞台のうえで―たとえば、先進国と途上国、送出国と受入国、男性と女性、被害者と加害者、雇用主と被雇用者、支援者と被支援者など―女性、被害者、被雇用者、支援者、受入国、先進国の立場から人身取引を啓発し、それらの間にある非対称な関係性や構造的な抑圧に着目しつつ脆弱な立場に置かれた人々の側に立って権利を擁護し、不公正で不平等な社会を変革しようとその力を発揮してきた。
 しかしながら、そうした市民活動の在り方は、時に「被害者」としてカテゴライズされた人々へのステレオタイプを強化し、「かわいそうな被害者」像をつくりだしてしまうことによって当事者の主観的認識とはずれた議論をしてしまったり、かえって社会の無関心やスティグマ化を助長し、他者化に加担してしまったりすることもあった(青山 2007、髙谷 2018)。*14

 

支援者が性的人身取引の被害者像を固定化することは、不適切な被害者支援を実施してしまうことにつながる。メリッサ・ジラ・グラントの『職業は売春婦』は、セックスワークに関して日本語で読める最良の文献の一つである。同書でグラントは売春廃止論者のフェミニストセックスワーカーに対して向ける差別的な態度を厳しく批判している。

 

セックスワーカーをもの言わぬ象徴として、あるいは政策の是非を問う点検用の道具として、彼女らに政策やフェミニストを支持する役割をあてがうのが反売春陣営のやり方で、彼らはそうやってセックスワーカーが置かれている状況を厳しく非難しながら、一方でセックスワーカーの売春における役割が根本的に受け身だとしつつそれを放置している。両者の乖離がもっともひどくなるのは、セックスワーカーが討論会で演壇に立っても雀の涙ほどしか謝礼が支払われないときだ。*15

 

セックスワークで経験するのは暴力ばかりではない。すべてのセックスワークを暴力だけに結びつけるのは、ほかはいっさいありえないと否定することだ。そうすることで、セックスワーカーの話に耳を傾ける必要はなくなる。セックスワーカーの運命はわかりきっているのだから、あとは読者の先入観を裏づける証拠になってくれればそれでよいというわけだ。売春婦救済産業で働く人々にとって、セックスワーカーは自分の物語のなかで本当の自分ではないおさだまりの登場人物を演じるだけの存在なのである。*16

 

「不法移民」撲滅のための反性的人身取引運動

 

人身取引対策は容易に外国人犯罪の議論と結び付けられる。高市による買春規制指示に先立ち、立憲民主党塩村文夏は「日本人女性と日本の尊厳を守る」ために外国人による買春を規制するよう高市内閣に求めた。

www.sankei.com

 

性的人身取引対策が移民支援ネットワークの弾圧に利用されることはハート=ウィークスの議論で参照した。女性の安全という一点のみを求める取り組みが国家の暴力を容認し人権を抑圧する。社会学者のエリザベス・バーンスタインが「監獄フェミニズム」と呼ぶ一部のフェミニズムの問題である。

 

一部のフェミニズムには、女性に対する暴力の課題に取り組む際、知らず知らずのうちに自分たちがとる行動の種類によって、国家の弾圧的な権力の拡大や社会の犯罪化に加担してしまっているものもある。国家主導の犯罪化推進戦略を提唱し、治安維持、起訴、そして投獄の増加、さらには反売春、反人身売買のための法律制定を求める場合の事例だ(Bumiller 2008)。エリザベス・バーンスタインは、民族誌的な(エスノグラフィックとルビ)フィールドワークに依拠し、現代のフェミニストの反人身売買運動において、「監獄フェミニズム(carceral feminism)」と軍事化された人道主義との間に共謀があると論じている(Bernstein 2010)。*17

 

作家であり政策専門家、活動家のグレイシー・メイ・ブラッドリーと、移動性の統治と人種化プロセスを研究するルーク・デ・ノローニャは、「不法移民」撲滅の名の下に反人身取引対策が行われていることを鋭く批判している。

 

「「人身取引」や「現代奴隷制」対策を謳う宣言や政策が世界的に盛んになっているが、それらは「不法移民」撲滅のためのますます暴力的で無慈悲かつ地球規模になりつつある様々な措置と手を携えながら発展してきた。「反人身取引」活動の核心に位置づいているのは監禁的かつ処罰的な論理である。」*18

 

「問題なのは、人身取引と奴隷制の撲滅という名のもとに国境が新たな正当性を獲得することで、助け出す相手とされている当の人々に害が及ぶということだ。たとえば入管当局の摘発が「人身取引に遭い」「奴隷化されて」いる人々が働いたり暮らしたりしていると疑われる場所を狙うとき、当局が発見するのはほとんど常に犠牲者よりも入管法違反者なのである。このように救出の任務は執行機関による一掃作戦に酷似している。さらに人身取引や奴隷制の取り締まりにおける道理として個々の暴力的な男性──あの浅黒い肌の人身取引斡旋者というお決まりの登場人物──は送還されねばならない。しかし監獄廃絶論者が示してきたとおり、親密な関係下で起こるジェンダー化された暴力の圧倒的大多数は国家にとって見えないか、見えたとしても真剣に扱われることさえない。男性が女性を虐待してきた場合でさえ、その男たちを収監し送還することは効果的な救済をもたらさない。それはただ問題を消し去り、その処理を外部に委託するだけだ──送還の場合であれば別の国家の領土へと。」*19

 

「日本人女性と日本の尊厳を守る」という塩村の発言は、女性に対する安全保障の要求と、ナショナリズムレイシズムの扇動が結びついていることを端的に示している。国家主導の買春規制は、外国人に対する国家の取り締まりを強化し人種差別を扇動する結果しかもたらさない*20

 

反人身取引運動は「植民地時代の遺産」である

 

The National Survivor Network (NSN)は、人身取引のサバイバーたち自身が主導する、全米規模のリーダーシップ・ネットワークである。そのプログラム・マネージャーであるクリス・アッシュと、アッシュとともにCollective Threads Initiative(CTI)*21を共同で創設したフェミニストのソフィー・オティエンデは、「なぜ反人身取引はよりラディカルになれないのか?」と題する記事を発表し、反人身取引運動が抱える問題を指摘している。

https://www.opendemocracy.net/en/beyond-trafficking-and-slavery/why-cant-anti-trafficking-be-more-radical/

 

アッシュ=オティエンデは、反人身取引運動は「植民地時代の遺産」であり、「開発援助、そして慈善活動の産物」であり、その「従順な子」であると喝破する。

 

社会運動に対する資金提供は多くの場合、特定の活動の遂行のみならず、特定の人々と協力することを条件としている。そのため、現在の資金提供構造は運動団体の間の競争を助長する結果となっている。

 

クリス・アッシュはレイプ・家庭内暴力被害者支援センターへの技術支援提供者として活動していた時期、人身取引組織から「人身取引被害者支援サービス提供のための研修」を提案された施設から頻繁に連絡を受けていた。こうした研修の多くは、セックスワーカーの自律性を尊重することを妨げ、人身取引被害者が受けるサービスについて他の被害者よりも選択肢を制限することを推奨し、非性的な形態の労働における人身取引のなかで起こる親密な暴力の役割を完全に無視していた。

 

アッシュ=オティエンデは、人身取引の対策団体が他の運動のパートナーと円卓会議を開催するのを目にしてきた。運動の理解を得るためには、主流の人身取引対策の枠組みに賛同するパートナーのみを招待するか、たとえ多様なパートナーを招待したとしても既存の人身取引対策の妥当性に疑問を投げかける議論を控えるかのいずれかだったという。結局のところ、ほとんどの協力は、支援者に人身取引対策の枠組みを理解し受け入れてもらうことを目的としており、人身取引対策が自らの欠陥を検証するものではないのである。

 

We’ve seen language co-opted without integration of frameworks throughout the anti-trafficking sector. Organisations tackle ‘forced labour’ without addressing prison labour, which is recognised as exploitation by other movements and included in some global estimates of modern slavery. Organisations decry ‘exploitation’ without supporting unionisation or labour rights movements. Organisations talk of ‘resistance’, but just enough to keep up appearances and never consider what true liberation means; of ‘equity’, only as long as the current administration supports it; of ‘cross-movement’ to refer to the occasional roundtable; of ‘movement-building’ when they really mean networking.

 

We can’t get other movements to take us seriously like this.

 

訳:人身取引対策分野全体で、枠組みの統合なしに言語が流用される事例を私たちは目にしてきた。組織は「強制労働」に取り組む一方で、他の運動が搾取と認識し現代奴隷制の世界的な推計にも含まれる囚人労働には触れない。組織は「搾取」を非難しながら、労働組合結成や労働者の権利を求める運動を支援しない。組織は「抵抗」について語るが、それは見せかけを保つのに十分な程度で、真の解放が何を意味するか決して考慮しない。「公平性」については、現政権が支持する限りにおいてのみ言及する。「運動横断的」とは、時折開かれる円卓会議を指す。「運動構築」とは、実際にはネットワーク構築を意味する。

 

このように、私たちは他の運動に真剣に受け止めてもらうことができない。

 

アッシュ=オティエンデは次のように述べる。植民地時代の遺産である反人身取引運動は、人身取引という用語が普及するはるか以前から様々な抑圧と闘ってきた数多くの社会運動を脱政治化するだろう、と。

 

結論:国家主導の買春規制ではなく、セックスワーカーのエンパワーメントと組織化を

 

反人身取引運動が抱える課題は、高市政権主導で進められている買春規制の問題にも当てはまる。女性の安全保障を優先する政策が、国家の求める女性像に当てはまらない女性を排除するだけでなく、人種差別的な制度を強化してしまう。また、セックスワークと性的人身取引を同一のものとみなし、セックスワークを資本主義社会における労働とは異なる例外的なものとして描写することは、資本主義社会があらゆる搾取によって成り立っていることを見過ごすことになる。

 

ハート=ウィークスは、セックスワーカーの救済や訴追ではなく、エンパワーメントと組織化が適切な戦略であると述べる*22*23。また、ウィークスは、現代のセックスワークを他の労働から切り離して考える分析はすべて疑問視する必要があると主張したうえで、セックスワークの政治に対するアプローチは、不安定な労働や自律性を求めて闘う労働者の間で、正義を求める他の闘争との幅広い連携を築くべきだと述べる。*24

 

ブラッドリー=ノローニャも、移民やセックスワーカーを支援する際は「犠牲者」として扱うのではなくエンパワーメントが必要だと訴える。

 

「現代奴隷制」と「人身取引」の言語および政策は移民制限主義的な国家にとてもよく役立っているようであるから、それらを手助けし、そうすることで正当化してしまうことは、可能な限り常に回避する必要がある。そのかわりに、より一般的な権利要求をおこなっていくべきだ。その方法は、不安定な法的地位で暮らし、働いている移民たちが、多くの場合は「労働者」として権利を主張することによって示してくれている。セックス・ワーカーの抗議行動が与えてくれた洞察は、より広範な移民の闘争一般に適用することができる。すなわち、就労の犯罪化を終わらせ、警察と入管の摘発を止めることだ。これらの即時的で単純な要求は、ラディカルでありながらも、移民が被る脆弱さからの保護への最も見込みある約束を与え、犯罪化され非合法化されたあらゆる人々の自由を拡大するものだ。*25

 

ブラッドリー=ノローニャは言う。「労働者」や「犠牲者」というカテゴリーから排除された人々を──ブラッドリー=ノローニャはクィアセックスワーカーだけでなく「ギャングの一味」さえも加えている──中心に据えてこそ、「私たちは最善のやり方でラディカルな諸要求を発展させ、そして廃絶主義的改良とはどんなものであるかを見定めることができるのだ。」*26

 

*1:山田美和編(2019)『「人身取引」問題の学際的研究 ――法学・経済学・国際関係の観点から――』アジア経済研究所、P153

*2:同。

*3:同、p34

*4:同、p39

*5:佐々木綾子・大野聖良・島﨑裕子(2025)「日本における「人身取引」問題の中心と周縁 国際的議論と市民活動の語りから」『千葉大学国際教養学研究』、p61

*6:同、p62

*7:同。

*8:同。

*9:同、p70

*10:このシンポジウムは中里見博を代表とする科研費基盤研究(B)「北欧モデル(買春処罰国)における性売買女性支援の包括的研究」と大妻女子大学文学部李美淑研究室とが共同で主催している。

wan.or.jp

中里見はセックスワークを労働と認めない立場を取るジェンダー法学者で、2024年にはトランス排除的な内容で批判を受けたキャスリーン・ストックの『マテリアル・ガールズ』(慶應義塾大学出版会)を翻訳、出版した。

*11:カール・マルクス著、城塚登、田中吉六訳(1964)『経済学・哲学草稿』岩波文庫、p92

*12:CATWのメンバーには、悪名高いフェミニスト組織であるWomen's Declaration International(WDI)の設立に関わった者も少なくない。WDIはラディカル・フェミニズムレズビアン分離主義に基づくトランス排除的組織であると同時に、セックスワーカー主導の非犯罪化運動に反対する反ポルノ、反人身取引運動団体である。CATWの活動には、ジャニス・レイモンド、キャスリン・バリー、シーラ・ジェフリーズ(オーストラリア女性人身売買反対連合(CATWA)を創設)ら多くのトランス排除的フェミニストが関与していた。cf.

healthliberationnow.com

*13:「性搾取」という言葉の批判については以前書いた。

zineyokikoto.hatenablog.com

*14:佐々木ほか、前掲論文、p70

*15:メリッサ・ジラ・グラント著、桃井緑美子訳(2015)『職業は売春婦』青土社、p57

*16:同、p136

*17:パトリシア・ヒル・コリンズ、スルマ・ビルゲ著、下地ローレンス吉孝監訳、小原理乃訳(2021)『インターセクショナリティ』人文書院、p232-233

*18:グレイシー・メイ・ブラッドリー、ルーク・デ・ノローニャ著、梁英聖、柏崎正憲訳(2025)『国境廃絶論』、岩波書店、p57

*19:同、p57-58

*20:「女性の安全」の要求と国家の安全保障の強化に疑問を持たない日本のフェミニストの問題が露呈する分野の一つが米軍基地の問題だろう。藤目ゆきは、売春防止法体制と日米軍事同盟との親和性を指摘し、米軍の性政策に日本のフェミニストが関与してきたことを批判した(藤目ゆき(2007)「日本のフェミニズムと性売買問題 ──軍事主義と売春禁止主義の結合」『女性・戦争・人権』vol.8、行路社、p130-148)。

*21:コレクティブ・スレッド・イニシアチブ(CTI)は、搾取の防止と人間の尊厳の確保に焦点を当て、世界中のコミュニティに適切なリソースを提供するイニシアチブである。CTIは、人身取引と搾取が労働者の権利、ジェンダー平等、気候変動と相互に関連していることを認識し、様々な運動にまたがるアプローチを採用する。汎アフリカ、クィアフェミニズムの視点を通して、CTIは、実体験に基づくリーダーシップ、尊厳ある仕事、そして公平な制度を重視し、持続可能な解決策の開発に取り組んでいる。

collectivethreads.org

*22:https://www.opendemocracy.net/en/beyond-trafficking-and-slavery/exploitation-rule-not-exception/

*23:セックスワーカーの権利運動の重要性を訴えたものとしては、ジュノ・マックとモリー・スミスのRevolting Prostitutesがよく知られている。

Revolting Prostituteswww.versobooks.com

著者の一人であるマックはTEDTALKにも出演しており、オンラインでその内容を観ることができる。

www.ted.com

また、Porn Workの著者のヘザー・バーグもセックスワーカーの労働運動の重要性を強調しており、セックスワーカーの闘争と経験が反資本主義的な闘争にとって不可欠であることを自身の研究で示している。

uncpress.org

*24:https://www.opendemocracy.net/en/beyond-trafficking-and-slavery/sex-work-utopia-and-what-we-can-learn-from-prison-abolitionism/

*25:ブラッドリー=ノローニャ、前掲書、P59

*26:同、P60

高市政権発足について所感

 

 

日本は幸福(しあわせ)か

 

先日、自民党高市早苗が第104代内閣総理大臣に就任した。女性初の首相が誕生したということで様々な評価があふれているが、個人的には労働政策に関する動向が気になっている。というのも、高市自民党総裁に就任した際の演説で以下の発言をしたからである。

 

自民党の新しい時代を刻んだ。うれしいよりもこれからが大変だ。多くの方の不安を希望に変える党にする。

 

(党再生には)全世代総力結集で頑張らないと立て直せない。全員に馬車馬のように働いてもらう。私自身もワークライフバランスという言葉を捨てる。働いて、働いて、働いていく。党を立て直すため、それぞれの専門分野で仕事をするよう心からお願いする。

www.nikkei.com

 

この発言を受けて真っ先に思ったのは、過労死がさらに増えるだろうということだった。毎年11月は「過労死等防止啓発月間」とされているのだが、それを前にしたタイミングで影響力のある政治家が過労死を促進するような働き方を煽ることに危機感を覚えた。

 

過労死は実際に増えているのか。結論から言えば増加傾向にあるといえるだろう。

 

まず労働時間について。「令和6年版 過労死等防止対策白書」によれば、日本の労働者1人あたりの年間総実労働時間は、長期的には緩やかに減少していたものの、2021年度から概ね横ばいとなり、2023年度は前年より3時間の増加となった*1。また、一般労働者とパートタイム労働者別にみると、一般労働者の総実労働時間は2018年度から2000時間を下回り減少傾向にあったが、2020年から微増傾向にある。一方、パートタイム労働者は2019年度から2000時間を下回り、2020年度以降は横ばいとなる*2

『令和6年版 過労死等防止対策白書』より「年間総実労働時間の推移」(パートタイム労働者を含む)

『令和6年版 過労死等防止対策白書』より「年間総実労働時間の推移」(パートタイム労働者を含む)

www.mhlw.go.jp

 

次に労災補償の状況について。脳・心臓疾患に係る労災請求件数は、2023年度は1023件と前年より220件も増加した。そして2023年度の労災支給決定(認定)件数は216件で、これは2年連続の増加、前年度より22件の増加となっている*3。あくまで申請件数をベースとした統計なので、申請に至らなかったケースや、申請しても証拠不全等で認定に至らなかった暗数を含めれば、過労死の疑いがある件数はもっと多いだろう。

『令和6年版 過労死等防止対策白書』より「脳・心臓疾患の労災請求件数及び業務災害に係る労災支給決定(認定)件数の推移」

『令和6年版 過労死等防止対策白書』より「脳・心臓疾患の労災請求件数及び業務災害に係る労災支給決定(認定)件数の推移」

 

1人あたりの年間総実労働時間は中長期的に減少しているが、これはパートタイム労働者比率の増加傾向が継続しているためとも考えられる*4。そうなると危惧すべきは一般労働者の過重負担増である。パンデミック以降、労働時間が再び増加する揺り戻しが起きているが、人手不足の職場も少なくないため労働者の負担は増える一方だ。こうした状況を鑑みれば、労働時間規制緩和に意欲を示す高市の労働政策は警戒せざるをえない*5

 

この間、過労死遺族の手記を集めた『日本は幸福(しあわせ)か』を読み直した。過労死とは企業による殺人である。まさにワークライフバランスを捨てたような環境で多くの労働者が企業に殺されてきたのだ。政治家の役割とは、過重な労働を規制し人権を尊重する働き方を推進することにあるはずだ。それがわからないなら、まずは過労死遺族の言葉に向き合うべきだろう。

www.hanmoto.com

 

 

石破談話

 

高市の総裁就任から間も無く、石破首相(当時)が「戦後80年によせて」という内閣総理大臣所感を発表した。内容は首相官邸の公式HPに掲載されている。

www.kantei.go.jp

 

戦後80年談話では排外主義やメディアの問題について踏み込んだ内容も含まれていた。しかし、談話が想定して呼びかけている対象の範囲は自民党党内、ないし国内であり、その意味で全体的に「内向き」だった。そのため、アジア諸地域に対する侵略や植民地支配に対する言及がなく、被支配地域だけでなく国内にも多くの対象者がいる戦後補償の問題についてもふれていなかった。天皇制の下での帝国主義的侵略に対する反省や実効支配を行った諸外国、諸地域に対する謝罪がなかったのは問題である。石破は軍事や歴史に造詣が深いという評をよく聞くが、今回の談話は悪くいうと軍事オタクで日本史マニアの戦争論を聞かされている感じがした。そういう意味でも「教科書的」な戦前観を踏襲した内容という印象を受けた。

 

今年は治安維持法制定から100年の節目である。個人的にその歴史的タイミングは重要だと考えているが、石破も流石に保守政治家だからなのか、反政府、反帝国主義運動にはふれず、代わりに政治家や学者、ジャーナリストらエリートの引用に終始した。また、国内向けの談話でありながら沖縄を捨て石にした歴史は出てこず、旧きよき保守派の「良識」なるものの底がみえた。

 

 

いのちのとりで裁判

 

高市内閣の顔ぶれで注目すべき点の一つは片山さつきの入閣である。片山は2012年の生活保護バッシングを扇動した政治家であり、「生活保護を恥と思わないのが問題」という発言が批判を浴びた。高市も同年、生活保護の不正受給問題にふれた折に「さもしい顔をして貰えるものは貰おうとか、弱者のふりをして少しでも得をしよう、そんな国民ばかりになったら日本国は滅びてしまいます」という発言を残している。

 

先日、いのちのとりで裁判全国アクションが主催する「いのちのとりで10.28大決起集会」に参加した。いのちのとりで裁判とは、生活扶助費が2013年から平均6.5%、最大10%引き下げられたことをめぐり、全国の生活保護利用者が国に対して引き下げ処分の取り消しを求めた裁判である(下記記事より)。

s-newscommons.com

 

今年6月、最高裁が大阪と名古屋の訴訟について引き下げを違法として処分を取り消す判決を下している。しかし、判決から4カ月以上経つにもかかわらず、国からの謝罪も被害の回復もなされてこなかった*6。石破内閣は原告らに対し真摯な対応をしないまま総辞職したし、高市内閣も首相自身を含む閣僚の過去の発言や政策に対する姿勢から社会保障政策に関して懸念が残る。少なくとも、生存権をめぐる思想は両政権とも保守的であるし、以前の自民党政権においてもそれは地続きであった。

 

集会に参加して思ったことは、反動的な政権が続いているなかで、これだけ多くの人々が組織的に闘っているのだということであり、そのことに驚きと敬意を持った。原告の方々のスピーチを聞いて勇気をもらったし、自分も連帯してともにできることをしたいと思った。

 

ところで、外部団体の連帯アピールでは岩本菜々さんのスピーチが印象に残った。これは他のスピーチと比べてある意味で浮いていたからである。前半では自身が専門委員会との交渉に参加した際に厚労省に対して抱いた怒りについて話されたが、後半では自身が代表を務めるPOSSEが農地運営に着手したことなど最近の活動について語られた。大学で生存権社会保障の問題について語ると排外主義のトピックよりも学生の反応がいいというようなことも話していた。

 

岩本さんの連帯アピールは、後半の自分たちの活動の紹介が主軸だった。それはまるで、まだ見ぬ同志に闘争を呼びかけるというより、今いる仲間に向かって自分たちの実績を確認するかのようなメッセージとして聞こえた。

 

自分たちの団体が主催する集会であれば別にそれでもよいと思う。しかし、今回の集会はあくまで外部団体として招聘されているにすぎない。他の外部団体の方のスピーチはよくも悪くも無難な内容だったが、原告ら登壇者のスピーチを受けて自分たちができることを話す方が多かった。岩本さんのスピーチは自分たちの活動の紹介に終始してしまい、残念ながら集会の趣意を汲んだ連帯のアピールだと思えなかった。そういう意味で他の連帯アピールからは浮いてしまい、岩本さん自身の”青さ”を露呈させていたように感じた。

 

石破談話と岩本さんのスピーチに共通することは、呼びかけの対象が「内向き」であるということである。現状をよく思わない、今の社会をよくしなければならないと思っているにもかかわらず、見ず知らずの他者ではなく、考え方が近い既知の同志と関係を築こうとする。

 

農地運営はその最たる例である。わたしの場合、農地運営と聞いて思い浮かぶのはヤマギシ会のそれである。生存権を獲得するために生産手段を囲い込み自分たちだけの共同体を作り出す。聞こえはいいものの、それは自身が構成員として所属する社会の変革を諦め拒絶するという態度でもある。資本主義の「外部」をつくり、そこから脱出してユートピアを建設しようという試みはいいと思うが、それは様々なバックグラウンドや考え方を持つ人々が集まり協働して初めて可能となる試みである。自分たちの団体がオルグしたボランティアを集めただけでは実現不可能なのだ。両者のメッセージを聴いて、仲間内にこもるのではなく、自分たちとは違う他者の存在とともに活動する重要性を改めて認識した。

 

 

植民地主義 天皇制と過労死

 

さて、10月はこちらのイベントにも参加した。

 

 

仕事終わりに向かったが途中迷ってしまったため、残念ながら終了間際10分ほどしか参加できなかった。にもかかわらず、主催のご好意で懇親会に参加させていただいた。京都大学による盗骨問題について詳しい話を伺うのは初めてで、登壇者の前田朗さんや松島泰勝さんらから直接教授していただく機会を得たのは幸運だった。

 

京都大学が学術研究の名において盗掘した琉球民族の人骨を返還しないのは「植民地主義的な対応」であり、先住民族の自己決定権を踏みにじる行為である。京都大学が所蔵する琉球人遺骨は「清野コレクション」と呼ばれる所蔵品の一角で、京大はこれを個人の所蔵品だとしているという。しかし、当該研究室のHPには「日本屈指の発掘人骨資料」として大学の所蔵品であると公表しており、「当事者の人権を配慮しない学知の傲慢性」が浮き彫りになっている*7

 

前田さんや松島さんのお話を聞いて思ったことは、盗骨は所有権をめぐる問題でもあるということである。私(わたし)は社会運動にコミットした期間がそれなりに長かったものの、学術機関による盗骨の問題について詳しく聞く機会があまりなかったように思う。それは所属した運動団体の問題ももちろんあるのだが、所有権という、いうなればブルジョワ的権利の一つをめぐる問題であったことも大きいのかもしれないと思った。左翼の立場からすれば、ブルジョワ的権利にこだわって一つの闘争にコミットするより、私的所有を排した、いわゆる「コモン」の創出の取り組みに関わる方が思想的にも好まれるのだろう。しかし、遺骨返還運動はただ所有権をめぐる闘争というだけでなく、反植民地主義、反人種主義の立場からも重要な闘争であることは間違いない。

 

大学による盗骨の問題について、忘れてはならないのは天皇制の問題である。天皇制の問題は冒頭の高市首相の労働時間規制をめぐる発言を聞いて強く意識したことでもある。

 

戦後の日本企業が「企業戦士」を生み出し、生産性を是とする社会で過労死を引き起こしてきた過程は、天皇制を国体とし戦争への協力を日本が支配する地域住民に強制して日本軍兵士を死なせてきた戦前社会と重なる。このような指摘は多くの識者によってなされてきたかと思う。実際、『日本は幸福か』の構成に携わった青山恵さんも次のように述べている。「...考えてみれば、「戦争」で死んだ人と現代の「経済戦争」のなかで死んだ人とのあいだに違いはあるのだろうか。過労死は、日本企業が戦っている経済戦争、企業戦争の戦死者以外のなにものでもない」*8

 

天皇制と過労死の問題はつながっているはずである。しかし、近年の労働運動では天皇制と過労死のつながりを指摘しないばかりか、労働問題を天皇制の問題とは別の問題として引き離し隠蔽しようとする力学が働いてきたのではないかと思う。それは日本「国民」にとって天皇が所与の存在であるからであり、天皇制が支持されている社会で天皇制の問題を提起することが運動を展開するうえで労働者の合意を得ることにつながらないからである*9。労働運動の大衆化を進めるうえで、近年の労働運動家、研究者の一部は意図的に天皇制について問わない戦略を採用してきたのではないだろうか。

 

この戦略を反省的に捉える必要が出てきたのではないかと思う。過労死が天皇制の問題とつながっていることを不問に付す識者は経済的要因のみをもって過労死を説明しようとする。しかし、これでは「日本人」の権威主義への従属、精神的支柱としての天皇制の問題と労働との関係を捉えることができない。さらに、戦前日本の植民地、侵略国家、地域への加害の問題、そして過労死を引き起こしてきた戦後日本社会の労働者の加害の問題との関係を捉えることができないという問題もある。日本軍兵士と「企業戦士」は国策による"犠牲者"であると同時に、(新旧)帝国主義の担い手でもあることを留意すべきである。

 

高市の演説によって、図らずも天皇制と過労死が直接的に結びついていることがクリアになったのではないか、筆者はそのように感じた。極右政治家が首相に就任した今、天皇制と労働の問題について、再考すべき段階にきているのはではないかと思う。

 

*1:『令和6年版 過労死等防止対策白書』、p2。ちなみに、書籍版とweb版は題名が微妙に違う。今回は書籍版を参照したが内容はweb版とほとんど変わらない。

*2:同、p3

*3:同、p35

*4:同、p3

*5:高市は11月5日の衆院本会議での代表質問で、労働時間規制について次のように述べている。

労働時間規制の緩和の検討をめぐっては、「残業代が減ることによって、生活費を稼ぐために無理をして副業することで健康を損ねてしまう方が出ることを心配している」と語った。

首相は「過労死に至るような残業を良しとはしない」とした上で、「心身の健康維持と従業者の選択を前提に、労働時間規制の緩和の検討を行う。働き方の実態とニーズを踏まえ検討を深めていくべきものだ」とも述べた。www.asahi.com

高市がこのように答弁したのは、「全国過労死を考える家族の会」の働きかけが大きく影響しているだろう。

www.47news.jp

「過労死に至るような残業を良しとはしない」という発言を引き出したのは成果だが、労働時間規制緩和の懸念がなくなったわけではない。そもそも、これはしばしば忘れられがちなことなのだが、労働基準法における法定労働時間は1日8時間、週40時間までと決まっており、残業そのものが法的には例外的状態なのである。法定時間外労働はいわゆる「36協定」を結ばない限り違法であり、36協定による残業の上限も原則として月45時間、年360時間までである。残業ありきの働き方を前提とする現状に問題があり、そのことを顧みずに社会を設計しようとする高市の姿勢が誤りだというべきであろう。やはり労働者側としては労働時間短縮と賃上げを訴えていく必要がある。

安倍政権(当時)が2018年に提出した「働き方改革」関連法案は①企画業務型裁量労働制の営業職への拡大、②「高度プロフェッショナル制度」の創設、③時間外労働の上限規制の3つが柱となっていた。このうち、①は政府が虚偽のデータを前提に提案したことで強い反対にあい削除、②は2007年の第一次安倍政権下で提出された「ホワイトカラー・エグゼンプション法案」の焼き直し、③は政府案の時間外労働の上限規制の欺瞞性が大きいだけでなく法定労働時間をいっそう形骸化させるという問題があった(森岡孝二「過労死の現状と「働き方改革」の行方」(森岡孝二、大阪過労死問題連絡会編『過労死110番 働かせ方を問い続けて30年』岩波ブックレット、2019年、p4-10))。安倍政治の継承を強く意識する高市政権で、安倍政権下の労働関連法案に酷似した政府案が提出される可能性は非常に大きい。

*6:11月7日、最高裁判決を受け高市首相が「深く反省し、おわびしたい」と述べ、判決後、政府が公的に初めて謝罪した。一方で、減額分の支給を、原告側が求める全額ではなく一部補償とする調整を実施するとも述べるなど、不誠実な対応が続いている。

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*7:松島泰勝「第14章 問題解決のための今後の展望」(松島泰勝、木村朗編『大学による盗骨』耕文社、2019年)、p282

*8:全国過労死を考える家族の会編、構成・青山恵『日本は幸福か』、教育史料出版会、1991年、p309

*9:2019年に毎日新聞が行った全国世論調査では、「現在の象徴天皇制でよい」と答えた人が74%と多数を占め、「天皇制は廃止すべきだ」と答えた人はわずか7%にとどまった。

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方向づける/られることについて

 

<交通>の思想

 

思想書を読むなかで浮かんできた疑問は、<交通>はなぜ思想のテーマになるのか、ということだった。

 

優れた思想家は自身の思想を展開する際、交通システムについての考察を行う。それは<交通>が人と人との関係、物と物との関係を媒介するものであり、それなしでは他者との関係を構築することができないほど重要な要素であることに気づいていたからではないかと思う。

 

サラ・アーメッドの『フェミニスト・キルジョイ』は交通システムに関して卓越した洞察を寄せる名著だ。同書に収められている「方向づけられることについて」は交通システムのメタファーを通じて人々の生がどのようなあり様を呈しているか(またはどのように生が不当な経験を重ねていくのか)を示している。

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「よそ者」を方向づける壁

 

「方向づけられる」とはどういうことか。

 

一本の道を想定してみよう。それ以外の道がない限り、あなたはその道をひたすら進むしかない。この場合、あなたは道に沿って前進するよう道に「方向づけられている」といえる。

 

ただし実際の道は一本ではなく複数延びている。そして道はまっすぐとは限らないし、道とは別の"何か"があなたを方向づけるだろう。

 

進行を方向づけるもの。例えば、壁。壁は進行を妨げるために進行者に違う方向へ進むよう促す。

 

壁は何のために建設されるのか。"何か"を"誰か"から守るためである。壁とは「防衛システム」である*1。壁があることで"何か"は"誰か"の通行をコントロールすることができる。

 

しかし、この「壁」は誰の前にも平等に現れるものではない。壁が通過=パスすることを阻止する"誰か"とは「よそ者」である。よそ者とは「認識の対象だけではなくて、統治の対象、つまり管理されるべき身体にもなる」*2。壁とは「特定の身体に最初から出会わなくてもすむこと」であり、「間違った身体が通り抜けるかもしれないから、壁が必要となる」*3

 

よそ者が壁を通過したいと思う時、壁はよそ者を方向づける役割を果たす。ここを通りたくば「間違った身体」を矯正しろ。壁は直接命令を下さない。直接コントロールしようとせずとも、そこを通りたいと思う方が自発的に"矯正"してくれるからだ。これが「方向づけられる」ということである。

 

サラット・コリングがアーメッドに即していうように、壁は境界線として捉えることもできる。容易に通り抜ける者たちがいる一方で、障害として壁に行き当たりその場で足止めをされる者たちもいる。異なる身体を持つ者たちにとって「境界線は時に増殖し、行く手を頻りに遮り塞ぐものとなる」*4。壁が現れるのは一度だけとは限らない。

 

アーメッドらがあまり指摘しない、壁のもう一つの機能をここでは確認したい。壁は確かに防衛システムであるが、同時に壁の中を囲い込む装置でもある。入ってきてほしくないが、出ていってほしくもない。もっとも、この比喩は壁の中の住人が一国一城の主である場合には当てはまらない。壁の中の主が「出ていってほしくもない」と思うのは主が他の誰かと同居している場合であり、その誰かが「出ていってほしくもない」対象なのである。

 

境界線の比喩はこの状況を言い表すのによく適している。主は壁の中と外を自由に出入りできるが、主に従属する立場の者は許可なしで外出することはできない。この場合、主の許可を得なければ外出できない者にとって主は「壁」として立ち現れる。よそ者が壁の中に入れればそれでよいということはない。よそ者は「異なる身体」であるが故に境界線の前に何度も足止めをされる。壁の中の秩序を乱していないか継続的に審判が下されるのである。「私たちが境界線を横断したのではなく、境界線が私たちを横断したのだ」。コリングが引用するメキシコ系アメリカ人の諺は、人々の生に境界線が押しつけられる様を簡潔に言い表したものである*5

 

先行性 ──未来を方向づけるもの

 

次の場面に移る。あなたは誰かと2人で道を歩いている。すると同行者があなたに先んじて進行方向から外れようとする。同行者が向かう先には川があり柵が設けられていない。あなたは同行者に向かってこう言うだろう。「そっちに行っては危ないよ。こっちへ戻ってきなさい」。

 

あなたが同行者を呼び止める理由は、同行者が向かった先に危険があると判断したからだ。川に落ちるかもしれない。落ちたら溺れるかもしれない。 あなたは同行者が危険な目に遭わないよう先回りして注意を促したのである。

 

この予見可能性/先行性は、それが現実に起こった場合に不利益を被るリスクを回避できるという点で有効である。しかし、先行する現実とはあくまで可能性の話であり、現実に起きることが決定しているわけではない。先行性はある問題を内包している。それは未来を否定するという問題である。

 

先が見通せれば見通せるほど未来の可能性は狭まっていく。なぜなら、先が見通せるとは未来の方向性を自分からある程度定めてしまうということでもあるからだ。フランコ・ベラルディ(ビフォ)は科学技術の発展に伴う先行性の発達を「決定論的な罠」として批判した。

 

「未来に対する先行性は、未来の行動を妨げ、未来の行動から特異性を抜き去ることを意味する。」*6

 

「先行性は決定論的な罠として働く。それによって有機体の未来は生物技術的あるいは技術社会的な変形を通して作り変えられる。可能なことは捕獲され、単なる蓋然性に還元され、蓋然的なことが必然的なこととして押しつけられる。」*7

 

未来が現実化していない以上、未来の可能性は無数に開かれている。しかし、先行性は未来を一つに方向づけそれ以外の未来の可能性を排除する。「そっち(開かれた未来)に行っては危ないよ。こっち(方向づける側が望む未来)へ戻ってきなさい」。方向づけることは未来の可能性を狭める行為でもある。

 

方向づけることは「よきこと」だ

 

方向づける/られることの関係について、ある職場を想定し説明してみよう。

 

そこでは長い髪の男性が働いている。彼は髪が長いことで周囲から疎まれることはない。だが、ある時、例えば、転職活動などでやむを得ず髪を切らざるをえない状況に陥り、伸ばしていた髪を短くカットした。その姿をみた同僚から彼は次のように声をかけられる。「いいじゃん。その方が似合っているよ」。

 

大抵の場合、「似合っている」と言われた時に彼が感じる心情は「嬉しい」や「安堵」といったものだろう。彼は自身の容姿を褒められたことで周囲から承認を得たことを確認する。そして現在の容姿が自分の「あるべき姿」なのだと思うようになる。方向づけられるとは、外部からの干渉を経て自発的に自身を変容させるということなのだ。

 

さて、方向づけられること、それ自体にいいも悪いもない。ただ、方向づけられるという事態が発生することを自分ではコントロールすることができないという意味で不当なだけである。

 

しかし、方向づけること、それは明確に善悪の価値観に基づいて行われる。なぜなら、方向づける側は対象が少なくとも"望ましい"状態に現在あると思っていないから対象を方向づけようとするのである。

 

長髪の男性の例に戻ろう。仮に周囲が彼の長髪を「似合ってない」と思っていたらどうか。「この髪型の方がいいんじゃない?」と短髪の髪型を提案し彼の指向性を"矯正"しようとするだろう。また、周囲が「男が髪を長くするのはおかしい」と思っていた場合はより強く干渉するだろう。方向づけようとする側にとって「放っておく」という選択肢はない。なぜなら、他者を方向づけることは「よきこと」であると固く信じているからであり、その信念こそが方向づけの動機だからである。

 

さらにいえば、方向づけは一対一の関係性で完結するわけではない。自分はあなたの髪型が似合わないと思うし、あの人も同じように思っている。方向づけは周囲を巻き込むことで他の道を塞ぐ。「そっち(=規範の攪乱)に行っては危ないよ。こっち(=規範の遵守)へ戻ってきなさい」。予め決められた道を外れることは規範に反することであり許されざる行為なのである。「方向を維持することは、それを支持することだ」*8

 

名付けられることについて

 

方向づけられることの究極の形態の一つが名前である。名付けられること、それは名付けられる側の意思が介在しないという意味で不当なことである。

 

進むべき方向から外れることが許されない。違う道を進みたい者にとっては運命論として受容され途方にくれるかもしれない。しかし、ここではそもそも方向や方角という概念が所与のものではないことを確認すべきである。

 

たとえ”進むべき道”なるものが決まっていたとしても、途中でその道がわからなくなる、つまり「迷う」ことがある。なぜ迷うのか。端的に言えば、方向や方角という概念があるからである。アナーキーな方向感覚にはそもそも行きたいと思う道もなく、したがって迷うようなことがない。

 

だが、迷うことは生の醍醐味でもある。目的のない進行も別に悪くないが面白みに欠けることも多い。寄り道をしたり、迷って別の道に行くことで新しい発見もあるものだ。

 

名前の例に戻ろう。名付けられることは確かに不当なことである。しかし、名付けられた側がその名を引き受けること、または引き受けずに自身で新しい名前をつけること、これらはまったく別の話である。名前は生を方向づけるものだが、生そのものはアナーキーなのだ。 方向づけられる側は、方向づける側の思う通りに必ず動くわけではない。方向づけられることは運命ではない。方向づけられた生はいつでも進む方向を変えて構わない。迷うことは進行方向を転換する過程の出来事である。

 

期待の政治 「意地」の心理

 

方向づけられることは感情の政治と結びついている。感情は感情そのものが対象を方向づける役割を果たす。喜びや楽しみは相手に行為の反復を促し、怒りや悲しみは行為の遂行を躊躇わせる。

 

不機嫌でいることはそれ自体が対象を方向づける。不機嫌なのが職場のハラッサーであろうが、プラカードを持ったデモ参加者であろうが、対象が方向づけられるという結果は変わらない。不機嫌な権力者に影響されることは方向づけられることであり、権力者を不機嫌にさせることは方向づけることである。方向づける/られることは、言い換えればそれ自体が自分以外の者に影響を与える/られることである。

 

最後に「後悔」という感情について述べたいと思う。方向づける側にとっての後悔と、方向づけられる側にとっての後悔はまったく質が異なる。前者は「あんなことをしでかしてしまった」ことに対して、後者は「あんなことをしなければよかった」ということに対して反省をする。両者がそれぞれの感情を抱くのは、先行する期待と結果が釣り合わないと判断したからである。

 

家庭裁判所調査官を務めた佐竹洋人という方が「意地」について述べたものがある。一般的に意地とは「自分の思うことを通そうとする心」であると思われている。しかし、佐竹はそれとは別に意地を「相手がああだから自分はこうせざるをえないという心」だと規定する。そして、そうした意地が対人葛藤のなかであらわれてくること、しかもその主体は必ずしもそれを「意地」とは自覚しないと述べる。

 

「さて、「意地」をこのように定義した場合、それを裏返しにみるならば、「相手がああでなかったら、自分はこうしなくてもすんだのに(不本意ながら、させられてしまった)」ということになる。すなわち、「意地」の裏には、相手に対してこうあってほしいとの期待が前もって存在したのであって、その期待が満たされなかったことへの深い悲しみと嘆き、そして相手に対する深いうらみの感情がこめられているとみてよいだろう。」*9

 

意地はわたしが「期待の政治」と呼ぶ感情の政治と照応する。期待とは債務である。債権者、すなわち期待を寄せる者は「あなたならやってくれるよね」という期待=債務を対象に負わせ、期待を寄せられる側は期待という債務を負う。このとき、期待に応えてもらえない/期待を裏切られることは債権が回収できないことを意味する。だから債権者は期待を寄せた者に「失望」し、また、必ずではないが期待を寄せられた方も債務を履行できなかったことを恥いるだろう。

 

期待を寄せる側が意地になることは自身の債権を正当化することを意味する。「あなたができるって言ったから/できる人だと思ったから、あなたに期待を寄せたのに」やってくれなかった。わたしは何のためにあなたを方向づけたのか。方向づけることが「よきこと」だと信じている場合はこのような思いを抱く。

 

一方で、方向づけるそのときは「よきこと」だと思っていても途中で考えを改めることもある。あなたにこの方向に進むよう促してごめんなさい。あのとき"意地になって"あんなことをやってしまって申し訳ない。このような後悔もあるかもしれない。

 

だが、方向づけられる側がそれを許すとは限らない。あなたが「そっちに行っては危ない」と言ったからこっちの道へ進んだのに、今さらなんなの?あなたがああ言わなければ、わたしはああしなかったのに。このとき、意地は方向づけられることに対する反発としてあらわれる。

 

期待と後悔、これが意地を構成する要素である。そして意地は方向づける/られる生を異なる方向へと誘導するものである。世界を方向づけたいと思うなら、やはり意地は持っておきたいものだなと思う。

 

 

*1:サラ・アーメッド著、飯田麻結訳『フェミニスト・キルジョイ』人文書院、2022年、p228

*2:同、p239

*3:同、p240

*4:サラット・コリング著、井上太一訳『抵抗する動物たち』青土社、2023年、p60

*5:同。

*6:フランコ・ベラルディ(ビフォ)著、杉村昌昭訳『フューチャビリティ 不能の時代と可能性の地平』法政大学出版局、2019年、p25。ここで彼が念頭に置いているのは「一般知性」、すなわち情報技術の自動化と連動したグローバル機械のことである。例えば、GoogleのAI・Geminiは検索エンジンに打ち込んだ言葉から検索者の要望を先回りして提示する。検索機械は人間の行為を記録しその結果を出力しているだけであるが、機械が提示する結果が必然性や因果律を持つかのように把握され、逃れられない運命かのように押し付けられる。これが「決定論的な罠」である。

*7:同、p26-27

*8:アーメッド、同、p83

*9:佐竹洋人、中井久夫編『「意地」の心理』創元社、1987年、p8-9

労働時間と労働倫理

第一部 労働時間

 

自由時間の増大が「空想的社会主義」?

 

昨年の衆院選日本共産党が1日8時間の法定労働時間を7時間に短縮することを目指す政策を掲げた。これに対する左派の反応は冷ややかだった。

 

 

 

コミュニストとしてこれは流石に看過できない発言だと思った。7時間労働制を選挙公約として掲げることが適切かどうか、そんなくだらない議論は軍師を気取る出たがりな奴らに任せておけばよい。ここでの目的は、労働時間短縮のための要求を「空想的社会主義」と一蹴する、左翼(それも労働運動に関わる者が!)にあるまじき態度を糾すことにある。

 

「働きすぎ」と「十分に働けない」の共存

 

まず、労働時間の短縮を訴えることが労働者に響かない(=票田にならない)というのは一面的な見方であることは確認すべきだろう。

 

労働社会学の研究で明らかにされてきたように、現在の日本では「働きすぎ」と「十分に働けない」が共存する労働時間の二極分化が起きている*1。「働きすぎ」の例としてドライバーの統計が挙げられる。

 

厚労省の「2022年賃金構造基本統計調査」によれば、トラック運転手の年間労働時間は2580時間と試算される。これは全産業の労働者と比べて118.8時間もの開きがある*2。なお、年収平均は479万円(全産業労働者年収554.9万に対し86.3万の格差)であり、時間当たり賃金は1857円で全産業の7割ほどにとどまる。また、過労死も多く、道路貨物運送業における脳・心臓疾患の労災請求件数は請求件数全体の15%ほどを占めている*3

 

ドライバーほどではないにしても、長時間労働や休日の少なさに悩まされている労働者は少なくない。これに呼応するかたちで、弁護士や労働組合が労働時間の短縮はもちろん、過労死等の労災事案に日々取り組んでいる。政策として掲げるかどうかは置いておくとしても、「自由時間」の要求が労働者に響かないとするのは早計だろう。

 

長時間労働に従事している労働者は政策なんか気にしている時間はない」という反論もありそうだが、それは労働者に対する侮蔑であるばかりか、政党だけでなく弁護士や労働組合の存在意義すらも問われてしまう点で本末転倒である。長時間労働をなくすためにお前らがいるんじゃないのか、何のためにお前らがいるんだ、という話になる。渡辺の発言の根底には肉体労働者に対する侮蔑がある。

 

支援者の傲り

 

渡辺の発言が、彼自身が普段接している労働者のイメージに依拠していることは明らかである。このことは支援者にとって良い面もあれば悪い面もある。

 

「現場」で活動し、労働者の「リアル」を身をもって知っている、ということは支援者にとって強みになる。実態を知っているからこそ、労働者の不満を広く訴えることができるし、労働者の利害のために行動がしやすくなる。

 

問題はその後である。同じ現場に居続けると、「現場の声」が世界のすべてだと錯覚してしまうのだ。自身が接している労働者の不満は紛れもなく「現場の声」である。しかし、現場や労働者のあり方は一様ではない。場所や労働者の属性(例えば、性別や世代、経験年数etc...)が違えば不満や要求も異なる。言われてみれば当然のことだと思われるかもしれないが、支援者はしばしばこの事実を考えないようにしてしまう。

 

なぜなら、支援者には自身が「「現場の声」を聴く「よき人」」であるという自負があるからである。現場の声は「真実」であり、それを聴くことは「よきこと」であり、それをする自分も「よき人」である。「よき人」である自分の意見が間違いであるはずがない。こうして支援者は自分たちの利害に合致する被支援者像を囲い込み、そのイメージに基づいて自らの主張を対象の被支援者の総意であると「代弁」するのである。このような傲りを持たないよう支援者は心得るべきだと思う。

 

女の時間

 

渡辺の発言の問題は女性の存在が想定されていないことである。

 

自由時間よりも賃上げだ、という主張を字義通り眺めるならば、労働者は少ないながらも自由時間は持っているのだから収益を増やして労働者の富を増大させろ、というふうにも読める。しかし、”自由時間がある”のは果たして誰なのだろうか。

 

ベティ・フリーダンの『女らしさの神話』では、第二次世界大戦後のアメリカの主婦が母親の時代よりも多くの時間を家事に費やし、典型的なアメリカの農夫の労働時間よりも長く従事しているという例が紹介されている*4。主婦は夫や子どものために家庭内労働に従事するため時間がない。それだけでなく「女らしさの神話」が女性の自由時間を奪ってしまう。フリーダンが話を聞いたのは1950年代以降にカレッジに行った世代だったが、彼女たちは「家族の時間を奪いたくないから」という理由で地域の組織で責任ある地位に就くことを断ってしまう。だが、「彼女たちの時間の多くは意味のない暇つぶしの作業に費やされている」*5。女性たちは家庭内労働だけでなくこの「意味のない暇つぶしの作業」に縛られているために(当の女性たちにとっての)自由時間を持つことができなかった。

 

フリーダンが「名前のない問題」と名付けた問題はやはり日本でも依然として残っている。特に労働市場の非正規化が進む現在、シングルマザーや「ヤング・ケアラー」はますます自由時間を奪われている。そのような人々にとって「生活苦を抱えた休暇や休日はそれ自体が苦痛」であるのかどうか、疑問である。「休日は家族のために過ごさなければならないから苦痛」という場合もあるだろうが、渡辺の示す解決策が賃上げなので、こうした例も渡辺の想定では排除されている。

 

 

もう一つ、渡辺の言う自由時間が男性中心の時間性であることも指摘しておきたい。

 

過ぎ去りし日はもう戻らない、単線的かつ連続的な時間。これが広く共有されている時間のイメージだろう。しかし、このような「歴史の時間」だけが唯一の時間性ではない。

 

歴史的にみて時間的なものは「男」に、空間的なものは「女」に帰属させられてきた。だがクリステヴァは「女の主観性」に基づく時間があるという。「自然界のリズムに合致し、あるひとつの時間性を着想させる、月経周期、妊娠期間など生物学的リズムの永遠反復」がある*6

 

フリーダンやクリステヴァ、そしてボーヴァワールら一連のフェミニストは、「他者」にされ「女らしさの神話」を押し付けられてきた女性が「自分とは何であるか」を問うてきた。『第二の性』のなかでボーヴァワールは、プラスとマイナスの価値を持つ実存主義の用語を効果的に配置し、プラス面を持つ実存主義の用語を男に、マイナス面の用語を女に当てはめることで女の他者性を明確に浮かび上がらせた*7。本稿の関心に寄せるなら、同書で「自由」という語が男性的なものとされているのは印象的である。

 

企業社会における時間とは、生産性という指標で計られるような迅速かつ定形的で"男性的な"時間である。そして「女の時間(クリステヴァの言葉では「巨大な時間」とも)」は「過ぎゆく線的時間とはほとんど何の関係もない」*8ために疎まれ忌避される。

 

資本の価値増殖のためにただひたすら動員される労働者が過ごす時間は、まるで「この道しかない」とでもいうかのように一筋の線を進んでいく。"男の時間"のなかで与えられた"自由時間"などたかが知れている。しかし、未だかつて到来したことがない時間とは、先がわからない複数の線が延びているものであり、最初から「この道」を歩むべきだとは決まっていない。「女の時間」とは、開かれた未来に自らを投げ入れる「投企」の時間、「クィアな時間」でもある。そのような時間よりも生活賃金、一時しのぎにしかならない"労働者の富"なるものが大事だとするのは、あらゆる意味で貧相が過ぎるのではないだろうか。

 

時代遅れの賃金奴隷

 

渡辺の発言に理解を示す反応には以下のようなものもあった。

 

 

さすがセクシストの学者先生といったところである。ここでいう「私たち」とは男性を中心としたメンバーシップの会員のことであり、単線的で後戻りできない時間に囚われた排他的な集団である。現実は過酷に満ちている。だからこそその過酷に抗するための「投企」の時間が開かれている。左翼がユートピアを語らずして誰が語るというのだろうか。

 

そもそも、渡辺のような考え方ははるか昔にマルクスが批判した典型的なブルジョワ的思考である*9。このことはマルクス主義者なら知っていて当然のことだ。渡辺に少しでも理解を示してみせたセクシスト・マルクス主義者のなんと恥ずかしいことよ!

 

賃労働制度とは一つの奴隷制度だ、という古典的なテーゼがある。マルクスにとって賃上げとは「奴隷の報酬改善以外のなにものでもない」*10マルクスは、労働の問題はその報酬の条件に還元することができないこと、むしろ賃金関係ないしその関係が支配する労働過程にまで問題の核心が及ぶことをはっきりと認識している。過程よりも結果に、自由がないことではなく不平等に焦点を絞ることは、資本主義批判を貧しくするのである*11。これと同じくらい不十分なアプローチについて、『ゴータ綱領批判』では次のように書かれている。

 

それはちょうど、奴隷制の秘密を見やぶってついに反乱にたちあがった奴隷たちのなかで、時代遅れの考えにまだとらわれているひとりの奴隷が、反乱の綱領にこう書くようなものである。──奴隷制は廃止されなければならない、なぜなら、奴隷制度のもとでは奴隷を養う費用は低くきめられたある限界をこえることができないからだ!と。*12

 

自由時間を拡大する要求を斥け、賃金奴隷の身でありながら一時の安らぎのためにまやかしの富の拡大を優先する。これはフェミニストからすれば男性的権力の傲りであり、コミュニストからすれば労働者階級の敵である。労働時間規制に対する反対は、いかなる理由付けを行おうとしても必ず反動であると言わなければならない。

 

 

第二部 労働倫理

 

自由時間を増やして、それで?

 

 

 

とはいえ、である。

 

 

 

ずっと疑問だった。自由時間の増大が人間解放の条件であることは正しい。しかし、自由時間が増大したところで人々は解放のための活動に関わるようになるわけではない。ある人は友人や家族と会食に行くだろうし、ある人は旅行に行くだろう。またある人はパチンコに行くだろうし、ジムで身体を鍛えたりするだろう。人間は革命のために時間を使うよう方向づけられているわけではないのだ。

 

この疑問に対してマルクス主義者は誰も答えようとしなかった。彼らはただ自由時間の増大を訴えるだけで、しかもそれをもってあたかもユートピアが実現されるかのようにうそぶくだけだった*13。自由時間を生み出して、それで?その後のマルクス主義者の展望は驚くほど乏しい。

 

キャシー・ウィークスの労働過程論

 

最近、キャシー・ウィークスの議論を集中的に読んでいる。

 

前回の記事*14を書くためにジョディ・ディーンの議論を調べていた際、フレドリック・ジェイムソンの『アメリカのユートピア』にディーンとともに論文が収録されていることを知った*15。同書にはジェイムソンの議論とそれに対する複数名の論者の応答という形式で論文が掲載されているが、そのなかでもウィークスの議論が最も面白いと感じ関心をそそられた。ディーンも邦訳が少ないが、ウィークスについては2024年現在、これが日本語で読める唯一の論文であることも後から知った。

 

ウィークスの代表作は2011年に発表された”The Ploblem with Work”だ。日本ではほとんど知られていないが、労働過程を考察したマルクス主義フェミニストの議論として極めて重要な書籍であると筆者は感じた。

 

 

ウィークスの議論を筆者なりに解釈してまとめると、ウィークスは人間の労働それ自体が労働倫理や家族倫理を形成し、労働過程を通じてそれらの倫理や規範を内面化ないし身体化する、ということを言っている。上記の書籍で紹介されている例では、労働が労働倫理や家族倫理を形成する過程でジェンダー規範も形成され反復される。そして労働過程のなかで労働者は、労働倫理や家族倫理に基づくジェンダー規範を内面化ないし身体化することでジェンダー秩序を維持、再生産していく、とされる。

 

わたしはウィークスの議論にたいへん衝撃を受けた。なぜなら、これはマルクス主義における「労働」を根本から否定するものであるからだ。どれほどの読者が気づいているかわからないが、ウィークスの議論は世界の革命理論を根底から変えてしまうほどの力を持っている。

 

このことは『資本論』を読むとすぐに理解できる。『資本論』では、労働が労働倫理を形成し、労働過程のなかで労働者が労働倫理を内面化ないし身体化していく、というウィークスの議論で展開されているような内容はまったく出てこない。というのも、マルクスの関心はあくまで労働が対象物を統御し生産することについて、そして労働者が自身の労働を統御する自由を資本家に奪われている不当さを問うことにあるからだ。つまり、労働過程に対する考察の出発点が対象物に対する労働の関わり方の方にあるのである。そのため、マルクスの関心は必然的に「生産」や「所有」を問うことに移り、導き出される実践も生産手段の奪取や占拠、個人的所有の再建といったものになる。

 

しかし、ウィークスの労働過程論の出発点はその手前、すなわち対象物に対する労働の関わり方ではなく「労働」それ自体にある。ここで理解のための補助線としてマルクス主義フェミニズムの議論を引いておく。 「家事労働に賃金を」が好例だが、マルクス主義フェミニズムの画期性は市場の賃労働と同等に扱われない家庭内労働を労働過程論の俎上に載せたことにあった。ここでいう家庭内労働とは、子育てや介護のみならず、 異性愛を反復する労働としてのセックスも含んでいる。

 

資本主義は、賃労働こそ市場を媒介として収入を得るために認められた唯一の手段なのだとその正統性を主張する*16。と同時に、家庭内労働を「自然」なものとして扱うことで不払いの労働を動員し剰余価値生産を最大化するよう努める。このとき、家庭内労働を「自然」化するために「女らしさの神話」が押し付けられるのである。

 

「女らしさの神話」は無償労働を正当化するだけでなく、家族規範を維持、強化する。家族を構成するメンバーは「親」と「子」、「夫」と「妻」といった役割を各々与えられている。そして各々は、家庭内労働を通じてこの役割を適切に演じるよう方向づけられる。フェミニズムが優れていたのは、労働社会を性別役割分業社会として把握し、賃労働から排除された女性たちの近代化を「もう一つの近代」として相対化したことにあった*17

 

家庭内労働の評価が低いのは、すぐ消費されるために反復の必要があり、従って創造性のある行為とみなされないからである。労働者の時間、すなわち「男の時間」において家事労働は、日々賃労働に従事する単線的な時間を途中通過する程度のものとして把握され、大きな価値を見出されることはない。しかし、家庭内労働は日々終わることのない作業を反復する、いわば「女の時間」のなかで経験されるものである。そして、家庭内労働は賃労働に従事していないという意味で「働いていない」こととして、労働中心社会のなかで低い序列を与えられる*18。ここでの働いていない時間、つまり「余暇=自由時間」という規定は、労働者の解放の先決条件として期待された”自由時間”とはまったく異なる様相を呈する。ここにマルクス主義の限界とフェミニズムの革新性があった。

 

ウィークスの議論はマルクス主義フェミニズムの蓄積の延長線上に位置づけられる。ウィークスの言うように、職場はジェンダーが強制され、実行され、再創造される現場である*19。そして家事労働もまた、労働力を再生産し、そしてサービスを提供する労働であると同時に、ジェンダーを生み出すものとして認識されるべきである*20。労働過程とは、第一に、資本の価値増殖のために労働者が資本に従属しその人格や生活を方向づけられる、言い換えれば「労働倫理」を内面化し身体化する過程として把握されるべきである。そして第二に、家庭内労働を賃労働と同等のものと認めたうえで、「家族倫理」を形成し維持する過程として把握すべきである。そして第三に、労働の主体が労働を通じてセクシズムやレイシズム能力主義をはじめとする、近代の社会体制を補完するイデオロギーを受容、内面化し身体化する過程として分析する必要がある。マルクスは、自身が規定した「労働」概念に縛られたが故に労働過程それ自体が含む問題を把握することができなかった。マルクスジェンダーに対する関心が薄い理由は時代的制約などではまったくなく、その理論的関心と構成のためであったのだ。

 

 

人間の本質としての労働

 

マルクスの「労働」概念にはもう一つ特質がある。それは「人間の本質は労働である」という、特に初期において強調された規定である。

 

マルクス主義者は長年に渡り労働が人間の本質を形成するという初期マルクスのドグマを守り抜いてきた。マルクス主義者が人間と動物の違いを強調するのはこのためである。動物は自分が何を為すべきかもわからないし、世界をつくることもできない。しかし、人間は世界をつくることができる。それは人間が動物とは異なり労働をする存在だからであると。

 

動物性に対するマルクスの憎しみを、後のマルクス主義者は追認してきた。*21。ブレイヴァマンは、人間と動物は意識の量に差があるために、本能の領域でしか世界に働きかけることができない動物に対して人間は独自の世界を創造できるとした*22。また、斎藤幸平は人間が気候変動に取り組むべきであることを強調するためにマルクス主義の「人間中心主義」を正当化している*23

 

ジェイソン・フライバルはこうした考え方に正面から異を唱えた。 動物は人間と同じく資本主義システムの下で労働をしてきたし、これからも労働をし続ける存在である。「動物たちは労働者階級の一員である」*24。フライバルはむしろマルクスの階級理論に依拠しながら動物の労働の歴史を扱ってこなかった人間中心の労働史を批判した*25

 

フライバルの主張を裏付けるかのように、文化人類学や動物行動学をはじめとする科学の発展はマルクス主義の前提を覆す。霊長類学におけるフランス・ドゥ・ヴァールの貢献、動物たちの抵抗を分析したサラット・コリングの批判的動物研究はその一例だ*26。ドゥ・ヴァールは言う、政治の起源は人間性より旧い、と*27。人間と動物の間に差別を設けるマルクス主義は、従来の「労働」や「人間」、「階級」という規定の問い直しを迫られている。

 

『性の弁証法』を読む ──ユートピアを想像するために

 

マルクス主義の主張を継承しつつ労働の意味を問い直すこと、これを行うことの意義はユートピアのための想像力を膨らませることにある。未来社会を構想するにあたってウィークスがマルクスとともに参照するのはシュラミス・ファイアストーンである。

 

ファイアストーンの『性の弁証法』は破壊力に満ちた作品である。同書における「危険なユートピア的」提案は十分検討に値する。ただ、それらの計画は素描に過ぎず「何も最終的な解答ではない」*28。なぜなら、ファイアストーンの提案は「実際の活動を示すよりは、むしろ新しい領域へと思考を進める際の媒介を与えることを意図している」からである*29ユートピアの社会を構想し提案する、これを恐れない重要性について、ファイアストーンは次のように言う。

 

革命に対する罠は、常に、「それに代わるものは何か?」ということである。しかし、この場合に、たとえあなたが質問者に青写真を提出することがで'き'た'としても、彼らがそれを使うかどうかはわからない。多くの場合、彼らは、それに代わるものを知りたいと心から思ってはいない。実際、これはもっともありふれた攻撃であり、革命的な怒りをそらし、怒りを革命自体に向けるやり方である。しかも抑圧された人々は、総ての人々を納得させるための仕事をもっていない。彼'ら'が'知る必要があるのは、現体制が彼らを破壊しつつあることだけである。*30

 

ファイアストーンの主張はとても刺激的で読者を力づけてくれる。ウィークスにおいてもそれは同様だろう。一方で、ウィークスはファイアストーンの別の側面も評価する。それはファイアストーンが「主体性の根本的変容がわれわれのものではないことを理解」していたこと、つまり「未来を考えるには、われわれの欲望、主体、社会性の構造が消滅するのに十分な期間の中で、われわれ自身を越えて考える必要がある」ことを熟知していたという点にある*31。言い換えれば、ユートピアを享受するのは自分ではないかもしれないという可能性を受け入れるべきであるということである。

 

おそらく日本の左翼はウィークスの結論に落胆するだろう。というのも、ユートピアを享受したいという欲求は誰もが持つ当然の願望だからである。自分が受益者にならないかもしれないものにどうして時間と労力を割かなければならないのか。実現するかもわからないものに未来を賭けるなんて愚かだと一笑に付すかもしれない。

 

しかし、彼女たちフェミニストの訴えは現行の社会に対するアンチテーゼでもある。そもそも資本主義とは即席の「ユートピア」をつくり出し私物化する支配体制である。資本主義の倫理を内面化する資本家にとって自分以外は価値のない存在であり、他者は自分の利害を実現するための道具でしかない。イーロン・マスクの振る舞いをみればそれは明らかだろう*32。前回の記事で「個人化」にふれたが、優れたフェミニストが個人化を問題とするのは、それが現代社会における人々の欲望のあり方を方向づける現象であることを理解しているからである。

 

クリステヴァの「女の時間=巨大な時間」は、ファイアストーンやウィークスが未来社会に賭ける思想に呼応するものではないかと思う。開かれた未来とは資本主義が追い求めるような短絡的で粗野な代物ではない。巨大な時間を生きる者にとって自分がユートピアを享受できるかどうかなど些細なことだ。なぜなら、ユートピアは自分の利害を超えた場所に現れるものだからだ。わたしたちは「自分たちのものであるが自分たちのためではないものとして未来を想像するのを厭わなくなる方法を学ばなければならない」のである*33

 

 

 

 

 

*1:熊沢誠格差社会ニッポンで働くということ 雇用と労働のゆくえをみつめて』岩波書店、2007年、p162-179

*2:川村雅則「2024年問題とトラック運転者の労働時間規制・法制度をめぐる問題」『都市問題』vol.114、2023年10月、p12

*3:同。厚労省「過労死等の労災補償状況」に基づく。

*4:ベティ・フリーダン著、荻野美穂訳『女らしさの神話 下』岩波文庫、2024年、p26

*5:同、p33

*6:ジュリア・クリステヴァ著、棚沢直子、天野千穂子訳『女の時間』勁草書房、1991年、p120

*7:木村信子「訳者あとがき ──『第二の性』読解の一助として──」(ボーヴァワール著、「『第二の性』を原文で読み直す会」訳『決定版 第二の性 Ⅱ 体験 下』河出文庫、2023年、p487

*8:クリステヴァ、同、p120

*9:「君がより少なく存’在’すればするほど、君が自分の生命を発現させることが少なければ少ないほど、それだけより多く君は所’有’す’る’ことになり、それだけ君の外’化’さ’れ’た’生命はより大きくなり、それだけ君は君の疎外された本質をより多く貯蔵することになる。国民経済学者が君の生命から、君の人間性から奪いとるすべてのもの、それを彼は君のために貨’幣’と富’とで補填してくれる。そして君にできないすべてのことを、君の貨幣はやることができる。(中略)それはすべてのものを買うことができる。貨幣はほんとうの資’力’である。しかしこれらすべてである貨幣も、自分自身を創造すること自分自身を買うこと(ママ、句読点なし)以外のなにごともし’よ’う’と’し’ない。なぜなら、その他のすべてのものは、実際のところ、貨幣の奴隷だからである。そしてもし私がその主人を所有するなら、私は奴隷を所有していることになり、貨幣の奴隷には用がなくなる。したがってすべての情熱やすべての活動は、所’有’欲’のなかに没しなければならない。労働者は生きようと欲するに足るそれだけのものしか、所有することを許されず、そして[それだけのものを]所有するために生きようと欲することだけしか許されないのだ」(カール・マルクス著、城塚登、田中吉六訳『経済学・哲学草稿』岩波文庫、1964年、p154-155)。何よりもまず手取りを増やせ、という要求そのものが資本への隷属を強め、労働者の力や欲望を貧しいものにし、未来社会への想像力を奪うのである。現代日本の左派がこれを理解できないということはそれだけで十分弾劾されるべき理由になる。

*10:同、p103

*11:Kathi Weeks, "The Problem with Work", a John Hope Franklin Center Book, 2011, p21

*12:カール・マルクス著、望月清司訳『ゴータ綱領批判』岩波文庫、1975年、p48

*13:典型例はアンドレ・ゴルツである(真下俊樹訳『労働のメタモルフォーズ ──働くことの意味を求めて 経済的理性批判』緑風出版、1997年)。キャシー・ウィークスを読んだ後に彼の議論を読むと、肝心の労働過程論が酷すぎることがわかった。ゴルツの議論の一番の問題点は、植民地主義を考慮せずに自由時間の増大を訴えている点にある。ヨーロッパのエコロジストらしいといえばらしいが、彼の楽観的なユートピア論は斎藤幸平を想起させる。

*14:

zineyokikoto.hatenablog.com

*15:キャシー・ウィークス著「ユートピア的セラピー 労働、非労働、政治的想像力」(フレドリック・ジェイムソンほか著、スラヴォイ・ジジェク編、田尻芳樹、小澤央訳『アメリカのユートピア 二重権力と国民皆兵制』(書肆心水、2018年)所収)

*16:労働倫理については以前に別の記事でふれた。

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*17:江原由美子『装置としての性支配』勁草書房、1995年、p127-128

*18:同、p128-129

*19:Weeks, ibid, p9

*20:Sarah Fenstermaker Berk, "The gender factory : the apportionment of work in American households", Springer, 1985, p201

*21:ここで重要なのは、マルクス自身は「ただ人間だけにそなわるものとしての形態にある労働を想定」するとしながらも、「最初の動物的な本能的な諸形態」そのものは(考察の対象にしないだけで)労働であることを認めている点にある(カール・マルクス著、岡崎次郎訳『マルクスエンゲルス全集版 資本論①』大月書店、1972年、p312)。労働が「人間」だけのものであるという健常者中心主義的/種差別的排他性を推し進めたのは後のマルクス主義者たちの方だ。

*22:ハリー・ブレイヴァマン著、富沢賢治訳『労働と独占資本』岩波書店、1978年、p52-56

*23:斎藤幸平「ルカーチの物質代謝論と人新世の一元論批判」『思想』no.1183、2022年11月、p58

*24:Jason Hribal, "Animals are Part of the Working Class": A Challenge to Labor History", Labor History 44(4), November 2003, p435-453

*25:フライバルの仕事は重要だが、少なくとも二つの点に注意しなければならない。一つは擬人主義に関する点である。フライバルの「労働者」と「階級」はマルクス主義、すなわち人間が構築した概念に依拠している。サラット・コリングは擬人化の有効性を認めながらも、動物たちに「政治活動を投影することに関し慎重であったほうがよい」とする(サラット・コリング著、井上太一訳『抵抗する動物たち』青土社、2023年、p159)。乱暴な擬人化は動物たち自身の多様な社会的・認知的経験を否認してしまう危険性がある(フライバルの記述がそうだということではなく、擬人化を行う際には当の動物たちの生を理解しようと最善を尽くし、動物たちの観点を認識する努力を怠らないようにすべきだということである)。もう一つは性労働に関するものである。フライバルは動物労働と共通点がある労働の例として人間の性労働を挙げている。フライバル自身は深く議論を展開していないものの、結果として、性労働は他の人間の労働とは区別されるべきだという印象を読者に与えてしまっている。しかし、キャリー・ハミルトンの言うように、そのように論じてしまうことは資本主義が種を越えて多くの形態の労働を見えなくする条件を作り出しているという中心的な論点を損なうのである(Carrie Hamilton, "sex, work, meat: the feminist politics of veganism", Feminist Review 114 (1), 2016, p112-129)。動物労働と人間の性労働の共通点は、遂行される労働のカテゴリーが根本的に類似していることではなく、むしろ労働そのものが頻繁に否定されるという点である。仕事を仕事として定義することは、搾取の認識を妨げるものではない、というのがハミルトンの主張である。なお、ハミルトンの論文の趣旨はキャロル・アダムズ(『肉食という性の政治学』の著者)の反セックスワークの主張に対する批判であり、この点でも必読である。

*26:フランス・ドゥ・ヴァール著、松沢哲郎監修/訳、柴田裕之訳『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』紀伊國屋書店、2017年。また、コリング、同書。いわゆる久留間派に顕著だが、一部の日本のマルクス主義の系譜に連なる学者たちは現代科学の知見を積極的に摂取せず、頑なにマルクスが生きた当時の科学の水準を前提に理論を構築しようとする。一方で、現代科学の研究により人間と動物の境はますます曖昧になっている。

*27:フランス・ドゥ・ヴァール著、西田利貞訳『政治をするサル チンパンジーの権力と性』平凡社ライブラリー、1994年、p342

*28:シュラミス・ファイアストーン著、林弘子訳『性の弁証法』評論社、1972年、p276-277

*29:同、p277

*30:同、p276

*31:ウィークス、前掲論文、p289

*32:資本家としてのマスクを説明する際にリチャード・セネットの「人格の腐蝕」という概念が有効であると考える。これは資本主義の倫理が人間の人格を方向づけることを指摘する優れた概念である(リチャード・セネット著、斎藤秀正訳『それでも新資本主義についていくか アメリカ型経営と個人の衝突』ダイヤモンド社、1999年)。

*33:ウィークス、同、p290

「反差別」の囲い込みが起きている

 

この世は囲い込みによって成り立っていると思うことがある。

 

身近な例でいえば結婚制度や近代家族があてはまるだろう。どちらも親密性を囲い込むための制度であり、囲い込みが目的であるからこそ暴力を内在的に含むのである。

 

資本主義もまた囲い込みを起源とするシステムであった。だからこそ反資本主義運動は囲い込みからの解放を目指すものであらねばならないはずだ。

 

しかし、現実の社会運動は人々を解放するどころか、自らの主張のために人々を囲い込む運動になってしまっているものが多い。「反差別」を掲げる運動も同様である。

 

 

特定の差別への解決を優先させるための囲い込み

 

例えば、他者の身体への同意なき接触を問題化する際、その問題をなぜか性暴力だけに議論の焦点を合わせようとする人がいる。

 

太った人のお腹を他人が勝手にさわるのはおかしいし、場合によってはペットなどの動物に対する一方的な接触も問題になるだろう。しかし、一部のフェミニストは性暴力、それも女性への暴力の問題としてのみ語ろうとし、他の問題を後景化させようとする。

 

これは特定の差別への解決を優先させるための囲い込みであると考える。他者の身体への同意なき接触という普遍性を持った枠組みを提示することなく、女性への暴力のみに問題を設定する。一部の集団の利害さえ確保できれば人権などどうでもいいとでも主張しているように思える。

 

「反差別」の主張に立脚するならば、このような傲慢な態度を認めてはならないはずだ。なぜならば、しんどさは平等であるべきだからである*1。しかし、フェミニストは他者化を動員することで囲い込みの欲望を正当化する。トランスジェンダーの排除はその例である。女性への脅威となる存在としてトランスジェンダーを悪魔化し、悪魔化した表象から「女性スペースを守る」という名目で女性の利益に適う主張を正当付けるのである。

 

 

「私だったかもしれない」と「私だった」の差

 

なぜこのような囲い込みが起きるのか。わたしはそのヒントを江南駅殺人事件後の追悼現場での出来事に求める。

 

2016年5月、ソウル江南駅近くのトイレで20代の女性が見知らぬ男性に殺害された。容疑者が女性に対する嫌悪を犯行の動機に挙げたことで、この事件はフェミサイドの一つとして人々に記憶された。事件後、江南駅10番出口には追悼のためのポストイットが次々と貼られるようになった。

 

そもそも、事件現場にポストイットを貼るという行為は遺族の感じた喪失を哀悼するものではなく、「「私だったかもしれない」という衝撃を受けた者たちが集まって哀悼と怒りをつなげる」行為であり、また、江南駅10番出口はそのための場所であった*2ポストイットに書かれた内容は「まるでトラウマを抱え生存した者の自己告白に似た内容で埋め尽くされていた」*3江南駅前に集まった人々にとって、殺された女性はただその死のみにより共有される存在であったが、「その死はまた「私」の死でもあった」*4。クォンキム・ヒョンヨンは、「「私だったかもしれない」というフレーズが生の偶然性と死の必然性に対する悟りを経由して、女性の生に対する自覚として、フェミニズムの政治として引き継がれたことは、ともすれば必然的なことだったのではないだろうか」と評価する*5

 

一方で、「私だったかもしれない」というポストイットの隣には「私はあなただ」という書き込みもあった。実は、両者はまったく異なる性質の言葉である。

 

私が常に殺されうるという自覚。女性を蔑視し、粗末に扱い、時には崇拝しながら、男性の他者としてしか存在できないようにする「女性嫌悪」社会が、まさにこの「通り魔殺人」の共犯だった。驚くべき政治的覚醒の瞬間だったが、自分が死にうるという可能性が実際に殺害された他者の場所を占有したことも事実だ。「他者」が消え去り、その場所に(「あなた」と全く同じ)「私」が登場することで、実際の死はその場所から消え去った。哀悼の対象は他でもない「私」になった。「私」は「あなた」だからだ。このような認識において「私」と「あなた」が同一ではないと主張するすべての差異は消去されるべきものになった。(中略)偶然にも生き残った者たちが、自身の生に責任を持つために社会に声を上げた政治的瞬間は、明らかに「生き残った私は何をなすべきか?」という問い、すなわち生に対するものだった。しかし、「私はあなただ」と言う瞬間、死の共同体を通じて生を語る政治的瞬間は消え去り、他者を存在しえなくする同一性の政治へと滑り落ちていった。*6

 

「私だったかもしれない」も「私はあなただ」も、生き残った「私が存在して発言している」という事実が重要である*7。しかし、前者が「生の偶然性と死の必然性に対する悟りを経由して、女性の生に対する自覚として、フェミニズムの政治として引き継がれ」る可能性を開くのに対し、後者はフェミニズムの政治の可能性を閉じるものである。

 

後者の問題は、生者の感覚が死者の空間を占有することにある。第三者の感覚が、ある特定の事象の空間やイメージを占有することで、その事象の渦中にいる当人の感覚がかき消される。「私はあなた」だからだ。「私」の感覚を「あなた」の感覚と同一のものとすることで、「私」の感覚が絶対化される。そこには「私」に対する反省規定も検証可能性も存在しない。他者の存在を消去して自身の主張を絶対化するとき、「私」の被害は他の誰よりも優先されるべき対象となる。これが囲い込みの心性の正体である。

 

 

「個人化」の時代

 

囲い込みの背景についてもう少し検討したい。というのも、「反差別」を名目とした昨今の囲い込みを心的な問題としてのみ捉えてしまうと、個人の良心や振る舞いの問題に回収されてしまうからである。筆者は、この問題は時代的背景を踏まえることで理解が深まるのではないかと考えている。そこで参照すべきタームとして挙げるのが「個人化」である。

 

社会学ウルリッヒ・ベックは、20世紀最後の四半世紀に先進国が「第二の近代」に入ったと述べ、この時代において生じている新たな事態の一つを「個人化」という術語で分析した*8。それまでの「第一の近代」では国家や家族、企業をはじめとする中間団体が個人と社会の間に存在し、個々人はそれらの社会形態や紐帯、規範に組み込まれていた。しかし、「第二の近代」では中間団体の存在意義が弱まり、その結果、個々人は階級や家族、職業システムから解き放たれ、個人と社会が直接関わりを持つようになった。ベックはこの事態を「個人化」の過程として分析した。

 

この過程は何を意味するのか。一つは、人々のアイデンティティが不安定になることである。階級や家族、企業に対する帰属意識が弱まることで個々人のアイデンティティは所与のものではなくなってしまう。「第二の近代」においてアイデンティティは「あたえられるもの」ではなく「獲得するもの」となった*9。そしてアイデンティティを獲得する過程で生じる責任やその結果はほかでもないその行為者自身の責任になり、個々人がその拠り所を得られるかどうかの責任も自身に委ねられてしまうのである。

 

 

「個人化」の時代のフェミニズム

 

「個人化」という切り口からフェミニズムについて考えてみる。女性の雇用の増加やセクシュアリティ、恋愛関係の変化は「第二の近代」以前から起きていたが、グローバル化や国家形態の動揺が顕著になった近年は地理的移動性、雇用機会の分化、社会移動、世代間変化が大きく促進された。この変化はエリザベート・ベック=ゲルンスハイムが言うように、女性の人生が「他の人のために生きること」から「自分独自の人生」へ移行していったことを示している*10

 

もちろん、このことは女性に対する「抑圧」がなくなったことを意味するのではなく、むしろ不明瞭かつ複雑になってきたとさえいえる。労働市場は性別によって分割された二重構造になっている。例えば、家庭外の仕事に就く結婚した女性は家庭内の労働から解放されておらず、家族のために家事労働をこなさなければならないことが多い*11。そのうえで自身の仕事の成功も期待されている。しかし、ポストの不足や不安定な職業の増加により、女性の労働市場におけるリスクは悪化している。「自分独自の人生」を歩むことは困難を極めるだろう。このような時代においては求められるのは、自分独自の人生をうまくやり過ごすための「自分だけのフェミニズム」である。

 

個人がすべてのことを乗り越えていかなければならない新自由主義社会において、自分の意味を確認することは他人との関係ではなく、自分との関係を通じて行われる。このとき、一部の女性たちには、自分だけのフェミニズムが一時的に必要となる。生存の個人化が強く進んでいる資本主義的絶対主義的社会において女性たちを動かす力は、「社会正義としてのフェミニズム」というよりも、各自の状況の中で自分の利益になりうるかどうか、すなわち「利益集団としてのフェミニズム」の性格を強く帯びるようになるからである。*12

 

囲い込みを目的とするフェミニズムのなかに社会正義は存在しない。彼女たちが求めることは「自分のパイを求める」ことだけであって「人類を救」うこと、すなわち公正な社会を実現することではないのだ*13

 

自分(あるいは自分たち)の利害を囲い込むことを優先する思想は自分と他者との間に序列をつくりだす。優先的に利益を享受するためには、自分が「正常」であるという正統化と、排除すべき他者がいるという正当化を同時に行わなければならないからだ。チョン・ヒジンの警句は傾聴に値する。

 

「先に/後で」の政治を主張する人たちは、自分自身を「後先」の基準にする。自分の時間が現代性(contemporary)なのだと主張することで、時代の唯一の主人公であろうとする。しかし、(特にジェンダー問題においては)「誰が先で、誰が後なのか」を問いただすよりも、そのような考え方自体が、まさに人間のヒエラルキーを前提とした発想であることを知るほうが大切である。歴史は語る。あらゆる権力の作動原理は、排除する主体が誰であり、排除される対象が誰なのかによって決定されるということを。そして、その権力によって「優先視される女性」の人権すら、「後に実現される女性」の人権によって決定されるという事実を。*14

 

 

群衆と党

 

では、「個人化」が進む時代で社会運動はどのように展開されるべきなのか。

 

ベックらとは別に個人化の問題を取り上げてきた学者の一人にジョディ・ディーンがいる。ディーンは今日の資本主義の編成を「コミュニケーション資本主義」の特性として分析することで知られる政治学者である。政治学者の水嶋一憲はディーンの理論を用いて、コミュニケーション資本主義の時代における個人化という現象を次のように説明する。

 

コミュニケーション資本主義の時代は、強いられた個人性の時代でもある。つまりそこでは、「個人的なことは政治的なこと」という支配的な権力構造を攪乱するための問題提起が、「政治的なことは個人的なこと」ないしは「個人的なことのみが政治的なこと」という、個人主義を基盤にしたアイデンティティ政治へと反転されてしまうわけである。けれども、政治的なものとは本来、個人的なものを突破して、未来の横断個性性に向けて開かれる運動であったはずだ。逆に言えば、個人性とは共有地コモンズとしての集合性を囲い込むための形態にほかならないのである。その意味で、個人化の強制は群衆の囲い込み運動に等しいともいえよう。*15

 

ディーンはまた自身の理論をベースに左翼政治に対する提言も行っている。その主張によれば、21世紀のインターネット以後の左翼政治にふさわしい集合的な政治組織は、近年、日本でも称揚されがちな水平的・自律的・協働的なネットワークという形態ではなく、長年、遠ざけれらてきた党という形態にほかならないというのである*16

 

党の役割とは「集合体のために集合的欲望を可能にするよう、われわれの環境にギャップを開けておく点にある」*17。群衆が、予測可能な規定状況を突破し、そこに亀裂を生じさせることで政治的主体の生み出される可能性が生まれる。党はその裂け目に入り込み、人民のためにそれを開けておくよう奮闘するのだ。「その党が群衆という出来事の平等主義的な解放=放出ディスチャージに忠実であるかぎり、それはコミュニスト党なのである」*18

 

2010年代以後の群衆闘争はコミュニケーション資本主義のネットワークと親和性が高い。例えば、#Metoo 運動は性暴力に対する反対からフェミニズムの政治の可能性を切り開いたが、そこから派生した一部の運動は「女性」の利害を囲い込むために悪魔化した表象をつくり出し、排他的な主張を拡散することでフェミニズムの政治の可能性を閉じてしまった。「平等主義的な解放=放出」のモーメントを個人主義的なアイデンティティ政治へ反転させることは、「反差別」でも、「反資本主義」でもない。

 

ディーンの構想するコミュニスト党は、「そうした危険に抗して、群衆が開示する平等の強度と欲望に忠実でありつづけながら、群衆が消え去った後もそれらを持続させ、組織された政治闘争へとそれらを水路づけていく働きを担うもの」なのである*19。政治も社会運動も閉塞化しつつある日本において、今日の社会状況は群衆と党との関係を再考する絶好の機会とはいえないだろうか。

 

 

*1:私(わたし)の立場については以下の記事で書いた。

zineyokikoto.hatenablog.com

*2:クォンキム・ヒョンヨン「性暴力の二次加害と被害者中心主義の問題」クォンキム・ヒョンヨン編、影本剛/ハン・ディディ監訳『被害と加害のフェミニズム』(解放出版社、2023年)、p71

*3:同、p71-72

*4:同、p72

*5:同。

*6:同、p72-73、傍線強調部は筆者。

*7:同、p71

*8:伊藤美登里『ウルリッヒ・ベックの社会理論 リスク社会を生きるということ』勁草書房、2017年、p94

*9:ジグムント・バウマン著、森田典正訳『リキッド・モダニティ』大月書店、p42。または、「ジグムント・バウマンによる序文 個人として、他者とともに」ウルリッヒ・ベックエリザベート・ベック=ゲルンスハイム著、中村好孝他訳『個人化の社会学』(ミネルヴァ書房、2022年)、xviiiを参照。

*10:エリザベート・ベック=ゲルンスハイム「「他の人のために生きること」から「自分独自の人生」へ 個人化と女性」ベックほか、同、p91-142

*11:同、p110

*12:チョン・ヒジン「被害者アイデンティティの政治とフェミニズム」クォンキム・ヒョンヨン編、前掲書、p240

*13:キム・ジナ著、すんみ・小山内園子訳『私は自分のパイを求めるだけであって人類を救いにきたわけじゃない』祥伝社、2021年

*14:チョン・ヒジン、前掲論文、p215

*15:水嶋一憲「ジョディ・ディーン」伊藤守編『メディア論の冒険者たち』(東京大学出版会、2023年)、p332

*16:同、p331

*17:ジョディ・ディーン「二重権力再び」フレドリック・ジェイムソン著、スラヴォイ・ジジェク編、田尻芳樹・小澤央訳『アメリカのユートピア 二重権力と国民皆兵制』(書肆心水、2018年)、p142

*18:水嶋、前掲論文、p331-332。またはディーン、同、p142を参照。

*19:水嶋、同、p332-333