搾取に反対することは生きることに反対することだ

「ケアしケアされ生きて」いかなければならないという不当さ

 

善悪の彼岸』に次のような記述がある。

 

侵害・暴力・搾取を互いに抑制し、自己の意志と他人の意志とを同列に置く、――このことは、もしそのための諸条件が与えられているならば(すなわち、彼らの力量や価値規準が実際に相似しており、しかも彼らが同一の団体の内部に共に属しているならば)、或る大雑把な意味では個々人の良俗となりうる。しかしこの原理を更に広く取って、できうべくんば社’会’の’根’本’原’理’としようとするや否や、それは直ちに生の否’定’への意志であり、解体と頽廃の原理であるというその正体を露わにするであろう。ここでは、その理由を徹底的に考えて、すべての感傷的な弱弱しきを斥けなければならない。生そのものは本’質’上’、他者や弱者をわがものにすることであり、侵害することであり、圧服することであり、抑圧・峻酷であり、自らの形式を他に押しつけることであり、摂取することであり、少なくとも、最も穏かに見ても搾取である。(強調部は原文傍点部、下線部筆者)*1

 

いましも到るところで、科学的な仮面すらつけて、「搾取的性格」がなくなるはずの社会の来るべき状態について熱狂的に云々されている。――これは私の耳には、有機的な諸機能を停止した生といったものの発明を約束することのように聞こえる。「搾取」とは頽廃した社会や不完全で原始的な社会に属するものではない。それは有機的な根本的機能として、生あるものの本’質’に属する。それは生の意志そのものにほかならぬ本来の力への意志の一つの帰結である。(同上)*2

 

私(わたし)は常々「よきこと」を為す人々の狡猾さや搾取について問題を提起している。しかし、狡猾さや搾取そのものは問題であると思っていない。なぜならば、狡猾さは生きるための知恵であり、搾取は生きるために不可欠な要素であるからだ。

 

人は生まれながらにして一人では生きていくことができない。この世に生くるものは「ケアしケアされ生きていく」存在である。この事実が不当でなくてなんだろうか。誰かに助けてもらわなければ生きていくことができない。この不当さを認識することから出発しないケア論はすべて無価値であるとすら思う。

 

搾取を自覚することで初めて対等な関係が築かれる

 

先日の記事で私(わたし)は当事者研究発の「依存先を増やす」言説の欺瞞を批判した。
zineyokikoto.hatenablog.com

 

ここで言いたかったことは、搾取だから悪いということではなく、搾取していることを自覚しろということだった。他者を搾取しなければ生き物はその生を全うできない。この理こそが不当である。だから各々はせめて搾取をしている現実に向き合うべきなのだ。そうすることで初めて他者との対等な関係は築かれるとわたしは信じている。

 

イスラエルパレスチナと自己陶酔的な他者否認の思考

 

かつてニーチェは、「搾取」に反対することは、生きることに反対するようなものだと警句を発した。問題なのは、搾取があるかどうかではなく、いかなる種類の搾取がはびこっているかなのだ。植民地化について、同じことがいえる。もっとも一般的にいえば、植民地化することは、特定の空間に移り住み、占拠し、住まうことである。植民地化をこのように広義に理解することは重要であり、なぜならそれにより、植民地化にはそれに代わる別のもの(オルタナティブとルビ)など存在しないという事実を、私たちは突きつけられるからである。地上に存在したければ、私たちは移り住み、占拠し、住まわなければならないのだ。その環境を誰’が’植民地化しそこに移り住むのか、ど’の’よ’う’に’占拠し住まうのか、という問いに向き合うときこそが、根源的(ラディカルとルビ)な再-植民地化。もうひとつの(オルターとルビ)植民地化の可能性が開けるときなのだ。*3(強調部は原文傍点部、下線部筆者)

 

ガッサン・ハージ『オルター・ポリティクス』はその紙幅の大半をパレスチナ問題に割いている。イスラエルパレスチナを通じてハージが批判するのは、自己陶酔的な他者否認の思考である。

 

ハージは「自己陶酔的なナショナリズム」という分析概念を提出しており、それを駆動させるのは自分が帰属するホームとなる空間の創出である。一方で、ホームの創出を妨げるのは、敵対的意志を持った「他者」である。ハージはまた「政治的虐殺」(バールフ・キマーリングの語)という概念を援用しているが、それは他者を客体化させ彼らの政治的意志を否認する。そして他者の政治的意志の否認は他者の非人間化に直結する。まさにこの瞬間、ガザで行われていることは「政治的虐殺」であり「他者の非人間化」「他者の否認」を伴った自己陶酔的なナショナリズムが辿り着く極点なのだ。*4

 

一方で、パレスチナもまた自己陶酔的なナショナリズムを示してきた。それは驚くべきことではない。「なぜなら、このナショナリズムの様式がもっとも強く生起してきたのは、反アンチ植民地主義ナショナリズムの歴史においてだから」である*5

 

それは「私たちは被害者であり続けてきた。(中略)だからこそ私たちにとっての目標とは、私たち自身が再び力を得ることなのだ」と言う諸集団の歴史である。目的は「私たち」の方にあるのだ。

(中略)こういうナショナリズムは、自己陶酔的(ナルシスティックとルビ)だといえる。なぜなら、ときに根源的(ラディカリーとルビ)なところから、それは「[他者と]共に在る(be with)」ことへの願望を失っているからだ。たとえば、あらゆる抑圧や搾取が伴っていたとしても、植民地主義とは、一つの関係性であり、共に在ることのひとつの形式だといえる。悪い関係性ではあっても、関係性は関係性なのだ。そうであるがゆえに、理念的には――そして、多くの人が理想主義的な観点から述べていると私は確信するが――、反(アンチとルビ)植民地主義植民地主義権力による自己陶酔的ナショナリズムにとって、それとは本当に異なるナショナリズムのあり方をもたらす別の選択肢(オルタナティブとルビ)であるならば、植民地化された人々が植民地化した人々を犠牲にして、ただ自己肯定感を得る以上のことを、それはめざすべきなのだ。それは、元植民者との関係性が存在することを受け入れ、その「悪い」関係を「良い」関係へと変えていくことも、めざさなければならない。*6(下線部筆者)

 

イスラエルパレスチナは特にそうだが、難しい政治的問題に際しては友/敵の論理があてはめられ、どれだけ慎重に語ろうとも「どちらの側につくのか」という党派的関心に回収されてしまう。それは不当なことだ。その不当さを斥けるために、ハージの言う「関係論的な要請」*7、すなわち、悪い関係性をどのように良い関係性に変えられるのかが求められる。イスラエルパレスチナについて向き合う者、批判的知識人はこの重要な問いの前に立ち尽くすべきではないだろうか。

 

エンパワリングと自己陶酔

 

長くなるが先に引用した箇所直後の段落を抜粋したい。

 

パレスチナ人は、それとは程遠い状況にある。だが、被害者に「関係性」について考えさせるのではなく、「自らを力づける(エンパワリングとルビ)」ように励ます論理は、植民地主義的な現象には留まらない。それは反(アンチとルビ)レイシズムのあらゆる形式においても見られる。レイシズムの標的となってきた人々は打ちのめされてきたのであり、だから反レイシズムの目標は力づける(エンパワーとルビ)ことなのだ。これはセクシズムと反(同)セクシズムの論理においても見られる。女性たちは打ちのめされてきたから、反セクシズムは彼女たちを力づけることをめざすのだ。力を奪われた者を力づける(エンパワリングとルビ)という概念は、こうした闘争のいたるところで健在であり、遂行されている。だから、まさにこうした闘争が不当にも本質的に自己陶酔的(ナルシスティックとルビ)なやり方で遂行され、被害者が関係的世界から逃避して、自分たち自身のことだけを考えることが正当化されているように感じている状況を、認識すべきときなのだ。*8(下線部筆者)

 

この文章を読んでトランス差別を扇動するセクシストのことを想起せずにはいられなかった。ちょうど性別変更の不妊化要件が違憲と判断されたタイミングなのでなおさらである。反レイシズムは自己陶酔的なエンパワリングを歴史的に行ってきた。そしてそのやり方は決して他者と良い関係を築こうという方向にはいかない。「わたしは面倒なことには二度と関わりたくない。自分で自分を律することができなくなるような場面に、でくわさないようにしよう」といった発想である*9。こうした反レイシズムは、しかしながら、植民地主義的・反植民地主義ナショナリストの自己陶酔と同根だとハージは言う。「悪い関係性をどのようにして良い関係性へと変えられるのか。関係論的に考え、そして自己陶酔的な存在の自己肯定という観点から考えないことが、進むべき道なのである」*10

 

*1:ニーチェ著、木場深定訳『善悪の彼岸岩波文庫、1970年、p267-268

*2:同、p268-269

*3:ガッサン・ハージ著、塩原良和監訳『オルター・ポリティクス』明石書店、2022年、p8-9

*4:同、p249-250、p368-369

*5:同、p251

*6:同、p251-252

*7:同、p262

*8:同、p252

*9:同、p253

*10:同、p262