「活動家ガー」という時の「活動家」とはいかなる存在を指しているのか

他者化の動員としての「活動家」

 

日本のジャーナリストは本当に腐敗がすさまじいと思う。

 

 

 

これに茶谷さやか氏や貴堂嘉之氏らが「いいね!」をつけているのだから、日本の歴史学者のトランス差別に対する関心もその程度だったのかとあきれるほかない。

 

 

ところで、治部のツイートで使用されている「活動家」という語は「よきマイノリティ」との対比として右翼がしばしば用いるものである。

 

マジョリティは自分達に都合のいい存在として、既存の制度や規範に異議申し立てをせず黙って差別を受け入れるマイノリティという表象を作り上げる。少しでも差別や不正義に抗議するマイノリティは他のマイノリティ集団と区別され他者化される。大多数のトランスジェンダーは"よきマイノリティ"であるのに活動家らが子どもたちを不幸にしているんだ、という陰謀も他者化の例に倣ったものである。

 

「活動家」という揶揄が他者化を伴ったマイノリティへの憎悪の動員であることはこれまで多くの人々によって指摘されてきた。しかし、この揶揄にはもう一つ重要な意味が込められている。それは、賃労働規律に束縛されず市場からも自由な独立した存在として浮上する「活動家」である。

 

労働倫理の形成

 

社会学者であるジグムント・バウマンはその著書のなかで近代の労働倫理について言及している。バウマンによれば、労働倫理とは一つの戒律であり、二つの明示的な前提と、二つの暗黙の信念から構成されている。

 

第一の明示的な前提は、幸福に暮らすために必要な何かを得るために、人は、賃金を受け取るに値すると他の人々からみなされることを行わねばならず、「無料のランチなどなく」、常に「ギブアンドテイク」の関係にあり、後で与えられたいのなら、最初に与える必要があるということである。

 

第二の明示的な前提は、すでに獲得したもので満足してしまって、それ以上を望まず、それ以下で我慢してしまうのは悪いこと(道徳的に有害で愚かなこと)であり、自分の持っているもので満足できそうだと、それ以上手を伸ばそうとしないのは恥ずべき不合理なことであり、また、さらなる労働の活力を得る以外の目的で休息を取るのは不名誉なことだというものである。言い換えると、働くことそれ自体が崇高で賞賛される活動なのである。

 

戒律は次のように続く。自分にもたらされるものが、自分がまだ持っていないものなのか、自分には必要でなさそうなものなのかがわからなくても、人は働き続けるべきである。働くことは善であり、働かないことは悪である。*1

 

一方の暗黙の前提とは、第一に、「大半の人間は労働力を保有しており、それを売ることで生活の糧を得て交換に値するものを得る」ということである。労働こそが人間の正常なあり方であって、働かないことは異常なのだ。そして第二に、「他の人々から承認される価値ある労働は、給与や賃金を要求し、売却できて購入してもらえそうな労働、労働倫理が命じる道徳的価値のある労働だけだ」というものである*2

 

労働倫理は長い時間をかけ、厳格で融通が利かない工場規律を労働者間に浸透させ、人間が維持している習慣や嗜好、欲望の正統性を否定した。その過程で貧窮者や老人、障害者を切り捨てる論理が発達した。労働倫理は、賃金労働によって支えられる生活であれば、どれほど悲惨な生活でも道徳的に超越していると主張する倫理であった*3

 

労働倫理の教義を推進する初期のイギリスにおいて救貧法は重要な役割を果たした。法の推進者は決まりきった労働の不快さを避けようとする"偽装貧民"と「真の貧民」を区別し、真の貧民とされた者が救貧院以外で生計を立てる道を閉ざした*4。また、救貧院の環境を劣悪にすることで貧民に労働を受け入れやすいものにし過酷な労働に耐える強度を高めた。このようにして「働くことは善であり、働かないことは悪」という規律や価値観が強制されていったのである。

 

労働倫理から逸脱する「活動家」

 

さて、このようにして形成された近代の労働倫理が現代の価値観にどのような影響を与えているかをみてみよう。

 

例えば、生活保護バッシングである。賃労働従事者にとって、市場の承認を得た収入こそが唯一「正当な」収入である。そのうえで、生活保護受給者は働かないばかりでなく市場を媒介とせず「不正に」収入を得る存在として映る。受給者は労働倫理から逸脱しているために激しい攻撃の対象となるのである。

 

冒頭の話題に戻ろう。労働倫理を疑わない人々にとって活動家は、本来であれば賃労働に充てられるべき時間と労力を、社会正義という市場外の活動に充てるために労働倫理から逸脱した存在として映る。実際に「活動家」と揶揄される人々が賃労働に従事しているかどうか、どのような生活を送っているのかについてはどうでもよい。揶揄の時点で既に他者化がなされているからである。

 

シスジェンダーはなぜ「特権」を否定するのか

 

筆者は、トランス排除派がシスジェンダーの特権を否定する動機についても労働倫理から説明を試みたい。

 

在日特権」や「同和利権」などの差別語に代表されるように、差別主義者は「特権」をマイノリティが特別な利益を享受するものとして捉えている。このイメージを援用してシスジェンダージェンダー構造に基づく「特権」の存在を否定する。我々シスジェンダーは市場に隷属することで「正当な」権利を得ているのだから、市場の外で「不正に」取引を行い利益を享受するような奴らと一緒にするな、ということだ。

 

トランス排除のための口実としてトイレや風呂の安全性が度々引き合いに出される。現代では共同トイレにしても共同風呂にしても必ず私的所有権を持つ者がいる。共同のトイレや風呂の利用はその私的所有を脅かさない範囲で許されているにすぎない。トイレや風呂へアクセスする”正当な”権利とはブルジョア的権利に他ならない。

 

特権を立場理論の用語として解釈しても同様のことが言える。立場理論において特権とは「与えられた社会的条件が自分にとって有利であったために得られた、あらゆる恩恵」のことを指す*5ブルジョア的権利は所与のものとして自然化されているため、自分がその恩恵に浴していることに気がつかない。それどころか、特権を持たない者については労働倫理ないし私的所有のルールに違反しているがために権利を持たないのだとして構造的不平等の存在を否定する。特権を否定することは資本主義の倫理を内面化しているがゆえに可能な振る舞いなのだ。

 

労働倫理とジェンダー規範

 

ここまでは労働倫理の観点から賃労働規律に従わない存在に対するバッシングについて説明してきた。しかし、セクシストが動員する「トランス活動家」という他者化の背景を理解するには、近年の労働倫理の変容と政治の再編という背景について押さえておく必要があると思う。

 

スチュアート・ホールとアラン・オシアはグラムシの理論を用いて、福祉国家が解体され新自由主義に基づく新たな政治に移行する過程を明らかにした。その際に大きな役割を果たしたのがタブロイド紙リアリティTVの連続番組等の大手メディアだった*6。緊縮財政の下、福祉を縮小させるためにメディアは生活保護を不公平なものとして描き、人々の生活保護受給者に対する共感を低下させた。アンジェラ・マクロビーは、この政治体制の移行過程で女性性の規範が変容、強化されることを指摘した。

 

...イギリス社会が完全にネオリベラルな体制へと変遷した際に鍵となる要素の一つは、恵まれない立場に置かれた女性たちが、母としての義務や実際に母親になりたいという欲求よりも、有給労働と(しばしばもっとも低賃金の)「妊娠阻害雇用」を優先せざるを得ないということだ。仕事をすることは女性の人口層にとって確たる社会的地位を示すものとなる。というのも、彼女たちには働いているという自己定義が必要不可欠でありながら、与えられないことが多いからである。商業的に承認されているだけでなく国家に後援されている女性性は、一世紀以上にわたって白人ミドルクラスに基づく容姿や性質、行動、ものの見方に関する規範を定義づけられ、推奨されてきた。そうした価値観およびそれらが暗に示す社会的地位を遵守できないというのは、事実上、女性になることに失敗しているということだ。*7

 

セクシュアリティアイデンティティが社会的地位を獲得できるかどうか問われている現在、女性の労働倫理は新しい道徳経済を構成している。生活保護を受けることは経済的困難よりもはるかに多くのことを示唆し、女性性の維持に失敗したことや根深い羞恥の感覚も意味している。*8

 

福祉制度の再編と女性性の強化がトランス排除に与える影響は少なくない。その社会でモデルとされる女性性から逸脱することは恥であるため、より一層自身の女性らしさをアピールすることが求められる。一方で、トランスジェンダーの経験はシスジェンダーのそれと違うばかりでなく、雇用や経済状況において深刻な問題を抱えている。さらにメディアもトランスジェンダーの経験を「失敗」であるとシスジェンダーの立場からジャッジする。そして「活動家」は福祉が縮小されている状況でも市場外の活動に勤しんむ者として非難される。「活動家」という他者化は資本主義の問題なのだ。

 

*1:ジグムント・バウマン著、伊藤茂訳、『新しい貧困 労働、消費主義、ニュープア』、青土社、2008年、p14-15

*2:同、p15

*3:同、p28

*4:同、p28-30

*5:キム・ジヘ著、尹怡景訳、『差別はたいてい悪意のない人がする 見えない排除に気づくための10章』、大月書店、2021年、p30

*6:アンジェラ・マクロビー著、田中東子、河野真太郎訳、『フェミニズムレジリエンスの政治 ジェンダー、メディア、そして福祉の終焉』、青土社、2022年、p136、143

*7:同、p136-137

*8:同、p137