告発の受け止め方は地震のようなものである

昨日の記事で、フェミニストは起きてしまったことに対して態度を表明するため、告発に対するフェミニストの態度は必然的に後手にまわると書いた。

zineyokikoto.hatenablog.com

 

このことを少し掘り下げて考えようとした時、ふと告発の受け止め方とは地震のようなものだなと思った。

 

まず地震というのは予知が不可能で事前に防ぐこともできない。もちろん地震が起きた際の対応マニュアルは平時から準備されているものだが、そのマニュアルに沿った対応も結局は地震が起きて初めて講じられるものだ。

 

告発も同じである。告発がなければ、周囲の人間はどんな問題が起きているのかも知らないし想像もできない。告発されるような問題の予防はできるかもしれない(ハラスメントの講習会を実施する等)が、「よきこと」を為す支配者たちは自身の行動がたとえ「あきこと」だとわかっていたとしても暴力を振るう場合があるし、様々な方法で暴力の存在を隠し通そうとする。だから「よきこと」の告発は事件が起きてから時間が経った後でなされるのが常である。平時からどんなに準備していようとも地震被害の規模の把握と対応に時間がかかるように、告発後の対応も事実確認から加害者の処遇を決定するまでに時間がかかってしまう点で同じである。

 

告発と地震のアナロジーで考えるべきは「揺れの強さ」と「距離・時間」である。

 

震源、すなわち告発を行う被害者もしくは告発を受ける加害者との関係が近いほど、告発を重大で深刻なものだと受け止めやすくなる*1。また、告発に関わる者と近しい間柄でなかったとしても、告発があった場所や分野等が、自身の属性や職業、趣味嗜好等との関係で共感や関心を持った場合も「震源」からの「揺れの強さ」を大きく感じやすくなるものである。

 

「距離・時間」のアナロジーは、告発に対する関心の程度を譬えたものである。「震源」の事柄から関心が遠ければ遠いほど、告発内容の重大さを認識する度合いは低くなるばかりか、告発そのものの存在に気付かないことすらある。また、震源から遠いほど震度は小さくなり、地震の”ラグ”も発生する。告発が行われた際、被害者と加害者それぞれの関係者の間では迅速に受け止められるだろうが、部外者の場合、何年も経ってから告発の存在に気付くことも多々ある。

 

また、「震源」からの距離が近くても、「揺れの感じ方」は人によって異なる。これについては少し説明が必要だろう。

例えば、自分の住んでいる地域で震度4の地震が発生したとする。気象庁によれば、震度4は「ほとんどの人が驚く」「電灯などのつり下げ物は大きく揺れる」「座りの悪い置物が、倒れることがある」ほどの揺れであるという*2。それなりに大きい揺れである。

 

しかし、「ほとんどの人が」揺れを感じるとあるように、その人の置かれた場所や状況によっては大きな地震でも揺れを感じないことがある。反対に、実際の震度よりも大きい震度であるように感じることもある。過去に大きな地震を経験した人と初めて地震を経験する人の間では揺れの感じ方も大きく変わるはずだ。震度と「揺れの感じ方」は場所や状況、その人の経験等によって異なることがある。

 

告発もやはり同様だと考えられる。「震源」からの距離が近くても告発内容への関心が低ければ(ないし告発を受け止める余裕がなければ、告発内容を認めたくなければ)、告発の重大さをそれほど認識できない(しない)かもしれない。もしかしたら、実際の震度と揺れの感じ方が異なるために反発すら起こすかもしれない。「あなたは震度4の揺れだって言っているけど、わたしにとっては震度2くらいだったよ」と*3

 

「余震」のアナロジーについてもふれておきたい。告発は最初の衝撃だけでは終わらない。告発が起こるほどの出来事には複数の被害者や事例が埋もれていると考えた方がよい。最初の告発に続いて第二、第三の告発者が現れることもあるし、まったく関係がないと考えられたところから被害事例が出てくることもある。告発の「余震」である*4

 

余震には別のパターンもある。告発の存在が知られるようになると告発者を標的とした誹謗中傷も多くなる。また、大きな地震が起きた数年後にその余震が発生する場合があるように、過去の告発が不意に顧みられ、自説の補強のために利用されたり、不当な解釈をされてそれが広まったりすることも少なくない。これが規模の大小にかかわらず何年にもわたって繰り返されることもあるのだから告発とはこわいものだ。先の反発の例は二次加害の例でもあるが、こうした「余震」もまた告発者にとって辛い二次被害となってしまうだろう。

 

ただ、地震と告発には大きな違いがある。地震は避けることができないもの、いつか必ず起きてしまうものであるのに対して、告発を起こす状況に追い込まれた出来事はそもそも避けられたはずのものであるという点である。私(わたし)が地震と告発のアナロジーを考察したのは、それぞれが発生した後に起きる不条理の問題を考えたかったからであって、告発された問題が発生する必然性を正当化するものでは決してないことはご了承いただきたい*5

 

そして、告発には告発者自らが<震源>となってしまうリスクがある。告発を受け止める者たちにとっては遠い地域で起きた出来事かもしれないが、告発を起こす当人は「地震」を起こす側であり、告発に対する反響をコントロールすることもできない。地震の規模は予測不可能だ。そのような不条理を背負わされること自体が不当なことである。だからまだ被害を明らかにしていない当事者には、告発をしないという選択があることも伝えたい。

 

「サバイバーよ、勇気を出すな」

 

アメリカの大学院でセクハラ被害を受け裁判を起こそうとしていた高橋りりすさんの言葉である。高橋さんは裁判を起こすために日本の性暴力被害支援団体に支援を要請したが断られ、運動団体や多くの「フェミニスト」から二次被害に遭った。下記の本はセクハラ被害を訴えようとするまでの経緯から、運動団体の勝手な論理や態度に対する指摘まで、高橋さんが経験し考えたことが書かれている。

 

このように誰かの過去の経験を紹介することもまた告発の「余震」であり、このことについて著者本人がどう思うかはわからない。しかし、わたしがこの本に多くの共感と示唆を受けたことは事実である。わたしはこの余震の<震源>になることによって、被害に遭うとはどういうことか、告発を起こすとはどういうことかを伝えたい。

*1:この時、告発者と関係が近い者と、告発を受けた者と関係が近い者では、告発の何が重大で深刻なのか、という中身の認識が変わってくる。前者の場合は告発内容そのものに対する深刻さを認識するだろう。一方で後者の場合、事の深刻さに加えて加害者と関係がある自身の立場・立ち振る舞いが問われてしまうことに対する重大さを認識するのである。

*2:気象庁 | 震度について

*3:自然災害の地震との比喩で考えると、反発の譬えは誇張になってしまうかもしれない。おそらくこのケースが適当なのはマイクロアグレッションが起きた場合であるだろう。また、「揺れの感じ方」の解釈を拡大して「あなたにとっては震度1くらいの衝撃かもしれないが、わたしにとっては震度6くらいの大きさだった」と例えることは可能であると思う。

*4:「本震」(=告発)の前兆としての「余震」(=周囲からの評価、噂話)もある

*5:だからこそ、考察の対象は”地震と告発”ではなく”地震と「告発の受け止め方」”なのである。