来るべき左翼の未来に向けて

マッテオッティ議員の暗殺

1924年6月、統一社会党書記長を務めていたジャコモ・マッテオッティ議員がローマでファシスト行動隊員によって暗殺された。同年4月の総選挙の際にファシストによる暴力的な選挙干渉があったことを、マッテオッティは5月に開かれた議会で告発していた。

 

暗殺から数日後に事件が判明し、これに抗議して社会党、人民党、自由主義諸派共産党が議事をボイコットして野党議員連合《アヴェンティーノ》を結成。これによりムッソリーニファシストが孤立し政治的危機が発生した。危機の最中、アントニオ・グラムシは「小ブルジョワジーの危機」と題する小論を執筆している。

 

マッテオッティ議員の暗殺によって生じた政治的危機はいまなお進行の最中であり、その最終結果がどうなるかはまだ言うことができない。

この危機は多種多様な側面を呈している。われわれはまずもって、金権支配と金融の世界の互いに敵対しあっている勢力のあいだで、国家の統治における優越的影響力をある勢力が獲得しようとし、別の勢力が保守しようとして、統治をめぐって闘争が再燃していることを指摘しておこう。(中略)彼らは...(略)...マッテオッティ暗殺にたいする憤激という仮面のもと、そして「正義」の名のもとに、国庫を積んだ船舶に乗りこんで国庫を強奪しようと画策している。今はまさに好機であって、もちろん彼らはこの機を逃すまいと懸命になっている(強調部は筆者。以下、引用箇所の赤色強調部は筆者の手による)。*1

 

ブルジョワ学者を弾劾する

安倍が死んだ。政治を私物化し、民主主義を形骸化させてきた政治家が死んだ。

 

現時点では、彼の死が引き金となった政治的危機はまだ発生していない。今の段階では事件後にやってくるであろう暗雲について語る言葉を持たない。故に自分の見識をアピールするためのホモソーシャル競争に入って行くつもりはない。ただ、わたしは、事件そのものよりも、事件を受け止めた”知識人”の反応の酷さに落胆したというだけである。

 

わたしが事件について知ったのは銃撃当日の午後であり、詳細を知ったのはその日の夜だった。情報が明らかになっていないなかでの発言は不用意と思い何もしゃべる気はなかったが、ある学者のツイートが目に入ってしまった。

 

 

民主主義とは言論と選挙」だと?

 

事件直後の時間帯の大学の授業での学生に向けた発言だそうだ。参議院選挙の最中というタイミングで言論と選挙の意義を伝える、というのはまあわかる。報道の仕方も含めて事件は確かにセンセーショナルなものであった。当然、学生の間でも動揺が広がっており、ケアが必要な人もいたかもしれない。

 

しかし、である。仮にも”良心的左派”として振る舞う学者の言動としては疑義を呈さざるを得ない。

 

「民主主義とは言論と選挙」であると言うことによって、この学者は沖縄を、在日外国人を、ここに書ききれないほどのマイノリティを切り捨てた。

 

ひどいのはこの学者だけではない。

webronza.asahi.com

 

宇野さんともあろうお方が、極右でも書けるような中身のない文章を書くなと思う。もっと踏み込んだ内容が書けたはずだ(追悼の強要をはじめとする内容にも同意できない)。あなたとってリベラリズムとはその程度の思想だったのか?こんな無内容で無味乾燥な文章をロールズが読んだら泣いてしまうぞ。知識人の劣化を嘆かずにはいられない。

 

哀悼されるべき生とされない生

安倍の死によって「暴力を許すな」という大合唱が始まった。

 

このスローガンを躊躇いもなく言える人たちにとって「暴力」とはいったい何を指すのであろうか?既に言及している人もいるが、暴力と哀悼をめぐってはやはりバトラーを想起せずにはいられない。

 

誰が人間としてみなされているのか?誰の生が<生>とみなされているのか?そして究極的には、何が生をして悲しまれるに値するものとなるのか?(原文では傍線部は強調点。以下、他の引用箇所も同様に表記。)*2

 

アメリカ合州国が起こした戦争の犠牲者の死を悼む記事はない。あり得るはずがないのだ。もし死亡記事があるとすれば、そこには生が存在していたことになる。心にとめておく価値のある生が、評価し記憶にとどめておくに足る生が、承認されてしかるべき生が、そこにあったことになるだろう。そうしたすべての人びとの死亡記事を書くなんて無理な話だ、そもそもあらゆる人間の死を記憶にとどめるなんてできはしない、と言われるかもしれないが、そうした死亡広告は悲しみの可能性をおおやけに流通させる手段として機能しているのだ。そのわけを何度でもくりかえし考えることが必要なのではないか、と私は思う。そのような手段によって、ある特定の生が、おおやけに悲しむことのできる生として国民が自己を承認するための象徴となり、他の生がそうなることができない、という差別が生み出される。そのような仕方で、ある生だけが承認されるに足る生となるのだ。その結果、死亡広告は国民の建設に寄与するものとなるのだが、ことは単純ではなく、もしある生が悲しむだけの価値がないとしたなら、それは生とは言えず、生としての資格がないのだから、心にとめておく価値がないということになるだろう。それは、そもそも埋葬することが不可能なもの、とまでは言わないまでも、初めから埋葬を想定されていない存在なのである。*3

 

安倍が銃撃された大和西大寺駅近くには早くも献花台が置かれ、多くの人が列をなして合掌しているそうだ。

 

入管ではウィシュマさんが暴行を受け亡くなった。大林三佐子さんは渋谷の路上で襲撃され亡くなった。政治家の死を悼み手を合わせる参列者のなかで、何気ない日常の一コマとして暴力を行使され、何気ない日常の一コマとしてその死が扱われてきた人たちに対して、同様の行為をしてきた人たちがいったいどれぐらいいるのだろうか。

 

「暴力」の内実を真摯に考えず、空虚なスローガンを躊躇いもなく叫ぶことは、申し訳ないが、ブルジョワ中産階級の発想であるとしか思えない。*4

 

可視性の政治学

わたしはさらに「そもそも暴力が起きていても「暴力」と認識することができない」という問題に立ち入ってみたい。これについてはバトラーも述べているところであり、過去にブログでも引用した。

zineyokikoto.hatenablog.com

 

バトラーに加えて、わたしはワディエルの議論もまた多くの示唆を与えてくれるものと考えている。ワディエルは著書『動物たちとの戦争(邦題:『現代思想からの動物論』)』において、ガルトゥングを引いて次のように述べる。少し長くなるが引用したい。

 

ガルトゥングは「個人的」暴力と「構造的」暴力の区別が「可視性」の政治学に対応することも指摘した。すなわち、個人的暴力は見えるのに対し、構造的暴力は隠される。

 

構造的暴力よりも個人的暴力に注目が集まるのはおかしくない。個人的暴力は目に見える。個人的暴力の被害者は普通、暴力を認知し、ことによると抗議しうる。他方、構造的暴力の被害者はそれを全く認知しないよう仕向けられかねない。個人的暴力は変化と活力の形をとり、波の上の波頭となるばかりか、のどかな水面に波を立てる。構造的暴力は音を立てず、目にも見えない――それはもとより静まった、のどかな水面である。静かな社会では、個人的暴力が人目に留まる一方、構造的暴力は周囲を取り巻く空気ほどに自然なものとみなされうる。

 

個人的ないし間主体的暴力の可視性は、少なくとも筆者の理解では、必ずしも「物理的」な意味で「見える」ものと定義する必要はない。 暴力を「物理的」に「見せる」戦略(つまり構造的暴力を個人的暴力として告発する戦略)は、制度的暴力の本質を捉え損なっているように思える。制度的暴力が隠されているというのは、それが視覚の外にあるからではなく、人々の知識体系がそれを暴力と認めることを拒むからである。したがって、屠殺場の内実を人々に暴露しようという一部の動物擁護派による提案(そこでは人々が死の光景を見て憤慨し、一夜にして食生活を改めると想定されている)は、この暴力の本質を射貫けていないかもしれない。そこで看過されているのは、人々が当の暴力を目にしても、それを暴力とみなさないというごくありがちな可能性で、これはちょうど、競馬のような他の動物搾取や暴力を目の当たりにしても人々が道徳的反発を覚えないのに似る。(中略)ここで問題なのは認識であり、暴力行為、あるいは加害者・被害者・目撃者のみるそれは、参照される知識体系の文脈内における意味づけを通して目に見えるものとなる。つまり、動物への暴力を認識できるのは、私たちの想像や思考が、それをありうることと認めた時のみである(暴力はそこに存在し、動物は正式な暴力の犠牲者たりうる、と)。*5

 

ワディエルの場合は動物の<主権>と生政治に関する文脈を前提として議論しており、先に引用した箇所以降では、対動物戦争における認識的暴力への抵抗が人間的観点の脱中心化を意味すると強調している。それだけにワディエルの議論は射程が広く、高次の次元からさまざまな議論に応用することが可能である。

 

たとえ目の前で”暴力”が起きていても、それが暴力であると認識する回路がなければ、そもそもわたしたちは暴力を認識することができない。安倍の銃殺が暴力であることに気づけたとしても、DVやハラスメント、選挙をはじめとする”民主主義制度”からマイノリティが排除されること、婚姻制度、スロープのない歩道、産業化した動物の屠殺・格納・繁殖システムがそれと同じ「暴力」であると認識できるとは限らない。

 

だからこそ、わたしたちは様々な抵抗と出会い、政治的労働を知り、"ハンマーを共鳴し合う=引きつけ合う"ことが必要なのではないだろうか*6

 

「民主主義の根幹たる選挙」という欺瞞

 

グラムシは先に引用した論稿で、反ファシズム闘争に加わっている立憲的反対派の無力さを指摘している。これらの党は小ブルジョワジーと「部分的には支配的金権層の周縁で生活していて、国の経済・金融界におけるその絶対的で圧倒的な支配の影響をこうむっているブルジョワジー」の層をも自分たちに引きつけようとし、いくらかはそれに成功した。だが、彼らの行動は当時の状況のなかで決定的な価値をもってしかるべきなのに「不確かで、あいまいで、不十分このうえない」。そしてこれら立憲的反対派の党は「ファシズムに反対する闘争を議会の場で解決できるという幻想」をはぐくんでいる。

 

イタリアのファシズムによる統治はその基本的性質が武装した独裁にあり、現実には、直接資本主義的金権支配と大地主たちのために働いている武装勢力で構成されていた。だから「ファシズムを打倒することは、結局のところ、これらの武装勢力を決定的なかたちで粉砕することを意味している。そして、これは直接行動の場でしか達成できない。いかなる議会的解決も無力だろう。」*7

 

事件直後から与野党を問わず「民主主義の根幹たる選挙」というワードが連呼されていることは、まさに「ファシズムに反対する闘争を議会の場で解決できるという幻想」に裏打ちされているからに他ならない*8

 

民主主義とは直接行動である

議会的解決の幻想を打ち破り、これからやってくる危機を乗り越えるために左翼は何をなすべきなのだろうか。

 

そもそも、小ブルジョワ知識人はなぜ民主主義を「言論と選挙」に矮小化したがるのであろうか。

 

それは、彼らが民主主義の厳然たる事実を口にすることさえも恐れているからだ。民主主義とは直接行動であるという事実を。

 

彼らは直接行動が怖いのだ。健常者で、シスヘテロ(の男性)で、しかも大学教員という特権に甘んじている彼らには、ホモソーシャルの湯船が気持ちよくて仕方がない。その湯船に浸かっていたいという気持ちと、自らの持つ特権や権力に歯向かう勢力が怖いという思いが同居している。安全な立場から左翼面をしていたい彼らは、マイノリティによる批判の矛先が健常者のシスヘテロ左翼に向かわないようにするために、民主主義とは直接行動であるという事実を覆い隠すのである。

 

しかし、我々はそのような隠蔽には屈しない。グラムシの言葉が我々を鼓舞するだろう。

 

これ(筆者注:労働者階級みずからの利益と最も基本的な権利)を獲得するためには、真面目に勝利することが可能な場、すなわち直接行動の場において、それらの武装勢力と闘う必要がある。ブルジョワ国家に、たとえそれが自由主義的で民主主義的な国家であっても、この任務を託すのはお人好しというものだろう。ブルジョワ国家は、自分がブルジョワジーの特権を防衛してプロレタリアートを従属させておくのに十分なだけ強力だと感じない場合には、躊躇することなくそれらの武装勢力の支援に頼るだろう。

以上すべてのことから、ファシズムへの真の反対行動はただひとり労働者階級によってのみ指導されうる、という結論が出てくる。われわれが総選挙のときにとった、ファシズムを打倒するための現実的で効果的な唯一の基礎としての「労働者的反対派」を立憲的反対派に対置するという立場が、いかに現実に合致したものであったかは、事実が証明している。労働者ではない勢力が反ファシズム闘争の前線に合流しているという事実は、労働者階級がこの闘争を先導する案内人でありうるし、またあらねばならない、というわれわれの主張に変更を迫るものではない。

しかしまた、労働者階級はみずからの団結を図らなければならないのであって、団結のなかにこそ労働者階級は闘争に取り組むのに必要なすべての力を見いだすことになるだろう。ここから、すべてのプロレタリア組織はファシズムに反対してゼネストに入ろう、という共産党の提案が出てくるのである。また、ここから、めそめそと涙している無力な社会民主主義者たちを前にしての、われわれの態度も出てくるのである!*9

 

ここでいう"労働者階級"とは、今日、ネグリ=ハートが言うところの「階級プライム」や、スティグリッツやグレーバー、そしてアルッザ、バタチャーリャ、フレイザーらが言うところの「99%」がそれに当たるだろう。つまり、直接行動の重要性を訴えるグラムシの問題意識を継承しつつ、古典的な意味での「階級」の復権ではなく交差性を意識した反ファシズム、反レイシズム闘争が現代では求められている、ということだ。

 

来るべき左翼の未来に向けて、我々は「めそめそと涙している無力な社会民主主義者」たちの前に態度を示そうではないか!

*1:グラムシ「小ブルジョワジーの危機」『革命論集』講談社学術文庫。船舶の例えを使っているのは、省略した箇所でグラムシが現行の金融政治のパトロンたちを「底荷(バラスト)」に例えているからである。なお、筆者はkindle版を参照している関係上、ページ数については記載を省略した。

*2:バトラー著、本橋哲也訳『生のあやうさ 哀悼と暴力の政治学以文社、2007年、p48

*3:同、p72-p73

*4:とはいえ、である。中・小のブルジョワ中産階級が空虚なスローガンの大合唱に終始してしまうのは、この事件がその階級の人々にとってまさに「危機」であるからなのだ。グラムシは先に引用した文章の続きをこのように綴っている。

<しかしながら、労働者階級の観点からは、最も重要な事実は別のことであり、正確には、ここのところのさまざまな出来事が中・小ブルジョワ層のあいだにこのうえもなく強い反響を呼び起こしているという事実である。小ブルジョワジーの危機は急速に進んでいるのだ。ファシズムの起源と社会的性質を考慮してみれば、ファシズム支配の基盤を粉砕することになるこの要素の巨大な重要性が理解されるだろう。いわゆる「立憲的反対派」の諸党のまわりに寄り集まった、世論のこのような突然の急転回は、これらの諸党を政治闘争の最前列に立たせている。これらの諸党は、労働者階級自身の若干の層もそうであるが、このような闘争が課すもろもろの必要と条件を考慮に入れなければならない。>グラムシ前掲書より。

*5:ワディエル著、井上太一訳『現代思想からの動物論 戦争・主権・生政治』人文書院、2019年、p44-45

*6:サラ・アーメッド著、藤高和輝訳「ハンマーの共鳴性」『現代思想 特集:インターセクショナリティ 複雑な<生>の現実をとらえる思想』青土社、p102

*7:グラムシ前掲書より。

*8:マッテオッティは統一社会党の議員であるため、今回暗殺されたのが極右政治家であるという点でグラムシの指摘がそのまま今日の状況のアナロジーになるわけではない。その前提の上で、筆者はグラムシの記述の現代的意義を抽出するべく読解し引用している。

*9:同書。