『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション』がマイクロアグレッションをしている件について① ―能力主義編―

まえがき(2023年9月)

実をいうと、この記事は2年前に書いたものである。いい加減出さないといけないと思いつつ、気が付けばいつの間にか時が経ちすぎていた。

 

記事を書いたきっかけは本書の読書会に参加したことである。知人に誘われて毎月一度開かれるオンラインの読書会に度々参加した。コロナによる雇用不況が続いており、自分もあらゆる場所から放逐された時期だったため時間的余裕があったのだ。当初は、記事後半に書いたような自分が経験したことを言い表してくれる記述を求める読み方をしていた。しかし、それをズバリ表した文章には出逢えなかった。それどころか、2回目の読書会に参加した際は本書の違和感をはっきりと自分の言葉で表明するにまで至り、以来、同書を批判的に読むようになった。

 

記事をすぐに出さなかった理由がいくつかある。本書の翻訳者と知り合う機会があり、本記事を読んでもらってから公開しようと考えていた。また、雑誌『福音と世界』で「教会におけるマイクロアグレッション」の連載が始まった時期だったので、その連載を読んでからマイクロアグレッションについて語ろうとも考えた。しかし、翻訳者の方が多忙なため連絡が取れなくなり、連載も長期で終わりがみえないため、一度現時点での批判点をまとめておこうと思い公開に至った次第である。

 

はじめは能力主義異性愛規範、種差別の3つの点からそれぞれ記事を書く予定だった。ただ、日本語の能力主義は「メリトクラシー」と「エイブリズム」の2つの意味を表すため、両概念が混同されマジックワードとして使われている印象がある。そのため、能力主義の意味を峻別しそれをマイクロアグレッション概念と照らし合わせる作業が別に必要と考えている。その作業にはまた時間が必要なので、今回は以前書いた文章をそのまま掲載することとした。

 

翻訳版が出版されてからあと数か月で3年にもなろうというのに、このテーマを正面から扱った書籍は未だ少ない。批判的に受容した反応となると、管見の限りではほとんどない。本連載が議論を喚起するきっかけとなるのであれば幸いなことと思う。

 

 

 

マイクロアグレッションとは

最近、「マイクロアグレッション」という「隠された差別」を告発する考え方が注目され始めている。

 

この概念が日本で浸透し始めたきっかけは、おそらくデラルド・ウィン・スーの『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション』の邦訳書が2020年末に出版されたことにある。

 

 

マイクロアグレッションとは何か。本書でスーは以下のように説明している。

 

マイクロアグレッションというのは、ありふれた日常の中にある、ちょっとした言葉や行動や状況であり、意図の有無にかかわらず、特定の人や集団を標的とし、人種、ジェンダー性的指向、宗教を軽視したり侮辱したりするような、敵意ある否定的な表現のことである(Sue, Capodilupo, et al.,2007)。(同書、P34)

 

ある特定の属性の人々に対して日常的に向けられる、わかりにくくしばしば自動的に行われるけなしや侮辱、それがマイクロアグレッションである。チェスター・ピアースという人が1970年代に「人種的マイクロアグレッション」という概念を提起し、ブラックアメリカンに向けられる日常的な攻撃を言い表そうとしたことが始まりとされる。

 

特定の属性を持つ人たちは、より目立たない偏見や差別によって、見えにくいがダメージの大きな結果がもたらされる。しかも、「加害者はたいてい、自分が相手を貶めるようなやりとりをしてしまったことに気づいていない」(p34)。

 

マイクロアグレッションの類型や具体例などについては本書を読んでほしい。また、マイクロアグレッションについてはネット記事や、本書の翻訳に関わった金友子氏の論文がわかりやすくまとまっているので、以下にリンクを貼り付けておく。

「マイクロアグレッションとは何か?様々な立場の人が「日々」積み重なるように体験している【解説】」

www.huffingtonpost.jp

 

金友子「マイクロアグレッション概念の射程」

http://www.ritsumei-arsvi.org/uploads/center_reports/24/center_reports_24_08.pdf

 

問題の所在

さて、ここからが本題なのだが、私(わたし)はこの本がマイクロアグレッションという題材を扱っておきながら、特定の属性に対してマイクロアグレッションを行なっているのではないかと考えている。

 

予め断っておくが、私(わたし)は本書の重要性を認めている。わかりやすい差別やレイシズムとは異なり、何気なく過ごしていると流してしまいそうな、だけどそれが差別だったのかどうかわからず、やはり自分が悪かったのかもしれないと苦悩するような場面に出くわしたことが何度かある。私(わたし)が本書を読み始めた動機もそこにある(さらに言えば、今まで生きてきて私(わたし)が他人に対してやってしまったかもしれないという経験も含んでいる)。だからわかりにくい差別や侮辱というものを問題化し概念を提起するマイクロアグレッションは、私(わたし)がほしかった言葉であり、本書から多くの学びを得たことは事実である。

 

しかしながら、マイクロアグレッション概念の射程の広さに反して、本書がこの概念をいかしきれていない、不十分だと感じる部分が多かった。確かに本書は人種、ジェンダー性的指向のマイクロアグレッションに焦点を当てて分析を試みているため、それ以外の属性について記述がないのは仕方がないかもしれない。ただ、私(わたし)は本書に感じる不十分さが、分析対象を絞った結果というよりも、もっと根本的なところに由来しているのではないかと考えている。そこで今回は、私(わたし)が本書を読んで感じた違和感や問題を一つずつ説明し、この概念の理解を深めていきたい。

 

能力主義信仰

本書で最も問題だと思うのは、能力主義に関するものである。本書では度々能力主義信仰が問題視されている。

 

能力主義信仰は、人種やジェンダー性的指向は人生の成功になんら影響しないと主張するテーマである。これは、すべてのグループは成功する機会を平等に与えられ、私たちが競争している競技場は平坦であるという仮定に立っている。そのため、成功も失敗も、知的能力や努力、モチベーションや家族の価値観といった個人の特性の結果ということになる。うまくいった人は、その人の個人的な努力によって成功を成し遂げたと見なされる。裏を返せば、成功できなかった人は何か欠陥があるとも見なされる(怠け者、頭が良くない等)(Jones,1997)。有色人種の人々の場合、失業率の高さ、学歴の低さ、そして貧困がシステム的な力(個人、組織、あるいは社会のレイシズム)の結果だとは、あまり認識されていない。被害者を非難することは能力主義信仰の表れである。」(同、p81)

 

能力主義信仰をテーマとするマイクロアグレッショの例は、例えば次のようなものである。ある人が有色人種の人に向かって「僕は、最も能力のある人が仕事を得るべきだと思っているんだよ」と言ったとする。この発言に隠されたメッセージは、「有色人種の人々は、人種によって不当に余計な利益を得ている」というものだ。

 

また、「男性と女性は、成功する機会を等しく与えられている」という発言にあった時、そこに隠されたメッセージは「勝負のフィールドは平等で、女性が成功できないとしたら、その人に問題がある」というものだ。

 

前者はアファーマティブ・アクションのような措置を想定していると思われる。アファーマティブ・アクションのせいで、能力を有していないはずの黒人やアジア人などのマイノリティが「不当に」評価され、本来そのポストに就くべきだったマジョリティの白人のパイを食っている、という偏見を考えてみよう。この偏見から導き出されるメッセージは、「有色人種の人々は通常白人よりも能力が劣っているはずだ」。だから社会的に高い地位に就いている人種的マイノリティは、よほど能力が高いか、「不当に」評価され得をしているかの二択である。

 

既に読者はお気づきだと思うが、このような偏見は差別の構造的な側面を無視している。そもそもアファーマティブ・アクションはマイノリティの権利要求の妥協の産物であり、「不当に能力が評価され得をしてい」たのはむしろ白人をはじめとするマジョリティの方である。

 

後者も同様に女性差別の構造的側面を無視している。「女性」というカテゴリーの枠に当てはめられるだけで大学入試や就職などで不当な差別を受けることはまだまだ多い。そもそも「勝負のフィールド」は何ら平等ではない。このように、能力主義信仰に関するマイクロアグレッションは、社会の構造的な問題を軽視し、マイノリティが被る不利益を全て個人の問題に帰することで発動する。

 

他の例も見てみよう。

 

スクールカウンセラーが、黒人の学生に「努力すれば、他の人々と同じようにあなたも成功できるよ」と言うこと

・女性のクライエントが、彼女のほうが適しており会社にも長くいるにも関わらず(ママ)男性の同僚が管理職に選ばれたことに対する懸念を話すためにキャリアカウンセラーのもとを訪れた。それに対してカウンセラーは「彼はきっとその仕事で必要とされるより適した資質を持っていたのでしょう」と答えること

 

メッセージ:有色人種の人々や女性たちは怠け者や、無能であり、努力しなくてはいけない。もし成功出来ないのだとしたら、それは自分自身の責任である(犠牲者非難)

(同、p437のより作成)

 
健常者中心主義=能力主義の称揚

ところで、この本では、意図的にdisabilityに関する議論を排しているようである。

 

「ピアースの議論は人種的マイクロアグレッションにのみ焦点を当てていたが、マイクロアグレッションは我々の社会の中で周縁化されているあらゆるグループに対して向けられる可能性がある。それはジェンダーに基づくこともあれば、性的指向、階級、障害の有無に基づくこともある(Sue & Capodilupo, 2008)。本書では、人種・ジェンダー性的指向という三つの形態のマイクロアグレッションに焦点をあてる。」(同p 33、筆者傍線部)

 

著者の障害に関するマイクロアグレッションについての見解は、残念ながら今のところ日本語で読むことは難しいものの、スーはdisabilityに基づく隠された差別を無視しているわけではないようである。また、マイクロアグレッションが障害に関するものを取り扱っていることは本書の邦訳者の一人である丸一俊介氏も述べており、このことは時代状況とともにこの概念が更新されているものだということを示している。

 

「その後差別研究が進む中でMAの概念は整理、再定義され、現在では「人種、民族的マイノリティ、女性、セクシュアルマイノリティ(LGBTQ)、高齢者、障がい者」などに対するMAが報告されています。」*1

 

著者はこの問題を無視しているわけでもなく、むしろ能力主義信仰について詳細に検討を加えている。ではこの本の能力主義に関する記述の何が問題なのだろう?

 

先に挙げた例は全て、能力主義信仰の問題が人種やジェンダー(、性的指向)に由来するものだということを示す例である。

 

要するに、人種や性別、性的指向を通して語られる能力主義が問題なのであって、能力主義そのものは問われていないのである*2

 

穿った見方をすれば、「人種や性別、性的指向に由来しない」能力主義の問題はマイクロアグレッションではない、といっているようにも読めてしまう。

 

一つ例を挙げてみる。出生地が日本で、出生時に「男性」の性別を割り当てられ、20数年日本で暮らし日本語も難なく話すことができる人がいたとする。その人はある会社で働いているが、職場の人たちからは「仕事が出来ない」人とみなされている。挨拶をしても同僚に無視され、プロジェクトのメンバーからも外される。上司からは「無能な人間はいらない」と直接罵倒され、言われた本人は精神疾患を発症し休職に追い込まれてしまった。

 

この人はなぜ周りから「仕事が出来ない」とみなされてしまったのだろうか。朝起きることが苦手で会社に遅刻ばかりしていたのかもしれない。同僚や上司と上手にコミュニケーションできなくて迷惑をかけてしまっていたのかもしれない。今やるべきタスクよりも緊急度の低いタスクを優先しまうことが多くて納期に間に合わない事態が多発していたのかもしれない・・・。

 

何が言いたいかというと、本書の能力主義概念の前提には「あるべき人間の姿」というものがあって、その規範から外れた人間のことを想定していないのではないか、ということだ。言い換えれば、スーの人間観が「健常者中心主義」に基づいているのではないか、という批判である。

 

健常者中心主義は必然的に障害=disabilityを軽視し、当然のごとく能力主義そのものについては疑義を抱かない。「本来は皆持っている能力を発揮できない」ことが問題なのだから、その差別がなければ発揮できたとされる「『人間』なら誰もが持っている能力」は前提とされてしまう。しかし、「『人間』なら誰もが持っている能力」とは、本当に誰もが持っているものなのだろうか。

 

筆者が挙げた例では、本書で言われるようなマイクロアグレッションの射程からは外れてしまう。人種、ジェンダー性的指向に関する隠された攻撃が問題なのだから、「日本人」で「男性」の人が「仕事が出来ない」とみなされることは、「人間ならば本来持っているはずの能力を、社会的に不利益を被る属性を持っていないにもかからず発揮できない」のだから、それによって周りから忌避され罵倒されることは「自己責任」である、ということだ。

 

人間なら誰でも早起きできて指定の時間に目的地に行くことができ、人間ならば誰でも意思疎通ができ、タスク管理が出来る。これらのことが当たり前に出来ないのは、その人の努力が足りないからであり、怠惰な性格や生活は既存の社会に合わせて修正すべきである。果たして本当にそうなのだろうか?

 
社会運動と能力主義

本書を読み始めた動機について先程ふれたが、私(わたし)がここまで能力主義の問題にこだわるのはその動機に由来している。

 

ブログでは何度も書いているが、私(わたし)はとある社会運動に関わっていたことがある。その運動団体ではハラスメントが日常的に蔓延していた。

 

「無能は助けない」

「社会運動に向いていない人もいるから」

うつ病を患っている人に社会運動は難しい」

 

本人の気持ちに関係なく、「能力」がない、やる気がない、とみなされた人は容赦なく切り捨てられる環境だった。私(わたし)もそのような環境下で運動のために貢献しようと頑張り、仲間同士で総括を競い合った。ただ、自身の性格や家庭内事情からしばしば「いじり」の対象となり、時には「活動家として相応しくない能力の低さ」を咎められ人格を否定されることもあった。

 

他の場所ではどうだろう。Twitterでは政策や政治家に対する批判をよくみかけるが、批判対象である政府や政治家が「無能」なことを殊更に言うツイートがしばしば見受けられる。批判者たちは、政策の不備や政治の腐敗を主張すると同時に、「能力のない人間は『高度な』仕事に関わるべきではない」というマイクロアグレッションを起こしている。しかしながら、そうした批判者に対する批判は残念ながら少ない。

 

現状の社会では、あらゆる能力主義が正義とされている。それは政策や制度レベルのみならず、「左翼」を自称する人々や社会運動団体でも蔓延している。既存の健常者中心主義を変革せずして、どうして革命など起こすことができようか。本当に差別をなくしたい、社会を変革したいと思うなら、まずは自身が持っている能力主義を相対化すべきだと思う。

 

次回

次回は「性的指向の軽視と交差性の不在」について書く予定*3

 

*1:丸一俊介「心理支援の現場から見るマイクロアグレッション 在日コリアンカウンセリング&コミュニティセンターの歩みから」p188『現代思想 特集 インターセクショナリティ』2022年5月号

*2:筆者は、本書で能力主義そのものが問われていない理由の一つに、能力主義アメリカで重要なイデオロギーとなっているということがあるのではないかと考えている。同様の印象は『99%のためのフェミニズム』でも感じた

*3:まえがきで書いた通り、次回扱うテーマはあくまで当時考えていたものである。能力主義論を改めて書くか、当時のテーマをそのまま扱うかはこれから考えるため、記事の更新も不定期で行われることはご承諾いただきたい(2023年9月)。