「よきこと」は第三者の存在を必要とする。
たとえ二者間で起こったハラスメントであっても、その加害は第三者の存在を意識している。ハラッサー気質の運動家はこのように考える。自分には実績と社会変革という崇高な意志があり、志を持たない「あいつら」とは違う。自分よりもやる気も向上意識もないあいつらとお前は同じレベルに安住していていいのか。この慈愛に基づく叱責をハラスメントと呼ぶのは革命に対する冒涜である。だから外部に訴え出たところで、恥をかくのは志の低さがバレたお前の方なのだ、と。
相手の人格に全ての責任を帰することはすなわち、「いじめられる方が悪い」と主張するようなものである。私(わたし)は「いじめられる方が悪い」という論理を正当化する左翼運動家の狡猾さを批判したい*1。
ただ、今回取り上げる「狡猾さ」はそれとはまた違う性質のものである。冒頭のテーゼに則れば、「よきこと」をなす者たちは、自分がよきことをなす人間であることを第三者にアピールすることに余念がない。しかしながら、常に自らの高潔さをアピールすることは疲れてしまう。一方で、社会問題が日々浮上する度に支持者からは発言を期待されてしまう。今まで何の関心も持たなかった問題を一から勉強することは難しい。どうせなら少しでも楽をして「よきひと」としてのステータスを高めたい。そこで怠惰な左翼は、容易に左翼としての価値を高める狡猾な方法を発明した。キーワードは「大は小を兼ねる」である。
”「あらゆる差別に反対している」からトランス差別にも反対している”
次のような運動団体があるとしよう。
その団体で活動する大半のメンバーは、自らを左翼であると自負している。人種差別、ミソジニー、気候変動など、あらゆる社会的不正義に憤りを感じ、社会変革を志向している。
ある時、その団体でセクシュアル・マイノリティの問題に取り組むことになった。団体としても、幅広い問題に関心があることを示せるのはイメージアップに繋がるし、何より社会変革のために貢献できるのだからメリットしかない。そこで団体はトランス男性の活動家と連携し、いわゆるLGBTQIA+の問題に取り組む団体であるとアピールした。
しかし、そこのメンバーは同性婚訴訟や政治家の差別的発言には言及するのに、トランス女性を悪魔化する言説については一切ふれようともしない。女性差別への抗議には「我こそが一番槍である」と率先して競争に参入するのに、トランス差別には沈黙する。
もしその不可解な沈黙に疑問を感じる人がいたらそこのメンバーはこう答えるだろう。私達はLGBTQへの差別に反対している。だから当然、トランスジェンダーへの差別に反対しているのだ、と。
あるいはもっと大風呂敷を広げてこう答えるかもしれない。私達はあらゆる差別に反対している。だからトランス差別にも当然反対している。言及がないからといって直ちに知らん振りをしているということにはならない、と。
トランス・ミソジニー
わたしはこのような主張こそ左翼の欺瞞でありトランスジェンダーに対する差別であるといいたい。というのも、トランス男性との連携を強調しながら他方でトランス女性をいないものとして扱う態度は、ジュリア・セラーノが「トランス・ミソジニー」として定式化した明らかな差別であるからだ。
トランスの人が嘲笑されたり排除されたりするのが、単にジェンダー規範に沿った生き方をしていないためでなく、女であることやフェミニンな表現のためであるなら、この人は〈トランス・ミソジニー〉という別形態の差別による被害者だ。(中略)
男性は女性より優れているとか男であることは女であることに勝ると想定する男性中心ジェンダー・ ヒエラルキーにあって、男に生まれて男性特権を受け継いでおきながら女であることを「選んだ」 トランスの女性ほど、脅威と認識される存在はない。自分たちが女であることや女性性を受け入れることで、私たちはある意味、男であることや男性性に想定された優位性に疑問を投げかけるからだ。トランスの女性が男性中心のジェンダー・ヒエラルキーにもたらす脅威を和らげるため、私たちの文化は、(主にメディアを介して)伝統的セクシズムの武器庫にある次のような戦術を総動員して私たちを排除しようとする。*2
オールジェンダートイレへのバッシングや、性的少数者の当事者団体と称する極右活動家集団の会見など、トランス排除を企図する扇動が連日吹き荒れている。差別扇動を垂れ流す無責任なメディアの報道は過去の「ジェンダーフリー・バッシング」を彷彿とさせる。このような切迫した状況において、トランス差別に対する沈黙そのものが差別への加担であると筆者は考える。だからこそ、社会的地位を得ている左派的立場の人物がLGBT差別への反対を示す一方で、トランス女性への差別に知らないふりをすることは狡猾で許しがたい態度である*3。
マジョリティの傲慢
「大は小を兼ねる」理論の適用はトランス差別に限らない。今問題になっている入管法改悪でもこの種の主張をしようとする左派がいる。
何度も話してはいるけれど、 #入管法改悪反対 は「外国人の問題」に対する反応じゃないんですよね。社会のあり方として、絶対に譲ることのできない問題だと思っています。人間の命を脅かす社会、人権をおろそかにする社会、夢や希望を踏みにじる社会──そんな社会は許容できないという意思表示です。
— 安田浩一 (@yasudakoichi) 2023年4月28日
既に指摘している人が言うように、外国人の問題ではなくすべての人の問題として捉えるべきという論法は、黒人差別を矮小化するAll Lives Matterの発想と変わらない。しかしながら、たいていの人間は自分が「よき人」であることを第三者にアピールできればそれでよいので、安田の論法の狡猾さに気が付かない。ましてや「誰かの人権が守られなければみんなの人権が守られなくなって社会が衰退する」という打算的な考えは、むしろマジョリティ中心の社会構造を維持する役割を果たしてしまうのではないだろうか。そう考えると、頻繁に引用される有名な「ニーメラーの警句」にも同種のいやらしさを感じてしまう。誰かの人権の問題は、一義的にはやはりその人、その属性の人権の問題として捉えるべきように思う*4。
フェミニンな要素を肯定する
トランス差別の話題に戻そう。繰り返しになるが、社会的地位のある人物が、セクシュアル・マイノリティの人権は守られるべきだと雄弁に語る一方で、トランス女性への差別に対して立場を明確にすることを不自然なまでに避けることはトランス・ミソジニーという侮蔑的態度に由来している。トランス差別を批判する際、性別二元論や既存のジェンダー秩序への批判を経由する人が多いように思うが、それだけではトランス・ミソジニーを批判できないとジュリア・セラーノは述べる。
トランスジェンダーの人たちに対する差別は伝統的セクシズムに染まっているので、トランス・アクティビストが二元制的ジェンダー規範(つまり、二項対立的セクシズムのこと)に異議を唱えるだけではとうてい太刀打ちできない。女であることは男であることに劣るとか、女性性は男性性に劣るという考え方にも異議を唱えなければならない。言い換えれば、トランス・アクティビズムは根本的なところで必然的にフェミニスト運動でなければならない。*5
これはわたしが考えたことではなく、どこかで誰かが言っていたことをそのまま借りて書くのだが、女性が髪を切ったり、スカートではなくパンツを履いたりすることはミソジニーへの対抗には全然ならない。なぜなら、女性が男性的なコードを身にまとうことは既存の男性中心的秩序への同化を促進するだけで、差別を解消するための根本的な解決にはならないからである。ミソジニーに対抗するためには、例えば、男性が髪を伸ばしたりスカートを履くなど、男性が女性的なコードに近づき、女性的なものを劣位に置く考えを批判する実践が必要である。ジュリア・セラーノが言いたいのはこういうことではないだろうか。
そういう意味で、変わるべきは男性、マジョリティであるということは改めて強調しておいてもいいようにも思う。大は小を兼ねるからといって「あらゆる差別」に反対しますとごまかすのではなく、問題の渦中に置かれたその人(もしくはその生き物)、そのこと、属性、経験に向き合ってほしい。階級の問題に収斂させていくためにアイデンティティの問題を雑に扱うという方針ではなく、個々の抱える問題を真摯に扱ってほしいと思う。
*1:ここでは「よきこと」をめぐって行われる狡猾な振る舞いを問題にしており、「狡猾さ」そのものが問題であるとはまったく思っていない。むしろ狡猾であることは人類にとって生き抜くための知恵であった。cf.山本幸司『狡智の文化史 人はなぜ騙すのか』岩波現代文庫、2022年。
*2:ジュリア・セラーノ著、矢部文訳、『ウィッピング・ガール トランスの女性はなぜ叩かれるのか』サウザンブックス社、p41。
*3:トランス女性の俳優を支援する、トランスジェンダーについて書かれた本を読む、といった行動を通してトランスジェンダーへの権利に無関心ではないことをアピールしようとする狡猾な左翼も多いが、それらの行動はトランス・ミソジニーがないことの証明にはならない。表向きさもリベラル風を装う人々が「女性スペース」の安全が脅かされると恐怖するシス女性に「理解」を示したり、女性差別を批判する反差別活動家が、トランスジェンダーが殺される事件が起きても何も声明を出さなかったなど、欺瞞的な事例を筆者はいくらでも知っている。
*4:個人的な感覚ではあるが、例えば、自身の人格や属性、経験などを否定される権利侵害が起こり、それを支援団体に相談した場合に、相談員から「あなたの人権侵害は私たち(マジョリティ)の問題でもあるから取り組みます」などと言われたら、自分に関係がない問題だったら取り組まないのかな、そんな打算的な考えで支援をしているのだとしたら信用できないな、というふうに思ってしまう。「これはみんなの問題だから」などという理由ではなくて、まずは何よりも相談してきたその人の人権を回復するために取り組んでほしいというのが率直な思いだ。
*5:同、p43、強調箇所は筆者による。