「彼女は被害者なのだから」 "ハーパシー"の論理

加害者女性への共感

 

次の記事が話題になっている。

mainichi.jp

 

この記事の反応で次のようなものがあった。

 

 

これは女版ヒムパシーといえる反応だと思う。

 

ヒムパシーとは簡単に言えば男性の加害者に対する共感のことだ。詳しくは下の記事でも論じた。

zineyokikoto.hatenablog.com

 

冒頭の反応が女版ヒムパシーだと思ったのは、それが引き起こされる構造的要因がヒムパシーのものとまったく一緒だからである。

 

女版ヒムパシーは、女性の加害行為を一度棚上げし、現行の社会が男性優位のジェンダー秩序に基づいていることを確認する。そのうえで、女性はあらゆる地位や制度から排除された「被害者」であることを前景化し、加害行為とその「被害」を(明確な根拠もなく)結びつける。この過程を通じて女性の行為を免責するのである。

 

この論理が破綻しているのは、女性の加害行為への共感が男性優位の社会秩序をむしろ強化する方向にはたらくからである。ヒムパシーは男性の性暴力を免責することで既存のジェンダー秩序を強化しレイプ文化を温存する。女版ヒムパシーもまた、女性を「被害者」という地位に固定化、貶めることで女性の主体性を奪い、女性の男性に対する従属的地位を強化するのである。私(わたし)に言わせれば女性の加害者への同情こそミソジニーに基づくものだ。女性だからという理由であらゆる行為に共感し正当化することはフェミニズムでもなんでもない。

 

概念として扱われなかった”ハーパシー”

 

ヒムパシーと呼ばれる現象があるなら女版ヒムパシー、いうなれば”ハーパシー”もあるのではないか。インターネットで検索するとそのような疑問を持つ人が少なからずいたようである。

 

管見の限り、ハーパシーは学問上認められた概念ではない。造語の提唱者であるケイト・マンもそのような現象には言及していないように思われる。

 

その理由はおそらく、ハーパシーが男性優位の社会構造を問題化するにあたって役に立たないとみなされたからではないだろうか。また、犯罪を含む加害行為を行った女性に対する非難がしばしばミソジニーを伴うものであるため、ハーパシーなる現象を積極的に問題化しようとする動きが生まれなかったことも大きいだろう。

 

既存のフェミニズムはハーパシーを概念化することができなかった。しかし、後述するように、実はハーパシーはフェミニズムの枠組みを用いても理解可能な現象である。ただ、そのフェミニズムは主流のそれとは大きく異なる。わたしが思うに、ハーパシーは「よきこと」を通じて初めて理解することが可能な概念である。

 

「被害者中心主義」という問題

 

韓国のフェミニストによるグループ「トランス」は、2000年代以降に韓国社会で広まった「被害者中心主義」という言葉を批判している。この言葉は韓国社会が性暴力加害者中心につくられていることを批判し、性暴力と闘う言説的武器として受け入れられた。しかし、トランスはこの概念が①ジェンダーに基づく暴力の根幹である性差別的構造を説明できず、②性暴力の社会的意味を再構成することもできず、③むしろ性暴力をさらに被害者個人の固有な経験としてのみ構成し被害者を社会から孤立させることになると憂慮した*1

 

「この言葉が加害者中心社会に対する批判という次元でいくら効果的であっても、中心主義は中心と周辺のヒエラルキーを作り出す権力装置だという批判を放棄することになってしまいます。「被害者の立場」ないしは「被害者の観点」程度で十分なのです。」*2

「被害者中心主義を批判するもう一つの理由は、被害者に対する強調が、性別二分法を強化する方向へと向かいがちだからです。女性と子どもの脆弱さそれ自体が強調されるときになって初めて性暴力問題に対する世論の注目と怒りが生じるという状況において、しばしば反性暴力運動の言語が性別二分法を前提とし強化する方向へとまきこまれていきました。(中略)誰かから「いまだにフェミニズムが有効なのか?」と問われたとき、最も速く相手を納得させることのできる方法は、性暴力被害者のほとんどが女性だという点に言及することでしょう。だからといって女性=被害者、男性=加害者ということを繰り返し強調すればいいのでしょうか?被害の原因が被害対称のアイデンティティにあるという仮定は、結局のところ回り巡って再び被害者を非難する行為に加担することになります。」*3

 

 

グループ「トランス」のフェミニストたちは、被害者中心主義に対する批判がバックラッシュを仕掛ける加害者側の武器に使われるのではないかと悩んだ。それでも執筆を決意したのは、被害者の勇気ある行動が非難され問題が解決されない事態が繰り返されてきたためであった。

 

グループ「トランス」の主張は、わたしの言葉でいえば「よきこと」そのものであり、よきことを為す人々に対する有効な批判である。

 

以前に書いた記事で、女性の声を聞くというポーズをとることで女性の味方かのように振る舞いトランスジェンダーを迫害する差別主義者の論理を論じた。

zineyokikoto.hatenablog.com

 

『被害と加害のフェミニズム』はまさにこの点を論じていた。被害者の声を聞くというポーズをとる人々はしばしば、被害者の主体性を認めないばかりか、被害者が受けた暴力が引き起こされる社会構造を温存する言動をとる。重要なのは「当事者」を中心に据えることではない。誰が「加害者」なのかを問うことでもない。暴力が引き起こされる構造ないし暴力の不当さを問うことである。

 

被害者中心主義とハーパシー

 

ハーパシーは被害者中心主義という言葉を検討することで初めて理解可能となる。ハーパシーとは被害者中心主義の行きつく先に登場する現象なのだ。

 

被害者中心主義は、女性を被害者という従属的地位に置き、男性優位の社会構造を補完する役割を持つ。そしてハーパシーは女性を構造的差別の被害者という枠にはめ、そこからの逸脱を阻止する。差別がなければ女性は加害者にならなかったとその将来を憂うのだ。これは加害者男性が将来獲得するはずと期待されていた業績の損失を嘆くヒムパシーとパラレルの関係にある。

 

被害者中心主義という言葉は日本では使われていない。一方で、当事者を中心に据えるべきだという主張が当事者研究からなされたり、#Metoo以降のSNS上のフェミニズムで「女性の声を聞け」「マイノリティの声を聞け」と主張されたりと、韓国と似たような状況にあると思われる。しかし、当事者研究では「べてるの家」関係者が性暴力事件を起こしたり、SNS上では「フェミニスト」がセクシュアル・マイノリティにヘイトスピーチを繰り返している。

 

今起きている現象は、「よきこと」という名の、「反差別」という名の囲い込みであると思う。囲い込みをやめさせ解放する試みが社会運動には必要なのではないだろうか。

*1:クォンキム・ヒョンヨン著、影本剛、ハン・デイディ監訳『被害と加害のフェミニズム #Metoo以降を展望する』解放出版社、2023年、日本語版序文p4-5

*2:同、p5

*3:同、p6