気遣いという労働 「性搾取」という言葉の不思議

気遣いという労働

賃労働をしていて気がついたことがある。

 

もちろん気分や疲労にもよるが、私(わたし)は他の人が忙しそうにしていて自分に少しの余裕があれば労働をいくらか肩代わりすることにそれほど抵抗がない。反対に、他人に仕事をお願いしたり質問をすることには躊躇いを覚えてしまう。そのため、もっと頼っていいと職場の人から言われてしまうこともしばしばある。

 

一方で、他人が忙しそうにしていても自分の仕事しかやらない人もいる。この前、わたしが事務処理をする暇もないほど忙しくしていたら「なぜこの仕事をやっていないのだ」と鬼の首を取ったかのように上司に突っ込まれてしまった。誰がやってもいい仕事で空いていたのだからあなたがやればいいのでは、と一瞬思ってしまったが、この時、これは労働に対する考え方の違いでしかないから責められないなと思った。

 

自分が空いていたら仕事を手伝うとは、言い換えれば他人の労働を減らすために自分が労働をする、ということだ。わたしがこれを行う理由は、発生する総労働量は変わらないのだから労働を分配すれば総労働時間を短縮できると考えるためである。

 

反対に、他人の仕事を手伝わない人は、手伝った時点で自分の労働が発生してしまうことに嫌悪感を覚えるからやらないのだ。これはこれで正当な立場である。むしろ「労働の拒否」という社会主義アナーキズムの系譜に連なる態度である。他者を気遣うかどうかは労働に対する考え方の違いによって変わるものであり、どちらがいいとか悪いということはないのだ。

 

マイクロアグレッションの裏にある労働の搾取

他人に気を遣うことが労働であることに気がつくと、他人に気を遣われることに申し訳なさを感じる理由もわかる。気を遣われるというのは、他人の労働を搾取しているといえなくもないからだ。気を遣わない人というのは、誰かに搾取されたくないから敢えてやらないだけなのである。

 

ただ、気遣いに関して軽蔑すべきタイプの人間も存在する。それは他人が気を遣ってあげているのにそのことに気が付かない人間だ。このタイプの人間こそ、他人の労働を不当に搾取する資本家タイプの人間であるといえる。

 

おそらく多くの場合、マイクロアグレッションとはこのタイプの人々に関わった際に起こってしまうのではないかと思う。差別やマイクロアグレッションが不当なのは、差異に基づいて序列化・秩序化された世界で特権的地位に与る者がその地位を維持・強化するためにマイノリティの労働を搾取するからに他ならない。少なくとも差異そのものに差別が由来しているわけではない。「差異は差別の根拠ではない」(江原由美子)のだ。

 

マイクロアグレッションという概念を経由すれば、気を遣わないことが差別に直結するケースも出てくると思われる。もっとも、わたしはあくまで限定的に当てはめるべきだという立場に留まる。マイノリティに気を遣わないことが全て差別であると主張してしまうと、他人にケアを常に要求し続けるという搾取が恒常化するだけでなく、交差性という概念の重要性が希薄化されると考えるからである。

 

「依存先を増やす」という搾取

近年、「依存先を増やそう」という当事者研究発のスローガンが人口に膾炙するようになった。

 

わたしはこの種の言説にひどく違和感を覚えていたが、その理由がようやくわかった。依存先を増やすとはつまるところ、搾取先を増やすということでしかないからである。

 

ケアとは相互作用があって初めて対等な関係として成り立つものだ。しかし、「依存」という一方的に"ケア"を求める関係は、ケアを請け負う立場の負担を一切考慮しない。"ケア"を請け負う側がいなくなれば、"ケア"を求める側は次の搾取先を探すだけである。依存先を無限に作るさまは、まるで次々と市場を開拓し価値を自己増殖させる資本の運動のようだ。

 

依存先を増やそうと呼びかけるなら、それがケアの名の下に他人の労働を不当に搾取することであるとせめて自覚していただきたい。

 

「社会なんてなくなれ」というフェミニストの欺瞞

以前のブログでケアが胡散臭い代物であると書いたことがある。

zineyokikoto.hatenablog.com

 

その考えは今も変わらないが、一方で、あまりにもケアについて考えないフェミニストが目立つようになってきたため、むしろケアを擁護する立場をとらなければならないと感じることも多くなった。

 

相変わらずケアの重視を訴える声は続いている。同時に、最近は某書の影響で「生存は抵抗」というスローガンを唱える声も大きくなってきた。わたしは自身の信条から後者の言説をくさすこともあるが、とはいえ今の政治状況からすればどちらの立場も尊重されるべきように思う。

 

しかし、一部の"クィアフェミニスト"を名乗る人々から「私たち(=マイノリティ)の存在を認めないなら/差別するなら社会なんてなくなった方がいい」という声も聞かれるようになった。そういう人たちに限って「生存は抵抗」だとアジったりする。

 

わたしにはこの2つの主張がどうして同時に成り立つのかさっぱりわからない。生存のためにはケアが絶対に必要なのに、前者はケアを軽視することによって初めて成り立つ主張だからだ。社会なんていらない!でも私は生きていく。それができるのはロビンソン・クルーソーだけ。つまりホモ・エコノミクス的発想なのである。

 

ホモ・エコノミクスフェミニストばかりなら、そりゃあナンシー・フレイザーフェミニズムの未来を憂うなあと同情する。

 

「性搾取」という言葉の不思議

労働と搾取の考察を深めていたら、「性搾取」という言葉の摩訶不思議さに気づいてしまった。

 

性搾取とは実に不思議な言葉だ。なぜなら性そのものは搾取できないからである。

 

性そのものを搾取するとはどういう現象を言うのだろうか?そもそもここでいう性とは何を指しているのだろうか?

 

思うに、性にまつわる労働が搾取されている、という方が正しく現実を捉えている。

 

仮に性がセクシュアリティを指しているのだとしてもおかしな話だ。マルクス主義の労働にあたるものがフェミニズムにとってのセクシュアリティだ、とマッキノンは言ったが、これにしたってセクシュアリティそれ自体が労働であるとマッキノンが認めたわけではない。セクシュアリティは搾取できない。搾取されるのはセクシュアリティを序列化した権力関係において行われる労働だ。

 

性搾取という言葉を使うことによって、性にまつわる他人の労働が不当に搾取されている現実が覆い隠される。多くのフェミニストの想定に反して、性搾取という言葉は反動的なのだ。

 

搾取という言葉にかまけて労働を抹消することは許されない。かつてロベール・カステルは「労働は社会問題の震源である」と述べた。フェミニストであるからこそ、この古典的な命題に何度も立ち返るべきなのである。