「彼は大事な人だから」 ヒムパシーの論理

 

つい最近、斎藤大先生がトンデモ本の推薦文を書いたとして話題となった。

 

 

筆者は斎藤がいかに問題の多い人物であるかということを事ある度に言い続けてきた。今回のような”やらかし”など過去にいくらでもしているが、珍しく批判が集中していたのでようやく皆、彼のダメさに気付いたのかとうっかり思ってしまった。

 

しかし、さすがは大先生、ネット上の批判にすぐさま対応し次のような釈明を行った。

 

 

彼の言動を問題にし続けてきた身からすればつまらないことこの上ないが、それ以上に興醒めだったのは彼の釈明を”賞賛”する人々の反応だった。人は誰でも過ちを犯してしまうし、その過ちを認め反省することは容易ではない。にもかかわらず、迅速に自らの誤りを認め推薦文の撤回まで行うなんて素晴らしい!と。

 

このような”懐の深い”人々に水を差すような、それこそ興醒めなことを言ってしまうのだが、差別的な言説や怪しげな運動に加担し、そのことを指摘されて反省する、という一連の行動は斎藤にとってもはやお家芸であり、ビジネスなのだ。彼はこのビジネスを繰り返すことによって支持を拡大し資産を形成しているのである。まるで斎藤大先生が批判してやまない資本家のように。

 

繰り返される性差別

 

公に判明している彼の言動にはどういったものがあるだろうか。

 

例えば、こんなものがある。

 

社会運動家が集まる場である学者が性差別的な発言をした。斎藤自身もそういう発言をしたのかはわからないが、少なくとも周りにいた人間として適切な対応を取らなかった。上のツイートはそのことを反省しているようだ。一般的にみれば真摯な対応に思えるかもしれない。

 

さて、その数年後、Choose Life Projectが「#わきまえない女たち」の後継として「#変わる男たち」という番組を企画したが、これがTwitterで大炎上し企画そのものが白紙となった。この番組への出演を予定していた一人がかの斎藤であった。

 

 

「深く反省しております」「考え直したいと思います」。どの程度意識していたのかわからないが、斎藤は何か事ある度に反省のポーズをとり続けることで謝罪という形式を用いたビジネスを確立していったのである。

 

筆者の意見に対し、斎藤を擁護する人々はすぐに反応したくなるだろう。本人が反省しているのだし、彼が過ちを繰り返すのも構造の問題なのだから本人を責めるべきではない。そもそもCLPの企画は斎藤以外の人間も関わっていたのだし、むしろ彼は巻き込まれただけではないのか・・・そういった反論が想像できる。

 

では、現在の斎藤は過去の言動を反省したのだろうか。筆者はそうではないと考える。

 

近年、「Z世代」や「ジェネレーション・レフト」といった言葉が左派の間で好んで使われているが、この言葉を社会運動の文脈で紹介し流行らせてきたのは斎藤らである。斎藤はZ世代について書かれた下記の書籍に次のような推薦文を書いている。

bookclub.kodansha.co.jp

 

 

「Z世代が起こす優しい革命に、私も参加したい。」

 

 

なんだこの気持ち悪い推薦文は!!!

 

私も参加したいという前にまず自分の振る舞いについて考えろ、と言いたくなることは一先ず置いておくとして、斎藤には以前からパターナリスティックな言動がみられる。「学生だから」「若い人だから」といって自分は一歩引いた位置に立とうとするが、実際には若者を主体的な存在として扱わないことも多い。本人はまったく自覚がないようだが、彼の言動を問題だと感じる人の話を筆者は何度も聞いている。斎藤が抱える問題はまったく過去のものではないのである。

 

「ヒムパシー」の論理

 

なぜ斎藤は免責されるのだろうか。

 

筆者は以前、泉房穂明石市長のパワハラに対し擁護する人が後を絶たなかったことにふれ、泉の起こした問題が性暴力ではなかったから、つまり性暴力以外の問題は過小評価されその責任が免罪されることが「よきこと」の問題であると書いた。

zineyokikoto.hatenablog.com

 

斎藤の問題もこれに当てはまるが、今回は「ヒムパシー」という概念を通してこの問題を考えたい。

 

ヒムパシーとは、ケイト・マンが提唱した造語で「性暴力への関与や、その他のミソジニー的な行為をした力があり特権的な少年や男性が、犠牲者である女性よりもしばしば同情や配慮を得る」というものだ。*1

 

ヒムパシーという用語の核心は文字通り「彼」(him)に対する「共感」(sympathy) 、すなわち加害者に対する過剰なまでの同情である。マンによれば、健常者の白人男性が性暴力を起こした時、「男性優位の社会においては、私たちはまず男性のほうに同情し、事実上、彼自身が犯した犯罪の被害者に変えてしまう」*2ことが起こる。その背景には、前提としてレイプ犯のステレオタイプのようなイメージが人々の間で共有されており、そのイメージと現実の性暴力加害者が乖離しているという問題がある。

 

「レイプ犯はぞっとするような薄気味の悪い、人間性の欠片も感じられない人物にちがいないと、わたしたちは考えがちである」*3

「現実のレイプ犯は、三叉を手にした角を生やした悪魔か、それとも、不気味でぞっとするようなモンスターとしてレーダー上に姿を現わすだろうと自分に言い聞かせているのだ。モンスターは薄気味の悪い、理解を超える存在であり、その外見はおどろおどろしいはずだが、レイプ犯のおどろおどろしさは、性別がまちがいなく男性であること以外、その存在を特定する標識や特徴が欠けていることによる。レイプ犯は人間、しかもあまりに人間的な人間であり、私たちの中の一人である。だから、レイプ犯をモンスターと考えるのは、戯画化による潔白証明に等しい。」*4

 

「彼は大事な人だから」

 

唐突だがここで昔話を聞いてほしい。

 

数年前、私(わたし)が活動家として尊敬していた人物が性差別的な発言をして問題になったことがあった。私(わたし)はそのことにショックを受け非常に落ち込んだが、周りの人間は少なくとも表向きには取り乱した様子をみせず、それどころか10歳以上年齢が離れた活動家から「動揺するな」と注意されてしまった。彼曰く、運動を続けていれば活動家が失態を犯すことなどよくあることだから、いちいち動揺していては周りに示しがつかない。それに「彼は運動にとって大事な人だから」失敗したら周りの人間が彼を支えてあげないといけないのだという。

 

この後、その運動家は周囲の支えを受け活動を再開し、フェミニズムについて学ぶ機会を設けてもらった。一方で、周囲の人間の差金によって性差別を受けた人への謝罪も、活動を再開するにあたっての申し開きも行われなかった。私(わたし)はそのことに抗議し本人に直接反省するよう呼びかけたが、一緒に活動していた先輩の運動家に注意されたため抗議を取り下げざるをえなかった。また、周りの活動家によって企画されたフェミニズムの勉強会にセックスワーカートランスジェンダーを排撃する人物が講師として招かれ、むしろ活動家当人の性差別を加速させるに至った。

 

一連の出来事にはヒムパシーの論理が働いている。彼は将来有望な活動家であり社会運動にとって必要不可欠な存在だ。そのような彼のキャリアを性差別などという"瑣末な出来事"によって挫いてはならない。活動の支援や勉強会の開催といった、性差別を被った人への対応に比して過剰な同情はそのような気持ちの表れである。

 

「よきこと」におけるヒムパシー

 

ケイト・マンの功績はミソジニー概念の素朴理解を否定し構造的な現象として把握するように議論を転換させたことだけではなく、ミソジニーと連携して生み出される「名前のない問題」にヒムパシーという言葉を与えたことにもある。私(わたし)はこのヒムパシー概念に新たな意味を付与したい。彼女のヒムパシー概念はその分析対象を性差別やミソジニーに限定していたが、筆者は「よきこと」にも適用範囲を拡張すべきだというふうに考えている。

 

実際、泉も、斎藤も、そして昔話に出てきた活動家も、そのイメージはまったく善良である。性暴力を振るう人物がおどろおどろしいステレオタイプ像と必ず一致するわけではないように、「よきこと」を為す人は忌避されがちな「問題児」のイメージとは異なる場合が多いのである。

 

ヒムパシーを「よきこと」の分析ツールとして使用することで、冒頭の斎藤に対する賞賛も、泉に対する擁護も、ある活動家に対する支援も説明することができる。なぜなら彼らは皆「(社会運動にとって)大事な人だから」。

 

マンはヒムパシーが加害者を手助け*5保護し被害者非難をもたらすと指摘している。

 

「共感の稚拙な適用は、不当なかたちですでに特権的な位置を占める者たちの特権をさらに助長する傾向をもたらすだろう。そして、彼らの被害者である、彼らほど特権的な位置にない人たちを不当に非難したり、譴責(けんせき)したりして、辱めることになったり、また、彼らを危険に晒し、彼らを抹消するような犠牲を強いることになりかねない。場合によっては、加害者はこのことを知り尽くしたうえで、標的を選ぶこともある。」*6

 

いい加減、左翼の男を甘やかすのはやめないか。

 

*1:ケイト・マン著、鈴木彩加、青木梓紗訳『エンタイトル 男性の無自覚な資格意識はいかにして女性を傷つけるか』人文書院、2023年、p8

*2:ケイト・マン著、小川芳範訳『ひれふせ、女たち ミソジニーの論理』慶應義塾大学出版会、2019年、p265

*3:同、p262

*4:同、p263

*5:依存症療法の用語で「イネイブリング(Enabling)という言葉があり、「依存症を抱える人を手助けすることによって、かえって依存症からの回復を遅らせてしまう周囲の人の行為のこと」(同、p263)を指す。性暴力に対するヒムパシーも、「よきこと」を為す人の加害を擁護することも、それは本人含め誰にとっても悪い影響をもたらす。

*6:同、p264-265