活動家のためのテキスト① レーニン『共産主義内の「左翼主義」小児病』

変革や連帯のためにアクションを起こしたり、組織やグループを結成、運営したりと、何らかのかたちで社会運動に関わる人が読まなくてはならないテキストは無数にある。

そのなかから、私(わたし)が是非読んでほしいと思うテキストをいくつか紹介したい。

 

今回取り上げるのはレーニン共産主義内の「左翼主義」小児病』(以下、『左翼小児病』)である*1

 

執筆の背景

1917年の十月革命ボリシェビキケレンスキー率いる臨時政府に勝利し、1919年には第三インターナショナル(=コミンテルン)を設立した。

 

『左翼小児病』は、1920年7月19日から8月7日にかけて開かれたコミンテルン第2回大会のためにレーニンが執筆した著作である。レーニンは同年4月から5月の間にこの著作を執筆し、その発行が大会までに間に合うよう印刷の行程にまで気を配ったとされる。元々はロシア語で書かれたが、7月にはドイツ語、フランス語、英語版のものも出来上がったので、熱を入れて作ったテキストがより多くの人々に読まれることになって本人としては感慨深かっただろうと思う。

 

レーニンはこの著作でロシア革命を成し遂げたボリシェビキ党の経験を総括している。十月革命の勝利までに至る闘争の歴史を6つの段階に分け、各段階での党の戦術を後付けて、革命の勝利とその維持が長期にわたる周到な準備、豊かな経験の積み重ねのなかから生み出されたことを強調した*2

 

そのうえで彼は、ボリシェビキが労働運動のなかのどのような敵と闘い、成長し強くなってきたのかと設問し、その答えとして「日和見主義」と「小ブルジョワ革命性」の二つを挙げている。前者の代表は修正主義者のベルンシュタインで、要するに資本主義や帝政の打倒を掲げない立場を指すが、直接的にはおそらくカウツキーなどを指すと思われる。カウツキーについて説明しておくと、彼はエンゲルスから直接指導を受けたマルクス主義の正当な後継者で第二インターナショナルの指導者であった。1914年に起こった第一次世界大戦に際してカウツキーが戦争を全面的に支持し、これが第二インターナショナルを崩壊させたとしてレーニンは『国家と革命』のなかで彼への批判を展開した。

 

ブルジョワ革命性

 

「左翼小児病」で批判に重きが置かれるのは後者の「小ブルジョワ革命性」である。レーニンはこれを次のように説明している。

 

この小ブルジョワ革命性は、いくらか無政府主義に似ているか、または、それから何かを借りてきたものであり、プロレタリアの一貫した階級闘争の条件と要求からは、どの本質的な点でも、それている。小所有者、小経営者(多くのヨーロッパ諸国では、非常に広範な多数の分子を含むタイプ)は、資本主義のもとでは、たえず押えつけられており、非常にしばしばその生活は信じられないほどひどくまた急速に悪化し、零落していくので、たやすく極端な革命性にうつっていくが、忍耐、組織性、規律、確固さをあらわすことができないということは、マルクス主義者にとっては、理論上十分に確認されていることであり、ヨーロッパのすべての革命と革命運動の経験によって十分に裏書されている。(傍線部、強調筆者)*3

 

後に「左翼急進主義」や「極左冒険主義」のレッテル張りに利用されることになるテキストだが、やはり批判の核となる部分から学ぶべきことはあるのではないかと思う。今日的な意味を模索するなら太字と傍線部で強調した箇所が該当するのではないだろうか。

 

なお、ここでは間接的に無政府主義に対して批判がなされ、上の箇所のすぐ後でも詳細に批判されているのでアナーキストにとっては不満かもしれない。ただ、あくまで(当時の)マルクス主義者とアナーキストの立場の違いを踏まえたものなので、今日的な意義を考えるのであればそこは大きな問題ではないと思う。この著作は思想信条の立場で判断するのではなく、むしろここで批判されている内容がマルクス主義であれアナーキズムであれ「左翼」全体の問題として向き合うべきものだと筆者は考える。

 

妥協を許さない”未熟”さ*4

 

第二回コミンテルンまでの過程において、レーニンボリシェビキ内部「左派」の態度に誤りがあったと指摘した。例えば、1908年にボリシェビキ左派は反動的な議会に参加することを拒絶し、また、1918年に革命政権がドイツと結んだブレスト-リトヴスク講和条約を「原則的にゆるすことのできない」妥協であるとした。彼はそれぞれの問題点を説明した後、次のようにまとめている。

 

結論は、はっきりしている。妥協を「原則的」に否定し、どんなものであろうと、妥協一般をゆるすことをいっさい否定するのは、児戯に類したことであり、まじめに取りあげることもできない*5

 

素朴で、まったく経験のない人々は、妥協一’般’がゆるされるべきだとみとめようものなら、われわれが相手として非妥協的にたたかっており、またそうしなければならないあの日和見主義と、革命的マルクス主義すなわち共産主義とのあいだのあらゆる境界をぬぐいさることになるものと想像している。だが、これらの人々が、自然でも社会でもす’べ’て’の境界はうつりやすいものであり、ある程度まで条件つきのものだということをまだ知らないとすれば、長期にわたる訓練、教育、啓蒙、政治上の経験や日常の経験によるほかには、彼らをたすけようがない。個々の、あるいは特殊の歴史的時機の実際の政治問題のうちで、ゆるすことのできない裏切的な妥協革命的階級にとって有害な日和見主義を体現している妥協の、もっとも主要な種類のものが現れている問題をえらびだすことができ、それを説明し、それとたたかうことにあらゆる努力を傾けるすべを知ることが重要である*6。(傍線部、強調筆者)

 

「素朴で、まったく経験のない人々」は「たやすく極端な革命性にうつっていくが、忍耐、組織性、規律、確固さをあらわすことができない」ので常に動揺し、革命性が実を結ぶことがないためにすぐに従順になり、幻想にはしる。それがはなはだしくなると「あれこれのブルジョア的な「流行」思潮に「熱狂的」に魅せられてしまう特質*7」を持っているだけでなく、原則的にどんな妥協であってもゆるされるべきではないと思っている。

 

当たり前のことですが、どんな社会活動であれ、完全に満足のいく成果が得られるようなことはほぼありません。ストライキで会社に勝利したとしても、画期的な判決を勝ち取ったとしても必ずどこかで譲らなくてはならない場面が出てきます。それをこの部分は「原則的」ではないから惜しいよねとか、頑張りが足りなかったんじゃないのとか言う権利が「左翼」のどこにあるのでしょうか。そんなこと、本人が一番わかっていて悔しいに決まっているではありませんか!!!

 

闘う当事者の崇高さ

 

話は変わりますが、私(わたし)が以前から追っていた事案がこの度和解に至ったという知らせを受けました。

 

 

この和解が画期的なのは、被害者が直接働きかけて内部規定と再発防止マニュアルを作らせた点や直接的な被害だけでなく二次加害でも慰謝料を払わせ謝罪させた点、相手の公表文を修正させ謝罪の一言だけでなく事件の概要も記述させた点にあります。

 

これほどまでに大きな成果を勝ち取ることができたのは、「素朴で、まったく経験のない」凡百存在する言葉だけの左翼どもとは異なり、本人が優れた「忍耐、組織性、規律、確固さ」を持っていたからにほかなりません。

 

事件が起きてから今日に至るまで幾年もの年月が経ってしまいました。長い時間のうち、どれほど辛く苦しい場面に本人が出くわしたことでしょうか。この画期的な和解でさえ、妥協せざるをえないと条件をのんだところがあったのかもしれません。しかし、結果をみればわかるように、その”妥協”は意味のある妥協でした。意味のない妥協はただの反動ですが、意味のある妥協はむしろ変革を前進させます。それは歴史が証明していることです。そもそもこのような闘いを強いられること自体が不当なことなのに、被害者主体のガイドラインという前例をつくるという快挙まで成し遂げたのですから、間違いなく社会変革を一歩前進させました。

 

あらゆる妥協を許すことができず忍耐力もない未熟な者たちには、闘う当事者の崇高さを見習ってほしいものです。

 

*1:指摘を待つまでもなく、自らと立場を異にする人物や思想を病人や病気に喩えることは不適切な表現である。本稿ではこの問題に立ち入らないが、思想やアイデンティティの「病理化」が差別と密接に結びついていることは注意されたい

*2:中野徹三、高岡健次郎『人と思想 レーニン清水書院、1970年、p251。なお、この本における「左翼小児病」の記述は同テキストのサマリーとして優れている。

*3:ソ同盟共産党中央委員会付属マルクス=エンゲルス=レーニン研究所編『レーニン全集 第31巻』「共産主義内の「左翼主義」小児病」大月書店、1959年、p16-17

*4:原文では「幼稚」と表現されているが、広い意味でのエイジズムにあたる言葉である可能性もあるので"妥協"的に未熟という言葉を採用した。なお、後に登場する「児戯」「熱狂的」という言葉もベストな表現ではないかもしれないが今回は原文に沿った

*5:同、p22

*6:同、p56

*7:同、p17