セックスワーカー差別集会への抗議行動2022 に参加しました

 

5月22日、新宿で行われた「セックスワーカー差別集会への抗議行動2022」に参加しました。

セックスワーカーへの差別集会への抗議行動2022

 

同日の同じ時間、同じ場所で「AV業界に有利なAV新法に反対する緊急アクション」(以下、新法反対デモ)が開催され、これに対するカウンターとして抗議集会が開かれました。

 

AV出演被害防止・救済法案の内容については既に多方面から議論されているのでここでは扱わず、今回は当日の行動について思ったことをまとめるだけにします。

 

新宿東口広場のカオス

私(わたし)は抗議集会が始まる少し前に現場に到着しました。

 

現場に着くとALTA前から街宣の音が聞こえてきます。どうやら先客がいたようで、のぞいてみると右翼が街宣カーの上で熱弁を振るっていました。近くには公安がいて見張っています。後から知りましたが同じ場所で反ワクチン派も集会を行なっていたとのことでした。

 

ここで集会をやるのか・・・

 

この後少し現場を離れたため予定時刻に間に合いませんでしたが、双方の集会は予定通り始まったようです。

 

新法反対デモでは、登壇者が順にマイクを回して淡々とスピーチを行なっていました。それに対してカウンター側はセックスワーカー当事者のスピーチも交えつつ、シュプレヒコールを繰り返し集会に抗議していました。時にはカウンター側の抗議に呼応して新法反対デモの登壇者が語気を強めて話すなど、互いのスピーチがヒートアップすることもありました。

 

一方はスピーチリレー、他方ではシュプレヒコール*1、そして集会が始まった後も相変わらず続く右翼の街宣、さらには反ワクチン派のデモとカオスな状況でした。

 

#ラブホで死にたくない のメンバーとニアミス

 

わたしはというと、カウンターデモの隅の方で小さくなっていました。

カウンター主催者が無断で写真を撮らないでと呼びかけていたにもかかわらず、写真を撮って去っていく通行人が後を絶ちません。そこで主催側から貸してもらった赤い傘を差して顔を撮られないように座っていました。赤い傘便利。

 

ただ、そのせいで知り合いがいたことに気づきませんでした。

 

去年、セックスワーカー主体のデモで「#ラブホで死にたくない」という運動がありました。

zineyokikoto.hatenablog.com

 

今回カウンターを主催した人たちのなかには、#ラブホで死にたくない に参加していた人もいたと思います*2。去年のデモで知り合った人は主催メンバーではなかったみたいですが、今回のカウンターにも参加していたようです。会って話せたら嬉しかったのですが、たいへん惜しいことをしました。

 

情動による扇動と動員

当日、抗議集会に参加した人やデモをみていた人たちの反応には、「新法反対デモの方は手慣れている」というものがありました。

 

個人的には社会運動なんて別に手慣れていようが不器用であろうがどうでもいいと思いますが、両方の集会は反響が大きかったので、普段運動に関わっていない人も見にきていためにそのような反応が多かったのではないかと思います。

 

一方で、新法反対デモはちょっと淡々としすぎているかなという印象もありました。

 

私(わたし)はこういう集会に何度も参加したことがありますが、だいたいの集会ってシュプレヒコールをあげて参加者を活気づけることが多いんですよね。今回のカウンターもそうです。

 

でも新法反対デモでは学者や弁護士、政治家の人たちが次々と登壇し、時間通りにスピーチを終わらして司会にマイクを渡す。それを機械的に繰り返す、という感じでした。いや、いろんな人に話してもらわないといけないので時間通りに進めるのは当然ですし「手慣れて」いた方がこの場合はいいでしょうから、それが悪いということではなくて、むしろ予定通りに司会進行できるのはすごいなと感心しました。

 

ただ、そのような方式をとるのは、要するに参加者の側には何も期待していない、ということですよね。自分たちの言いたいことを一方的に述べて参加者を啓蒙する、というスタイル。

 

参加者に何も期待しないということはつまり、扇動と動員が目的にあるということです。これは新法反対デモのTwitterアカウントが開設された当初からそうでした。

 

 

最初のツイートの声明文では、法案の中身について一切触れられていません。私(わたし)も運動が出すステイトメントの作成過程に関わったことがありますが、通常は抗議対象の何が問題なのかを盛り込むはずなんです。問題について詳しく述べすぎたからもっと簡略化して説明しようとか、どうやったらわかりやすく共感してもらえる文章になるかといった議論が声明を作成する過程であると思うんです。

 

ところが、最初の声明文では法案内容についての説明が一切ありませんでした。見事に扇動と動員以外の目的がないのです。

 

こういうことは左派の運動では最もやってはいけないことだと思います。扇動と動員のみを目的にすることは、すなわち情動で人を動かそうとすることです。情動で人を扇動し動員するという手法は本来右翼がやることです。それなのに、ましてや「左派」を自認する人たちが何も躊躇わずその手法に頼るというのは、いったいどういうつもりなんだろうと驚きました。

 

情動で訴えることの何が問題かというと、そのような運動は短期的な成果しか見込むことができず、とても脆いのです。情動を煽る運動が保守的で過激化しやすい危険なものであることは、ドナルド・トランプをはじめとする近年のSNS上におけるレイシズム扇動をみていれば明白だと思うのですが、この人たちはいったい今まで何をみてきたのでしょうか。

 

こういう保守的な姿勢が当日の集会にもあらわれていたのではないかと思います。これはあくまで個人的な見立てなのですが、新法反対デモの主催者はこの日にデモを行ったというアリバイがほしかったのではないでしょうか。動員が目的だから、参加者の様子の撮影や集会に参加した人数にこだわる。時間通りスピーチを回していればそれで十分だし、シュプレヒコールで参加者を活気づける必要もない。一貫しているなと思います*3

 

「挑発に乗らないで」という連呼

 

新法反対デモの集会終了後、司会の仁藤さんが参加者へ呼びかける際、「挑発に乗らないでお帰りください」と連呼していました。

 

カウンター側がシュプレヒコールをあげていたのは、デモの声明文がセックスワークの現場で働く人の声を無視しているためにやむなく抗議を引き受けざるをえなかったからです。それなのに、カウンター側の抗議を「挑発」と呼んで片付けることはあんまりではないでしょうか。あなたたちとは対話する気がない、という明確な意志表示に他なりません。

 

以前、安倍晋三首相(当時)が東京都議選の応援演説で、安倍首相を批判していた人たちの前で「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と発言し問題となったことがありました。

www.asahi.com

 

カウンター側の抗議を「挑発」として退け、対話への道を閉ざす仁藤さんの姿勢は、政権批判をする人たちを「こんな人たち」と呼んだ安倍元首相の態度と何が違うのでしょうか。

 

わたしは当日、「当事者」の声を紹介して新法成立を阻止する反対デモ側と、「当事者を利用するな!」と訴えるカウンター側の抗議を聞いていて、当事者同士で分断される必要はないのに・・・と思っていました。

 

「当事者性の過剰」の危険性

 

"性売買"の話題になると「当事者」が引き合いに出されますが、当事者性の過剰な強調はとても危険だと思います。そもそも当事者という言葉はそのまま外国語に翻訳することが難しいほど、日本独自の言葉であることは確認しておかなければならないと思います。

 

近年、当事者研究という研究分野が発展しています。トランスジェンダーを取材したものなど、たいへん優れた当事者研究も少なくありません。しかし、研究者のなかには、当事者研究の手法を悪用し"当事者"を加害する人も残念ながら存在します。

www.jprime.jp

 

翻って当日の抗議行動を振り返ると、残念ながら当事者性の応酬になっていた部分があるように思います。これは明らかに話を聞く姿勢を示さない新法反対デモ側の態度に起因するものですが、当事者性というのはいわば「諸刃の剣」で、個人的にはとても危ういのでなかなか扱いづらいところがあります。

 

社会運動ではよく「当事者の声を聞け」というスローガン的なものが口にされるのですが、当事者といっても人間ですから、何かを間違えることもあるし、差別的な思想を持っていないとは必ずしも限りません。言い換えれば、当事者だからといって「無垢」な存在ではないのです。

 

運動のために当事者の存在を押し出し、その人の言うことを絶対視する、という姿勢は、当事者を無垢な存在として規定し、活動家の価値観に合わない当事者の存在を排除する、という点で極めて家父長的な態度だと思います。"性売買"に対する保守的な姿勢と家父長的な態度をとる運動が結びつくのは必然ですが、新法反対デモに限らず、多くの左翼運動がその結びつきに不注意であることに危機感を覚えてなりません。

 

女はポルノを観る

 

ところで、守如子(もりなおこ)さんという研究者の方の本に『女はポルノを読む 女性の性欲とフェミニズム』があります。

 

 

ポルノグラフィはフェミニズムの理論や運動によって性差別だと論じられ批判されてきた主題です。しかし、歴史的には様々な観点からポルノグラフィ批判を批判するフェミニストも多く論争になってきました。著者は本書において、ポルノグラフィ論争で何が問題とされたかを確認したうえで、女性向けポルノグラフィを視野に入れたポルノグラフィの具体的な分析を通して、新たなフェミニズム・ポルノグラフィ論への道を拓こうと試みています*4

 

著者はこれまでのポルノグラフィ批判の意義を確認したうえで、個別の表現を批判するというスタイルの運動の限界を次のように指摘します。第一に、表現には多様な読みが可能であるという点があり、何が不快感を与える表現で、何が差別なのかを決める当事者を批判運動が「正しい」存在に祭り上げてしまうという問題です。第二に、批判という運動のスタイルが、「差別されている」ことによる「生きにくさ」だけを強調することに終わるという問題があります。フェミニズムにとって、抑圧や被害体験の言語化は最初の一歩として重要です。しかしながら、それだけではフェミニズムの言説が女性の生きにくさを強調し、受動的な女性像を再生産することにつながってしまうと本書では指摘されています*5

 

思うに、今回のAV法案反対の緊急アクションについても、ここで指摘されていることが当てはまってしまうのではないかと思います。本書が刊行されて10年以上経っていますが、その内容が未だに効力を持つほどに、現在の運動が反動的なものになってしまっていることは残念でなりません。

 

ポルノグラフィもまた、他の社会事象と同様に、ジェンダーを維持する側面と壊乱する側面をもつ。マッキノンやドゥォーキンのように、ポルノグラフィが性差別の核心に位置付くとする議論は、自らがセクシュアリティに関する近代の偏見にからめとられているのではないか。ポルノグラフィにすべての責任を帰すことはできない。

「〜は悪いものである」と決めつけてしまうのは、単なる思考停止にすぎない。ある主題に対して、フェミニズムの視点が一つに決まるはずはない。(中略)ポルノグラフィだけでなく、何かがフェミニズムの視点から見て「問題」なのではない。どのような事柄にもジェンダーを維持する側面と揺るがす側面がある。私たちはそのどちらの側面とも緊張関係をもちながら、思考を深めていくしかない*6

 

セクシュアリティについての議論をするとき、「無垢でもなんでもない私」から出発する意義を忘れてはならない。セクシュアリティの議論にこのことはとどまらない。どんな女性であっても、性差別に対して無垢でもなんでもないし、そこから議論は始められるべきであることを何度でも確認しておきたい。*7

 

今回の法案をめぐる混乱から脱するために、フェミニズムにおける多様性や緊張関係というものを今一度再考すべきではないでしょうか。

*1:別枠ですが、AV新方反対デモの声明に発達障害に対する偏見があり、これに抗議する個人カウンターデモも行われていたようです。縮こまっていたので気がつかずすみません。

*2:

要友紀子さんも言及していましたが、カウンターの主催はSWASHではなくセックスワーカーの有志によるものです。

https://twitter.com/kanameyukiko/status/1527858801059106816

これは#ラブホで死にたくない でも同様でした。

*3:新法反対デモとカウンターデモがそれぞれTwitterで発表した声明で一つ気になることがありました。それはALT機能の使用の有無です。後者の声明文の画像ではALT機能を使用した説明が追加されていました。

https://twitter.com/SWersVoices/status/1527310558265221120

全部の画像ツイートにつけているわけではないですし、私(わたし)も一つ一つの画像につけ忘れることがあるのでALT機能を使っていないからダメ、ということではあくまでありません。しかし、主要な声明文でこの機能を使っているかどうかは細かいようにみえて大きな違いではないかと思います。新法反対デモの方はどうしてもマジョリティ向けの運動になってしまいがちで、「女性」というマイノリティ性を強調しながら実際にはマジョリティ性を大きく打ち出すかたちになってしまっています。他方でカウンターデモは声明文において「私たちは、セックスワークを始め、全ての職業、性のあり方、ジェンダー、人種、民族、障害、その他いかなる属性に対する差別に反対しています。」と記載してあるように、差別反対の枠組みをより包括的なものにしています。こうした両者の違いが細かいところにあらわれているのではないかと思いました。

*4:守如子『女はポルノを読む 女性の性欲とフェミニズム青弓社ライブラリー、2010年、p214

*5:同、p236-237

*6:同、p235

*7:同、p236-237