しんどさは平等であるべきだ

 

生きとし生けるもののしんどさは平等なはずである。

 

戦争の時代の悲惨

 

柄谷行人がしばしば言うように、世界は戦争の時代に突入しているかもしれない。

 

ミャンマーの軍事クーデター、ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルによるパレスチナ人民に対する虐殺………ここに例を挙げきることができないほど今日の世界では一方的な支配や弾圧、殺戮が行われている。

 

それら一連の出来事に呼応して様々な抵抗が起きている。日本でも大規模なデモから数人規模のスタンディングまで幅広い方法による抵抗が行われている。様々なやり方で連帯を呼びかける方々、それに共鳴する方々には敬意を表したい。

 

苦しみの競争

 

しかし、出来事が悲惨で酷たらしいものであればあるほど、左翼は苦しみを競わせようとする。

 

戦争や虐殺で苦しむ人々の痛みに比べれば、それを経験せずに済む自分が/お前が今抱えている苦しみなど大したことはないと決めつける。

 

わたしは、しんどさに差をつけるような考え方をはっきりと間違いだと言うべきだと思う。

 

このようなことを言うと左翼は必ず反発する。

 

戦争で今にも殺されそうになっている人と、日々の生活に苦しみ藻掻いている人の苦しみが等価であるはずがないと言う。そう主張するのは左翼の直感に反するからである。

 

戦争や虐殺の犠牲になる人は圧倒的劣位に置かれている人々で、憐れみを受ける庇護すべき対象でなければならないという左翼の直感に反するからである。

 

わたしは、その直感を正面から否定する。

 

誰であろうと、どのような種であろうと、苦しみを受けること自体が不当なことであり、どのような苦しみであれそれは尊重されるべきものだからである。

 

苦しみの競争はしんどさに対する差別である

 

この記事を書こうと思ったきっかけはTwitter上である投稿をみかけたからである。

 

筆者とは関係ない第三者間でのやり取りで、フェミニストを名乗る一方が「ヴィーガンに対する差別は差別ではない」と主張していた。その趣旨は、差別とは「属性」に対するものを指し、ヴィーガンは属性ではなく思想信条によるものであるから差別ではない、というものだった。「思想信条に対する偏見や差別的扱いは存在しても、社会構造に組み込まれ選択の余地のない「属性に対する差別」」を並列に語ることは暴力的だ、とのことだ。

 

この方の主張の誤りを指摘することは簡単である。「思想信条に対する偏見や差別的扱い」を差別ではないことにしてしまうと、職業差別や宗教差別が正当化されてしまうからである。

 

「社会構造に組み込まれ選択の余地のない「属性に対する差別」」が他の差別より上位に扱われるべき問題であり、属性に対する差別と他の差別を同様に扱うべきではない。このような考えは差別の囲い込みである。

 

ひとの苦しみに優劣はないのに、しんどさは平等であるべきなのに、左翼はひとの痛みや悲しみに差をつけようとする。

 

痛みや苦しみ、悲しみに差をつけるということは、しんどさには差別があるとでっち上げるようなものだ。

 

お前が受ける抑圧は差別ではない。お前が受ける抑圧など他者に比べれば大したものではない。差別を囲い込み抑圧を競争させるようなことは非難されるべきだ。

 

国家の不正とマイクロアグレッションは何が違うのか

 

しんどさは平等であるべきだ。左翼はこれを全力で否定する。

 

しんどさには優劣がある。苦しみは平等ではない。痛みや悲しみを平等だとする考えこそ恥ずべき思考だという罵倒が寄せられる。

 

その根拠は差別の規模の違いにある。例えば、国家暴力と、日常生活で受けるマイクロアグレッションは、差別を行う主体も暴力の程度も異なる。二つのしんどさを同じように扱うことは左翼の直感に反する。

 

わたしは、2つの苦しみやしんどさに違いをつけるべきではないと考える。では違いは何で判断されるのか。

 

国家の不正とマイクロアグレッションは、解決のために費やされる社会的総労働量及び社会的総労働時間が違うのだ。動員される労働が違うだけなのだ。だから両者はその重要性、重大性において違いはなく、両者ともに反差別の重要課題として扱われるべきである。

 

しんどさに差がないということは、巨大な不正や抑圧、戦争や殺戮を過小評価することにはならない。むしろそれらと同様の抑圧が日常的に起きていることを明らかにする。お前の苦しみは彼らの苦しみより楽だと言うことは、当の「彼ら」の苦しみを易くすることにはつながらない。他者の苦しみをジャッジし競わせる人は、自らが「よき人」であることをアピールするためのステータスづくりに勤しんでいるだけなのだ。

 

ひとの苦しみに差はなく、それぞれの痛みや悲しみは尊重されるべきである。しんどさは平等であるべきなのです。