恐怖の治療法

酒井隆史『暴力の哲学』を読んで知りましたが、昨日2022年4月29日でロサンゼルス暴動(ロス暴動)が起きてからちょうど30年だそうです。

 

 

1991年にロドニー・キングという当時25歳の黒人青年がロス郊外を車でドライブをしていたところを警察に呼び止められ、殴る蹴るの暴行を受けました。この出来事をジョージ・ホリディという配管会社の経営者である白人男性がたまたまビデオで撮影しており、彼はロス市警にテープを送りつけましたが拒絶されたといいます。そこで彼は地方テレビ局にテープを送りつけ、それをきっかけにやがて全国レベルで報道されることとなり、大きな事件へと発展していきました。この映像は映画『マルコムX』の冒頭でもみられるようです。

 

filmarks.com、

映像はこの事件の裁判でも提出されました。黒人に対する警官の横暴を示す決定的な証拠であり、これが決め手となって当該の警官たちに有罪評決が下されてもおかしくはないはずです。ところが、1992年4月29日、この裁判の陪審員たちはキングに暴行を加えた4人の警官に対し無罪評決を下しました。このことをきっかけにロサンゼルス暴動が発生します。

 

なぜ4人の警官は無罪になったのでしょうか。一つはこの裁判の陪審員が皆白人で、この事件の評決がシミ・パレイという黒人住民の割合が2%程度の地域の裁判所に移管されたことがあります。近年、日本でもマジョリティの偏見やポジショナリテイに関する本や邦訳書の刊行が相次いでおり、マジョリティの特権性をめぐる問題が提起されるようになってきました。その議論を踏まえれば、この事例はマジョリティの偏見がもたらす加害性の問題について示した非常にわかりやすい事例といえます。

 

しかし、警官が無罪放免になった理由はそれだけではありません。実は先述の映像が、この事件ではなんと警官たちの「無罪」の証拠として扱われたのだといいます。

 

キングが打ちのめされてグロッキーであることはだれの目にも「明白」であるようにみえます。だからこそ、日頃は警察によるハラスメントに泣き寝入りせざるをえないことが多い黒人たちには、期待も大きかった。ところが、警官の弁護団の側は、このビデオをこまかく分析しながら、攻撃を受けているのは警察の側であることの証明としてもちいたのです。 ロドニー・キングの身体は、攻撃をやめなかったら、いまにも飛びかかって逆に暴力をふるいにくるおそるべき身体として表象されたのです。

ここには”想像的な転倒(imaginary inversion)”(原文強調点) とでも呼ぶべき動きがあります。このような転倒は、とりわけ人種差別やナショナリズムのなかに「マジョリティの恐怖」のリビドー経済としてあらわれます。すなわち、力関係でいえば「強者」(しかもしばしば圧倒的な「強者」)に属する側が、「弱者」に属する側によって圧倒的な力で包囲されているかのように恐怖する、という心理的に転倒してあらわれる構造です。*1

 

酒井さんはバトラーを援用して次のように続けます。とても長い引用になってしまいますが、非常に重要なことを言っていると思います。

 

ここには「マジョリティの攻撃性」あるいは「マジョリティの兇暴性」とでも呼びうるような、ひとつの典型的な暴力の発現形態があるようにおもわれます。その特性は、くり返しになりますが、力において優位にあり、暴力を行使する側が、力において劣位にあり、暴力を行使される側に力の優越と暴力の加害を帰属させてしまう 「転倒」です。この転倒こそが人を容易に暴力的にさせてしまう仕掛けなのです。
ジュディス・バトラーはこの転倒を分析しています*2。 「百聞は一見にしかず」ということわざがあるように、通常、伝聞に比べて視覚が圧倒的に確実であると考えられています。しかしこの視覚という通常もっとも「明白な」証拠として想定されている領域すら、この転倒の機制を克服することはできない。バトラーによれば、それは、視覚的表象の領野がひとつの物語によって構造化されているからです。この幻想は長い伝統をもっています。アメリカ合衆国には、黒人の強大とされるペニス幻想があります。 黒人の強靭な性的能力から白人女性はまもられなければならないという観念が、マジョリティ男性にとり憑いているというのです。それはよりつきつめれば境界の不安です。一九世紀の後半にmiscegenation という言葉がアメリカで生まれます。ラテン語の混ぜる(tomix) を意味する misceōに人種、種族、種 (race) を意味する gen (us) とを合わせてつくられた造語です。 雑婚、 人種混交などと訳されます。*3

 

miscegenation という造語が示唆するのは、 人種差別がつねに恐怖という成分をはらんでいるということです。それが殺人をふくめた暴力を触発し、さらに正当化するのです。いわば国境のなかの国境を取り締まる主権的な機能をはたす警察は、このイメージの図式のなかでは、「白人性(ホワイトネス)」を「予防的」に防衛するものです。 だから、かれら自身の暴力は暴力としては認識されないのです。警官の暴力は、なんといってもロドニー・キングの(現実には行使されていない想像上の)「暴力」の方こそがひき起こしたものなのですから。警官たちは人種にまつわる空想のなかにいます。もちろんそれは物理的な帰結をもたらす空想ですが。これをバトラーは「ホワイト・パラノイア」と呼んでいます。その空間のなかで「想像的な反転」が、つまり、みずからの人種的な攻撃性が他者のものとして転倒して想像されるという事態が可能になる。その空想の「外側」に立ってみれば、そこで展開しているのはたんに警官による一方的な暴力にすぎません。他者にあてがわれる「粗暴さ」はまさにみずからに負わされるべきものにすぎない。しかし警官たちは、空想の空間のなかで、その「粗暴さ」をみずから実現し、同時にそれを他者にズラしてしまうというアクロバットをやってのけるのです。まさにこのロドニー・キング事件には、アメリカが国家単位で世界に行使している暴力の構造がみてとれるでしょう。 みずからが口をきわめて非難する核爆弾をはじめとする大量殺戮兵器や化学兵器を、ほとんど他を圧倒して大量に使いつづけているのはまさにアメリカ国家自身であるという例ひとつとってみてもあきらかです。*4

 

今回この事件を取り上げたのは、本書におけるロドニー・キング事件の分析を読んで、今日のトランス差別の問題を想起したからです。トランス差別をする人たちはよく「女性のセーフスペース」の話をしたがります。女性の身体への介入や暴力を背景としてトランスジェンダーを「女性のセーフスペースへの侵襲者」として悪魔化し、シス女性の「恐怖」を煽る手法です。差別扇動に乗ってしまった人たちがこの恐怖を根拠にトランスジェンダーへの暴力を正当化するのです。

 

しかし、現実では全く異なることが起きています。性別二元論や異性愛規範が強固な既存の社会において、トランスジェンダーは性的逸脱者として迫害され、自尊心を傷つけられています。このことは椿姫彩菜(現・椿彩奈)『わたし、男子校出身です』などのトランスジェンダー当事者が書いた本でも紹介されています。ちなみにこの本では「シス女性の恐怖」とかいう話はまったく出てきません。当たり前です。その恐怖は差別扇動者がアジテーションのために用意したイデオロギーでしかないのですから。

 

 

マジョリティの恐怖の克服を呼びかける話は、それこそキング牧師もしているくらい古くからあります*5。しかし、冒頭でも述べたように、マジョリティの立場性や特権性が問題になってきたのはここ最近のように思います。フェミニズムでも、ブラック・フェミニズムが白人女性中心のフェミニズムの問題を提起していたのはもうずっと昔のことなのに、日本ではようやくそのことが顧みられてきたような雰囲気を感じています。いや、このことはずっと言われてきたのに、マジョリティが顧みてこようとしてこなかっただけなのでしょう。

 

立場性と聞いて思い浮かぶのは、出口真紀子さんの研究です。出口さんはグッドマン『真のダイバーシティ』を目指してやアリシア・ガーザ『世界を動かす変革の力』の翻訳で知られ、また、勤務する上智大学では「立場の心理学:マジョリティの特権を考える」という授業を担当しています。

 

 

 

実は私(わたし)は出口さんの担当する授業については以前から知っていました。でもその取り組みについて目を向けることはありませんでした。というのも、当時はマジョリティの問題について考えるよりも、マイノリティとされる人々の問題に向き合い、闘って社会を変えていくことの方が重要だと考えていたからです。しかし、後になってその考えが間違いであることに気づきました。変わるべきはマジョリティの方で、マジョリティがその特権性に向き合い社会を変えていかなければならないことにようやく気づいたのです。

 

最近はマイクロアグレッションやインターセクショナリティの他、マジョリティの特権について考えることが多いです。いつか近いうちに、自分が考えたことをなんらかのかたちにできればと思っています。

 

ロシアのウクライナへの侵略戦争がまだ続いています。最後に『暴力の哲学』の今まで引用してきた章の最後の段落を紹介して締めの言葉にしたいと思います。

 

国家による暴力がつねに「予防対抗暴力」として正当化されることの仕組みも透けてみえます。戦争は、それがどんなに侵略的性格のものであることがはっきりしていても、「自衛」を口実になされます。だから戦争とは逆説的ですが、根本的に反戦的なのです。とすれば、戦争に本当に反対するのならば、この論理をくつがえすところまでいかなければならないのです。*6

 

*1:酒井隆史『暴力の哲学』河出文庫、2016年、p111-112

*2:1993 "Endangered/Endangering: Schematic Racism and White Paranoia." In Robert Gooding-Williams, ed., Reading Rodney King/Reading Urban Uprising, pp. 15-22. Routledge. =1997 (池田 成一 訳)「危険にさらされている/危険にさらす――図式的人種差別と白人のパラノイア」『現代思想』 25(11)(特集=ブラック・カルチャ-) 1997.10 pp.123-131 青土社

*3:前掲書、p113-114

*4:同、p115-116

*5:ブログのタイトルはこの本のテキストに由来します。今回取り上げた『暴力の哲学』の章はこのテキストの紹介から始まります。(ただし恐怖の「病気」化は不適切な場合があるかもしれません)

 

 

*6:同p116-117