#そごう・西武労組のストライキに連帯します

昨年より、百貨店のそごう・西武の売却をめぐり労使対立が続いていました。

 jp.reuters.com

 

このほど、セブン&アイ・ホールディングスが百貨店のそごう・西武を米投資ファンドフォートレス・インベストメント・グループに9月1日付で売却する方針を固めました。これに対し、そごう・西武労働組合は事業継続や雇用維持に関する説明が十分になされていないとして反発。8月31日にストライキを決行しました。

 

このストライキを応援するため、池袋に行ってきました。

そごう・西武池袋本店

全館臨時休業を知らせる張り紙。開業時刻を過ぎてもシャッターは閉まったままになっている。

本店前では労組が横断幕を掲げ、ストライキ決行中であることを知らせる街宣行動を続けていました。

ストライキ決行中!!」と書かれたプラカード

配られていたチラシ。表面にはストライキの理由が、裏面にはこれまでの交渉の経緯が書かれている。

ストライキの様子。横断幕やのぼりを掲げ、チラシを配ってストライキを周知している。

チラシ配りの様子。関心を持ち自分からチラシをもらいに行く人の姿もあった。

取材を受ける組合員の様子。ストライキには多くのメディアが駆け付けた。

ストライキの最中、他の組合員の方々は池袋でデモ行進をしていました。直接デモをみることができませんでしたが、公園で開かれていた集会の場に少しだけいることができました。

デモ後の集会の様子

そごう・西武労組の行動はさまざまな点で重要な意味を帯びています。特に経営への介入という点は強調されるべきだと思います。

 

ストライキの要求事項といえば賃上げや労働環境の改善等が思いつきますが、今回の場合は百貨店の売却に伴う「雇用維持」と「事業継続」を求めています。つまり、企業の経営方針への反対を表明しているのです。

 

池袋駅周辺は再開発が進む地域であり、売却問題は一企業にとどまらない社会的な影響をもたらします。労組の団体行動は事業再編に一石を投じる試みであり、業界全体に大きなインパクトを与えるはずです。

 

ストライキに踏み切った組合員の方々に敬意を表します。

ストライキ実施中 西武池袋本店を守ろう! 池袋の地に百貨店を残そう! これからもお客さまと共に・・・」と書かれた横断幕を掲げる組合員たち

 

無責任な左翼たち

お前が働け

少し前に話題になった記事がある。

 

toyokeizai.net

*1

資本主義を理解するためにあえて労働環境の劣悪な会社で働けとのことらしい。お前が働け。

 

いつでも辞められる余裕があれば、と言うが、では辞めた後の生活を白井が保障してくれるのか?

現行の社会保障制度では自己都合退職の場合、少なくとも1年間は雇用保険に加入していないと失業保険は適用されないぞ。それを知ったうえで白井は「いつでも辞められる余裕を」と言っているのか?

若者に無茶を勧めるくらいなら、せめて社会保障制度がもっと使いやすくなるよう活動なりして取り組むのが筋ではないか。

 

もしかしたら白井は家族に資産の余裕がある学生に働けと言っているのかもしれない。ただ、学生の貧困化が問題となる今日、そんな層は全国的な比率でみても少数だろう。

そもそも生活保障を家族に負担させることを前提としているのはどうなのか。白井はトランスジェンダーに対する差別を擁護するなど性差別に対して保守的な姿勢を度々示しており、そのような傾向と今回の提言は無縁ではない。かつて安川悦子は「女性の居場所」としての家族を前提とするマルクス主義を「セクシストマルクス主義」と呼んで批判したが、白井ほど”セクシストマルクス主義者”の称号にふさわしい学者もいないだろう。

 

無責任な左翼たち

 

白井に限らず、人々に「立ち上がれ」とか「闘え」という左翼たちが無責任であると思うことが少なくない。最近、下記の本を読んだ時もそう感じた。

 

 

本書では不正に異議を申し立てず、従順さを示すことの問題を論じている。著者の主張それ自体は間違っているわけではない。*2

 

しかしながら、本書を読みいくつかの疑問が思い浮かんだ。わたしが感じた最大の問題は、異議申し立てをした際に起きるであろう支配者側の反発や報復の可能性を示唆すらしないことだった。

 

不正に異議を唱えてそれがすんなり通る、なんてことは残念ながら現実的ではない。というのも、支配する側は当然、秩序に従わない者たちを統制し屈服させようとするからである。

 

当たり前のことだが、暴力やハラスメントの責任は、支配に服従する側ではなく、暴力を振るいハラスメントを行う側にあるのである。ところが、人民の蜂起を夢見る左翼は実際の権力関係をまったく考慮せず、暴力やハラスメントが蔓延する原因を「立ち上がらない人々」に負わせる転倒をしばしば起こすのである。彼らにとっては「いじめられる方が悪い」のだ。

 

不正に異議を申し立てようと読者を煽るなら、せめてそのリスクや対処法も示すべきだ。また、もしもの時の相談機関などを例示して、仮に何か問題が起こって大丈夫だという安心感を読者に与えなければならないはずだ。だが、本書には告発や抵抗する人々を守るという意識が欠けている。

 

もし著者の主張を真に受けて、いざ不正を告発したもののひどい報復に遭い、以来抵抗することもやめてしまった、という人が出てきたらどう責任を取るつもりなのだろうか。そのような挫折を経験をした人々に「適切に対処しなかったお前の自己責任だ」と叱責する左翼をわたしは何人も知っている。なんて無責任な人たちだといつも思う。

 

「ジェネレーション・レフト」論の問題

 

抵抗を煽るだけ煽っていおいて後は知らん振り、という言説は多い。近年流行しているZ世代論もそうだ。

 

抵抗の主体としてのZ世代を表象するジェネレーション・レフト論の最大の問題は、社会運動を継続するなかで必ず起きる事象である、挫折や転向、報復といったネガティブな要素を予め排除して論じているところにある。しかもジェネレーション・レフト論の主唱者たちは、自身の経験からそれらの問題が回避不可能であることを知っているにもかかわらず、あたかも問題が存在しないかのように隠蔽しているのだ。

 

主唱者たちがこのように振る舞う理由は、若者を囲い込んで自分たちの運動に加えるためである。抵抗を呼びかけるアジテーションにネガティブな要素は不向きなのだろうが、本気で運動をやりたいという者には不誠実な態度であると言わざるをえない。

 

なぜ沈黙し隠蔽するのか。それは自信がないからだ。運動は楽しいことばかりではないが、それでも社会を変えるために一緒に取り組んでほしいと訴えかけるだけの技量と自信がないからだ。だから運動に参加したばかりの者が挫折にぶち当たると運動家は非難し圧をかける。若者をアジって大量に人を集め、使えない者を選別して排除し、うつにさせて使い捨てる。冒頭の記事に出てくる企業のやっていることと何が違うのだろう。

 

挫折や転向、そして世代について考えるとき、下記の本を思い起こす。国立国会図書館デジタルコレクションの個人送信サービスでも読めるので、もし読める環境があれば一読してみてほしい。

 

自分の問題意識のせいで、わたしはまだ本書の指摘を読み砕けていない。しかしながら、一つだけ確実に言えることは、挫折や転向の問題に向き合わなければ、そうやすやすと人々をアジり抵抗を煽ることもないということである。

*1:ところで、この記事の最大の問題は結局何が言いたいのかわからないところにある。資本主義を批判しているかのような書き方をしているが、よく読むと企業の労務管理に対する批判はない。時事的な話題に乗っかってPVを稼ぐ以上の文意がないのである。

また、若者にあえて理不尽な目に遭うよう勧めておきながら自分は何も関与しない白井をみると、ちょろっとでもウーバーイーツを体験してギグワーカーの苦労を味わった斎藤幸平大先生の方がまだ誠実だと思えてくる。

*2:主君殺しや自警団の肯定など、危うい記述も多い。

【まとめ】国連特別報告者のトランスヘイトに対する世界各地の抗議

国連がトランス差別にお墨付きを与えたとしてヘイターたちが盛り上がっている。

 

 

幸いにもこの声明が広く読まれているようには感じられず、そもそも読む価値もないためかトランスアライで言及している人はほとんどいない。ただ、これまでの動きから明らかなように、差別を扇動する側は組織的に動いている。トランスを排除していい存在として社会的な合意を形成するために今後もいろいろな策を仕掛けてくるはずで、国連報告も効果的に使ってくると思われる。そうなる前に釘を刺しておこうというのが今回の記事の趣旨だ。

 

冒頭で紹介した報告書を書いたのはリーム・アルサレムという人物で、2021年に「女性と少女に対する暴力に関する国連特別報告者」任命された。任期は2021年8月からの3年間である。

https://www.ohchr.org/en/special-procedures/sr-violence-against-women/reem-alsalem

 

この人物はトランスジェンダーに対する差別的な発言を繰り返し度々問題になっている。国連の協力機関の一つであるThe Sexual Rights Initiativeはこの報告者との関与を中止すると発表した。

www.sexualrightsinitiative.org

 

世界的なフェミニスト組織であるAWID(開発における女性の権利協会)もアルサレム氏に対する抗議声明を出している。AWIDは、特別報告者が自身の立場について「フェミニスト団体」によって支持されていると主張しているが、多くのフェミニストや、女性、LGBTIQ+ の権利、人権のために活動する団体や活動家が、彼女が表明している見解に反対の声を上げていると付け加えている。

www.awid.org

 

アルサレム氏は昨年秋、イギリス政府に反トランスの内容をしたためた手紙を送っているが、BBCはそれが国連の「報告書」であると虚偽の報道を行った。

transwrites.world

 

下記の記事では、BBCによる反トランス行動の変遷に対する抗議がBBC内外で起こり、多くのLGBTQ+のスタッフが退職したと書かれている。

www.thepinknews.com

 

一連のことは日本ではまったく報道されていない。筆者も先月の声明以降に調べて初めて知った。国連という権威に惑わされる前に世界の動きを知っておこう。

 

追記:LGBT理解増進法案に対する抗議行動が明日開催されるとのこと。今回の記事内容から離れるが、差別言説の拡大に歯止めをかける行動に敬意を表し紹介する。

「彼は大事な人だから」 ヒムパシーの論理

 

つい最近、斎藤大先生がトンデモ本の推薦文を書いたとして話題となった。

 

 

筆者は斎藤がいかに問題の多い人物であるかということを事ある度に言い続けてきた。今回のような”やらかし”など過去にいくらでもしているが、珍しく批判が集中していたのでようやく皆、彼のダメさに気付いたのかとうっかり思ってしまった。

 

しかし、さすがは大先生、ネット上の批判にすぐさま対応し次のような釈明を行った。

 

 

彼の言動を問題にし続けてきた身からすればつまらないことこの上ないが、それ以上に興醒めだったのは彼の釈明を”賞賛”する人々の反応だった。人は誰でも過ちを犯してしまうし、その過ちを認め反省することは容易ではない。にもかかわらず、迅速に自らの誤りを認め推薦文の撤回まで行うなんて素晴らしい!と。

 

このような”懐の深い”人々に水を差すような、それこそ興醒めなことを言ってしまうのだが、差別的な言説や怪しげな運動に加担し、そのことを指摘されて反省する、という一連の行動は斎藤にとってもはやお家芸であり、ビジネスなのだ。彼はこのビジネスを繰り返すことによって支持を拡大し資産を形成しているのである。まるで斎藤大先生が批判してやまない資本家のように。

 

繰り返される性差別

 

公に判明している彼の言動にはどういったものがあるだろうか。

 

例えば、こんなものがある。

 

社会運動家が集まる場である学者が性差別的な発言をした。斎藤自身もそういう発言をしたのかはわからないが、少なくとも周りにいた人間として適切な対応を取らなかった。上のツイートはそのことを反省しているようだ。一般的にみれば真摯な対応に思えるかもしれない。

 

さて、その数年後、Choose Life Projectが「#わきまえない女たち」の後継として「#変わる男たち」という番組を企画したが、これがTwitterで大炎上し企画そのものが白紙となった。この番組への出演を予定していた一人がかの斎藤であった。

 

 

「深く反省しております」「考え直したいと思います」。どの程度意識していたのかわからないが、斎藤は何か事ある度に反省のポーズをとり続けることで謝罪という形式を用いたビジネスを確立していったのである。

 

筆者の意見に対し、斎藤を擁護する人々はすぐに反応したくなるだろう。本人が反省しているのだし、彼が過ちを繰り返すのも構造の問題なのだから本人を責めるべきではない。そもそもCLPの企画は斎藤以外の人間も関わっていたのだし、むしろ彼は巻き込まれただけではないのか・・・そういった反論が想像できる。

 

では、現在の斎藤は過去の言動を反省したのだろうか。筆者はそうではないと考える。

 

近年、「Z世代」や「ジェネレーション・レフト」といった言葉が左派の間で好んで使われているが、この言葉を社会運動の文脈で紹介し流行らせてきたのは斎藤らである。斎藤はZ世代について書かれた下記の書籍に次のような推薦文を書いている。

bookclub.kodansha.co.jp

 

 

「Z世代が起こす優しい革命に、私も参加したい。」

 

 

なんだこの気持ち悪い推薦文は!!!

 

私も参加したいという前にまず自分の振る舞いについて考えろ、と言いたくなることは一先ず置いておくとして、斎藤には以前からパターナリスティックな言動がみられる。「学生だから」「若い人だから」といって自分は一歩引いた位置に立とうとするが、実際には若者を主体的な存在として扱わないことも多い。本人はまったく自覚がないようだが、彼の言動を問題だと感じる人の話を筆者は何度も聞いている。斎藤が抱える問題はまったく過去のものではないのである。

 

「ヒムパシー」の論理

 

なぜ斎藤は免責されるのだろうか。

 

筆者は以前、泉房穂明石市長のパワハラに対し擁護する人が後を絶たなかったことにふれ、泉の起こした問題が性暴力ではなかったから、つまり性暴力以外の問題は過小評価されその責任が免罪されることが「よきこと」の問題であると書いた。

zineyokikoto.hatenablog.com

 

斎藤の問題もこれに当てはまるが、今回は「ヒムパシー」という概念を通してこの問題を考えたい。

 

ヒムパシーとは、ケイト・マンが提唱した造語で「性暴力への関与や、その他のミソジニー的な行為をした力があり特権的な少年や男性が、犠牲者である女性よりもしばしば同情や配慮を得る」というものだ。*1

 

ヒムパシーという用語の核心は文字通り「彼」(him)に対する「共感」(sympathy) 、すなわち加害者に対する過剰なまでの同情である。マンによれば、健常者の白人男性が性暴力を起こした時、「男性優位の社会においては、私たちはまず男性のほうに同情し、事実上、彼自身が犯した犯罪の被害者に変えてしまう」*2ことが起こる。その背景には、前提としてレイプ犯のステレオタイプのようなイメージが人々の間で共有されており、そのイメージと現実の性暴力加害者が乖離しているという問題がある。

 

「レイプ犯はぞっとするような薄気味の悪い、人間性の欠片も感じられない人物にちがいないと、わたしたちは考えがちである」*3

「現実のレイプ犯は、三叉を手にした角を生やした悪魔か、それとも、不気味でぞっとするようなモンスターとしてレーダー上に姿を現わすだろうと自分に言い聞かせているのだ。モンスターは薄気味の悪い、理解を超える存在であり、その外見はおどろおどろしいはずだが、レイプ犯のおどろおどろしさは、性別がまちがいなく男性であること以外、その存在を特定する標識や特徴が欠けていることによる。レイプ犯は人間、しかもあまりに人間的な人間であり、私たちの中の一人である。だから、レイプ犯をモンスターと考えるのは、戯画化による潔白証明に等しい。」*4

 

「彼は大事な人だから」

 

唐突だがここで昔話を聞いてほしい。

 

数年前、私(わたし)が活動家として尊敬していた人物が性差別的な発言をして問題になったことがあった。私(わたし)はそのことにショックを受け非常に落ち込んだが、周りの人間は少なくとも表向きには取り乱した様子をみせず、それどころか10歳以上年齢が離れた活動家から「動揺するな」と注意されてしまった。彼曰く、運動を続けていれば活動家が失態を犯すことなどよくあることだから、いちいち動揺していては周りに示しがつかない。それに「彼は運動にとって大事な人だから」失敗したら周りの人間が彼を支えてあげないといけないのだという。

 

この後、その運動家は周囲の支えを受け活動を再開し、フェミニズムについて学ぶ機会を設けてもらった。一方で、周囲の人間の差金によって性差別を受けた人への謝罪も、活動を再開するにあたっての申し開きも行われなかった。私(わたし)はそのことに抗議し本人に直接反省するよう呼びかけたが、一緒に活動していた先輩の運動家に注意されたため抗議を取り下げざるをえなかった。また、周りの活動家によって企画されたフェミニズムの勉強会にセックスワーカートランスジェンダーを排撃する人物が講師として招かれ、むしろ活動家当人の性差別を加速させるに至った。

 

一連の出来事にはヒムパシーの論理が働いている。彼は将来有望な活動家であり社会運動にとって必要不可欠な存在だ。そのような彼のキャリアを性差別などという"瑣末な出来事"によって挫いてはならない。活動の支援や勉強会の開催といった、性差別を被った人への対応に比して過剰な同情はそのような気持ちの表れである。

 

「よきこと」におけるヒムパシー

 

ケイト・マンの功績はミソジニー概念の素朴理解を否定し構造的な現象として把握するように議論を転換させたことだけではなく、ミソジニーと連携して生み出される「名前のない問題」にヒムパシーという言葉を与えたことにもある。私(わたし)はこのヒムパシー概念に新たな意味を付与したい。彼女のヒムパシー概念はその分析対象を性差別やミソジニーに限定していたが、筆者は「よきこと」にも適用範囲を拡張すべきだというふうに考えている。

 

実際、泉も、斎藤も、そして昔話に出てきた活動家も、そのイメージはまったく善良である。性暴力を振るう人物がおどろおどろしいステレオタイプ像と必ず一致するわけではないように、「よきこと」を為す人は忌避されがちな「問題児」のイメージとは異なる場合が多いのである。

 

ヒムパシーを「よきこと」の分析ツールとして使用することで、冒頭の斎藤に対する賞賛も、泉に対する擁護も、ある活動家に対する支援も説明することができる。なぜなら彼らは皆「(社会運動にとって)大事な人だから」。

 

マンはヒムパシーが加害者を手助け*5保護し被害者非難をもたらすと指摘している。

 

「共感の稚拙な適用は、不当なかたちですでに特権的な位置を占める者たちの特権をさらに助長する傾向をもたらすだろう。そして、彼らの被害者である、彼らほど特権的な位置にない人たちを不当に非難したり、譴責(けんせき)したりして、辱めることになったり、また、彼らを危険に晒し、彼らを抹消するような犠牲を強いることになりかねない。場合によっては、加害者はこのことを知り尽くしたうえで、標的を選ぶこともある。」*6

 

いい加減、左翼の男を甘やかすのはやめないか。

 

*1:ケイト・マン著、鈴木彩加、青木梓紗訳『エンタイトル 男性の無自覚な資格意識はいかにして女性を傷つけるか』人文書院、2023年、p8

*2:ケイト・マン著、小川芳範訳『ひれふせ、女たち ミソジニーの論理』慶應義塾大学出版会、2019年、p265

*3:同、p262

*4:同、p263

*5:依存症療法の用語で「イネイブリング(Enabling)という言葉があり、「依存症を抱える人を手助けすることによって、かえって依存症からの回復を遅らせてしまう周囲の人の行為のこと」(同、p263)を指す。性暴力に対するヒムパシーも、「よきこと」を為す人の加害を擁護することも、それは本人含め誰にとっても悪い影響をもたらす。

*6:同、p264-265

書評:『学ぶことは、とびこえること』

先頃、ベル・フックスの著作がちくま学芸文庫で刊行されました。

 

 

元々は2006年に『とびこえよ、その囲いを (副題:自由の実践としてのフェミニズム教育)』というタイトルで日本語に訳され出版された著作で、出版元の新水社が倒産したこともあり長らく流通していませんでした。今回、ちくま学芸文庫で復刊され多くの人が読めるようになったことは喜ばしいことだと思います。

 

そこで、今回は本書の概要や旧版と新版で変わったこと等を紹介していきます。

 

 

パウロフレイレとティック・ナット・ハン

 

ベル・フックスは『フェミニズムはみんなのもの』や『アメリカ黒人女性とフェミニズム』等の著作で知られるフェミニストです。これらの本がフックス流のフェミニズムを理論的に書いたものであるのに対し、本書は教育という実践的側面に主軸を置いています。

 

フックスの教育論は2人の人物に大きな影響を受けています。一人はブラジルの教育者パウロフレイレで、もう一人はベトナムの仏僧ティック・ナット・ハンです。

 

パウロフレイレには『被抑圧者の教育学』という主著があり、そのなかで既存の学校教育を批判し社会的な抑圧を受けている人々を解放するための教育的実践のあり方を説いています。フレイレは学生が教師からただ知識を詰め込まれ情報を消費させられるような学校教育を銀行になぞらえて「預金型教育」と呼び批判しました。『学ぶことは~』では、フックスがいかにフレイレから影響を受けたかということが語られています。*1

 

ティック・ナット・ハンは西洋に仏教と「マインドフルネス」という瞑想法を普及させた人で、キング牧師とともにベトナム戦争に反対しノーベル平和賞候補にノミネートされたこともあります。2022年1月に95歳で亡くなるまで平和活動家として国際的に活躍しました。フックスはハンの教育者としての思想と実践にも影響を受けており、それを示すかのように『学ぶことは~』では身体や「情熱」に関する話題が多く登場します。

 

「関与の教育学」

 

2人の議論から多くの示唆を得たフックスですが、他方でそれらの議論や批判教育学、フェミニズム教育学について批判的な立場を取りました。というのも、フレイレ自身が白人男性であるように、当時、既存の教育を批判する教育論を書いていたのは白人が多く、黒人や黒人以外の非白人系の立場から書かれた理論がほとんどなかったためです。このような状況から、偉大な教育者の思想・実践を取り入れると同時に、それらの限界を乗り越えるような教育実践をフックスは目指しました。それがフックスのいう「関与の教育学」です。

 

進歩的でホリスティックな教育、「関与の教育学」は、これまでの批判的教育学、もしくはフェミニズム教育学よりも、さらに要求するところが大きい。「関与の教育学」は、後者の二つの教育実践とは異なって、「心身の よきありよう("ウェルビーイング"とルビ)」、が重視されるからである。それは、もし教師が学生をエンパワーするようなやり方で教えようとするならば、まずは教師自身が自らの生のありようを証しする作業に積極的に関与し、己れの心身のありようを高めていかなければならない、ということを意味している。*2

 

今日、フックスの理論は交差性というキー概念を通して理解されることが多いと思います。実際、フックス自身も「わたしの教育実践は、反植民地教育学、批判的教育学、フェミニズム教育学の互いに啓発的な相互作用を通して形づくられたものだ」(p23)と述べており、インターセクショナリティを意識しているからこそその理論は時代を越えて読み継がれるほどの耐久性や柔軟性があるともいえるでしょう。

 

それと同時に、「心・からだ・魂の統一を重視する哲学に立脚」(p41)する本書の教育実践の意義についても読み込んでほしいと思っています。フックスの教育は声の使い分けをはじめとする行為のレベルにまで踏み込んだもので、それは「関与的な声は固定した絶対のものであってはならない」(p26)という思想に基づいています。また、フックスは「教えることのなかに見つけ出してきた豊穣な歓び」が本書で伝えたいことだと書いています。教える側に教育実践の再考を促すさまはマルクスの「教育者自身、教育されなければならない」(ドイツ・イデオロギー)を彷彿とさせますが、フックスはそれだけ固定的な教育のあり方に批判的な姿勢をみせていました。

 

経験の情熱

 

是非多くの人に読んでほしいので内容についてはあまり書かないようにしたいですが、ここでは6章の議論だけ紹介したいと思います。6章は「本質主義と経験」というズバリなタイトルがつけられており、このなかでダイアナ・ファスというフェミニストが「経験の権威」と呼ぶものを批判しています。

 

ファスによれば、「本質、アイデンティティ、経験」などの諸問題は、主として周縁化された諸グループの投ずる批判によって浮上するものだといいます。ファスは自身の本のなかでさまざまな学生の事例を引き合いに出し、その学生たちが社会的に周縁的な立場に置かれたグループのメンバーで「本質主義者的な立場をとることで議論を支配し、「経験の権威」を振りかざすことによって他者を沈黙させようとしたがる」(p141)というのです。当然、フックスはそのような主張に対し丁寧に反論するのですが、私(わたし)がここで伝えたいのはその反論の内容ではなく、「経験の権威」に対するフックスの葛藤です。

 

「いつだったか、フェミニストの著作のなかに「経験の権威」ということばをみつけたときは、わたしは感謝した」(p155)というように、フックスは黒人女性としての自身の経験の価値を声高に言うことで黒人女性が排除されている現実を伝えようとしました。しかし、ファスのような議論が台頭したことで「経験の権威」という言葉がマイノリティを排除・口封じをするための手段として使われていることを日々痛感するようになったのです。それでもなお、「わたしは、経験に根をおいた知的認識のかけがえのない価値を肯定する言葉が必要なのだと思う」(p156)と葛藤をみせています。その葛藤を通じて「受難に由来する、ある独特な知」としての「経験の情熱」(p158)という言葉を生み出します。

 

筆者が旧版を読んだのはフェミニズムの理論を本格的に学び始めた頃で、6章は単にフックスの本質主義批判が書かれた箇所として読んでいました。しかし、文庫版で改めて読んでみると、筆者は6章を差別や交差性について書かれた章としてのみならず、ハラスメントの告発を考えるうえで多くの示唆を与えてくれる章としても読むことができると考えるようになりました。ハラスメントの告発はまさに「経験の権威」が現れる場面で、それこそ被害者は経験の権威を振りかざしているというような二次加害も度々発生します。「経験の権威」は両義的な言葉なのです。それでも、筆者はハラスメントの告発に際しては「受難に由来する、ある独特な知」があると信じています。6章はそれを考えるヒントになりそうだと思ったのが文庫版を読んでの収穫でした。

 

旧版と文庫版の違い

 

今回、文庫化にあたりいくつかの修正・変更がありました。

 

筆者がよかったと思った修正は、旧版の役割言葉が文庫版で修正されたことです。本書では対話形式の章が2つあるのですが、旧版ではフックスの台詞に「~わね」や「~なのよ」といった女性的な役割語の語尾がついていました。それが新版では標準的な文章に書き換えられています。また、元々読みやすい訳文でしたが、若干冗長的だった言葉を簡潔なものに置き換えるといった修正も見受けられました。

 

しかし、下記の書評で指摘されている「白眼視」という言葉の使用は文庫版でも修正されませんでした。また、旧版では問題がなかったのに、文庫版ではなぜか意味が通らない文章に変更されているものもありました*3

https://www.jstage.jst.go.jp/article/wsj/14/0/14_103/_pdf

 

旧版と文庫版での大きな変更点は、訳者あとがきです。

 

旧版の訳者あとがきは、訳者全員がそれぞれ文章を寄稿しています。そのなかで堀田碧さんはベル・フックスの解説を書いていますが、「ベル・フックスの名は、欧米とりわけ英語圏での知名度の高さに比すとき、日本では驚くほど知られていない」(旧版p246)というように、翻訳が出版された2006年当時はほとんど無名でした。いつから彼女の名が日本で知られるようになったのかは不明ですが、現在は「フェミニズムといえばベル・フックス!」と言わんばかりの知名度になったと思います。文庫版のフックスの解説は坂下史子さんの文章をお読みください。

 

吉原令子さんは旧版で「関与の教育学」の解説を書いており、これは本書の要約として非常に読みやすいです。また、フレイレやティック・ナット・ハンの紹介、フェミニズム教育学が1960年代後半の女性運動で生まれた意識高揚運動の影響を受けている等、本書の背景にある思想の解説が行われています。これらの記述は文庫版で簡潔な文章としてまとめられました。

 

旧版の最後では「日本でベル・フックスを読むことの意味」と題する朴和美さんの文章があります。筆者としては、この文章が文庫版で読めなくなってしまったことが残念でなりません。文庫版では朴さんの参加が翻訳プロジェクトにとって重要な位置を占めていたことが書かれていますが、その詳細は旧版の文章を読めば深く同意できます。

 

そして、復刊にあたり大きく変わったことといえば何と言っても関係者の逝去でしょう。ベル・フックスは2021年12月、里見さんは2022年5月に亡くなりました。里見さんはフレイレの研究者として活躍しただけでなく、実際の教育現場でもフレイレやフックスの教育実践を取り入れていました。「年配の男性大学教授にありがちな上から目線や説教めいた物言いがまったくなく、学生たちを「静かに見守り、辛抱強く待つ」姿勢を持ち続けた教育者」で「若者や被抑圧者の潜在能力や抵抗の力を信じ続けた人でもあった」(p348)といいます。筆者は「抵抗の力を信じ続けた」人たちの思想が復刊を機に広まってほしいと願っています。

 

家父長主義、人種差別、階級格差にもとづく暴力の嵐が世界を席巻し、ともすれば人々の抵抗の無力さにうちひしがれそうになる現在にあって、私たちに求められていることは、ベル・フックスが、そして里見実が燃やし続けた権力への抵抗の炎を絶やさないことではないだろうか。*4

 

*1:フックスは本書で、フレイレジェンダーに鈍感だ、と彼の性差別をはっきり批判しているが、その批判とフレイレの著作から学ぶことには矛盾がないとも強調している。他方、フレイレフェミニストからの批判を受け入れ、自身の教育実践に取り入れるといった相互関係が築かれている。2人がこのような関係であったからこそ、『アンカット・ファンク』のような対談が実現したというようにも思える。

*2:ベル・フックス著、里見実監訳『学ぶことは、とびこえること』ちくま学芸文庫、2023年、p36-37

*3:例えば、p24後ろから3行目の文章。

*4:同、p348-349

大は小を兼ねない 怠惰な左翼の狡猾さを批判する

 

「よきこと」は第三者の存在を必要とする。

 

たとえ二者間で起こったハラスメントであっても、その加害は第三者の存在を意識している。ハラッサー気質の運動家はこのように考える。自分には実績と社会変革という崇高な意志があり、志を持たない「あいつら」とは違う。自分よりもやる気も向上意識もないあいつらとお前は同じレベルに安住していていいのか。この慈愛に基づく叱責をハラスメントと呼ぶのは革命に対する冒涜である。だから外部に訴え出たところで、恥をかくのは志の低さがバレたお前の方なのだ、と。

 

相手の人格に全ての責任を帰することはすなわち、「いじめられる方が悪い」と主張するようなものである。私(わたし)は「いじめられる方が悪い」という論理を正当化する左翼運動家の狡猾さを批判したい*1

 

ただ、今回取り上げる「狡猾さ」はそれとはまた違う性質のものである。冒頭のテーゼに則れば、「よきこと」をなす者たちは、自分がよきことをなす人間であることを第三者にアピールすることに余念がない。しかしながら、常に自らの高潔さをアピールすることは疲れてしまう。一方で、社会問題が日々浮上する度に支持者からは発言を期待されてしまう。今まで何の関心も持たなかった問題を一から勉強することは難しい。どうせなら少しでも楽をして「よきひと」としてのステータスを高めたい。そこで怠惰な左翼は、容易に左翼としての価値を高める狡猾な方法を発明した。キーワードは「大は小を兼ねる」である。

 

”「あらゆる差別に反対している」からトランス差別にも反対している”

 

次のような運動団体があるとしよう。

 

その団体で活動する大半のメンバーは、自らを左翼であると自負している。人種差別、ミソジニー、気候変動など、あらゆる社会的不正義に憤りを感じ、社会変革を志向している。

 

ある時、その団体でセクシュアル・マイノリティの問題に取り組むことになった。団体としても、幅広い問題に関心があることを示せるのはイメージアップに繋がるし、何より社会変革のために貢献できるのだからメリットしかない。そこで団体はトランス男性の活動家と連携し、いわゆるLGBTQIA+の問題に取り組む団体であるとアピールした。

 

しかし、そこのメンバーは同性婚訴訟や政治家の差別的発言には言及するのに、トランス女性を悪魔化する言説については一切ふれようともしない。女性差別への抗議には「我こそが一番槍である」と率先して競争に参入するのに、トランス差別には沈黙する。

 

もしその不可解な沈黙に疑問を感じる人がいたらそこのメンバーはこう答えるだろう。私達はLGBTQへの差別に反対している。だから当然、トランスジェンダーへの差別に反対しているのだ、と。

 

あるいはもっと大風呂敷を広げてこう答えるかもしれない。私達はあらゆる差別に反対している。だからトランス差別にも当然反対している。言及がないからといって直ちに知らん振りをしているということにはならない、と。

 

トランス・ミソジニー

 

わたしはこのような主張こそ左翼の欺瞞でありトランスジェンダーに対する差別であるといいたい。というのも、トランス男性との連携を強調しながら他方でトランス女性をいないものとして扱う態度は、ジュリア・セラーノが「トランス・ミソジニー」として定式化した明らかな差別であるからだ。

 

トランスの人が嘲笑されたり排除されたりするのが、単にジェンダー規範に沿った生き方をしていないためでなく、女であることやフェミニンな表現のためであるなら、この人は〈トランス・ミソジニー〉という別形態の差別による被害者だ。(中略)

男性は女性より優れているとか男であることは女であることに勝ると想定する男性中心ジェンダーヒエラルキーにあって、男に生まれて男性特権を受け継いでおきながら女であることを「選んだ」 トランスの女性ほど、脅威と認識される存在はない。自分たちが女であることや女性性を受け入れることで、私たちはある意味、男であることや男性性に想定された優位性に疑問を投げかけるからだ。トランスの女性が男性中心のジェンダーヒエラルキーにもたらす脅威を和らげるため、私たちの文化は、(主にメディアを介して)伝統的セクシズムの武器庫にある次のような戦術を総動員して私たちを排除しようとする。*2

 

オールジェンダートイレへのバッシングや、性的少数者の当事者団体と称する極右活動家集団の会見など、トランス排除を企図する扇動が連日吹き荒れている。差別扇動を垂れ流す無責任なメディアの報道は過去の「ジェンダーフリー・バッシング」を彷彿とさせる。このような切迫した状況において、トランス差別に対する沈黙そのものが差別への加担であると筆者は考える。だからこそ、社会的地位を得ている左派的立場の人物がLGBT差別への反対を示す一方で、トランス女性への差別に知らないふりをすることは狡猾で許しがたい態度である*3

 

マジョリティの傲慢

 

「大は小を兼ねる」理論の適用はトランス差別に限らない。今問題になっている入管法改悪でもこの種の主張をしようとする左派がいる。

 

 

既に指摘している人が言うように、外国人の問題ではなくすべての人の問題として捉えるべきという論法は、黒人差別を矮小化するAll Lives Matterの発想と変わらない。しかしながら、たいていの人間は自分が「よき人」であることを第三者にアピールできればそれでよいので、安田の論法の狡猾さに気が付かない。ましてや「誰かの人権が守られなければみんなの人権が守られなくなって社会が衰退する」という打算的な考えは、むしろマジョリティ中心の社会構造を維持する役割を果たしてしまうのではないだろうか。そう考えると、頻繁に引用される有名な「ニーメラーの警句」にも同種のいやらしさを感じてしまう。誰かの人権の問題は、一義的にはやはりその人、その属性の人権の問題として捉えるべきように思う*4

 

フェミニンな要素を肯定する

 

トランス差別の話題に戻そう。繰り返しになるが、社会的地位のある人物が、セクシュアル・マイノリティの人権は守られるべきだと雄弁に語る一方で、トランス女性への差別に対して立場を明確にすることを不自然なまでに避けることはトランス・ミソジニーという侮蔑的態度に由来している。トランス差別を批判する際、性別二元論や既存のジェンダー秩序への批判を経由する人が多いように思うが、それだけではトランス・ミソジニーを批判できないとジュリア・セラーノは述べる。

 

トランスジェンダーの人たちに対する差別は伝統的セクシズムに染まっているので、トランス・アクティビストが二元制的ジェンダー規範(つまり、二項対立的セクシズムのこと)に異議を唱えるだけではとうてい太刀打ちできない。女であることは男であることに劣るとか、女性性は男性性に劣るという考え方にも異議を唱えなければならない。言い換えれば、トランス・アクティビズムは根本的なところで必然的にフェミニスト運動でなければならない。*5

 

これはわたしが考えたことではなく、どこかで誰かが言っていたことをそのまま借りて書くのだが、女性が髪を切ったり、スカートではなくパンツを履いたりすることはミソジニーへの対抗には全然ならない。なぜなら、女性が男性的なコードを身にまとうことは既存の男性中心的秩序への同化を促進するだけで、差別を解消するための根本的な解決にはならないからである。ミソジニーに対抗するためには、例えば、男性が髪を伸ばしたりスカートを履くなど、男性が女性的なコードに近づき、女性的なものを劣位に置く考えを批判する実践が必要である。ジュリア・セラーノが言いたいのはこういうことではないだろうか。

 

そういう意味で、変わるべきは男性、マジョリティであるということは改めて強調しておいてもいいようにも思う。大は小を兼ねるからといって「あらゆる差別」に反対しますとごまかすのではなく、問題の渦中に置かれたその人(もしくはその生き物)、そのこと、属性、経験に向き合ってほしい。階級の問題に収斂させていくためにアイデンティティの問題を雑に扱うという方針ではなく、個々の抱える問題を真摯に扱ってほしいと思う。

*1:ここでは「よきこと」をめぐって行われる狡猾な振る舞いを問題にしており、「狡猾さ」そのものが問題であるとはまったく思っていない。むしろ狡猾であることは人類にとって生き抜くための知恵であった。cf.山本幸司『狡智の文化史 人はなぜ騙すのか』岩波現代文庫、2022年。

*2:ジュリア・セラーノ著、矢部文訳、『ウィッピング・ガール トランスの女性はなぜ叩かれるのか』サウザンブックス社、p41。

*3:トランス女性の俳優を支援する、トランスジェンダーについて書かれた本を読む、といった行動を通してトランスジェンダーへの権利に無関心ではないことをアピールしようとする狡猾な左翼も多いが、それらの行動はトランス・ミソジニーがないことの証明にはならない。表向きさもリベラル風を装う人々が「女性スペース」の安全が脅かされると恐怖するシス女性に「理解」を示したり、女性差別を批判する反差別活動家が、トランスジェンダーが殺される事件が起きても何も声明を出さなかったなど、欺瞞的な事例を筆者はいくらでも知っている。

*4:個人的な感覚ではあるが、例えば、自身の人格や属性、経験などを否定される権利侵害が起こり、それを支援団体に相談した場合に、相談員から「あなたの人権侵害は私たち(マジョリティ)の問題でもあるから取り組みます」などと言われたら、自分に関係がない問題だったら取り組まないのかな、そんな打算的な考えで支援をしているのだとしたら信用できないな、というふうに思ってしまう。「これはみんなの問題だから」などという理由ではなくて、まずは何よりも相談してきたその人の人権を回復するために取り組んでほしいというのが率直な思いだ。

*5:同、p43、強調箇所は筆者による。

セックスワーカー差別への抗議行動を支持します

 

フラワーデモへのカウンター行動

本日3月8日(水)20時から新宿にて、フラワーデモによるスタンディングに対するカウンター行動が予定されています。

 

 

今回の行動は、直前に出されたフラワーデモのステートメントが発端となっていると思います。

 

 

この文書の問題は既に多くの人が指摘しているのでここでは詳述しません。ただ、元々は性暴力被害者に寄り添い性暴力への抗議をするために始まったフラワーデモが、「性を搾取するな」という合言葉の下に特定の属性や職業従事者、性暴力被害者を、それも国際女性デーに排除すると宣言したことは残念でなりません。

 

筆者はフラワーデモによるステートメントに抗議し、フラワーデモへのカウンターとして行われるセックスワーカー差別への抗議行動を支持します。

 

セックスワーカー差別への抗議行動

セックスワーカー差別への抗議行動はこれまで何度も実施されてきました。

 

zineyokikoto.hatenablog.com

 

zineyokikoto.hatenablog.com

 

本当は今日の行動にも参加したかったのですが、今回は現地への参加が難しいためブログにて連帯の表明をすることにしました。

 

以前の記事でも書いてきたことですが、一連の抗議行動はトランスジェンダーセックスワーカーをはじめとする人々への差別に反対するため、有志が集まって企画、実行されているものです。行動を実行に移す人たちは適切なタイミングで然るべき言葉を紡ぎ、その言葉が必要な人々にメッセージを届けてきましたし、今も届けようとしています。だからわたしは抗議行動の参加者を信頼しています。カウンター行動に参加される方も、行動に連帯を表明される方も、これまで差別に抗議するための行動が続けられてきたことを忘れないでほしいし、今回の行動も記憶にとどめてほしいと思います。

 

(以下の節では、フラワーデモのステートメントが出される前段としてトランス差別に関する事項をまとめています。セックスワーカー差別への抗議行動支持の部分だけ読みたい方はここでブラウザバックしてください。)

 

 

 

差別扇動に加担する学術関係者

 

さて、フラワーデモがセックスワークへの差別を明確に打ち出し、トランスジェンダーへの差別にもいよいよ公に加担することになってしまいました。ただ、これは突然変質した、というわけではなく、周到に計画され実行されてきたものです。その過程で差別扇動家は多くの著名人からの支持を獲得してきました。

 

今年に入ってから、トランスジェンダーを「女性の安全を脅かす存在」として悪魔化し不安を煽るような報道やヘイトスピーチがより顕著になってきました。某市議会議員が埼玉県の条例に反対してそれを「フェミニスト」研究者が支持したり、トランスジェンダーに対する差別的言動を行ったある女優がそれを撤回・謝罪するとその言動を擁護するような動きが広がったりしたことは記憶に新しいと思います。

 

このような動きに呼応する学術関係者や著名人を数名確認しました。メモとしてTwitterの「いいね!」機能を使用している、という次元ではなく、「#加賀ななえ市議を支持します」といった差別的ハッシュタグのツイートを積極的にリツイート、シェアしています。この状況はかなり深刻だと感じたので、ここで差別扇動に加担する著名人をまとめることにしました。

 

トランス差別に反対する著名人よりも、差別に加担する著名人を書き連ねる方が楽である状況はとても不当だと思います。前者を列挙する方が連帯の萌芽が生まれる可能性は高いですし、このような不当な状況に対するカウンターにもなるだろうとは考えます。しかし、日々差別扇動が苛烈さを増すなかで、差別に加担する人々の力を増幅させないため、自らの安全性を確保するために後者をまとめることは一定程度意味のあることではないかとも考えました。

 

既にトランス差別の扇動家として名を馳せているところとしては、森田成也、木下ちがや、牟田和恵、千田有紀堀茂樹、安里長従らが挙げられるでしょう。この人たち以外に、上記のハッシュタグやそれに関連する「犬笛」に呼応していることが確認できた人を(以前からトランス差別に加担していることを筆者が知っている人も含めて)名前、主要著作名の順で列挙します(画像は掲載しませんがスクショをとったので提示する用意はあります)。

 

・粟津賢太(『記憶と追悼の宗教社会学 : 戦没者祭祀の成立と変容』)

小谷真理(『性差事変―平成のポップ・カルチャーとフェミニズム』、共訳書にダナ・ハラウェイ他『サイボーグ・フェミニズム』)

・柴田優呼(ジャーナリスト、『“ヒロシマナガサキ被爆神話を解体する――隠蔽されてきた日米共犯関係の原点』)

・白岩英樹(『講義 アメリカの思想と文学:分断を乗り越える「声」を聴く』)

白井聡(『未完のレーニン <力>の思想を読む』)

・杉山春(ルポライター、『ネグレクト〔小学館文庫〕: 真奈ちゃんはなぜ死んだか』)

・住友陽文(『皇国日本のデモクラシー 個人創造の思想史』)

中尾知代(『戦争トラウマ記憶のオーラルヒストリー―第二次大戦連合軍元捕虜とその家族』)

・長澤唯史(『70年代ロックとアメリカの風景―音楽で闘うということ』)

・西見奈子(『いかにして日本の精神分析は始まったか——草創期の5人の男と患者たち』)

 

他にルポライター安田峰俊さんも関連ツイートに呼応しているようですが、元々右派系の方で遊び半分にチェックしているとも考えられるので真意はわかりません(それでもひどいと思いますが)。また、アナーキスト千坂恭二氏は今回の扇動とは関係なしに以前から森田成也によるトランス差別が書かれたFacebook投稿へ賛同することなどを繰り返していますが、なぜかあまり話題に上らないのと、こちらもどこまで本気なのかわからないのでここで言及するにとどめます(小谷さんもそうなのですが、差別を正当化するために左翼っぽい言辞を使えば面白がって反応する「左派」が一定数いることは注意しておいてよいかと思います)。

 

カウンターという希望

 

自分が観測できた範囲で重要だと思った人をまとめてみましたが、これを確認するだけでもトランス排除(やセックスワーカー差別)が広がっていることがわかります。正直、SNSをやるのも嫌ですが、大事な局面では自分にできることを引き受けざるを得ない状況もあります。

 

一方で、あえて自分にできることを引き受けない、というより「引き受けない」ことをもって引き受ける、という行動もあるでしょう。それは個人の選択なので尊重されるべきものですし、一つの立派な抵抗のあり方です。しかしながら、引き受けない覚悟をしたはいいものの、引き受けた人の言動を「言わされているなあ」「自分と意見が合わない人を追ってSNS中毒になっているなあ」とジャッジする人がいるかもしれません。

 

そのジャッジはやめてほしいです。なぜなら、問われるべきは引き受ける選択をしたか、しないか、ということではなく、そもそもそのように引き受けざるを得ない状況の不当さの方だと思うからです。

 

その不当さを跳ね返すだけのポテンシャルが今日の抗議行動にはあると思います。フラワーデモの方も、大本の運営は腐敗しているかもしれませんが、各地のフラワーデモは違います。各人には各人の抵抗の仕方があるはずです。それぞれの選択をジャッジせず尊重することこそ、フラワーデモの原点だったのではないでしょうか。