#0904入管闘争全国一斉アクション に参加しました

「9・4全国一斉アクション 入管法改悪反対デモ in 東京」に参加しました。

 

 

デモ出発前の様子@上野恩賜公園 野外ステージ

 

当日はデモ出発直前に合流しました。最近デモに参加する時はいつも時間ギリギリなんだけどなんでなん?

 

参加者の列の中からみたデモの様子

胸の前で手をクロスさせた「いらすとや」のイラストを両脇に配置した「入管法改悪ダメ!」と書かれたプラカード

交差点を横断するデモ隊

 

東京のデモは上野公園を出発し、30分ほど行進した後、台東区の竹町公園で集会を開きました。

 

御徒町を通過した時の写真。「上野御徒町中央通り」の入口看板の下に「私達は特別の扱いを求めているだけではなく、一人の人間の権利を欲しいだけです。」と書かれたプラカードが掲げられる。

竹町公園での集会の様子

 

集会では、名古屋入管で昨年3月に亡くなったスリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリさんのご遺族であるワヨミさんの他、仮放免者の会からエリザベスさん、外国人の人権問題に取り組む指宿昭一弁護士らがスピーチをされました。

 

入管法改悪反対 ウィシュマさんのビデオを全面開示せよ 帰国できない当事者に在留資格を 主催 入管闘争市民連合/BOND」と書かれた横断幕

 

東京のデモは200人ほどの方が参加したそうです。ハッシュタグデモにも多くの方が参加されました。

 

 

いろいろな方がデモに言及されているので、私(わたし)からは一つだけコメントしたいと思います。デモの行進中、先頭でスピーチが行われていましたが、そのスピーチのなかで「当事者(難民・外国人)の方は帰らないんじゃなく帰れないんです!」というフレーズが連呼されていました。

 

「CAN'T go back ≠ WON'T go back」と書かれたプラカード

 

このフレーズについて思うことは「帰れない」という当事者の置かれた不当な状況を強調すると同時に「帰らなくて何が悪い」ということもまた強調していくべきではないかということです。「帰らない」という自発的な意志もまた、不条理や葛藤を経て決断されたものであるはずです。たとえ葛藤の程度が軽いと他者から判断されてしまうような決断であったとしても、本人の意志は尊重されるべきはずです。本人の意志ではどうにもならない状況のみを「救済」の対象として表象することは、運動だけでなく権利行使さえも後退させるようなものだと思います。SNS上ならともかく、志を同じくする人々が参加する現実のデモであれば、もっと「わがまま」な主張をしてもいいのではないかと思いました。

 

とはいえ、今回の示威行動は入管闘争として大成功だったと思います。デモを企画された主催の方々に敬意を表します。

 

入管問題や難民、仮放免者の置かれた状況は複雑で理解しづらいところもあります。入管問題について勉強したい方がいましたら、以下の本が参考になると思うのでお読みになってみてください。

告発の受け止め方は地震のようなものである

昨日の記事で、フェミニストは起きてしまったことに対して態度を表明するため、告発に対するフェミニストの態度は必然的に後手にまわると書いた。

zineyokikoto.hatenablog.com

 

このことを少し掘り下げて考えようとした時、ふと告発の受け止め方とは地震のようなものだなと思った。

 

まず地震というのは予知が不可能で事前に防ぐこともできない。もちろん地震が起きた際の対応マニュアルは平時から準備されているものだが、そのマニュアルに沿った対応も結局は地震が起きて初めて講じられるものだ。

 

告発も同じである。告発がなければ、周囲の人間はどんな問題が起きているのかも知らないし想像もできない。告発されるような問題の予防はできるかもしれない(ハラスメントの講習会を実施する等)が、「よきこと」を為す支配者たちは自身の行動がたとえ「あきこと」だとわかっていたとしても暴力を振るう場合があるし、様々な方法で暴力の存在を隠し通そうとする。だから「よきこと」の告発は事件が起きてから時間が経った後でなされるのが常である。平時からどんなに準備していようとも地震被害の規模の把握と対応に時間がかかるように、告発後の対応も事実確認から加害者の処遇を決定するまでに時間がかかってしまう点で同じである。

 

告発と地震のアナロジーで考えるべきは「揺れの強さ」と「距離・時間」である。

 

震源、すなわち告発を行う被害者もしくは告発を受ける加害者との関係が近いほど、告発を重大で深刻なものだと受け止めやすくなる*1。また、告発に関わる者と近しい間柄でなかったとしても、告発があった場所や分野等が、自身の属性や職業、趣味嗜好等との関係で共感や関心を持った場合も「震源」からの「揺れの強さ」を大きく感じやすくなるものである。

 

「距離・時間」のアナロジーは、告発に対する関心の程度を譬えたものである。「震源」の事柄から関心が遠ければ遠いほど、告発内容の重大さを認識する度合いは低くなるばかりか、告発そのものの存在に気付かないことすらある。また、震源から遠いほど震度は小さくなり、地震の”ラグ”も発生する。告発が行われた際、被害者と加害者それぞれの関係者の間では迅速に受け止められるだろうが、部外者の場合、何年も経ってから告発の存在に気付くことも多々ある。

 

また、「震源」からの距離が近くても、「揺れの感じ方」は人によって異なる。これについては少し説明が必要だろう。

例えば、自分の住んでいる地域で震度4の地震が発生したとする。気象庁によれば、震度4は「ほとんどの人が驚く」「電灯などのつり下げ物は大きく揺れる」「座りの悪い置物が、倒れることがある」ほどの揺れであるという*2。それなりに大きい揺れである。

 

しかし、「ほとんどの人が」揺れを感じるとあるように、その人の置かれた場所や状況によっては大きな地震でも揺れを感じないことがある。反対に、実際の震度よりも大きい震度であるように感じることもある。過去に大きな地震を経験した人と初めて地震を経験する人の間では揺れの感じ方も大きく変わるはずだ。震度と「揺れの感じ方」は場所や状況、その人の経験等によって異なることがある。

 

告発もやはり同様だと考えられる。「震源」からの距離が近くても告発内容への関心が低ければ(ないし告発を受け止める余裕がなければ、告発内容を認めたくなければ)、告発の重大さをそれほど認識できない(しない)かもしれない。もしかしたら、実際の震度と揺れの感じ方が異なるために反発すら起こすかもしれない。「あなたは震度4の揺れだって言っているけど、わたしにとっては震度2くらいだったよ」と*3

 

「余震」のアナロジーについてもふれておきたい。告発は最初の衝撃だけでは終わらない。告発が起こるほどの出来事には複数の被害者や事例が埋もれていると考えた方がよい。最初の告発に続いて第二、第三の告発者が現れることもあるし、まったく関係がないと考えられたところから被害事例が出てくることもある。告発の「余震」である*4

 

余震には別のパターンもある。告発の存在が知られるようになると告発者を標的とした誹謗中傷も多くなる。また、大きな地震が起きた数年後にその余震が発生する場合があるように、過去の告発が不意に顧みられ、自説の補強のために利用されたり、不当な解釈をされてそれが広まったりすることも少なくない。これが規模の大小にかかわらず何年にもわたって繰り返されることもあるのだから告発とはこわいものだ。先の反発の例は二次加害の例でもあるが、こうした「余震」もまた告発者にとって辛い二次被害となってしまうだろう。

 

ただ、地震と告発には大きな違いがある。地震は避けることができないもの、いつか必ず起きてしまうものであるのに対して、告発を起こす状況に追い込まれた出来事はそもそも避けられたはずのものであるという点である。私(わたし)が地震と告発のアナロジーを考察したのは、それぞれが発生した後に起きる不条理の問題を考えたかったからであって、告発された問題が発生する必然性を正当化するものでは決してないことはご了承いただきたい*5

 

そして、告発には告発者自らが<震源>となってしまうリスクがある。告発を受け止める者たちにとっては遠い地域で起きた出来事かもしれないが、告発を起こす当人は「地震」を起こす側であり、告発に対する反響をコントロールすることもできない。地震の規模は予測不可能だ。そのような不条理を背負わされること自体が不当なことである。だからまだ被害を明らかにしていない当事者には、告発をしないという選択があることも伝えたい。

 

「サバイバーよ、勇気を出すな」

 

アメリカの大学院でセクハラ被害を受け裁判を起こそうとしていた高橋りりすさんの言葉である。高橋さんは裁判を起こすために日本の性暴力被害支援団体に支援を要請したが断られ、運動団体や多くの「フェミニスト」から二次被害に遭った。下記の本はセクハラ被害を訴えようとするまでの経緯から、運動団体の勝手な論理や態度に対する指摘まで、高橋さんが経験し考えたことが書かれている。

 

このように誰かの過去の経験を紹介することもまた告発の「余震」であり、このことについて著者本人がどう思うかはわからない。しかし、わたしがこの本に多くの共感と示唆を受けたことは事実である。わたしはこの余震の<震源>になることによって、被害に遭うとはどういうことか、告発を起こすとはどういうことかを伝えたい。

*1:この時、告発者と関係が近い者と、告発を受けた者と関係が近い者では、告発の何が重大で深刻なのか、という中身の認識が変わってくる。前者の場合は告発内容そのものに対する深刻さを認識するだろう。一方で後者の場合、事の深刻さに加えて加害者と関係がある自身の立場・立ち振る舞いが問われてしまうことに対する重大さを認識するのである。

*2:気象庁 | 震度について

*3:自然災害の地震との比喩で考えると、反発の譬えは誇張になってしまうかもしれない。おそらくこのケースが適当なのはマイクロアグレッションが起きた場合であるだろう。また、「揺れの感じ方」の解釈を拡大して「あなたにとっては震度1くらいの衝撃かもしれないが、わたしにとっては震度6くらいの大きさだった」と例えることは可能であると思う。

*4:「本震」(=告発)の前兆としての「余震」(=周囲からの評価、噂話)もある

*5:だからこそ、考察の対象は”地震と告発”ではなく”地震と「告発の受け止め方」”なのである。

告発を準備する者にとって最も助けとなる思想家は誰か

TwitterTwitterサークルという機能が実装されたそうです。

help.twitter.com

 

この機能が実装されてまず思ったことは、何かを告発するためにこの機能を使う人が現れるかもしれない、ということでした。

 

#Metoo 運動の成果もあって、告発というと性暴力に関わるものだというイメージが根付いてきたように感じていますが、いじめや労働問題、企業の不正など、あらゆる不公正・不正義が告発の対象となります。今日学校で友達からこんなことを言われた、とか、仕事で退勤した後に残業をさせられた、とか、いわば愚痴に近い、もしくは愚痴そのものであるつぶやきも、広い意味では告発といえるでしょう。

 

軽い愚痴のつもりであったとしても、人物や場所などが特定される場合はリスクが伴います。誰かに知ってもらいたい、でも不特定多数の人に知られるとまずい。そんな時、Twitterサークルが役に立つ場面が出てくるのだと思います。

 

しかし、たとえTwitterサークルを使用したとしても、告発のリスクが0になるわけではありません。告発が大きなもの――相手が有名人だったり、差別が含まれていたり、など――であればあるほど、反響や報復など様々な面で自身に降りかかる危険はより大きくなります。

 

そもそも告発を行う可能性がある状況に置かれるという事態そのものが不当なことなのです。だからたとえ告発をしないという選択を当人がとったとしてもそれは尊重されるべき選択です。告発をしないという行動もまた「勇気」がいる選択だからです。

 

それを確認したうえで、告発をするという選択をした人にとって喫緊の課題となるのが「いかにリスクを減らし、安全に告発をするべきか」ということです。

 

何らかの相談機関や運動団体に関わることができれば、告発の安全性を増すことはできるでしょう。匿名で相談し、信頼できる担当者とつながり、多くの人に支えられながら告発を行うことができれば、それに越したことはないでしょう。

 

では、相談機関や運動団体とも繋がれない(あるいは「繋がりたくない」)場合、一人もしくは少人数で告発を準備する場合、誰にやり方を教えてもらうのがよいのでしょうか。ここでタイトルに書いた問題意識が出てきます。告発を準備する者にとって最も助けとなる思想家は誰なのでしょうか。

 

先述のように、わたしのなかでは告発というと性暴力に関わるものだというイメージが先行しているほど、性暴力に関わる告発が相次いでいます。性暴力の告発に関して最も意見を表明しているのはおそらくフェミニストです。これまでの歴史をみても、フェミニストは男性中心の社会の歪みを告発し、告発を擁護する理論も提供してきました。では、告発を準備する者はフェミニストの理論家の意見を参考にすべきなのでしょうか。

 

実は、わたしはそうではないと考えています。というのもフェミニストの理論は告発をしたにとっては役立つと思いますが、これから告発をするにとって”有用”なのかは疑問に思うからです。

 

もしフェミニストの理論家に「これから告発をしたいのでより安全でリスクの低いやり方を教えてほしい」と聞いたらおそらく次のように答えると思います。

 

「告発のやり方がどのようなものであれ、わたしたちフェミニスト理論家はあなたの告発を尊重し、あなたに向けられた不正義や憎悪をともに闘い擁護します」

 

フェミニストの理論の多くは、告発者に向けられた非難から告発者を擁護するものである。起きてしまったことに対して擁護するのだから、フェミニストの態度は必然的に後手にまわる。フェミニストの理論は告発の戦略を提供することはあっても戦術を提供することはない

 

しかし、これから告発を考えている者からすればそれでは困るのだ。後からあなたのことを擁護しますと言われても、誰だって当人の意向を無視した毀誉褒貶にはさらされたくないものだ。告発を準備する者にとって必要なのは、告発のリスクを減らすための先手である。

 

では、先手を打つ戦術を提供してくれる理論家とはいったい誰なのか。それはマキャベリに他ならないと私(わたし)は考えます。

 

ここまでまわりくどい書き方をしてきましたが、それは告発のために支配者側の思想家の意見を参考にしろ、という私(わたし)の結論を意外に思う人が多いだろうと思ったからです。私(わたし)も右翼の思想家よりはなるべく左翼の思想家を参考にしているので自分が一番意外に思っています(だからブログを書こうと思ったわけですが)。

 

実はマキャベリを読み始めて気づいたのですが、マキャベリの思想とはいわば「よきこと」を為す人々のための理論だったのです。そして彼は「よきこと」を為す人々のために、支配者に反逆する人々を分析し対策まで講じています。これが逆説的に告発の準備に必要な認識と方法を提供しているのです。

 

…脅迫を加えられて、相手の言いなりになるか、あるいは拒否して害を加えられるか、二つに一つの道をどうしても選ばなければならないはめにたたされた人間こそ、君主にとってもっとも危険な存在となる。*1

 

いかに相手を支配し服従させたとしても、服従した相手が「よきこと」を為す人々を裏切らないとは限りません。むしろ支配者はその相手に対し常に後ろめたさを感じ、潜在的な恐怖を抱き続けるのです。

 

…陰謀をたくらむのは、いつにかかわらずたいへんな危険を伴うものである。というのは、陰謀を計画し、実行し、成就するという一連の経過を通じて、初めから終わりまで、陰謀は危険をまきちらすからである。*2

 

性暴力等の現代における告発はマキャベリにとっての「陰謀」である。ここでいう陰謀とは「君主に向けられた陰謀」*3である。

 

すでに述べたように、陰謀をくわだてるにあたって、まちかまえている危険は、三つの段階に分けられる。すなわち、計画を練る段階、実行に移す段階、実施後の段階がこれである。この三つの関門を首尾よくくぐり抜けることは至難のわざであるので、目標にたどりつける者はごくわずかである。


さて、はじめに第一の段階の危険を論じることにしよう。 このばあい、もっとも重要なことは、きわめて慎重な配慮に加えて非常な幸運が伴なわなければならない。この二つがあってこそ、陰謀を露見させずに運んでいくことができるからである。 


陰謀が露見してしまうのは、密告されるか、それとなく感づかれるかのどちらかである。密告されるのは、主謀者が陰謀を打ち明けた相手が信用のおけない人物か、慎重を欠く人物のばあいである。信用のおけない人物は、簡単に見破ることができる。諸君が大事を打ち明けることのできる人物とは、諸君のためなら命を捨てることもいとわないと信じられる者か、あるいは君主に対して不満をいだいている者である。


信用のおける人物というのは、せいぜい一人か二人くらいしか見つからないものであ。諸君が計画をさらに多くの人々に打ち明けようと思っても、できない相談である。これらの人々はあなたがたに最大の好意をささげ、どんな危険でもおかし、どんな罰をも恐れず事にあたる人でなければならない。


人間は他人が自分に好意をよせていると買いかぶりすぎて、裏切られがちなものであ。だから、実際の経験に照らしてみる以外にはこれを確かめる方法はない。ところが、これを経験の場に移すのは危険このうえもない。ほかの危険な仕事に使ってみたうえで、はじめて信用するようにしても、これだけでその人物に全幅の信頼を寄せるわけにはいかない。なぜなら、本番としてひかえている陰謀は、それまでの仕事とはくらべものにならないほど危険なものであるからである。


また、現に君主に不満をいだいている人物になら大事を打ち明けられる、と考えると大まちがいのもとになりかねない。この不平家に腹のなかを打ち明けでもしようものなら、この男が君主に投じてその寵を回復するための密告の材料を与えることになるからである。したがって、この男を信用するにあたっては、この男の君主嫌いがどこまで徹底したものであるか、また諸君にこの男をおさえつける力がどれほどそなわっているかを、考えて判断しなければならないのである。

したがって、陰謀というものは、はじめたばかりのところで露見し、つぶされてしまうことがたいへん多いものなのである。そのため、多くの人の心のなかでひそかに陰謀がはぐくまれ、長いあいだにわたって秘密が保たれているという例は、じつに驚くべき現象といえるだろう。(下線部筆者、読みやすさのために段落ごとに一行開けた)*4

 

このような危険(筆者注:陰謀が露見する危険)を避けるためには、次のような方法をとらなければならない。第一にあげるべきいちばん確実な方法、というより唯一最上の方法は、仲間のだれに対しても、密告できる時間を持たせないようにすることである。すなわち、主謀者はいざ実行というまぎわに、内容を参加者に知らせるようにし、それ以前にはけっしてもらしてはならない。(下線部筆者)*5

 

告発を準備する者にとって、これほど具体的かつ”有用”なアドバイスはない。既に何らかの告発を実行に移した人ならば、これらの記述が意味するところは実感をもって理解できるだろう。

 

もちろん歴史的背景や現代との時代状況との差を考慮して読み進めなければならないですが、何らかの告発への準備を考えている人にとって、マキャベリは幾分かの助けを与えてくれると思われます。この記事が、必要のある人にとって参考になってくれれば幸いです。

*1:マキャベリ著、永井三明訳「陰謀について」『ちくま哲学の森3 悪の哲学』p228

*2:同、p230

*3:同、p226

*4:同、p236-237

*5:p240

#ありえないデモ0716 に参加しました

#ありえないデモ0716

やっと参加できました。

#ありえないデモ0716

昨年11月末、本人が性別変更を望む際、「未成年の子どもがいないこと」を要件としている性同一性障害特例法の規定が最高裁で「合憲」と初めて判断されました。

www3.nhk.or.jp

この最高裁判断に抗議するため「#子なし要件が合憲なんてありえないデモ」が2021年12月16日に行われました。

www.huffingtonpost.jp

 

以来、今年4月15日と5月29日に「私の性別を国が決めるなんてありえないデモ」、TransGenderJapanとの合同開催で6月26日に#ありえないデモ0626 が行われてきました。

 

何回か参加している知人もいて、わたしも過去のデモに参加したかったのですが、タイミングが合わずこれまで参加することができていませんでした。

 

しかし、昨日7月16日、たまたまTwitterをみていたら当日にデモをやるということを知り、空いている時間帯だったので参加しようと決めました。

 

いろいろあって20分遅れで現地に合流しましたが、行きたかったデモになんとか参加することができました。

 

「七夕はいらない」

新宿駅東南口の改札前、階段側を背に主催の頼(たのみ)さんが代読も含めてスピーチを行なっていました。

 

時々、その場で参加している方が発言に加わることもありました。どのスピーチも素晴らしかったと思いますが、全体を通して印象的に残っているのは、あるノンバイナリーの方のスピーチでした。

 

「織姫と彦星」という有名な話がありますが、恋仲の二人を織姫の父親の天帝が引き離そうとしたり、そもそも天帝が織姫を誰かと結婚させようとするなど、家父長制や性別二元論の影響が色濃く出ている話でもあります。織姫たちがなぜ悲しい思いをしなければならないのかわからない。七夕伝説の語りが再生産されることで、恋愛至上主義や性別二元論がより強固なものとなり、ノンバイナリーをはじめ多くの人が苦しんでしまう。だから七夕はいらない。そのような内容であったかと思います。

 

性別二元論が強固な社会において、シスジェンダー以外の人たちは政治の場だけでなく、他人の振る舞いや物語などを通してマイクロアグレッションを受けることが多々あります。政治的・制度的な差別だけでなく、日常に埋め込まれた微細な攻撃に対する抵抗として、人々が多く集まる場所でスタンディングを行い、自らの存在を知らしめることの意味は非常に大きいでしょう。

 

より多くの人に声を届けるために

ありえないデモは複数人で運営されているそうですが、有志で当日のデモの場作りに加わった方もいたようです。

 

デモはインスタグラムやYouTubeで中継していたほか、カメラマンの方がいらっしゃっていたので、カメラが映る場とカメラに映りたくない方が立つスペースが設定されました。

 

有志の方はカメラNGエリアを示すプラカードを持って立っていて、時々、参加者の方に点字ブロックを塞がないよう声掛けもしていました。運営の方がTwitter点字ブロックの周りに十分な空間がなかったことを反省されていましたが、運営、参加者が両者とも視覚障害のある方に対する配慮をまったくしていなかったわけではないことは、主催の方の名誉ために付け加えておきます。

 

また、ありえないデモの特徴の一つとして、手話通訳者の同行が挙げられるでしょう。わたしの知り合いに手話通訳を勉強している方がいるのですが、その人の話によればそもそも手話通訳者の数は多いわけではないし、特に政治や社会運動の場になると圧倒的に人数が足りないのだそうです。だからデモを運営される方がちゃんと通訳を確保していることはすごいと思いますし、より多くの人にスピーチを聞いてもらいたいという思いをしっかり実現させていると思いました。

 

実際、デモには手話を話す方がたくさん参加されていました。デモの後、通訳の方たちと参加者が手話で会話をしているのをみて、「こんなに多くの人が参加されていたのか」と驚きました。より多くの人々と連帯できたという意味で、主催者側の思いや努力が報われていたのではないかと思います。

 

国家権力との対峙

デモ終了後、警察が主催者の頼さんに話しかけていました。頼さんに伺ったところ、ありえないデモを開催して警察が来たのは今回が初めてだそうです。

 

デモや社会運動に警察が介入してくることは残念ながら多いです。警察うざいなあと思いながら話を聞いていましたが、とりあえずは言い争い等が発生せず終わりました。

 

今回の一件をポジティブに評価するとしたら、警察が注視を始めるくらいデモの存在が無視できないものになってきた、ということではないかと思います。わたしはありえないデモの最大の意義の一つはデモを続けていることだと考えているので、地道な運動の結果が可視化できるほどにまであらわれてきたことは、大いに意味のあることではないでしょうか。

 

デモ後の出会い

先頃の参議院選挙でも出馬していた村田しゅんいちさんもデモに参加されていました。以前からデモに来られているそうで、現場を大切にする政治家として側面に親しみを持ちました。

 

村田さんは先日、社民党が回答した差別主義者の団体のアンケート結果がトランスフォビア扇動に利用されたことについて、矢面に立って謝罪されていました。

 

わたしの知り合いのなかには、村田さんの一連の行動を評価して村田さんに投票したという方もいました。デモの後にあの事件についても伺いましたが、同時に村田さんが事態の収集に努めてくださったことについてお礼も伝えました。

 

その後、なんと村田さんからスムージーを飲みにいかないかと誘われたのでついていくことにしました。数名で近くのお店に行き歓談をしましたが、初めて会った人を誘ってくれるなんて気さくな方ですね笑

新宿某所にてスムージーを満喫

村田さんたちと別れた後、一緒にスムージーを飲みに行った方とご飯を食べに行きました。今月14日に「ノンバイナリー研究会」という団体が立ち上がりましたが、その方は団体のメンバーなのだそうです。

 

デモの後に今回のような初めての出会いがあるというのは、社会運動らしくていいですね。おすすめの書籍を紹介していただいたので、ブログでも取り上げておきます。

 

「声なきものたち」などいない

過去に何度も話していることですが、わたしはある社会運動に長期間参加していたことがあります。その経験も踏まえ今回改めて思ったことは、マジョリティ中心の運動にはマイノリティは来れないよな、ということでした。運動に限らず、ある団体の中核にいる人々の大半がシスジェンダーなどマジョリティ属性の強い人で構成されていたら、それだけでマイノリティにとっては脅威なのです*1。でもマジョリティ側は、マイノリティが自分たちの運動に参加しないことはマイノリティの「怠慢」であり「社会を変える気がない=やる気がない」とさえ思ってしまいます。

 

しかし、今回のデモをみてもわかるように、マイノリティはずっと前から声をあげていたのです。ただ、マジョリティがマイノリティの存在や声をみようとしなかった、聞こうとしなかった、感じようとしなかっただけなのです。マジョリティの左翼はいい加減、自分たちの特権や傲慢さに気づくべきではないでしょうか。

 

インド出身の作家でアルダンティ・ロイという方がいます。911の際にアメリカ合国の軍事政策に対して批判を行うなど、2000年代前半によく議論が紹介されていた方だと思います。その方が2004年にシドニー平和賞という賞を受賞した際のスピーチがウェブ記事やYouTubeに載っています。そこに出てくる一節を紹介して締めの言葉といたします。

ほんとうは、「声なきものたち」など存在しない。ただ、故意に沈黙を強いられたり、選択的に傾聴されないものたちがいるだけだ。*2

youtu.be

*1:デラルド・ヴィン・スー著、マイクロアグレッション研究会訳『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション 人種、ジェンダー性的指向:マイノリティに向けられる無意識の差別』明石書店、2020年、p66

*2:https://www.smh.com.au/national/roys-full-speech-20041104-gdk1qn.html。これはメインの文章ではなく()表記内の言葉、すなわち、何か別のことやこの言葉自体を強調したものではないため、この一節を掘り下げた文章があるわけではない。しかし、わたしは図らずもこの言葉が、マジョリティ特権というものが注目されている今の時代において重要な意味を持つのではないかと考えている。なお、訳文はスナウラ・テイラー『荷を引く獣たち』邦訳で紹介されていた今津訳をそのまま使用した。

来るべき左翼の未来に向けて

マッテオッティ議員の暗殺

1924年6月、統一社会党書記長を務めていたジャコモ・マッテオッティ議員がローマでファシスト行動隊員によって暗殺された。同年4月の総選挙の際にファシストによる暴力的な選挙干渉があったことを、マッテオッティは5月に開かれた議会で告発していた。

 

暗殺から数日後に事件が判明し、これに抗議して社会党、人民党、自由主義諸派共産党が議事をボイコットして野党議員連合《アヴェンティーノ》を結成。これによりムッソリーニファシストが孤立し政治的危機が発生した。危機の最中、アントニオ・グラムシは「小ブルジョワジーの危機」と題する小論を執筆している。

 

マッテオッティ議員の暗殺によって生じた政治的危機はいまなお進行の最中であり、その最終結果がどうなるかはまだ言うことができない。

この危機は多種多様な側面を呈している。われわれはまずもって、金権支配と金融の世界の互いに敵対しあっている勢力のあいだで、国家の統治における優越的影響力をある勢力が獲得しようとし、別の勢力が保守しようとして、統治をめぐって闘争が再燃していることを指摘しておこう。(中略)彼らは...(略)...マッテオッティ暗殺にたいする憤激という仮面のもと、そして「正義」の名のもとに、国庫を積んだ船舶に乗りこんで国庫を強奪しようと画策している。今はまさに好機であって、もちろん彼らはこの機を逃すまいと懸命になっている(強調部は筆者。以下、引用箇所の赤色強調部は筆者の手による)。*1

 

ブルジョワ学者を弾劾する

安倍が死んだ。政治を私物化し、民主主義を形骸化させてきた政治家が死んだ。

 

現時点では、彼の死が引き金となった政治的危機はまだ発生していない。今の段階では事件後にやってくるであろう暗雲について語る言葉を持たない。故に自分の見識をアピールするためのホモソーシャル競争に入って行くつもりはない。ただ、わたしは、事件そのものよりも、事件を受け止めた”知識人”の反応の酷さに落胆したというだけである。

 

わたしが事件について知ったのは銃撃当日の午後であり、詳細を知ったのはその日の夜だった。情報が明らかになっていないなかでの発言は不用意と思い何もしゃべる気はなかったが、ある学者のツイートが目に入ってしまった。

 

 

民主主義とは言論と選挙」だと?

 

事件直後の時間帯の大学の授業での学生に向けた発言だそうだ。参議院選挙の最中というタイミングで言論と選挙の意義を伝える、というのはまあわかる。報道の仕方も含めて事件は確かにセンセーショナルなものであった。当然、学生の間でも動揺が広がっており、ケアが必要な人もいたかもしれない。

 

しかし、である。仮にも”良心的左派”として振る舞う学者の言動としては疑義を呈さざるを得ない。

 

「民主主義とは言論と選挙」であると言うことによって、この学者は沖縄を、在日外国人を、ここに書ききれないほどのマイノリティを切り捨てた。

 

ひどいのはこの学者だけではない。

webronza.asahi.com

 

宇野さんともあろうお方が、極右でも書けるような中身のない文章を書くなと思う。もっと踏み込んだ内容が書けたはずだ(追悼の強要をはじめとする内容にも同意できない)。あなたとってリベラリズムとはその程度の思想だったのか?こんな無内容で無味乾燥な文章をロールズが読んだら泣いてしまうぞ。知識人の劣化を嘆かずにはいられない。

 

哀悼されるべき生とされない生

安倍の死によって「暴力を許すな」という大合唱が始まった。

 

このスローガンを躊躇いもなく言える人たちにとって「暴力」とはいったい何を指すのであろうか?既に言及している人もいるが、暴力と哀悼をめぐってはやはりバトラーを想起せずにはいられない。

 

誰が人間としてみなされているのか?誰の生が<生>とみなされているのか?そして究極的には、何が生をして悲しまれるに値するものとなるのか?(原文では傍線部は強調点。以下、他の引用箇所も同様に表記。)*2

 

アメリカ合州国が起こした戦争の犠牲者の死を悼む記事はない。あり得るはずがないのだ。もし死亡記事があるとすれば、そこには生が存在していたことになる。心にとめておく価値のある生が、評価し記憶にとどめておくに足る生が、承認されてしかるべき生が、そこにあったことになるだろう。そうしたすべての人びとの死亡記事を書くなんて無理な話だ、そもそもあらゆる人間の死を記憶にとどめるなんてできはしない、と言われるかもしれないが、そうした死亡広告は悲しみの可能性をおおやけに流通させる手段として機能しているのだ。そのわけを何度でもくりかえし考えることが必要なのではないか、と私は思う。そのような手段によって、ある特定の生が、おおやけに悲しむことのできる生として国民が自己を承認するための象徴となり、他の生がそうなることができない、という差別が生み出される。そのような仕方で、ある生だけが承認されるに足る生となるのだ。その結果、死亡広告は国民の建設に寄与するものとなるのだが、ことは単純ではなく、もしある生が悲しむだけの価値がないとしたなら、それは生とは言えず、生としての資格がないのだから、心にとめておく価値がないということになるだろう。それは、そもそも埋葬することが不可能なもの、とまでは言わないまでも、初めから埋葬を想定されていない存在なのである。*3

 

安倍が銃撃された大和西大寺駅近くには早くも献花台が置かれ、多くの人が列をなして合掌しているそうだ。

 

入管ではウィシュマさんが暴行を受け亡くなった。大林三佐子さんは渋谷の路上で襲撃され亡くなった。政治家の死を悼み手を合わせる参列者のなかで、何気ない日常の一コマとして暴力を行使され、何気ない日常の一コマとしてその死が扱われてきた人たちに対して、同様の行為をしてきた人たちがいったいどれぐらいいるのだろうか。

 

「暴力」の内実を真摯に考えず、空虚なスローガンを躊躇いもなく叫ぶことは、申し訳ないが、ブルジョワ中産階級の発想であるとしか思えない。*4

 

可視性の政治学

わたしはさらに「そもそも暴力が起きていても「暴力」と認識することができない」という問題に立ち入ってみたい。これについてはバトラーも述べているところであり、過去にブログでも引用した。

zineyokikoto.hatenablog.com

 

バトラーに加えて、わたしはワディエルの議論もまた多くの示唆を与えてくれるものと考えている。ワディエルは著書『動物たちとの戦争(邦題:『現代思想からの動物論』)』において、ガルトゥングを引いて次のように述べる。少し長くなるが引用したい。

 

ガルトゥングは「個人的」暴力と「構造的」暴力の区別が「可視性」の政治学に対応することも指摘した。すなわち、個人的暴力は見えるのに対し、構造的暴力は隠される。

 

構造的暴力よりも個人的暴力に注目が集まるのはおかしくない。個人的暴力は目に見える。個人的暴力の被害者は普通、暴力を認知し、ことによると抗議しうる。他方、構造的暴力の被害者はそれを全く認知しないよう仕向けられかねない。個人的暴力は変化と活力の形をとり、波の上の波頭となるばかりか、のどかな水面に波を立てる。構造的暴力は音を立てず、目にも見えない――それはもとより静まった、のどかな水面である。静かな社会では、個人的暴力が人目に留まる一方、構造的暴力は周囲を取り巻く空気ほどに自然なものとみなされうる。

 

個人的ないし間主体的暴力の可視性は、少なくとも筆者の理解では、必ずしも「物理的」な意味で「見える」ものと定義する必要はない。 暴力を「物理的」に「見せる」戦略(つまり構造的暴力を個人的暴力として告発する戦略)は、制度的暴力の本質を捉え損なっているように思える。制度的暴力が隠されているというのは、それが視覚の外にあるからではなく、人々の知識体系がそれを暴力と認めることを拒むからである。したがって、屠殺場の内実を人々に暴露しようという一部の動物擁護派による提案(そこでは人々が死の光景を見て憤慨し、一夜にして食生活を改めると想定されている)は、この暴力の本質を射貫けていないかもしれない。そこで看過されているのは、人々が当の暴力を目にしても、それを暴力とみなさないというごくありがちな可能性で、これはちょうど、競馬のような他の動物搾取や暴力を目の当たりにしても人々が道徳的反発を覚えないのに似る。(中略)ここで問題なのは認識であり、暴力行為、あるいは加害者・被害者・目撃者のみるそれは、参照される知識体系の文脈内における意味づけを通して目に見えるものとなる。つまり、動物への暴力を認識できるのは、私たちの想像や思考が、それをありうることと認めた時のみである(暴力はそこに存在し、動物は正式な暴力の犠牲者たりうる、と)。*5

 

ワディエルの場合は動物の<主権>と生政治に関する文脈を前提として議論しており、先に引用した箇所以降では、対動物戦争における認識的暴力への抵抗が人間的観点の脱中心化を意味すると強調している。それだけにワディエルの議論は射程が広く、高次の次元からさまざまな議論に応用することが可能である。

 

たとえ目の前で”暴力”が起きていても、それが暴力であると認識する回路がなければ、そもそもわたしたちは暴力を認識することができない。安倍の銃殺が暴力であることに気づけたとしても、DVやハラスメント、選挙をはじめとする”民主主義制度”からマイノリティが排除されること、婚姻制度、スロープのない歩道、産業化した動物の屠殺・格納・繁殖システムがそれと同じ「暴力」であると認識できるとは限らない。

 

だからこそ、わたしたちは様々な抵抗と出会い、政治的労働を知り、"ハンマーを共鳴し合う=引きつけ合う"ことが必要なのではないだろうか*6

 

「民主主義の根幹たる選挙」という欺瞞

 

グラムシは先に引用した論稿で、反ファシズム闘争に加わっている立憲的反対派の無力さを指摘している。これらの党は小ブルジョワジーと「部分的には支配的金権層の周縁で生活していて、国の経済・金融界におけるその絶対的で圧倒的な支配の影響をこうむっているブルジョワジー」の層をも自分たちに引きつけようとし、いくらかはそれに成功した。だが、彼らの行動は当時の状況のなかで決定的な価値をもってしかるべきなのに「不確かで、あいまいで、不十分このうえない」。そしてこれら立憲的反対派の党は「ファシズムに反対する闘争を議会の場で解決できるという幻想」をはぐくんでいる。

 

イタリアのファシズムによる統治はその基本的性質が武装した独裁にあり、現実には、直接資本主義的金権支配と大地主たちのために働いている武装勢力で構成されていた。だから「ファシズムを打倒することは、結局のところ、これらの武装勢力を決定的なかたちで粉砕することを意味している。そして、これは直接行動の場でしか達成できない。いかなる議会的解決も無力だろう。」*7

 

事件直後から与野党を問わず「民主主義の根幹たる選挙」というワードが連呼されていることは、まさに「ファシズムに反対する闘争を議会の場で解決できるという幻想」に裏打ちされているからに他ならない*8

 

民主主義とは直接行動である

議会的解決の幻想を打ち破り、これからやってくる危機を乗り越えるために左翼は何をなすべきなのだろうか。

 

そもそも、小ブルジョワ知識人はなぜ民主主義を「言論と選挙」に矮小化したがるのであろうか。

 

それは、彼らが民主主義の厳然たる事実を口にすることさえも恐れているからだ。民主主義とは直接行動であるという事実を。

 

彼らは直接行動が怖いのだ。健常者で、シスヘテロ(の男性)で、しかも大学教員という特権に甘んじている彼らには、ホモソーシャルの湯船が気持ちよくて仕方がない。その湯船に浸かっていたいという気持ちと、自らの持つ特権や権力に歯向かう勢力が怖いという思いが同居している。安全な立場から左翼面をしていたい彼らは、マイノリティによる批判の矛先が健常者のシスヘテロ左翼に向かわないようにするために、民主主義とは直接行動であるという事実を覆い隠すのである。

 

しかし、我々はそのような隠蔽には屈しない。グラムシの言葉が我々を鼓舞するだろう。

 

これ(筆者注:労働者階級みずからの利益と最も基本的な権利)を獲得するためには、真面目に勝利することが可能な場、すなわち直接行動の場において、それらの武装勢力と闘う必要がある。ブルジョワ国家に、たとえそれが自由主義的で民主主義的な国家であっても、この任務を託すのはお人好しというものだろう。ブルジョワ国家は、自分がブルジョワジーの特権を防衛してプロレタリアートを従属させておくのに十分なだけ強力だと感じない場合には、躊躇することなくそれらの武装勢力の支援に頼るだろう。

以上すべてのことから、ファシズムへの真の反対行動はただひとり労働者階級によってのみ指導されうる、という結論が出てくる。われわれが総選挙のときにとった、ファシズムを打倒するための現実的で効果的な唯一の基礎としての「労働者的反対派」を立憲的反対派に対置するという立場が、いかに現実に合致したものであったかは、事実が証明している。労働者ではない勢力が反ファシズム闘争の前線に合流しているという事実は、労働者階級がこの闘争を先導する案内人でありうるし、またあらねばならない、というわれわれの主張に変更を迫るものではない。

しかしまた、労働者階級はみずからの団結を図らなければならないのであって、団結のなかにこそ労働者階級は闘争に取り組むのに必要なすべての力を見いだすことになるだろう。ここから、すべてのプロレタリア組織はファシズムに反対してゼネストに入ろう、という共産党の提案が出てくるのである。また、ここから、めそめそと涙している無力な社会民主主義者たちを前にしての、われわれの態度も出てくるのである!*9

 

ここでいう"労働者階級"とは、今日、ネグリ=ハートが言うところの「階級プライム」や、スティグリッツやグレーバー、そしてアルッザ、バタチャーリャ、フレイザーらが言うところの「99%」がそれに当たるだろう。つまり、直接行動の重要性を訴えるグラムシの問題意識を継承しつつ、古典的な意味での「階級」の復権ではなく交差性を意識した反ファシズム、反レイシズム闘争が現代では求められている、ということだ。

 

来るべき左翼の未来に向けて、我々は「めそめそと涙している無力な社会民主主義者」たちの前に態度を示そうではないか!

*1:グラムシ「小ブルジョワジーの危機」『革命論集』講談社学術文庫。船舶の例えを使っているのは、省略した箇所でグラムシが現行の金融政治のパトロンたちを「底荷(バラスト)」に例えているからである。なお、筆者はkindle版を参照している関係上、ページ数については記載を省略した。

*2:バトラー著、本橋哲也訳『生のあやうさ 哀悼と暴力の政治学以文社、2007年、p48

*3:同、p72-p73

*4:とはいえ、である。中・小のブルジョワ中産階級が空虚なスローガンの大合唱に終始してしまうのは、この事件がその階級の人々にとってまさに「危機」であるからなのだ。グラムシは先に引用した文章の続きをこのように綴っている。

<しかしながら、労働者階級の観点からは、最も重要な事実は別のことであり、正確には、ここのところのさまざまな出来事が中・小ブルジョワ層のあいだにこのうえもなく強い反響を呼び起こしているという事実である。小ブルジョワジーの危機は急速に進んでいるのだ。ファシズムの起源と社会的性質を考慮してみれば、ファシズム支配の基盤を粉砕することになるこの要素の巨大な重要性が理解されるだろう。いわゆる「立憲的反対派」の諸党のまわりに寄り集まった、世論のこのような突然の急転回は、これらの諸党を政治闘争の最前列に立たせている。これらの諸党は、労働者階級自身の若干の層もそうであるが、このような闘争が課すもろもろの必要と条件を考慮に入れなければならない。>グラムシ前掲書より。

*5:ワディエル著、井上太一訳『現代思想からの動物論 戦争・主権・生政治』人文書院、2019年、p44-45

*6:サラ・アーメッド著、藤高和輝訳「ハンマーの共鳴性」『現代思想 特集:インターセクショナリティ 複雑な<生>の現実をとらえる思想』青土社、p102

*7:グラムシ前掲書より。

*8:マッテオッティは統一社会党の議員であるため、今回暗殺されたのが極右政治家であるという点でグラムシの指摘がそのまま今日の状況のアナロジーになるわけではない。その前提の上で、筆者はグラムシの記述の現代的意義を抽出するべく読解し引用している。

*9:同書。

セックスワーカー差別集会への抗議行動2022 に参加しました

 

5月22日、新宿で行われた「セックスワーカー差別集会への抗議行動2022」に参加しました。

セックスワーカーへの差別集会への抗議行動2022

 

同日の同じ時間、同じ場所で「AV業界に有利なAV新法に反対する緊急アクション」(以下、新法反対デモ)が開催され、これに対するカウンターとして抗議集会が開かれました。

 

AV出演被害防止・救済法案の内容については既に多方面から議論されているのでここでは扱わず、今回は当日の行動について思ったことをまとめるだけにします。

 

新宿東口広場のカオス

私(わたし)は抗議集会が始まる少し前に現場に到着しました。

 

現場に着くとALTA前から街宣の音が聞こえてきます。どうやら先客がいたようで、のぞいてみると右翼が街宣カーの上で熱弁を振るっていました。近くには公安がいて見張っています。後から知りましたが同じ場所で反ワクチン派も集会を行なっていたとのことでした。

 

ここで集会をやるのか・・・

 

この後少し現場を離れたため予定時刻に間に合いませんでしたが、双方の集会は予定通り始まったようです。

 

新法反対デモでは、登壇者が順にマイクを回して淡々とスピーチを行なっていました。それに対してカウンター側はセックスワーカー当事者のスピーチも交えつつ、シュプレヒコールを繰り返し集会に抗議していました。時にはカウンター側の抗議に呼応して新法反対デモの登壇者が語気を強めて話すなど、互いのスピーチがヒートアップすることもありました。

 

一方はスピーチリレー、他方ではシュプレヒコール*1、そして集会が始まった後も相変わらず続く右翼の街宣、さらには反ワクチン派のデモとカオスな状況でした。

 

#ラブホで死にたくない のメンバーとニアミス

 

わたしはというと、カウンターデモの隅の方で小さくなっていました。

カウンター主催者が無断で写真を撮らないでと呼びかけていたにもかかわらず、写真を撮って去っていく通行人が後を絶ちません。そこで主催側から貸してもらった赤い傘を差して顔を撮られないように座っていました。赤い傘便利。

 

ただ、そのせいで知り合いがいたことに気づきませんでした。

 

去年、セックスワーカー主体のデモで「#ラブホで死にたくない」という運動がありました。

zineyokikoto.hatenablog.com

 

今回カウンターを主催した人たちのなかには、#ラブホで死にたくない に参加していた人もいたと思います*2。去年のデモで知り合った人は主催メンバーではなかったみたいですが、今回のカウンターにも参加していたようです。会って話せたら嬉しかったのですが、たいへん惜しいことをしました。

 

情動による扇動と動員

当日、抗議集会に参加した人やデモをみていた人たちの反応には、「新法反対デモの方は手慣れている」というものがありました。

 

個人的には社会運動なんて別に手慣れていようが不器用であろうがどうでもいいと思いますが、両方の集会は反響が大きかったので、普段運動に関わっていない人も見にきていためにそのような反応が多かったのではないかと思います。

 

一方で、新法反対デモはちょっと淡々としすぎているかなという印象もありました。

 

私(わたし)はこういう集会に何度も参加したことがありますが、だいたいの集会ってシュプレヒコールをあげて参加者を活気づけることが多いんですよね。今回のカウンターもそうです。

 

でも新法反対デモでは学者や弁護士、政治家の人たちが次々と登壇し、時間通りにスピーチを終わらして司会にマイクを渡す。それを機械的に繰り返す、という感じでした。いや、いろんな人に話してもらわないといけないので時間通りに進めるのは当然ですし「手慣れて」いた方がこの場合はいいでしょうから、それが悪いということではなくて、むしろ予定通りに司会進行できるのはすごいなと感心しました。

 

ただ、そのような方式をとるのは、要するに参加者の側には何も期待していない、ということですよね。自分たちの言いたいことを一方的に述べて参加者を啓蒙する、というスタイル。

 

参加者に何も期待しないということはつまり、扇動と動員が目的にあるということです。これは新法反対デモのTwitterアカウントが開設された当初からそうでした。

 

 

最初のツイートの声明文では、法案の中身について一切触れられていません。私(わたし)も運動が出すステイトメントの作成過程に関わったことがありますが、通常は抗議対象の何が問題なのかを盛り込むはずなんです。問題について詳しく述べすぎたからもっと簡略化して説明しようとか、どうやったらわかりやすく共感してもらえる文章になるかといった議論が声明を作成する過程であると思うんです。

 

ところが、最初の声明文では法案内容についての説明が一切ありませんでした。見事に扇動と動員以外の目的がないのです。

 

こういうことは左派の運動では最もやってはいけないことだと思います。扇動と動員のみを目的にすることは、すなわち情動で人を動かそうとすることです。情動で人を扇動し動員するという手法は本来右翼がやることです。それなのに、ましてや「左派」を自認する人たちが何も躊躇わずその手法に頼るというのは、いったいどういうつもりなんだろうと驚きました。

 

情動で訴えることの何が問題かというと、そのような運動は短期的な成果しか見込むことができず、とても脆いのです。情動を煽る運動が保守的で過激化しやすい危険なものであることは、ドナルド・トランプをはじめとする近年のSNS上におけるレイシズム扇動をみていれば明白だと思うのですが、この人たちはいったい今まで何をみてきたのでしょうか。

 

こういう保守的な姿勢が当日の集会にもあらわれていたのではないかと思います。これはあくまで個人的な見立てなのですが、新法反対デモの主催者はこの日にデモを行ったというアリバイがほしかったのではないでしょうか。動員が目的だから、参加者の様子の撮影や集会に参加した人数にこだわる。時間通りスピーチを回していればそれで十分だし、シュプレヒコールで参加者を活気づける必要もない。一貫しているなと思います*3

 

「挑発に乗らないで」という連呼

 

新法反対デモの集会終了後、司会の仁藤さんが参加者へ呼びかける際、「挑発に乗らないでお帰りください」と連呼していました。

 

カウンター側がシュプレヒコールをあげていたのは、デモの声明文がセックスワークの現場で働く人の声を無視しているためにやむなく抗議を引き受けざるをえなかったからです。それなのに、カウンター側の抗議を「挑発」と呼んで片付けることはあんまりではないでしょうか。あなたたちとは対話する気がない、という明確な意志表示に他なりません。

 

以前、安倍晋三首相(当時)が東京都議選の応援演説で、安倍首相を批判していた人たちの前で「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と発言し問題となったことがありました。

www.asahi.com

 

カウンター側の抗議を「挑発」として退け、対話への道を閉ざす仁藤さんの姿勢は、政権批判をする人たちを「こんな人たち」と呼んだ安倍元首相の態度と何が違うのでしょうか。

 

わたしは当日、「当事者」の声を紹介して新法成立を阻止する反対デモ側と、「当事者を利用するな!」と訴えるカウンター側の抗議を聞いていて、当事者同士で分断される必要はないのに・・・と思っていました。

 

「当事者性の過剰」の危険性

 

"性売買"の話題になると「当事者」が引き合いに出されますが、当事者性の過剰な強調はとても危険だと思います。そもそも当事者という言葉はそのまま外国語に翻訳することが難しいほど、日本独自の言葉であることは確認しておかなければならないと思います。

 

近年、当事者研究という研究分野が発展しています。トランスジェンダーを取材したものなど、たいへん優れた当事者研究も少なくありません。しかし、研究者のなかには、当事者研究の手法を悪用し"当事者"を加害する人も残念ながら存在します。

www.jprime.jp

 

翻って当日の抗議行動を振り返ると、残念ながら当事者性の応酬になっていた部分があるように思います。これは明らかに話を聞く姿勢を示さない新法反対デモ側の態度に起因するものですが、当事者性というのはいわば「諸刃の剣」で、個人的にはとても危ういのでなかなか扱いづらいところがあります。

 

社会運動ではよく「当事者の声を聞け」というスローガン的なものが口にされるのですが、当事者といっても人間ですから、何かを間違えることもあるし、差別的な思想を持っていないとは必ずしも限りません。言い換えれば、当事者だからといって「無垢」な存在ではないのです。

 

運動のために当事者の存在を押し出し、その人の言うことを絶対視する、という姿勢は、当事者を無垢な存在として規定し、活動家の価値観に合わない当事者の存在を排除する、という点で極めて家父長的な態度だと思います。"性売買"に対する保守的な姿勢と家父長的な態度をとる運動が結びつくのは必然ですが、新法反対デモに限らず、多くの左翼運動がその結びつきに不注意であることに危機感を覚えてなりません。

 

女はポルノを観る

 

ところで、守如子(もりなおこ)さんという研究者の方の本に『女はポルノを読む 女性の性欲とフェミニズム』があります。

 

 

ポルノグラフィはフェミニズムの理論や運動によって性差別だと論じられ批判されてきた主題です。しかし、歴史的には様々な観点からポルノグラフィ批判を批判するフェミニストも多く論争になってきました。著者は本書において、ポルノグラフィ論争で何が問題とされたかを確認したうえで、女性向けポルノグラフィを視野に入れたポルノグラフィの具体的な分析を通して、新たなフェミニズム・ポルノグラフィ論への道を拓こうと試みています*4

 

著者はこれまでのポルノグラフィ批判の意義を確認したうえで、個別の表現を批判するというスタイルの運動の限界を次のように指摘します。第一に、表現には多様な読みが可能であるという点があり、何が不快感を与える表現で、何が差別なのかを決める当事者を批判運動が「正しい」存在に祭り上げてしまうという問題です。第二に、批判という運動のスタイルが、「差別されている」ことによる「生きにくさ」だけを強調することに終わるという問題があります。フェミニズムにとって、抑圧や被害体験の言語化は最初の一歩として重要です。しかしながら、それだけではフェミニズムの言説が女性の生きにくさを強調し、受動的な女性像を再生産することにつながってしまうと本書では指摘されています*5

 

思うに、今回のAV法案反対の緊急アクションについても、ここで指摘されていることが当てはまってしまうのではないかと思います。本書が刊行されて10年以上経っていますが、その内容が未だに効力を持つほどに、現在の運動が反動的なものになってしまっていることは残念でなりません。

 

ポルノグラフィもまた、他の社会事象と同様に、ジェンダーを維持する側面と壊乱する側面をもつ。マッキノンやドゥォーキンのように、ポルノグラフィが性差別の核心に位置付くとする議論は、自らがセクシュアリティに関する近代の偏見にからめとられているのではないか。ポルノグラフィにすべての責任を帰すことはできない。

「〜は悪いものである」と決めつけてしまうのは、単なる思考停止にすぎない。ある主題に対して、フェミニズムの視点が一つに決まるはずはない。(中略)ポルノグラフィだけでなく、何かがフェミニズムの視点から見て「問題」なのではない。どのような事柄にもジェンダーを維持する側面と揺るがす側面がある。私たちはそのどちらの側面とも緊張関係をもちながら、思考を深めていくしかない*6

 

セクシュアリティについての議論をするとき、「無垢でもなんでもない私」から出発する意義を忘れてはならない。セクシュアリティの議論にこのことはとどまらない。どんな女性であっても、性差別に対して無垢でもなんでもないし、そこから議論は始められるべきであることを何度でも確認しておきたい。*7

 

今回の法案をめぐる混乱から脱するために、フェミニズムにおける多様性や緊張関係というものを今一度再考すべきではないでしょうか。

*1:別枠ですが、AV新方反対デモの声明に発達障害に対する偏見があり、これに抗議する個人カウンターデモも行われていたようです。縮こまっていたので気がつかずすみません。

*2:

要友紀子さんも言及していましたが、カウンターの主催はSWASHではなくセックスワーカーの有志によるものです。

https://twitter.com/kanameyukiko/status/1527858801059106816

これは#ラブホで死にたくない でも同様でした。

*3:新法反対デモとカウンターデモがそれぞれTwitterで発表した声明で一つ気になることがありました。それはALT機能の使用の有無です。後者の声明文の画像ではALT機能を使用した説明が追加されていました。

https://twitter.com/SWersVoices/status/1527310558265221120

全部の画像ツイートにつけているわけではないですし、私(わたし)も一つ一つの画像につけ忘れることがあるのでALT機能を使っていないからダメ、ということではあくまでありません。しかし、主要な声明文でこの機能を使っているかどうかは細かいようにみえて大きな違いではないかと思います。新法反対デモの方はどうしてもマジョリティ向けの運動になってしまいがちで、「女性」というマイノリティ性を強調しながら実際にはマジョリティ性を大きく打ち出すかたちになってしまっています。他方でカウンターデモは声明文において「私たちは、セックスワークを始め、全ての職業、性のあり方、ジェンダー、人種、民族、障害、その他いかなる属性に対する差別に反対しています。」と記載してあるように、差別反対の枠組みをより包括的なものにしています。こうした両者の違いが細かいところにあらわれているのではないかと思いました。

*4:守如子『女はポルノを読む 女性の性欲とフェミニズム青弓社ライブラリー、2010年、p214

*5:同、p236-237

*6:同、p235

*7:同、p236-237

恐怖の治療法

酒井隆史『暴力の哲学』を読んで知りましたが、昨日2022年4月29日でロサンゼルス暴動(ロス暴動)が起きてからちょうど30年だそうです。

 

 

1991年にロドニー・キングという当時25歳の黒人青年がロス郊外を車でドライブをしていたところを警察に呼び止められ、殴る蹴るの暴行を受けました。この出来事をジョージ・ホリディという配管会社の経営者である白人男性がたまたまビデオで撮影しており、彼はロス市警にテープを送りつけましたが拒絶されたといいます。そこで彼は地方テレビ局にテープを送りつけ、それをきっかけにやがて全国レベルで報道されることとなり、大きな事件へと発展していきました。この映像は映画『マルコムX』の冒頭でもみられるようです。

 

filmarks.com、

映像はこの事件の裁判でも提出されました。黒人に対する警官の横暴を示す決定的な証拠であり、これが決め手となって当該の警官たちに有罪評決が下されてもおかしくはないはずです。ところが、1992年4月29日、この裁判の陪審員たちはキングに暴行を加えた4人の警官に対し無罪評決を下しました。このことをきっかけにロサンゼルス暴動が発生します。

 

なぜ4人の警官は無罪になったのでしょうか。一つはこの裁判の陪審員が皆白人で、この事件の評決がシミ・パレイという黒人住民の割合が2%程度の地域の裁判所に移管されたことがあります。近年、日本でもマジョリティの偏見やポジショナリテイに関する本や邦訳書の刊行が相次いでおり、マジョリティの特権性をめぐる問題が提起されるようになってきました。その議論を踏まえれば、この事例はマジョリティの偏見がもたらす加害性の問題について示した非常にわかりやすい事例といえます。

 

しかし、警官が無罪放免になった理由はそれだけではありません。実は先述の映像が、この事件ではなんと警官たちの「無罪」の証拠として扱われたのだといいます。

 

キングが打ちのめされてグロッキーであることはだれの目にも「明白」であるようにみえます。だからこそ、日頃は警察によるハラスメントに泣き寝入りせざるをえないことが多い黒人たちには、期待も大きかった。ところが、警官の弁護団の側は、このビデオをこまかく分析しながら、攻撃を受けているのは警察の側であることの証明としてもちいたのです。 ロドニー・キングの身体は、攻撃をやめなかったら、いまにも飛びかかって逆に暴力をふるいにくるおそるべき身体として表象されたのです。

ここには”想像的な転倒(imaginary inversion)”(原文強調点) とでも呼ぶべき動きがあります。このような転倒は、とりわけ人種差別やナショナリズムのなかに「マジョリティの恐怖」のリビドー経済としてあらわれます。すなわち、力関係でいえば「強者」(しかもしばしば圧倒的な「強者」)に属する側が、「弱者」に属する側によって圧倒的な力で包囲されているかのように恐怖する、という心理的に転倒してあらわれる構造です。*1

 

酒井さんはバトラーを援用して次のように続けます。とても長い引用になってしまいますが、非常に重要なことを言っていると思います。

 

ここには「マジョリティの攻撃性」あるいは「マジョリティの兇暴性」とでも呼びうるような、ひとつの典型的な暴力の発現形態があるようにおもわれます。その特性は、くり返しになりますが、力において優位にあり、暴力を行使する側が、力において劣位にあり、暴力を行使される側に力の優越と暴力の加害を帰属させてしまう 「転倒」です。この転倒こそが人を容易に暴力的にさせてしまう仕掛けなのです。
ジュディス・バトラーはこの転倒を分析しています*2。 「百聞は一見にしかず」ということわざがあるように、通常、伝聞に比べて視覚が圧倒的に確実であると考えられています。しかしこの視覚という通常もっとも「明白な」証拠として想定されている領域すら、この転倒の機制を克服することはできない。バトラーによれば、それは、視覚的表象の領野がひとつの物語によって構造化されているからです。この幻想は長い伝統をもっています。アメリカ合衆国には、黒人の強大とされるペニス幻想があります。 黒人の強靭な性的能力から白人女性はまもられなければならないという観念が、マジョリティ男性にとり憑いているというのです。それはよりつきつめれば境界の不安です。一九世紀の後半にmiscegenation という言葉がアメリカで生まれます。ラテン語の混ぜる(tomix) を意味する misceōに人種、種族、種 (race) を意味する gen (us) とを合わせてつくられた造語です。 雑婚、 人種混交などと訳されます。*3

 

miscegenation という造語が示唆するのは、 人種差別がつねに恐怖という成分をはらんでいるということです。それが殺人をふくめた暴力を触発し、さらに正当化するのです。いわば国境のなかの国境を取り締まる主権的な機能をはたす警察は、このイメージの図式のなかでは、「白人性(ホワイトネス)」を「予防的」に防衛するものです。 だから、かれら自身の暴力は暴力としては認識されないのです。警官の暴力は、なんといってもロドニー・キングの(現実には行使されていない想像上の)「暴力」の方こそがひき起こしたものなのですから。警官たちは人種にまつわる空想のなかにいます。もちろんそれは物理的な帰結をもたらす空想ですが。これをバトラーは「ホワイト・パラノイア」と呼んでいます。その空間のなかで「想像的な反転」が、つまり、みずからの人種的な攻撃性が他者のものとして転倒して想像されるという事態が可能になる。その空想の「外側」に立ってみれば、そこで展開しているのはたんに警官による一方的な暴力にすぎません。他者にあてがわれる「粗暴さ」はまさにみずからに負わされるべきものにすぎない。しかし警官たちは、空想の空間のなかで、その「粗暴さ」をみずから実現し、同時にそれを他者にズラしてしまうというアクロバットをやってのけるのです。まさにこのロドニー・キング事件には、アメリカが国家単位で世界に行使している暴力の構造がみてとれるでしょう。 みずからが口をきわめて非難する核爆弾をはじめとする大量殺戮兵器や化学兵器を、ほとんど他を圧倒して大量に使いつづけているのはまさにアメリカ国家自身であるという例ひとつとってみてもあきらかです。*4

 

今回この事件を取り上げたのは、本書におけるロドニー・キング事件の分析を読んで、今日のトランス差別の問題を想起したからです。トランス差別をする人たちはよく「女性のセーフスペース」の話をしたがります。女性の身体への介入や暴力を背景としてトランスジェンダーを「女性のセーフスペースへの侵襲者」として悪魔化し、シス女性の「恐怖」を煽る手法です。差別扇動に乗ってしまった人たちがこの恐怖を根拠にトランスジェンダーへの暴力を正当化するのです。

 

しかし、現実では全く異なることが起きています。性別二元論や異性愛規範が強固な既存の社会において、トランスジェンダーは性的逸脱者として迫害され、自尊心を傷つけられています。このことは椿姫彩菜(現・椿彩奈)『わたし、男子校出身です』などのトランスジェンダー当事者が書いた本でも紹介されています。ちなみにこの本では「シス女性の恐怖」とかいう話はまったく出てきません。当たり前です。その恐怖は差別扇動者がアジテーションのために用意したイデオロギーでしかないのですから。

 

 

マジョリティの恐怖の克服を呼びかける話は、それこそキング牧師もしているくらい古くからあります*5。しかし、冒頭でも述べたように、マジョリティの立場性や特権性が問題になってきたのはここ最近のように思います。フェミニズムでも、ブラック・フェミニズムが白人女性中心のフェミニズムの問題を提起していたのはもうずっと昔のことなのに、日本ではようやくそのことが顧みられてきたような雰囲気を感じています。いや、このことはずっと言われてきたのに、マジョリティが顧みてこようとしてこなかっただけなのでしょう。

 

立場性と聞いて思い浮かぶのは、出口真紀子さんの研究です。出口さんはグッドマン『真のダイバーシティ』を目指してやアリシア・ガーザ『世界を動かす変革の力』の翻訳で知られ、また、勤務する上智大学では「立場の心理学:マジョリティの特権を考える」という授業を担当しています。

 

 

 

実は私(わたし)は出口さんの担当する授業については以前から知っていました。でもその取り組みについて目を向けることはありませんでした。というのも、当時はマジョリティの問題について考えるよりも、マイノリティとされる人々の問題に向き合い、闘って社会を変えていくことの方が重要だと考えていたからです。しかし、後になってその考えが間違いであることに気づきました。変わるべきはマジョリティの方で、マジョリティがその特権性に向き合い社会を変えていかなければならないことにようやく気づいたのです。

 

最近はマイクロアグレッションやインターセクショナリティの他、マジョリティの特権について考えることが多いです。いつか近いうちに、自分が考えたことをなんらかのかたちにできればと思っています。

 

ロシアのウクライナへの侵略戦争がまだ続いています。最後に『暴力の哲学』の今まで引用してきた章の最後の段落を紹介して締めの言葉にしたいと思います。

 

国家による暴力がつねに「予防対抗暴力」として正当化されることの仕組みも透けてみえます。戦争は、それがどんなに侵略的性格のものであることがはっきりしていても、「自衛」を口実になされます。だから戦争とは逆説的ですが、根本的に反戦的なのです。とすれば、戦争に本当に反対するのならば、この論理をくつがえすところまでいかなければならないのです。*6

 

*1:酒井隆史『暴力の哲学』河出文庫、2016年、p111-112

*2:1993 "Endangered/Endangering: Schematic Racism and White Paranoia." In Robert Gooding-Williams, ed., Reading Rodney King/Reading Urban Uprising, pp. 15-22. Routledge. =1997 (池田 成一 訳)「危険にさらされている/危険にさらす――図式的人種差別と白人のパラノイア」『現代思想』 25(11)(特集=ブラック・カルチャ-) 1997.10 pp.123-131 青土社

*3:前掲書、p113-114

*4:同、p115-116

*5:ブログのタイトルはこの本のテキストに由来します。今回取り上げた『暴力の哲学』の章はこのテキストの紹介から始まります。(ただし恐怖の「病気」化は不適切な場合があるかもしれません)

 

 

*6:同p116-117