労働時間と労働倫理

第一部 労働時間

 

自由時間の増大が「空想的社会主義」?

 

昨年の衆院選日本共産党が1日8時間の法定労働時間を7時間に短縮することを目指す政策を掲げた。これに対する左派の反応は冷ややかだった。

 

 

 

コミュニストとしてこれは流石に看過できない発言だと思った。7時間労働制を選挙公約として掲げることが適切かどうか、そんなくだらない議論は軍師を気取る出たがりな奴らに任せておけばよい。ここでの目的は、労働時間短縮のための要求を「空想的社会主義」と一蹴する、左翼(それも労働運動に関わる者が!)にあるまじき態度を糾すことにある。

 

「働きすぎ」と「十分に働けない」の共存

 

まず、労働時間の短縮を訴えることが労働者に響かない(=票田にならない)というのは一面的な見方であることは確認すべきだろう。

 

労働社会学の研究で明らかにされてきたように、現在の日本では「働きすぎ」と「十分に働けない」が共存する労働時間の二極分化が起きている*1。「働きすぎ」の例としてドライバーの統計が挙げられる。

 

厚労省の「2022年賃金構造基本統計調査」によれば、トラック運転手の年間労働時間は2580時間と試算される。これは全産業の労働者と比べて118.8時間もの開きがある*2。なお、年収平均は479万円(全産業労働者年収554.9万に対し86.3万の格差)であり、時間当たり賃金は1857円で全産業の7割ほどにとどまる。また、過労死も多く、道路貨物運送業における脳・心臓疾患の労災請求件数は請求件数全体の15%ほどを占めている*3

 

ドライバーほどではないにしても、長時間労働や休日の少なさに悩まされている労働者は少なくない。これに呼応するかたちで、弁護士や労働組合が労働時間の短縮はもちろん、過労死等の労災事案に日々取り組んでいる。政策として掲げるかどうかは置いておくとしても、「自由時間」の要求が労働者に響かないとするのは早計だろう。

 

長時間労働に従事している労働者は政策なんか気にしている時間はない」という反論もありそうだが、それは労働者に対する侮蔑であるばかりか、政党だけでなく弁護士や労働組合の存在意義すらも問われてしまう点で本末転倒である。長時間労働をなくすためにお前らがいるんじゃないのか、何のためにお前らがいるんだ、という話になる。渡辺の発言の根底には肉体労働者に対する侮蔑がある。

 

支援者の傲り

 

渡辺の発言が、彼自身が普段接している労働者のイメージに依拠していることは明らかである。このことは支援者にとって良い面もあれば悪い面もある。

 

「現場」で活動し、労働者の「リアル」を身をもって知っている、ということは支援者にとって強みになる。実態を知っているからこそ、労働者の不満を広く訴えることができるし、労働者の利害のために行動がしやすくなる。

 

問題はその後である。同じ現場に居続けると、「現場の声」が世界のすべてだと錯覚してしまうのだ。自身が接している労働者の不満は紛れもなく「現場の声」である。しかし、現場や労働者のあり方は一様ではない。場所や労働者の属性(例えば、性別や世代、経験年数etc...)が違えば不満や要求も異なる。言われてみれば当然のことだと思われるかもしれないが、支援者はしばしばこの事実を考えないようにしてしまう。

 

なぜなら、支援者には自身が「「現場の声」を聴く「よき人」」であるという自負があるからである。現場の声は「真実」であり、それを聴くことは「よきこと」であり、それをする自分も「よき人」である。「よき人」である自分の意見が間違いであるはずがない。こうして支援者は自分たちの利害に合致する被支援者像を囲い込み、そのイメージに基づいて自らの主張を対象の被支援者の総意であると「代弁」するのである。このような傲りを持たないよう支援者は心得るべきだと思う。

 

女の時間

 

渡辺の発言の問題は女性の存在が想定されていないことである。

 

自由時間よりも賃上げだ、という主張を字義通り眺めるならば、労働者は少ないながらも自由時間は持っているのだから収益を増やして労働者の富を増大させろ、というふうにも読める。しかし、”自由時間がある”のは果たして誰なのだろうか。

 

ベティ・フリーダンの『女らしさの神話』では、第二次世界大戦後のアメリカの主婦が母親の時代よりも多くの時間を家事に費やし、典型的なアメリカの農夫の労働時間よりも長く従事しているという例が紹介されている*4。主婦は夫や子どものために家庭内労働に従事するため時間がない。それだけでなく「女らしさの神話」が女性の自由時間を奪ってしまう。フリーダンが話を聞いたのは1950年代以降にカレッジに行った世代だったが、彼女たちは「家族の時間を奪いたくないから」という理由で地域の組織で責任ある地位に就くことを断ってしまう。だが、「彼女たちの時間の多くは意味のない暇つぶしの作業に費やされている」*5。女性たちは家庭内労働だけでなくこの「意味のない暇つぶしの作業」に縛られているために(当の女性たちにとっての)自由時間を持つことができなかった。

 

フリーダンが「名前のない問題」と名付けた問題はやはり日本でも依然として残っている。特に労働市場の非正規化が進む現在、シングルマザーや「ヤング・ケアラー」はますます自由時間を奪われている。そのような人々にとって「生活苦を抱えた休暇や休日はそれ自体が苦痛」であるのかどうか、疑問である。「休日は家族のために過ごさなければならないから苦痛」という場合もあるだろうが、渡辺の示す解決策が賃上げなので、こうした例も渡辺の想定では排除されている。

 

 

もう一つ、渡辺の言う自由時間が男性中心の時間性であることも指摘しておきたい。

 

過ぎ去りし日はもう戻らない、単線的かつ連続的な時間。これが広く共有されている時間のイメージだろう。しかし、このような「歴史の時間」だけが唯一の時間性ではない。

 

歴史的にみて時間的なものは「男」に、空間的なものは「女」に帰属させられてきた。だがクリステヴァは「女の主観性」に基づく時間があるという。「自然界のリズムに合致し、あるひとつの時間性を着想させる、月経周期、妊娠期間など生物学的リズムの永遠反復」がある*6

 

フリーダンやクリステヴァ、そしてボーヴァワールら一連のフェミニストは、「他者」にされ「女らしさの神話」を押し付けられてきた女性が「自分とは何であるか」を問うてきた。『第二の性』のなかでボーヴァワールは、プラスとマイナスの価値を持つ実存主義の用語を効果的に配置し、プラス面を持つ実存主義の用語を男に、マイナス面の用語を女に当てはめることで女の他者性を明確に浮かび上がらせた*7。本稿の関心に寄せるなら、同書で「自由」という語が男性的なものとされているのは印象的である。

 

企業社会における時間とは、生産性という指標で計られるような迅速かつ定形的で"男性的な"時間である。そして「女の時間(クリステヴァの言葉では「巨大な時間」とも)」は「過ぎゆく線的時間とはほとんど何の関係もない」*8ために疎まれ忌避される。

 

資本の価値増殖のためにただひたすら動員される労働者が過ごす時間は、まるで「この道しかない」とでもいうかのように一筋の線を進んでいく。"男の時間"のなかで与えられた"自由時間"などたかが知れている。しかし、未だかつて到来したことがない時間とは、先がわからない複数の線が延びているものであり、最初から「この道」を歩むべきだとは決まっていない。「女の時間」とは、開かれた未来に自らを投げ入れる「投企」の時間、「クィアな時間」でもある。そのような時間よりも生活賃金、一時しのぎにしかならない"労働者の富"なるものが大事だとするのは、あらゆる意味で貧相が過ぎるのではないだろうか。

 

時代遅れの賃金奴隷

 

渡辺の発言に理解を示す反応には以下のようなものもあった。

 

 

さすがセクシストの学者先生といったところである。ここでいう「私たち」とは男性を中心としたメンバーシップの会員のことであり、単線的で後戻りできない時間に囚われた排他的な集団である。現実は過酷に満ちている。だからこそその過酷に抗するための「投企」の時間が開かれている。左翼がユートピアを語らずして誰が語るというのだろうか。

 

そもそも、渡辺のような考え方ははるか昔にマルクスが批判した典型的なブルジョワ的思考である*9。このことはマルクス主義者なら知っていて当然のことだ。渡辺に少しでも理解を示してみせたセクシスト・マルクス主義者のなんと恥ずかしいことよ!

 

賃労働制度とは一つの奴隷制度だ、という古典的なテーゼがある。マルクスにとって賃上げとは「奴隷の報酬改善以外のなにものでもない」*10マルクスは、労働の問題はその報酬の条件に還元することができないこと、むしろ賃金関係ないしその関係が支配する労働過程にまで問題の核心が及ぶことをはっきりと認識している。過程よりも結果に、自由がないことではなく不平等に焦点を絞ることは、資本主義批判を貧しくするのである*11。これと同じくらい不十分なアプローチについて、『ゴータ綱領批判』では次のように書かれている。

 

それはちょうど、奴隷制の秘密を見やぶってついに反乱にたちあがった奴隷たちのなかで、時代遅れの考えにまだとらわれているひとりの奴隷が、反乱の綱領にこう書くようなものである。──奴隷制は廃止されなければならない、なぜなら、奴隷制度のもとでは奴隷を養う費用は低くきめられたある限界をこえることができないからだ!と。*12

 

自由時間を拡大する要求を斥け、賃金奴隷の身でありながら一時の安らぎのためにまやかしの富の拡大を優先する。これはフェミニストからすれば男性的権力の傲りであり、コミュニストからすれば労働者階級の敵である。労働時間規制に対する反対は、いかなる理由付けを行おうとしても必ず反動であると言わなければならない。

 

 

第二部 労働倫理

 

自由時間を増やして、それで?

 

 

 

とはいえ、である。

 

 

 

ずっと疑問だった。自由時間の増大が人間解放の条件であることは正しい。しかし、自由時間が増大したところで人々は解放のための活動に関わるようになるわけではない。ある人は友人や家族と会食に行くだろうし、ある人は旅行に行くだろう。またある人はパチンコに行くだろうし、ジムで身体を鍛えたりするだろう。人間は革命のために時間を使うよう方向づけられているわけではないのだ。

 

この疑問に対してマルクス主義者は誰も答えようとしなかった。彼らはただ自由時間の増大を訴えるだけで、しかもそれをもってあたかもユートピアが実現されるかのようにうそぶくだけだった*13。自由時間を生み出して、それで?その後のマルクス主義者の展望は驚くほど乏しい。

 

キャシー・ウィークスの労働過程論

 

最近、キャシー・ウィークスの議論を集中的に読んでいる。

 

前回の記事*14を書くためにジョディ・ディーンの議論を調べていた際、フレドリック・ジェイムソンの『アメリカのユートピア』にディーンとともに論文が収録されていることを知った*15。同書にはジェイムソンの議論とそれに対する複数名の論者の応答という形式で論文が掲載されているが、そのなかでもウィークスの議論が最も面白いと感じ関心をそそられた。ディーンも邦訳が少ないが、ウィークスについては2024年現在、これが日本語で読める唯一の論文であることも後から知った。

 

ウィークスの代表作は2011年に発表された”The Ploblem with Work”だ。日本ではほとんど知られていないが、労働過程を考察したマルクス主義フェミニストの議論として極めて重要な書籍であると筆者は感じた。

 

 

ウィークスの議論を筆者なりに解釈してまとめると、ウィークスは人間の労働それ自体が労働倫理や家族倫理を形成し、労働過程を通じてそれらの倫理や規範を内面化ないし身体化する、ということを言っている。上記の書籍で紹介されている例では、労働が労働倫理や家族倫理を形成する過程でジェンダー規範も形成され反復される。そして労働過程のなかで労働者は、労働倫理や家族倫理に基づくジェンダー規範を内面化ないし身体化することでジェンダー秩序を維持、再生産していく、とされる。

 

わたしはウィークスの議論にたいへん衝撃を受けた。なぜなら、これはマルクス主義における「労働」を根本から否定するものであるからだ。どれほどの読者が気づいているかわからないが、ウィークスの議論は世界の革命理論を根底から変えてしまうほどの力を持っている。

 

このことは『資本論』を読むとすぐに理解できる。『資本論』では、労働が労働倫理を形成し、労働過程のなかで労働者が労働倫理を内面化ないし身体化していく、というウィークスの議論で展開されているような内容はまったく出てこない。というのも、マルクスの関心はあくまで労働が対象物を統御し生産することについて、そして労働者が自身の労働を統御する自由を資本家に奪われている不当さを問うことにあるからだ。つまり、労働過程に対する考察の出発点が対象物に対する労働の関わり方の方にあるのである。そのため、マルクスの関心は必然的に「生産」や「所有」を問うことに移り、導き出される実践も生産手段の奪取や占拠、個人的所有の再建といったものになる。

 

しかし、ウィークスの労働過程論の出発点はその手前、すなわち対象物に対する労働の関わり方ではなく「労働」それ自体にある。ここで理解のための補助線としてマルクス主義フェミニズムの議論を引いておく。 「家事労働に賃金を」が好例だが、マルクス主義フェミニズムの画期性は市場の賃労働と同等に扱われない家庭内労働を労働過程論の俎上に載せたことにあった。ここでいう家庭内労働とは、子育てや介護のみならず、 異性愛を反復する労働としてのセックスも含んでいる。

 

資本主義は、賃労働こそ市場を媒介として収入を得るために認められた唯一の手段なのだとその正統性を主張する*16。と同時に、家庭内労働を「自然」なものとして扱うことで不払いの労働を動員し剰余価値生産を最大化するよう努める。このとき、家庭内労働を「自然」化するために「女らしさの神話」が押し付けられるのである。

 

「女らしさの神話」は無償労働を正当化するだけでなく、家族規範を維持、強化する。家族を構成するメンバーは「親」と「子」、「夫」と「妻」といった役割を各々与えられている。そして各々は、家庭内労働を通じてこの役割を適切に演じるよう方向づけられる。フェミニズムが優れていたのは、労働社会を性別役割分業社会として把握し、賃労働から排除された女性たちの近代化を「もう一つの近代」として相対化したことにあった*17

 

家庭内労働の評価が低いのは、すぐ消費されるために反復の必要があり、従って創造性のある行為とみなされないからである。労働者の時間、すなわち「男の時間」において家事労働は、日々賃労働に従事する単線的な時間を途中通過する程度のものとして把握され、大きな価値を見出されることはない。しかし、家庭内労働は日々終わることのない作業を反復する、いわば「女の時間」のなかで経験されるものである。そして、家庭内労働は賃労働に従事していないという意味で「働いていない」こととして、労働中心社会のなかで低い序列を与えられる*18。ここでの働いていない時間、つまり「余暇=自由時間」という規定は、労働者の解放の先決条件として期待された”自由時間”とはまったく異なる様相を呈する。ここにマルクス主義の限界とフェミニズムの革新性があった。

 

ウィークスの議論はマルクス主義フェミニズムの蓄積の延長線上に位置づけられる。ウィークスの言うように、職場はジェンダーが強制され、実行され、再創造される現場である*19。そして家事労働もまた、労働力を再生産し、そしてサービスを提供する労働であると同時に、ジェンダーを生み出すものとして認識されるべきである*20。労働過程とは、第一に、資本の価値増殖のために労働者が資本に従属しその人格や生活を方向づけられる、言い換えれば「労働倫理」を内面化し身体化する過程として把握されるべきである。そして第二に、家庭内労働を賃労働と同等のものと認めたうえで、「家族倫理」を形成し維持する過程として把握すべきである。そして第三に、労働の主体が労働を通じてセクシズムやレイシズム能力主義をはじめとする、近代の社会体制を補完するイデオロギーを受容、内面化し身体化する過程として分析する必要がある。マルクスは、自身が規定した「労働」概念に縛られたが故に労働過程それ自体が含む問題を把握することができなかった。マルクスジェンダーに対する関心が薄い理由は時代的制約などではまったくなく、その理論的関心と構成のためであったのだ。

 

 

人間の本質としての労働

 

マルクスの「労働」概念にはもう一つ特質がある。それは「人間の本質は労働である」という、特に初期において強調された規定である。

 

マルクス主義者は長年に渡り労働が人間の本質を形成するという初期マルクスのドグマを守り抜いてきた。マルクス主義者が人間と動物の違いを強調するのはこのためである。動物は自分が何を為すべきかもわからないし、世界をつくることもできない。しかし、人間は世界をつくることができる。それは人間が動物とは異なり労働をする存在だからであると。

 

動物性に対するマルクスの憎しみを、後のマルクス主義者は追認してきた。*21。ブレイヴァマンは、人間と動物は意識の量に差があるために、本能の領域でしか世界に働きかけることができない動物に対して人間は独自の世界を創造できるとした*22。また、斎藤幸平は人間が気候変動に取り組むべきであることを強調するためにマルクス主義の「人間中心主義」を正当化している*23

 

ジェイソン・フライバルはこうした考え方に正面から異を唱えた。 動物は人間と同じく資本主義システムの下で労働をしてきたし、これからも労働をし続ける存在である。「動物たちは労働者階級の一員である」*24。フライバルはむしろマルクスの階級理論に依拠しながら動物の労働の歴史を扱ってこなかった人間中心の労働史を批判した*25

 

フライバルの主張を裏付けるかのように、文化人類学や動物行動学をはじめとする科学の発展はマルクス主義の前提を覆す。霊長類学におけるフランス・ドゥ・ヴァールの貢献、動物たちの抵抗を分析したサラット・コリングの批判的動物研究はその一例だ*26。ドゥ・ヴァールは言う、政治の起源は人間性より旧い、と*27。人間と動物の間に差別を設けるマルクス主義は、従来の「労働」や「人間」、「階級」という規定の問い直しを迫られている。

 

『性の弁証法』を読む ──ユートピアを想像するために

 

マルクス主義の主張を継承しつつ労働の意味を問い直すこと、これを行うことの意義はユートピアのための想像力を膨らませることにある。未来社会を構想するにあたってウィークスがマルクスとともに参照するのはシュラミス・ファイアストーンである。

 

ファイアストーンの『性の弁証法』は破壊力に満ちた作品である。同書における「危険なユートピア的」提案は十分検討に値する。ただ、それらの計画は素描に過ぎず「何も最終的な解答ではない」*28。なぜなら、ファイアストーンの提案は「実際の活動を示すよりは、むしろ新しい領域へと思考を進める際の媒介を与えることを意図している」からである*29ユートピアの社会を構想し提案する、これを恐れない重要性について、ファイアストーンは次のように言う。

 

革命に対する罠は、常に、「それに代わるものは何か?」ということである。しかし、この場合に、たとえあなたが質問者に青写真を提出することがで'き'た'としても、彼らがそれを使うかどうかはわからない。多くの場合、彼らは、それに代わるものを知りたいと心から思ってはいない。実際、これはもっともありふれた攻撃であり、革命的な怒りをそらし、怒りを革命自体に向けるやり方である。しかも抑圧された人々は、総ての人々を納得させるための仕事をもっていない。彼'ら'が'知る必要があるのは、現体制が彼らを破壊しつつあることだけである。*30

 

ファイアストーンの主張はとても刺激的で読者を力づけてくれる。ウィークスにおいてもそれは同様だろう。一方で、ウィークスはファイアストーンの別の側面も評価する。それはファイアストーンが「主体性の根本的変容がわれわれのものではないことを理解」していたこと、つまり「未来を考えるには、われわれの欲望、主体、社会性の構造が消滅するのに十分な期間の中で、われわれ自身を越えて考える必要がある」ことを熟知していたという点にある*31。言い換えれば、ユートピアを享受するのは自分ではないかもしれないという可能性を受け入れるべきであるということである。

 

おそらく日本の左翼はウィークスの結論に落胆するだろう。というのも、ユートピアを享受したいという欲求は誰もが持つ当然の願望だからである。自分が受益者にならないかもしれないものにどうして時間と労力を割かなければならないのか。実現するかもわからないものに未来を賭けるなんて愚かだと一笑に付すかもしれない。

 

しかし、彼女たちフェミニストの訴えは現行の社会に対するアンチテーゼでもある。そもそも資本主義とは即席の「ユートピア」をつくり出し私物化する支配体制である。資本主義の倫理を内面化する資本家にとって自分以外は価値のない存在であり、他者は自分の利害を実現するための道具でしかない。イーロン・マスクの振る舞いをみればそれは明らかだろう*32。前回の記事で「個人化」にふれたが、優れたフェミニストが個人化を問題とするのは、それが現代社会における人々の欲望のあり方を方向づける現象であることを理解しているからである。

 

クリステヴァの「女の時間=巨大な時間」は、ファイアストーンやウィークスが未来社会に賭ける思想に呼応するものではないかと思う。開かれた未来とは資本主義が追い求めるような短絡的で粗野な代物ではない。巨大な時間を生きる者にとって自分がユートピアを享受できるかどうかなど些細なことだ。なぜなら、ユートピアは自分の利害を超えた場所に現れるものだからだ。わたしたちは「自分たちのものであるが自分たちではないものとして未来を想像するのを厭わなくなる方法を学ばなければならない」のである*33

 

 

 

 

 

*1:熊沢誠格差社会ニッポンで働くということ 雇用と労働のゆくえをみつめて』岩波書店、2007年、p162-179

*2:川村雅則「2024年問題とトラック運転者の労働時間規制・法制度をめぐる問題」『都市問題』vol.114、2023年10月、p12

*3:同。厚労省「過労死等の労災補償状況」に基づく。

*4:ベティ・フリーダン著、荻野美穂訳『女らしさの神話 下』岩波文庫、2024年、p26

*5:同、p33

*6:ジュリア・クリステヴァ著、棚沢直子、天野千穂子訳『女の時間』勁草書房、1991年、p120

*7:木村信子「訳者あとがき ──『第二の性』読解の一助として──」(ボーヴァワール著、「『第二の性』を原文で読み直す会」訳『決定版 第二の性 Ⅱ 体験 下』河出文庫、2023年、p487

*8:クリステヴァ、同、p120

*9:「君がより少なく存’在’すればするほど、君が自分の生命を発現させることが少なければ少ないほど、それだけより多く君は所’有’す’る’ことになり、それだけ君の外’化’さ’れ’た’生命はより大きくなり、それだけ君は君の疎外された本質をより多く貯蔵することになる。国民経済学者が君の生命から、君の人間性から奪いとるすべてのもの、それを彼は君のために貨’幣’と富’とで補填してくれる。そして君にできないすべてのことを、君の貨幣はやることができる。(中略)それはすべてのものを買うことができる。貨幣はほんとうの資’力’である。しかしこれらすべてである貨幣も、自分自身を創造すること自分自身を買うこと(ママ、句読点なし)以外のなにごともし’よ’う’と’し’ない。なぜなら、その他のすべてのものは、実際のところ、貨幣の奴隷だからである。そしてもし私がその主人を所有するなら、私は奴隷を所有していることになり、貨幣の奴隷には用がなくなる。したがってすべての情熱やすべての活動は、所’有’欲’のなかに没しなければならない。労働者は生きようと欲するに足るそれだけのものしか、所有することを許されず、そして[それだけのものを]所有するために生きようと欲することだけしか許されないのだ」(カール・マルクス著、城塚登、田中吉六訳『経済学・哲学草稿』岩波文庫、1964年、p154-155)。何よりもまず手取りを増やせ、という要求そのものが資本への隷属を強め、労働者の力や欲望を貧しいものにし、未来社会への想像力を奪うのである。現代日本の左派がこれを理解できないということはそれだけで十分弾劾されるべき理由になる。

*10:同、p103

*11:Kathi Weeks, "The Problem with Work", a John Hope Franklin Center Book, 2011, p21

*12:カール・マルクス著、望月清司訳『ゴータ綱領批判』岩波文庫、1975年、p48

*13:典型例はアンドレ・ゴルツである(真下俊樹訳『労働のメタモルフォーズ ──働くことの意味を求めて 経済的理性批判』緑風出版、1997年)。キャシー・ウィークスを読んだ後に彼の議論を読むと、肝心の労働過程論が酷すぎることがわかった。ゴルツの議論の一番の問題点は、植民地主義を考慮せずに自由時間の増大を訴えている点にある。ヨーロッパのエコロジストらしいといえばらしいが、彼の楽観的なユートピア論は斎藤幸平を想起させる。

*14:

zineyokikoto.hatenablog.com

*15:キャシー・ウィークス著「ユートピア的セラピー 労働、非労働、政治的想像力」(フレドリック・ジェイムソンほか著、スラヴォイ・ジジェク編、田尻芳樹、小澤央訳『アメリカのユートピア 二重権力と国民皆兵制』(書肆心水、2018年)所収)

*16:労働倫理については以前に別の記事でふれた。

zineyokikoto.hatenablog.com

*17:江原由美子『装置としての性支配』勁草書房、1995年、p127-128

*18:同、p128-129

*19:Weeks, ibid, p9

*20:Sarah Fenstermaker Berk, "The gender factory : the apportionment of work in American households", Springer, 1985, p201

*21:ここで重要なのは、マルクス自身は「ただ人間だけにそなわるものとしての形態にある労働を想定」するとしながらも、「最初の動物的な本能的な諸形態」そのものは(考察の対象にしないだけで)労働であることを認めている点にある(カール・マルクス著、岡崎次郎訳『マルクスエンゲルス全集版 資本論①』大月書店、1972年、p312)。労働が「人間」だけのものであるという健常者中心主義的/種差別的排他性を推し進めたのは後のマルクス主義者たちの方だ。

*22:ハリー・ブレイヴァマン著、富沢賢治訳『労働と独占資本』岩波書店、1978年、p52-56

*23:斎藤幸平「ルカーチの物質代謝論と人新世の一元論批判」『思想』no.1183、2022年11月、p58

*24:Jason Hribal, "Animals are Part of the Working Class": A Challenge to Labor History", Labor History 44(4), November 2003, p435-453

*25:フライバルの仕事は重要だが、少なくとも二つの点に注意しなければならない。一つは擬人主義に関する点である。フライバルの「労働者」と「階級」はマルクス主義、すなわち人間が構築した概念に依拠している。サラット・コリングは擬人化の有効性を認めながらも、動物たちに「政治活動を投影することに関し慎重であったほうがよい」とする(サラット・コリング著、井上太一訳『抵抗する動物たち』青土社、2023年、p159)。乱暴な擬人化は動物たち自身の多様な社会的・認知的経験を否認してしまう危険性がある(フライバルの記述がそうだということではなく、擬人化を行う際には当の動物たちの生を理解しようと最善を尽くし、動物たちの観点を認識する努力を怠らないようにすべきだということである)。もう一つは性労働に関するものである。フライバルは動物労働と共通点がある労働の例として人間の性労働を挙げている。フライバル自身は深く議論を展開していないものの、結果として、性労働は他の人間の労働とは区別されるべきだという印象を読者に与えてしまっている。しかし、キャリー・ハミルトンの言うように、そのように論じてしまうことは資本主義が種を越えて多くの形態の労働を見えなくする条件を作り出しているという中心的な論点を損なうのである(Carrie Hamilton, "sex, work, meat: the feminist politics of veganism", Feminist Review 114 (1), 2016, p112-129)。動物労働と人間の性労働の共通点は、遂行される労働のカテゴリーが根本的に類似していることではなく、むしろ労働そのものが頻繁に否定されるという点である。仕事を仕事として定義することは、搾取の認識を妨げるものではない、というのがハミルトンの主張である。なお、ハミルトンの論文の趣旨はキャロル・アダムズ(『肉食という性の政治学』の著者)の反セックスワークの主張に対する批判であり、この点でも必読である。

*26:フランス・ドゥ・ヴァール著、松沢哲郎監修/訳、柴田裕之訳『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』紀伊國屋書店、2017年。また、コリング、同書。いわゆる久留間派に顕著だが、一部の日本のマルクス主義の系譜に連なる学者たちは現代科学の知見を積極的に摂取せず、頑なにマルクスが生きた当時の科学の水準を前提に理論を構築しようとする。一方で、現代科学の研究により人間と動物の境はますます曖昧になっている。

*27:フランス・ドゥ・ヴァール著、西田利貞訳『政治をするサル チンパンジーの権力と性』平凡社ライブラリー、1994年、p342

*28:シュラミス・ファイアストーン著、林弘子訳『性の弁証法』評論社、1972年、p276-277

*29:同、p277

*30:同、p276

*31:ウィークス、前掲論文、p289

*32:資本家としてのマスクを説明する際にリチャード・セネットの「人格の腐蝕」という概念が有効であると考える。これは資本主義の倫理が人間の人格を方向づけることを指摘する優れた概念である(リチャード・セネット著、斎藤秀正訳『それでも新資本主義についていくか アメリカ型経営と個人の衝突』ダイヤモンド社、1999年)。

*33:ウィークス、同、p290