高市政権発足について所感

 

 

日本は幸福(しあわせ)か

 

先日、自民党高市早苗が第104代内閣総理大臣に就任した。女性初の首相が誕生したということで様々な評価があふれているが、個人的には労働政策に関する動向が気になっている。というのも、高市自民党総裁に就任した際の演説で以下の発言をしたからである。

 

自民党の新しい時代を刻んだ。うれしいよりもこれからが大変だ。多くの方の不安を希望に変える党にする。

 

(党再生には)全世代総力結集で頑張らないと立て直せない。全員に馬車馬のように働いてもらう。私自身もワークライフバランスという言葉を捨てる。働いて、働いて、働いていく。党を立て直すため、それぞれの専門分野で仕事をするよう心からお願いする。

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この発言を受けて真っ先に思ったのは、過労死がさらに増えるだろうということだった。毎年11月は「過労死等防止啓発月間」とされているのだが、それを前にしたタイミングで影響力のある政治家が過労死を促進するような働き方を煽ることに危機感を覚えた。

 

過労死は実際に増えているのか。結論から言えば増加傾向にあるといえるだろう。

 

まず労働時間について。「令和6年版 過労死等防止対策白書」によれば、日本の労働者1人あたりの年間総実労働時間は、長期的には緩やかに減少していたものの、2021年度から概ね横ばいとなり、2023年度は前年より3時間の増加となった*1。また、一般労働者とパートタイム労働者別にみると、一般労働者の総実労働時間は2018年度から2000時間を下回り減少傾向にあったが、2020年から微増傾向にある。一方、パートタイム労働者は2019年度から2000時間を下回り、2020年度以降は横ばいとなる*2

『令和6年版 過労死等防止対策白書』より「年間総実労働時間の推移」(パートタイム労働者を含む)

『令和6年版 過労死等防止対策白書』より「年間総実労働時間の推移」(パートタイム労働者を含む)

www.mhlw.go.jp

 

次に労災補償の状況について。脳・心臓疾患に係る労災請求件数は、2023年度は1023件と前年より220件も増加した。そして2023年度の労災支給決定(認定)件数は216件で、これは2年連続の増加、前年度より22件の増加となっている*3。あくまで申請件数をベースとした統計なので、申請に至らなかったケースや、申請しても証拠不全等で認定に至らなかった暗数を含めれば、過労死の疑いがある件数はもっと多いだろう。

『令和6年版 過労死等防止対策白書』より「脳・心臓疾患の労災請求件数及び業務災害に係る労災支給決定(認定)件数の推移」

『令和6年版 過労死等防止対策白書』より「脳・心臓疾患の労災請求件数及び業務災害に係る労災支給決定(認定)件数の推移」

 

1人あたりの年間総実労働時間は中長期的に減少しているが、これはパートタイム労働者比率の増加傾向が継続しているためとも考えられる*4。そうなると危惧すべきは一般労働者の過重負担増である。パンデミック以降、労働時間が再び増加する揺り戻しが起きているが、人手不足の職場も少なくないため労働者の負担は増える一方だ。こうした状況を鑑みれば、労働時間規制緩和に意欲を示す高市の労働政策は警戒せざるをえない*5

 

この間、過労死遺族の手記を集めた『日本は幸福(しあわせ)か』を読み直した。過労死とは企業による殺人である。まさにワークライフバランスを捨てたような環境で多くの労働者が企業に殺されてきたのだ。政治家の役割とは、過重な労働を規制し人権を尊重する働き方を推進することにあるはずだ。それがわからないなら、まずは過労死遺族の言葉に向き合うべきだろう。

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石破談話

 

高市の総裁就任から間も無く、石破首相(当時)が「戦後80年によせて」という内閣総理大臣所感を発表した。内容は首相官邸の公式HPに掲載されている。

www.kantei.go.jp

 

戦後80年談話では排外主義やメディアの問題について踏み込んだ内容も含まれていた。しかし、談話が想定して呼びかけている対象の範囲は自民党党内、ないし国内であり、その意味で全体的に「内向き」だった。そのため、アジア諸地域に対する侵略や植民地支配に対する言及がなく、被支配地域だけでなく国内にも多くの対象者がいる戦後補償の問題についてもふれていなかった。天皇制の下での帝国主義的侵略に対する反省や実効支配を行った諸外国、諸地域に対する謝罪がなかったのは問題である。石破は軍事や歴史に造詣が深いという評をよく聞くが、今回の談話は悪くいうと軍事オタクで日本史マニアの戦争論を聞かされている感じがした。そういう意味でも「教科書的」な戦前観を踏襲した内容という印象を受けた。

 

今年は治安維持法制定から100年の節目である。個人的にその歴史的タイミングは重要だと考えているが、石破も流石に保守政治家だからなのか、反政府、反帝国主義運動にはふれず、代わりに政治家や学者、ジャーナリストらエリートの引用に終始した。また、国内向けの談話でありながら沖縄を捨て石にした歴史は出てこず、旧きよき保守派の「良識」なるものの底がみえた。

 

 

いのちのとりで裁判

 

高市内閣の顔ぶれで注目すべき点の一つは片山さつきの入閣である。片山は2012年の生活保護バッシングを扇動した政治家であり、「生活保護を恥と思わないのが問題」という発言が批判を浴びた。高市も同年、生活保護の不正受給問題にふれた折に「さもしい顔をして貰えるものは貰おうとか、弱者のふりをして少しでも得をしよう、そんな国民ばかりになったら日本国は滅びてしまいます」という発言を残している。

 

先日、いのちのとりで裁判全国アクションが主催する「いのちのとりで10.28大決起集会」に参加した。いのちのとりで裁判とは、生活扶助費が2013年から平均6.5%、最大10%引き下げられたことをめぐり、全国の生活保護利用者が国に対して引き下げ処分の取り消しを求めた裁判である(下記記事より)。

s-newscommons.com

 

今年6月、最高裁が大阪と名古屋の訴訟について引き下げを違法として処分を取り消す判決を下している。しかし、判決から4カ月以上経つにもかかわらず、国からの謝罪も被害の回復もなされてこなかった*6。石破内閣は原告らに対し真摯な対応をしないまま総辞職したし、高市内閣も首相自身を含む閣僚の過去の発言や政策に対する姿勢から社会保障政策に関して懸念が残る。少なくとも、生存権をめぐる思想は両政権とも保守的であるし、以前の自民党政権においてもそれは地続きであった。

 

集会に参加して思ったことは、反動的な政権が続いているなかで、これだけ多くの人々が組織的に闘っているのだということであり、そのことに驚きと敬意を持った。原告の方々のスピーチを聞いて勇気をもらったし、自分も連帯してともにできることをしたいと思った。

 

ところで、外部団体の連帯アピールでは岩本菜々さんのスピーチが印象に残った。これは他のスピーチと比べてある意味で浮いていたからである。前半では自身が専門委員会との交渉に参加した際に厚労省に対して抱いた怒りについて話されたが、後半では自身が代表を務めるPOSSEが農地運営に着手したことなど最近の活動について語られた。大学で生存権社会保障の問題について語ると排外主義のトピックよりも学生の反応がいいというようなことも話していた。

 

岩本さんの連帯アピールは、後半の自分たちの活動の紹介が主軸だった。それはまるで、まだ見ぬ同志に闘争を呼びかけるというより、今いる仲間に向かって自分たちの実績を確認するかのようなメッセージとして聞こえた。

 

自分たちの団体が主催する集会であれば別にそれでもよいと思う。しかし、今回の集会はあくまで外部団体として招聘されているにすぎない。他の外部団体の方のスピーチはよくも悪くも無難な内容だったが、原告ら登壇者のスピーチを受けて自分たちができることを話す方が多かった。岩本さんのスピーチは自分たちの活動の紹介に終始してしまい、残念ながら集会の趣意を汲んだ連帯のアピールだと思えなかった。そういう意味で他の連帯アピールからは浮いてしまい、岩本さん自身の”青さ”を露呈させていたように感じた。

 

石破談話と岩本さんのスピーチに共通することは、呼びかけの対象が「内向き」であるということである。現状をよく思わない、今の社会をよくしなければならないと思っているにもかかわらず、見ず知らずの他者ではなく、考え方が近い既知の同志と関係を築こうとする。

 

農地運営はその最たる例である。わたしの場合、農地運営と聞いて思い浮かぶのはヤマギシ会のそれである。生存権を獲得するために生産手段を囲い込み自分たちだけの共同体を作り出す。聞こえはいいものの、それは自身が構成員として所属する社会の変革を諦め拒絶するという態度でもある。資本主義の「外部」をつくり、そこから脱出してユートピアを建設しようという試みはいいと思うが、それは様々なバックグラウンドや考え方を持つ人々が集まり協働して初めて可能となる試みである。自分たちの団体がオルグしたボランティアを集めただけでは実現不可能なのだ。両者のメッセージを聴いて、仲間内にこもるのではなく、自分たちとは違う他者の存在とともに活動する重要性を改めて認識した。

 

 

植民地主義 天皇制と過労死

 

さて、10月はこちらのイベントにも参加した。

 

 

仕事終わりに向かったが途中迷ってしまったため、残念ながら終了間際10分ほどしか参加できなかった。にもかかわらず、主催のご好意で懇親会に参加させていただいた。京都大学による盗骨問題について詳しい話を伺うのは初めてで、登壇者の前田朗さんや松島泰勝さんらから直接教授していただく機会を得たのは幸運だった。

 

京都大学が学術研究の名において盗掘した琉球民族の人骨を返還しないのは「植民地主義的な対応」であり、先住民族の自己決定権を踏みにじる行為である。京都大学が所蔵する琉球人遺骨は「清野コレクション」と呼ばれる所蔵品の一角で、京大はこれを個人の所蔵品だとしているという。しかし、当該研究室のHPには「日本屈指の発掘人骨資料」として大学の所蔵品であると公表しており、「当事者の人権を配慮しない学知の傲慢性」が浮き彫りになっている*7

 

前田さんや松島さんのお話を聞いて思ったことは、盗骨は所有権をめぐる問題でもあるということである。私(わたし)は社会運動にコミットした期間がそれなりに長かったものの、学術機関による盗骨の問題について詳しく聞く機会があまりなかったように思う。それは所属した運動団体の問題ももちろんあるのだが、所有権という、いうなればブルジョワ的権利の一つをめぐる問題であったことも大きいのかもしれないと思った。左翼の立場からすれば、ブルジョワ的権利にこだわって一つの闘争にコミットするより、私的所有を排した、いわゆる「コモン」の創出の取り組みに関わる方が思想的にも好まれるのだろう。しかし、遺骨返還運動はただ所有権をめぐる闘争というだけでなく、反植民地主義、反人種主義の立場からも重要な闘争であることは間違いない。

 

大学による盗骨の問題について、忘れてはならないのは天皇制の問題である。天皇制の問題は冒頭の高市首相の労働時間規制をめぐる発言を聞いて強く意識したことでもある。

 

戦後の日本企業が「企業戦士」を生み出し、生産性を是とする社会で過労死を引き起こしてきた過程は、天皇制を国体とし戦争への協力を日本が支配する地域住民に強制して日本軍兵士を死なせてきた戦前社会と重なる。このような指摘は多くの識者によってなされてきたかと思う。実際、『日本は幸福か』の構成に携わった青山恵さんも次のように述べている。「...考えてみれば、「戦争」で死んだ人と現代の「経済戦争」のなかで死んだ人とのあいだに違いはあるのだろうか。過労死は、日本企業が戦っている経済戦争、企業戦争の戦死者以外のなにものでもない」*8

 

天皇制と過労死の問題はつながっているはずである。しかし、近年の労働運動では天皇制と過労死のつながりを指摘しないばかりか、労働問題を天皇制の問題とは別の問題として引き離し隠蔽しようとする力学が働いてきたのではないかと思う。それは日本「国民」にとって天皇が所与の存在であるからであり、天皇制が支持されている社会で天皇制の問題を提起することが運動を展開するうえで労働者の合意を得ることにつながらないからである*9。労働運動の大衆化を進めるうえで、近年の労働運動家、研究者の一部は意図的に天皇制について問わない戦略を採用してきたのではないだろうか。

 

この戦略を反省的に捉える必要が出てきたのではないかと思う。過労死が天皇制の問題とつながっていることを不問に付す識者は経済的要因のみをもって過労死を説明しようとする。しかし、これでは「日本人」の権威主義への従属、精神的支柱としての天皇制の問題と労働との関係を捉えることができない。さらに、戦前日本の植民地、侵略国家、地域への加害の問題、そして過労死を引き起こしてきた戦後日本社会の労働者の加害の問題との関係を捉えることができないという問題もある。日本軍兵士と「企業戦士」は国策による"犠牲者"であると同時に、(新旧)帝国主義の担い手でもあることを留意すべきである。

 

高市の演説によって、図らずも天皇制と過労死が直接的に結びついていることがクリアになったのではないか、筆者はそのように感じた。極右政治家が首相に就任した今、天皇制と労働の問題について、再考すべき段階にきているのはではないかと思う。

 

*1:『令和6年版 過労死等防止対策白書』、p2。ちなみに、書籍版とweb版は題名が微妙に違う。今回は書籍版を参照したが内容はweb版とほとんど変わらない。

*2:同、p3

*3:同、p35

*4:同、p3

*5:高市は11月5日の衆院本会議での代表質問で、労働時間規制について次のように述べている。

労働時間規制の緩和の検討をめぐっては、「残業代が減ることによって、生活費を稼ぐために無理をして副業することで健康を損ねてしまう方が出ることを心配している」と語った。

首相は「過労死に至るような残業を良しとはしない」とした上で、「心身の健康維持と従業者の選択を前提に、労働時間規制の緩和の検討を行う。働き方の実態とニーズを踏まえ検討を深めていくべきものだ」とも述べた。www.asahi.com

高市がこのように答弁したのは、「全国過労死を考える家族の会」の働きかけが大きく影響しているだろう。

www.47news.jp

「過労死に至るような残業を良しとはしない」という発言を引き出したのは成果だが、労働時間規制緩和の懸念がなくなったわけではない。そもそも、これはしばしば忘れられがちなことなのだが、労働基準法における法定労働時間は1日8時間、週40時間までと決まっており、残業そのものが法的には例外的状態なのである。法定時間外労働はいわゆる「36協定」を結ばない限り違法であり、36協定による残業の上限も原則として月45時間、年360時間までである。残業ありきの働き方を前提とする現状に問題があり、そのことを顧みずに社会を設計しようとする高市の姿勢が誤りだというべきであろう。やはり労働者側としては労働時間短縮と賃上げを訴えていく必要がある。

安倍政権(当時)が2018年に提出した「働き方改革」関連法案は①企画業務型裁量労働制の営業職への拡大、②「高度プロフェッショナル制度」の創設、③時間外労働の上限規制の3つが柱となっていた。このうち、①は政府が虚偽のデータを前提に提案したことで強い反対にあい削除、②は2007年の第一次安倍政権下で提出された「ホワイトカラー・エグゼンプション法案」の焼き直し、③は政府案の時間外労働の上限規制の欺瞞性が大きいだけでなく法定労働時間をいっそう形骸化させるという問題があった(森岡孝二「過労死の現状と「働き方改革」の行方」(森岡孝二、大阪過労死問題連絡会編『過労死110番 働かせ方を問い続けて30年』岩波ブックレット、2019年、p4-10))。安倍政治の継承を強く意識する高市政権で、安倍政権下の労働関連法案に酷似した政府案が提出される可能性は非常に大きい。

*6:11月7日、最高裁判決を受け高市首相が「深く反省し、おわびしたい」と述べ、判決後、政府が公的に初めて謝罪した。一方で、減額分の支給を、原告側が求める全額ではなく一部補償とする調整を実施するとも述べるなど、不誠実な対応が続いている。

www.jiji.com

*7:松島泰勝「第14章 問題解決のための今後の展望」(松島泰勝、木村朗編『大学による盗骨』耕文社、2019年)、p282

*8:全国過労死を考える家族の会編、構成・青山恵『日本は幸福か』、教育史料出版会、1991年、p309

*9:2019年に毎日新聞が行った全国世論調査では、「現在の象徴天皇制でよい」と答えた人が74%と多数を占め、「天皇制は廃止すべきだ」と答えた人はわずか7%にとどまった。

mainichi.jp

方向づける/られることについて

 

<交通>の思想

 

思想書を読むなかで浮かんできた疑問は、<交通>はなぜ思想のテーマになるのか、ということだった。

 

優れた思想家は自身の思想を展開する際、交通システムについての考察を行う。それは<交通>が人と人との関係、物と物との関係を媒介するものであり、それなしでは他者との関係を構築することができないほど重要な要素であることに気づいていたからではないかと思う。

 

サラ・アーメッドの『フェミニスト・キルジョイ』は交通システムに関して卓越した洞察を寄せる名著だ。同書に収められている「方向づけられることについて」は交通システムのメタファーを通じて人々の生がどのようなあり様を呈しているか(またはどのように生が不当な経験を重ねていくのか)を示している。

www.jimbunshoin.co.jp

 

「よそ者」を方向づける壁

 

「方向づけられる」とはどういうことか。

 

一本の道を想定してみよう。それ以外の道がない限り、あなたはその道をひたすら進むしかない。この場合、あなたは道に沿って前進するよう道に「方向づけられている」といえる。

 

ただし実際の道は一本ではなく複数延びている。そして道はまっすぐとは限らないし、道とは別の"何か"があなたを方向づけるだろう。

 

進行を方向づけるもの。例えば、壁。壁は進行を妨げるために進行者に違う方向へ進むよう促す。

 

壁は何のために建設されるのか。"何か"を"誰か"から守るためである。壁とは「防衛システム」である*1。壁があることで"何か"は"誰か"の通行をコントロールすることができる。

 

しかし、この「壁」は誰の前にも平等に現れるものではない。壁が通過=パスすることを阻止する"誰か"とは「よそ者」である。よそ者とは「認識の対象だけではなくて、統治の対象、つまり管理されるべき身体にもなる」*2。壁とは「特定の身体に最初から出会わなくてもすむこと」であり、「間違った身体が通り抜けるかもしれないから、壁が必要となる」*3

 

よそ者が壁を通過したいと思う時、壁はよそ者を方向づける役割を果たす。ここを通りたくば「間違った身体」を矯正しろ。壁は直接命令を下さない。直接コントロールしようとせずとも、そこを通りたいと思う方が自発的に"矯正"してくれるからだ。これが「方向づけられる」ということである。

 

サラット・コリングがアーメッドに即していうように、壁は境界線として捉えることもできる。容易に通り抜ける者たちがいる一方で、障害として壁に行き当たりその場で足止めをされる者たちもいる。異なる身体を持つ者たちにとって「境界線は時に増殖し、行く手を頻りに遮り塞ぐものとなる」*4。壁が現れるのは一度だけとは限らない。

 

アーメッドらがあまり指摘しない、壁のもう一つの機能をここでは確認したい。壁は確かに防衛システムであるが、同時に壁の中を囲い込む装置でもある。入ってきてほしくないが、出ていってほしくもない。もっとも、この比喩は壁の中の住人が一国一城の主である場合には当てはまらない。壁の中の主が「出ていってほしくもない」と思うのは主が他の誰かと同居している場合であり、その誰かが「出ていってほしくもない」対象なのである。

 

境界線の比喩はこの状況を言い表すのによく適している。主は壁の中と外を自由に出入りできるが、主に従属する立場の者は許可なしで外出することはできない。この場合、主の許可を得なければ外出できない者にとって主は「壁」として立ち現れる。よそ者が壁の中に入れればそれでよいということはない。よそ者は「異なる身体」であるが故に境界線の前に何度も足止めをされる。壁の中の秩序を乱していないか継続的に審判が下されるのである。「私たちが境界線を横断したのではなく、境界線が私たちを横断したのだ」。コリングが引用するメキシコ系アメリカ人の諺は、人々の生に境界線が押しつけられる様を簡潔に言い表したものである*5

 

先行性 ──未来を方向づけるもの

 

次の場面に移る。あなたは誰かと2人で道を歩いている。すると同行者があなたに先んじて進行方向から外れようとする。同行者が向かう先には川があり柵が設けられていない。あなたは同行者に向かってこう言うだろう。「そっちに行っては危ないよ。こっちへ戻ってきなさい」。

 

あなたが同行者を呼び止める理由は、同行者が向かった先に危険があると判断したからだ。川に落ちるかもしれない。落ちたら溺れるかもしれない。 あなたは同行者が危険な目に遭わないよう先回りして注意を促したのである。

 

この予見可能性/先行性は、それが現実に起こった場合に不利益を被るリスクを回避できるという点で有効である。しかし、先行する現実とはあくまで可能性の話であり、現実に起きることが決定しているわけではない。先行性はある問題を内包している。それは未来を否定するという問題である。

 

先が見通せれば見通せるほど未来の可能性は狭まっていく。なぜなら、先が見通せるとは未来の方向性を自分からある程度定めてしまうということでもあるからだ。フランコ・ベラルディ(ビフォ)は科学技術の発展に伴う先行性の発達を「決定論的な罠」として批判した。

 

「未来に対する先行性は、未来の行動を妨げ、未来の行動から特異性を抜き去ることを意味する。」*6

 

「先行性は決定論的な罠として働く。それによって有機体の未来は生物技術的あるいは技術社会的な変形を通して作り変えられる。可能なことは捕獲され、単なる蓋然性に還元され、蓋然的なことが必然的なこととして押しつけられる。」*7

 

未来が現実化していない以上、未来の可能性は無数に開かれている。しかし、先行性は未来を一つに方向づけそれ以外の未来の可能性を排除する。「そっち(開かれた未来)に行っては危ないよ。こっち(方向づける側が望む未来)へ戻ってきなさい」。方向づけることは未来の可能性を狭める行為でもある。

 

方向づけることは「よきこと」だ

 

方向づける/られることの関係について、ある職場を想定し説明してみよう。

 

そこでは長い髪の男性が働いている。彼は髪が長いことで周囲から疎まれることはない。だが、ある時、例えば、転職活動などでやむを得ず髪を切らざるをえない状況に陥り、伸ばしていた髪を短くカットした。その姿をみた同僚から彼は次のように声をかけられる。「いいじゃん。その方が似合っているよ」。

 

大抵の場合、「似合っている」と言われた時に彼が感じる心情は「嬉しい」や「安堵」といったものだろう。彼は自身の容姿を褒められたことで周囲から承認を得たことを確認する。そして現在の容姿が自分の「あるべき姿」なのだと思うようになる。方向づけられるとは、外部からの干渉を経て自発的に自身を変容させるということなのだ。

 

さて、方向づけられること、それ自体にいいも悪いもない。ただ、方向づけられるという事態が発生することを自分ではコントロールすることができないという意味で不当なだけである。

 

しかし、方向づけること、それは明確に善悪の価値観に基づいて行われる。なぜなら、方向づける側は対象が少なくとも"望ましい"状態に現在あると思っていないから対象を方向づけようとするのである。

 

長髪の男性の例に戻ろう。仮に周囲が彼の長髪を「似合ってない」と思っていたらどうか。「この髪型の方がいいんじゃない?」と短髪の髪型を提案し彼の指向性を"矯正"しようとするだろう。また、周囲が「男が髪を長くするのはおかしい」と思っていた場合はより強く干渉するだろう。方向づけようとする側にとって「放っておく」という選択肢はない。なぜなら、他者を方向づけることは「よきこと」であると固く信じているからであり、その信念こそが方向づけの動機だからである。

 

さらにいえば、方向づけは一対一の関係性で完結するわけではない。自分はあなたの髪型が似合わないと思うし、あの人も同じように思っている。方向づけは周囲を巻き込むことで他の道を塞ぐ。「そっち(=規範の攪乱)に行っては危ないよ。こっち(=規範の遵守)へ戻ってきなさい」。予め決められた道を外れることは規範に反することであり許されざる行為なのである。「方向を維持することは、それを支持することだ」*8

 

名付けられることについて

 

方向づけられることの究極の形態の一つが名前である。名付けられること、それは名付けられる側の意思が介在しないという意味で不当なことである。

 

進むべき方向から外れることが許されない。違う道を進みたい者にとっては運命論として受容され途方にくれるかもしれない。しかし、ここではそもそも方向や方角という概念が所与のものではないことを確認すべきである。

 

たとえ”進むべき道”なるものが決まっていたとしても、途中でその道がわからなくなる、つまり「迷う」ことがある。なぜ迷うのか。端的に言えば、方向や方角という概念があるからである。アナーキーな方向感覚にはそもそも行きたいと思う道もなく、したがって迷うようなことがない。

 

だが、迷うことは生の醍醐味でもある。目的のない進行も別に悪くないが面白みに欠けることも多い。寄り道をしたり、迷って別の道に行くことで新しい発見もあるものだ。

 

名前の例に戻ろう。名付けられることは確かに不当なことである。しかし、名付けられた側がその名を引き受けること、または引き受けずに自身で新しい名前をつけること、これらはまったく別の話である。名前は生を方向づけるものだが、生そのものはアナーキーなのだ。 方向づけられる側は、方向づける側の思う通りに必ず動くわけではない。方向づけられることは運命ではない。方向づけられた生はいつでも進む方向を変えて構わない。迷うことは進行方向を転換する過程の出来事である。

 

期待の政治 「意地」の心理

 

方向づけられることは感情の政治と結びついている。感情は感情そのものが対象を方向づける役割を果たす。喜びや楽しみは相手に行為の反復を促し、怒りや悲しみは行為の遂行を躊躇わせる。

 

不機嫌でいることはそれ自体が対象を方向づける。不機嫌なのが職場のハラッサーであろうが、プラカードを持ったデモ参加者であろうが、対象が方向づけられるという結果は変わらない。不機嫌な権力者に影響されることは方向づけられることであり、権力者を不機嫌にさせることは方向づけることである。方向づける/られることは、言い換えればそれ自体が自分以外の者に影響を与える/られることである。

 

最後に「後悔」という感情について述べたいと思う。方向づける側にとっての後悔と、方向づけられる側にとっての後悔はまったく質が異なる。前者は「あんなことをしでかしてしまった」ことに対して、後者は「あんなことをしなければよかった」ということに対して反省をする。両者がそれぞれの感情を抱くのは、先行する期待と結果が釣り合わないと判断したからである。

 

家庭裁判所調査官を務めた佐竹洋人という方が「意地」について述べたものがある。一般的に意地とは「自分の思うことを通そうとする心」であると思われている。しかし、佐竹はそれとは別に意地を「相手がああだから自分はこうせざるをえないという心」だと規定する。そして、そうした意地が対人葛藤のなかであらわれてくること、しかもその主体は必ずしもそれを「意地」とは自覚しないと述べる。

 

「さて、「意地」をこのように定義した場合、それを裏返しにみるならば、「相手がああでなかったら、自分はこうしなくてもすんだのに(不本意ながら、させられてしまった)」ということになる。すなわち、「意地」の裏には、相手に対してこうあってほしいとの期待が前もって存在したのであって、その期待が満たされなかったことへの深い悲しみと嘆き、そして相手に対する深いうらみの感情がこめられているとみてよいだろう。」*9

 

意地はわたしが「期待の政治」と呼ぶ感情の政治と照応する。期待とは債務である。債権者、すなわち期待を寄せる者は「あなたならやってくれるよね」という期待=債務を対象に負わせ、期待を寄せられる側は期待という債務を負う。このとき、期待に応えてもらえない/期待を裏切られることは債権が回収できないことを意味する。だから債権者は期待を寄せた者に「失望」し、また、必ずではないが期待を寄せられた方も債務を履行できなかったことを恥いるだろう。

 

期待を寄せる側が意地になることは自身の債権を正当化することを意味する。「あなたができるって言ったから/できる人だと思ったから、あなたに期待を寄せたのに」やってくれなかった。わたしは何のためにあなたを方向づけたのか。方向づけることが「よきこと」だと信じている場合はこのような思いを抱く。

 

一方で、方向づけるそのときは「よきこと」だと思っていても途中で考えを改めることもある。あなたにこの方向に進むよう促してごめんなさい。あのとき"意地になって"あんなことをやってしまって申し訳ない。このような後悔もあるかもしれない。

 

だが、方向づけられる側がそれを許すとは限らない。あなたが「そっちに行っては危ない」と言ったからこっちの道へ進んだのに、今さらなんなの?あなたがああ言わなければ、わたしはああしなかったのに。このとき、意地は方向づけられることに対する反発としてあらわれる。

 

期待と後悔、これが意地を構成する要素である。そして意地は方向づける/られる生を異なる方向へと誘導するものである。世界を方向づけたいと思うなら、やはり意地は持っておきたいものだなと思う。

 

 

*1:サラ・アーメッド著、飯田麻結訳『フェミニスト・キルジョイ』人文書院、2022年、p228

*2:同、p239

*3:同、p240

*4:サラット・コリング著、井上太一訳『抵抗する動物たち』青土社、2023年、p60

*5:同。

*6:フランコ・ベラルディ(ビフォ)著、杉村昌昭訳『フューチャビリティ 不能の時代と可能性の地平』法政大学出版局、2019年、p25。ここで彼が念頭に置いているのは「一般知性」、すなわち情報技術の自動化と連動したグローバル機械のことである。例えば、GoogleのAI・Geminiは検索エンジンに打ち込んだ言葉から検索者の要望を先回りして提示する。検索機械は人間の行為を記録しその結果を出力しているだけであるが、機械が提示する結果が必然性や因果律を持つかのように把握され、逃れられない運命かのように押し付けられる。これが「決定論的な罠」である。

*7:同、p26-27

*8:アーメッド、同、p83

*9:佐竹洋人、中井久夫編『「意地」の心理』創元社、1987年、p8-9

労働時間と労働倫理

第一部 労働時間

 

自由時間の増大が「空想的社会主義」?

 

昨年の衆院選日本共産党が1日8時間の法定労働時間を7時間に短縮することを目指す政策を掲げた。これに対する左派の反応は冷ややかだった。

 

 

 

コミュニストとしてこれは流石に看過できない発言だと思った。7時間労働制を選挙公約として掲げることが適切かどうか、そんなくだらない議論は軍師を気取る出たがりな奴らに任せておけばよい。ここでの目的は、労働時間短縮のための要求を「空想的社会主義」と一蹴する、左翼(それも労働運動に関わる者が!)にあるまじき態度を糾すことにある。

 

「働きすぎ」と「十分に働けない」の共存

 

まず、労働時間の短縮を訴えることが労働者に響かない(=票田にならない)というのは一面的な見方であることは確認すべきだろう。

 

労働社会学の研究で明らかにされてきたように、現在の日本では「働きすぎ」と「十分に働けない」が共存する労働時間の二極分化が起きている*1。「働きすぎ」の例としてドライバーの統計が挙げられる。

 

厚労省の「2022年賃金構造基本統計調査」によれば、トラック運転手の年間労働時間は2580時間と試算される。これは全産業の労働者と比べて118.8時間もの開きがある*2。なお、年収平均は479万円(全産業労働者年収554.9万に対し86.3万の格差)であり、時間当たり賃金は1857円で全産業の7割ほどにとどまる。また、過労死も多く、道路貨物運送業における脳・心臓疾患の労災請求件数は請求件数全体の15%ほどを占めている*3

 

ドライバーほどではないにしても、長時間労働や休日の少なさに悩まされている労働者は少なくない。これに呼応するかたちで、弁護士や労働組合が労働時間の短縮はもちろん、過労死等の労災事案に日々取り組んでいる。政策として掲げるかどうかは置いておくとしても、「自由時間」の要求が労働者に響かないとするのは早計だろう。

 

長時間労働に従事している労働者は政策なんか気にしている時間はない」という反論もありそうだが、それは労働者に対する侮蔑であるばかりか、政党だけでなく弁護士や労働組合の存在意義すらも問われてしまう点で本末転倒である。長時間労働をなくすためにお前らがいるんじゃないのか、何のためにお前らがいるんだ、という話になる。渡辺の発言の根底には肉体労働者に対する侮蔑がある。

 

支援者の傲り

 

渡辺の発言が、彼自身が普段接している労働者のイメージに依拠していることは明らかである。このことは支援者にとって良い面もあれば悪い面もある。

 

「現場」で活動し、労働者の「リアル」を身をもって知っている、ということは支援者にとって強みになる。実態を知っているからこそ、労働者の不満を広く訴えることができるし、労働者の利害のために行動がしやすくなる。

 

問題はその後である。同じ現場に居続けると、「現場の声」が世界のすべてだと錯覚してしまうのだ。自身が接している労働者の不満は紛れもなく「現場の声」である。しかし、現場や労働者のあり方は一様ではない。場所や労働者の属性(例えば、性別や世代、経験年数etc...)が違えば不満や要求も異なる。言われてみれば当然のことだと思われるかもしれないが、支援者はしばしばこの事実を考えないようにしてしまう。

 

なぜなら、支援者には自身が「「現場の声」を聴く「よき人」」であるという自負があるからである。現場の声は「真実」であり、それを聴くことは「よきこと」であり、それをする自分も「よき人」である。「よき人」である自分の意見が間違いであるはずがない。こうして支援者は自分たちの利害に合致する被支援者像を囲い込み、そのイメージに基づいて自らの主張を対象の被支援者の総意であると「代弁」するのである。このような傲りを持たないよう支援者は心得るべきだと思う。

 

女の時間

 

渡辺の発言の問題は女性の存在が想定されていないことである。

 

自由時間よりも賃上げだ、という主張を字義通り眺めるならば、労働者は少ないながらも自由時間は持っているのだから収益を増やして労働者の富を増大させろ、というふうにも読める。しかし、”自由時間がある”のは果たして誰なのだろうか。

 

ベティ・フリーダンの『女らしさの神話』では、第二次世界大戦後のアメリカの主婦が母親の時代よりも多くの時間を家事に費やし、典型的なアメリカの農夫の労働時間よりも長く従事しているという例が紹介されている*4。主婦は夫や子どものために家庭内労働に従事するため時間がない。それだけでなく「女らしさの神話」が女性の自由時間を奪ってしまう。フリーダンが話を聞いたのは1950年代以降にカレッジに行った世代だったが、彼女たちは「家族の時間を奪いたくないから」という理由で地域の組織で責任ある地位に就くことを断ってしまう。だが、「彼女たちの時間の多くは意味のない暇つぶしの作業に費やされている」*5。女性たちは家庭内労働だけでなくこの「意味のない暇つぶしの作業」に縛られているために(当の女性たちにとっての)自由時間を持つことができなかった。

 

フリーダンが「名前のない問題」と名付けた問題はやはり日本でも依然として残っている。特に労働市場の非正規化が進む現在、シングルマザーや「ヤング・ケアラー」はますます自由時間を奪われている。そのような人々にとって「生活苦を抱えた休暇や休日はそれ自体が苦痛」であるのかどうか、疑問である。「休日は家族のために過ごさなければならないから苦痛」という場合もあるだろうが、渡辺の示す解決策が賃上げなので、こうした例も渡辺の想定では排除されている。

 

 

もう一つ、渡辺の言う自由時間が男性中心の時間性であることも指摘しておきたい。

 

過ぎ去りし日はもう戻らない、単線的かつ連続的な時間。これが広く共有されている時間のイメージだろう。しかし、このような「歴史の時間」だけが唯一の時間性ではない。

 

歴史的にみて時間的なものは「男」に、空間的なものは「女」に帰属させられてきた。だがクリステヴァは「女の主観性」に基づく時間があるという。「自然界のリズムに合致し、あるひとつの時間性を着想させる、月経周期、妊娠期間など生物学的リズムの永遠反復」がある*6

 

フリーダンやクリステヴァ、そしてボーヴァワールら一連のフェミニストは、「他者」にされ「女らしさの神話」を押し付けられてきた女性が「自分とは何であるか」を問うてきた。『第二の性』のなかでボーヴァワールは、プラスとマイナスの価値を持つ実存主義の用語を効果的に配置し、プラス面を持つ実存主義の用語を男に、マイナス面の用語を女に当てはめることで女の他者性を明確に浮かび上がらせた*7。本稿の関心に寄せるなら、同書で「自由」という語が男性的なものとされているのは印象的である。

 

企業社会における時間とは、生産性という指標で計られるような迅速かつ定形的で"男性的な"時間である。そして「女の時間(クリステヴァの言葉では「巨大な時間」とも)」は「過ぎゆく線的時間とはほとんど何の関係もない」*8ために疎まれ忌避される。

 

資本の価値増殖のためにただひたすら動員される労働者が過ごす時間は、まるで「この道しかない」とでもいうかのように一筋の線を進んでいく。"男の時間"のなかで与えられた"自由時間"などたかが知れている。しかし、未だかつて到来したことがない時間とは、先がわからない複数の線が延びているものであり、最初から「この道」を歩むべきだとは決まっていない。「女の時間」とは、開かれた未来に自らを投げ入れる「投企」の時間、「クィアな時間」でもある。そのような時間よりも生活賃金、一時しのぎにしかならない"労働者の富"なるものが大事だとするのは、あらゆる意味で貧相が過ぎるのではないだろうか。

 

時代遅れの賃金奴隷

 

渡辺の発言に理解を示す反応には以下のようなものもあった。

 

 

さすがセクシストの学者先生といったところである。ここでいう「私たち」とは男性を中心としたメンバーシップの会員のことであり、単線的で後戻りできない時間に囚われた排他的な集団である。現実は過酷に満ちている。だからこそその過酷に抗するための「投企」の時間が開かれている。左翼がユートピアを語らずして誰が語るというのだろうか。

 

そもそも、渡辺のような考え方ははるか昔にマルクスが批判した典型的なブルジョワ的思考である*9。このことはマルクス主義者なら知っていて当然のことだ。渡辺に少しでも理解を示してみせたセクシスト・マルクス主義者のなんと恥ずかしいことよ!

 

賃労働制度とは一つの奴隷制度だ、という古典的なテーゼがある。マルクスにとって賃上げとは「奴隷の報酬改善以外のなにものでもない」*10マルクスは、労働の問題はその報酬の条件に還元することができないこと、むしろ賃金関係ないしその関係が支配する労働過程にまで問題の核心が及ぶことをはっきりと認識している。過程よりも結果に、自由がないことではなく不平等に焦点を絞ることは、資本主義批判を貧しくするのである*11。これと同じくらい不十分なアプローチについて、『ゴータ綱領批判』では次のように書かれている。

 

それはちょうど、奴隷制の秘密を見やぶってついに反乱にたちあがった奴隷たちのなかで、時代遅れの考えにまだとらわれているひとりの奴隷が、反乱の綱領にこう書くようなものである。──奴隷制は廃止されなければならない、なぜなら、奴隷制度のもとでは奴隷を養う費用は低くきめられたある限界をこえることができないからだ!と。*12

 

自由時間を拡大する要求を斥け、賃金奴隷の身でありながら一時の安らぎのためにまやかしの富の拡大を優先する。これはフェミニストからすれば男性的権力の傲りであり、コミュニストからすれば労働者階級の敵である。労働時間規制に対する反対は、いかなる理由付けを行おうとしても必ず反動であると言わなければならない。

 

 

第二部 労働倫理

 

自由時間を増やして、それで?

 

 

 

とはいえ、である。

 

 

 

ずっと疑問だった。自由時間の増大が人間解放の条件であることは正しい。しかし、自由時間が増大したところで人々は解放のための活動に関わるようになるわけではない。ある人は友人や家族と会食に行くだろうし、ある人は旅行に行くだろう。またある人はパチンコに行くだろうし、ジムで身体を鍛えたりするだろう。人間は革命のために時間を使うよう方向づけられているわけではないのだ。

 

この疑問に対してマルクス主義者は誰も答えようとしなかった。彼らはただ自由時間の増大を訴えるだけで、しかもそれをもってあたかもユートピアが実現されるかのようにうそぶくだけだった*13。自由時間を生み出して、それで?その後のマルクス主義者の展望は驚くほど乏しい。

 

キャシー・ウィークスの労働過程論

 

最近、キャシー・ウィークスの議論を集中的に読んでいる。

 

前回の記事*14を書くためにジョディ・ディーンの議論を調べていた際、フレドリック・ジェイムソンの『アメリカのユートピア』にディーンとともに論文が収録されていることを知った*15。同書にはジェイムソンの議論とそれに対する複数名の論者の応答という形式で論文が掲載されているが、そのなかでもウィークスの議論が最も面白いと感じ関心をそそられた。ディーンも邦訳が少ないが、ウィークスについては2024年現在、これが日本語で読める唯一の論文であることも後から知った。

 

ウィークスの代表作は2011年に発表された”The Ploblem with Work”だ。日本ではほとんど知られていないが、労働過程を考察したマルクス主義フェミニストの議論として極めて重要な書籍であると筆者は感じた。

 

 

ウィークスの議論を筆者なりに解釈してまとめると、ウィークスは人間の労働それ自体が労働倫理や家族倫理を形成し、労働過程を通じてそれらの倫理や規範を内面化ないし身体化する、ということを言っている。上記の書籍で紹介されている例では、労働が労働倫理や家族倫理を形成する過程でジェンダー規範も形成され反復される。そして労働過程のなかで労働者は、労働倫理や家族倫理に基づくジェンダー規範を内面化ないし身体化することでジェンダー秩序を維持、再生産していく、とされる。

 

わたしはウィークスの議論にたいへん衝撃を受けた。なぜなら、これはマルクス主義における「労働」を根本から否定するものであるからだ。どれほどの読者が気づいているかわからないが、ウィークスの議論は世界の革命理論を根底から変えてしまうほどの力を持っている。

 

このことは『資本論』を読むとすぐに理解できる。『資本論』では、労働が労働倫理を形成し、労働過程のなかで労働者が労働倫理を内面化ないし身体化していく、というウィークスの議論で展開されているような内容はまったく出てこない。というのも、マルクスの関心はあくまで労働が対象物を統御し生産することについて、そして労働者が自身の労働を統御する自由を資本家に奪われている不当さを問うことにあるからだ。つまり、労働過程に対する考察の出発点が対象物に対する労働の関わり方の方にあるのである。そのため、マルクスの関心は必然的に「生産」や「所有」を問うことに移り、導き出される実践も生産手段の奪取や占拠、個人的所有の再建といったものになる。

 

しかし、ウィークスの労働過程論の出発点はその手前、すなわち対象物に対する労働の関わり方ではなく「労働」それ自体にある。ここで理解のための補助線としてマルクス主義フェミニズムの議論を引いておく。 「家事労働に賃金を」が好例だが、マルクス主義フェミニズムの画期性は市場の賃労働と同等に扱われない家庭内労働を労働過程論の俎上に載せたことにあった。ここでいう家庭内労働とは、子育てや介護のみならず、 異性愛を反復する労働としてのセックスも含んでいる。

 

資本主義は、賃労働こそ市場を媒介として収入を得るために認められた唯一の手段なのだとその正統性を主張する*16。と同時に、家庭内労働を「自然」なものとして扱うことで不払いの労働を動員し剰余価値生産を最大化するよう努める。このとき、家庭内労働を「自然」化するために「女らしさの神話」が押し付けられるのである。

 

「女らしさの神話」は無償労働を正当化するだけでなく、家族規範を維持、強化する。家族を構成するメンバーは「親」と「子」、「夫」と「妻」といった役割を各々与えられている。そして各々は、家庭内労働を通じてこの役割を適切に演じるよう方向づけられる。フェミニズムが優れていたのは、労働社会を性別役割分業社会として把握し、賃労働から排除された女性たちの近代化を「もう一つの近代」として相対化したことにあった*17

 

家庭内労働の評価が低いのは、すぐ消費されるために反復の必要があり、従って創造性のある行為とみなされないからである。労働者の時間、すなわち「男の時間」において家事労働は、日々賃労働に従事する単線的な時間を途中通過する程度のものとして把握され、大きな価値を見出されることはない。しかし、家庭内労働は日々終わることのない作業を反復する、いわば「女の時間」のなかで経験されるものである。そして、家庭内労働は賃労働に従事していないという意味で「働いていない」こととして、労働中心社会のなかで低い序列を与えられる*18。ここでの働いていない時間、つまり「余暇=自由時間」という規定は、労働者の解放の先決条件として期待された”自由時間”とはまったく異なる様相を呈する。ここにマルクス主義の限界とフェミニズムの革新性があった。

 

ウィークスの議論はマルクス主義フェミニズムの蓄積の延長線上に位置づけられる。ウィークスの言うように、職場はジェンダーが強制され、実行され、再創造される現場である*19。そして家事労働もまた、労働力を再生産し、そしてサービスを提供する労働であると同時に、ジェンダーを生み出すものとして認識されるべきである*20。労働過程とは、第一に、資本の価値増殖のために労働者が資本に従属しその人格や生活を方向づけられる、言い換えれば「労働倫理」を内面化し身体化する過程として把握されるべきである。そして第二に、家庭内労働を賃労働と同等のものと認めたうえで、「家族倫理」を形成し維持する過程として把握すべきである。そして第三に、労働の主体が労働を通じてセクシズムやレイシズム能力主義をはじめとする、近代の社会体制を補完するイデオロギーを受容、内面化し身体化する過程として分析する必要がある。マルクスは、自身が規定した「労働」概念に縛られたが故に労働過程それ自体が含む問題を把握することができなかった。マルクスジェンダーに対する関心が薄い理由は時代的制約などではまったくなく、その理論的関心と構成のためであったのだ。

 

 

人間の本質としての労働

 

マルクスの「労働」概念にはもう一つ特質がある。それは「人間の本質は労働である」という、特に初期において強調された規定である。

 

マルクス主義者は長年に渡り労働が人間の本質を形成するという初期マルクスのドグマを守り抜いてきた。マルクス主義者が人間と動物の違いを強調するのはこのためである。動物は自分が何を為すべきかもわからないし、世界をつくることもできない。しかし、人間は世界をつくることができる。それは人間が動物とは異なり労働をする存在だからであると。

 

動物性に対するマルクスの憎しみを、後のマルクス主義者は追認してきた。*21。ブレイヴァマンは、人間と動物は意識の量に差があるために、本能の領域でしか世界に働きかけることができない動物に対して人間は独自の世界を創造できるとした*22。また、斎藤幸平は人間が気候変動に取り組むべきであることを強調するためにマルクス主義の「人間中心主義」を正当化している*23

 

ジェイソン・フライバルはこうした考え方に正面から異を唱えた。 動物は人間と同じく資本主義システムの下で労働をしてきたし、これからも労働をし続ける存在である。「動物たちは労働者階級の一員である」*24。フライバルはむしろマルクスの階級理論に依拠しながら動物の労働の歴史を扱ってこなかった人間中心の労働史を批判した*25

 

フライバルの主張を裏付けるかのように、文化人類学や動物行動学をはじめとする科学の発展はマルクス主義の前提を覆す。霊長類学におけるフランス・ドゥ・ヴァールの貢献、動物たちの抵抗を分析したサラット・コリングの批判的動物研究はその一例だ*26。ドゥ・ヴァールは言う、政治の起源は人間性より旧い、と*27。人間と動物の間に差別を設けるマルクス主義は、従来の「労働」や「人間」、「階級」という規定の問い直しを迫られている。

 

『性の弁証法』を読む ──ユートピアを想像するために

 

マルクス主義の主張を継承しつつ労働の意味を問い直すこと、これを行うことの意義はユートピアのための想像力を膨らませることにある。未来社会を構想するにあたってウィークスがマルクスとともに参照するのはシュラミス・ファイアストーンである。

 

ファイアストーンの『性の弁証法』は破壊力に満ちた作品である。同書における「危険なユートピア的」提案は十分検討に値する。ただ、それらの計画は素描に過ぎず「何も最終的な解答ではない」*28。なぜなら、ファイアストーンの提案は「実際の活動を示すよりは、むしろ新しい領域へと思考を進める際の媒介を与えることを意図している」からである*29ユートピアの社会を構想し提案する、これを恐れない重要性について、ファイアストーンは次のように言う。

 

革命に対する罠は、常に、「それに代わるものは何か?」ということである。しかし、この場合に、たとえあなたが質問者に青写真を提出することがで'き'た'としても、彼らがそれを使うかどうかはわからない。多くの場合、彼らは、それに代わるものを知りたいと心から思ってはいない。実際、これはもっともありふれた攻撃であり、革命的な怒りをそらし、怒りを革命自体に向けるやり方である。しかも抑圧された人々は、総ての人々を納得させるための仕事をもっていない。彼'ら'が'知る必要があるのは、現体制が彼らを破壊しつつあることだけである。*30

 

ファイアストーンの主張はとても刺激的で読者を力づけてくれる。ウィークスにおいてもそれは同様だろう。一方で、ウィークスはファイアストーンの別の側面も評価する。それはファイアストーンが「主体性の根本的変容がわれわれのものではないことを理解」していたこと、つまり「未来を考えるには、われわれの欲望、主体、社会性の構造が消滅するのに十分な期間の中で、われわれ自身を越えて考える必要がある」ことを熟知していたという点にある*31。言い換えれば、ユートピアを享受するのは自分ではないかもしれないという可能性を受け入れるべきであるということである。

 

おそらく日本の左翼はウィークスの結論に落胆するだろう。というのも、ユートピアを享受したいという欲求は誰もが持つ当然の願望だからである。自分が受益者にならないかもしれないものにどうして時間と労力を割かなければならないのか。実現するかもわからないものに未来を賭けるなんて愚かだと一笑に付すかもしれない。

 

しかし、彼女たちフェミニストの訴えは現行の社会に対するアンチテーゼでもある。そもそも資本主義とは即席の「ユートピア」をつくり出し私物化する支配体制である。資本主義の倫理を内面化する資本家にとって自分以外は価値のない存在であり、他者は自分の利害を実現するための道具でしかない。イーロン・マスクの振る舞いをみればそれは明らかだろう*32。前回の記事で「個人化」にふれたが、優れたフェミニストが個人化を問題とするのは、それが現代社会における人々の欲望のあり方を方向づける現象であることを理解しているからである。

 

クリステヴァの「女の時間=巨大な時間」は、ファイアストーンやウィークスが未来社会に賭ける思想に呼応するものではないかと思う。開かれた未来とは資本主義が追い求めるような短絡的で粗野な代物ではない。巨大な時間を生きる者にとって自分がユートピアを享受できるかどうかなど些細なことだ。なぜなら、ユートピアは自分の利害を超えた場所に現れるものだからだ。わたしたちは「自分たちのものであるが自分たちのためではないものとして未来を想像するのを厭わなくなる方法を学ばなければならない」のである*33

 

 

 

 

 

*1:熊沢誠格差社会ニッポンで働くということ 雇用と労働のゆくえをみつめて』岩波書店、2007年、p162-179

*2:川村雅則「2024年問題とトラック運転者の労働時間規制・法制度をめぐる問題」『都市問題』vol.114、2023年10月、p12

*3:同。厚労省「過労死等の労災補償状況」に基づく。

*4:ベティ・フリーダン著、荻野美穂訳『女らしさの神話 下』岩波文庫、2024年、p26

*5:同、p33

*6:ジュリア・クリステヴァ著、棚沢直子、天野千穂子訳『女の時間』勁草書房、1991年、p120

*7:木村信子「訳者あとがき ──『第二の性』読解の一助として──」(ボーヴァワール著、「『第二の性』を原文で読み直す会」訳『決定版 第二の性 Ⅱ 体験 下』河出文庫、2023年、p487

*8:クリステヴァ、同、p120

*9:「君がより少なく存’在’すればするほど、君が自分の生命を発現させることが少なければ少ないほど、それだけより多く君は所’有’す’る’ことになり、それだけ君の外’化’さ’れ’た’生命はより大きくなり、それだけ君は君の疎外された本質をより多く貯蔵することになる。国民経済学者が君の生命から、君の人間性から奪いとるすべてのもの、それを彼は君のために貨’幣’と富’とで補填してくれる。そして君にできないすべてのことを、君の貨幣はやることができる。(中略)それはすべてのものを買うことができる。貨幣はほんとうの資’力’である。しかしこれらすべてである貨幣も、自分自身を創造すること自分自身を買うこと(ママ、句読点なし)以外のなにごともし’よ’う’と’し’ない。なぜなら、その他のすべてのものは、実際のところ、貨幣の奴隷だからである。そしてもし私がその主人を所有するなら、私は奴隷を所有していることになり、貨幣の奴隷には用がなくなる。したがってすべての情熱やすべての活動は、所’有’欲’のなかに没しなければならない。労働者は生きようと欲するに足るそれだけのものしか、所有することを許されず、そして[それだけのものを]所有するために生きようと欲することだけしか許されないのだ」(カール・マルクス著、城塚登、田中吉六訳『経済学・哲学草稿』岩波文庫、1964年、p154-155)。何よりもまず手取りを増やせ、という要求そのものが資本への隷属を強め、労働者の力や欲望を貧しいものにし、未来社会への想像力を奪うのである。現代日本の左派がこれを理解できないということはそれだけで十分弾劾されるべき理由になる。

*10:同、p103

*11:Kathi Weeks, "The Problem with Work", a John Hope Franklin Center Book, 2011, p21

*12:カール・マルクス著、望月清司訳『ゴータ綱領批判』岩波文庫、1975年、p48

*13:典型例はアンドレ・ゴルツである(真下俊樹訳『労働のメタモルフォーズ ──働くことの意味を求めて 経済的理性批判』緑風出版、1997年)。キャシー・ウィークスを読んだ後に彼の議論を読むと、肝心の労働過程論が酷すぎることがわかった。ゴルツの議論の一番の問題点は、植民地主義を考慮せずに自由時間の増大を訴えている点にある。ヨーロッパのエコロジストらしいといえばらしいが、彼の楽観的なユートピア論は斎藤幸平を想起させる。

*14:

zineyokikoto.hatenablog.com

*15:キャシー・ウィークス著「ユートピア的セラピー 労働、非労働、政治的想像力」(フレドリック・ジェイムソンほか著、スラヴォイ・ジジェク編、田尻芳樹、小澤央訳『アメリカのユートピア 二重権力と国民皆兵制』(書肆心水、2018年)所収)

*16:労働倫理については以前に別の記事でふれた。

zineyokikoto.hatenablog.com

*17:江原由美子『装置としての性支配』勁草書房、1995年、p127-128

*18:同、p128-129

*19:Weeks, ibid, p9

*20:Sarah Fenstermaker Berk, "The gender factory : the apportionment of work in American households", Springer, 1985, p201

*21:ここで重要なのは、マルクス自身は「ただ人間だけにそなわるものとしての形態にある労働を想定」するとしながらも、「最初の動物的な本能的な諸形態」そのものは(考察の対象にしないだけで)労働であることを認めている点にある(カール・マルクス著、岡崎次郎訳『マルクスエンゲルス全集版 資本論①』大月書店、1972年、p312)。労働が「人間」だけのものであるという健常者中心主義的/種差別的排他性を推し進めたのは後のマルクス主義者たちの方だ。

*22:ハリー・ブレイヴァマン著、富沢賢治訳『労働と独占資本』岩波書店、1978年、p52-56

*23:斎藤幸平「ルカーチの物質代謝論と人新世の一元論批判」『思想』no.1183、2022年11月、p58

*24:Jason Hribal, "Animals are Part of the Working Class": A Challenge to Labor History", Labor History 44(4), November 2003, p435-453

*25:フライバルの仕事は重要だが、少なくとも二つの点に注意しなければならない。一つは擬人主義に関する点である。フライバルの「労働者」と「階級」はマルクス主義、すなわち人間が構築した概念に依拠している。サラット・コリングは擬人化の有効性を認めながらも、動物たちに「政治活動を投影することに関し慎重であったほうがよい」とする(サラット・コリング著、井上太一訳『抵抗する動物たち』青土社、2023年、p159)。乱暴な擬人化は動物たち自身の多様な社会的・認知的経験を否認してしまう危険性がある(フライバルの記述がそうだということではなく、擬人化を行う際には当の動物たちの生を理解しようと最善を尽くし、動物たちの観点を認識する努力を怠らないようにすべきだということである)。もう一つは性労働に関するものである。フライバルは動物労働と共通点がある労働の例として人間の性労働を挙げている。フライバル自身は深く議論を展開していないものの、結果として、性労働は他の人間の労働とは区別されるべきだという印象を読者に与えてしまっている。しかし、キャリー・ハミルトンの言うように、そのように論じてしまうことは資本主義が種を越えて多くの形態の労働を見えなくする条件を作り出しているという中心的な論点を損なうのである(Carrie Hamilton, "sex, work, meat: the feminist politics of veganism", Feminist Review 114 (1), 2016, p112-129)。動物労働と人間の性労働の共通点は、遂行される労働のカテゴリーが根本的に類似していることではなく、むしろ労働そのものが頻繁に否定されるという点である。仕事を仕事として定義することは、搾取の認識を妨げるものではない、というのがハミルトンの主張である。なお、ハミルトンの論文の趣旨はキャロル・アダムズ(『肉食という性の政治学』の著者)の反セックスワークの主張に対する批判であり、この点でも必読である。

*26:フランス・ドゥ・ヴァール著、松沢哲郎監修/訳、柴田裕之訳『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』紀伊國屋書店、2017年。また、コリング、同書。いわゆる久留間派に顕著だが、一部の日本のマルクス主義の系譜に連なる学者たちは現代科学の知見を積極的に摂取せず、頑なにマルクスが生きた当時の科学の水準を前提に理論を構築しようとする。一方で、現代科学の研究により人間と動物の境はますます曖昧になっている。

*27:フランス・ドゥ・ヴァール著、西田利貞訳『政治をするサル チンパンジーの権力と性』平凡社ライブラリー、1994年、p342

*28:シュラミス・ファイアストーン著、林弘子訳『性の弁証法』評論社、1972年、p276-277

*29:同、p277

*30:同、p276

*31:ウィークス、前掲論文、p289

*32:資本家としてのマスクを説明する際にリチャード・セネットの「人格の腐蝕」という概念が有効であると考える。これは資本主義の倫理が人間の人格を方向づけることを指摘する優れた概念である(リチャード・セネット著、斎藤秀正訳『それでも新資本主義についていくか アメリカ型経営と個人の衝突』ダイヤモンド社、1999年)。

*33:ウィークス、同、p290

「反差別」の囲い込みが起きている

 

この世は囲い込みによって成り立っていると思うことがある。

 

身近な例でいえば結婚制度や近代家族があてはまるだろう。どちらも親密性を囲い込むための制度であり、囲い込みが目的であるからこそ暴力を内在的に含むのである。

 

資本主義もまた囲い込みを起源とするシステムであった。だからこそ反資本主義運動は囲い込みからの解放を目指すものであらねばならないはずだ。

 

しかし、現実の社会運動は人々を解放するどころか、自らの主張のために人々を囲い込む運動になってしまっているものが多い。「反差別」を掲げる運動も同様である。

 

 

特定の差別への解決を優先させるための囲い込み

 

例えば、他者の身体への同意なき接触を問題化する際、その問題をなぜか性暴力だけに議論の焦点を合わせようとする人がいる。

 

太った人のお腹を他人が勝手にさわるのはおかしいし、場合によってはペットなどの動物に対する一方的な接触も問題になるだろう。しかし、一部のフェミニストは性暴力、それも女性への暴力の問題としてのみ語ろうとし、他の問題を後景化させようとする。

 

これは特定の差別への解決を優先させるための囲い込みであると考える。他者の身体への同意なき接触という普遍性を持った枠組みを提示することなく、女性への暴力のみに問題を設定する。一部の集団の利害さえ確保できれば人権などどうでもいいとでも主張しているように思える。

 

「反差別」の主張に立脚するならば、このような傲慢な態度を認めてはならないはずだ。なぜならば、しんどさは平等であるべきだからである*1。しかし、フェミニストは他者化を動員することで囲い込みの欲望を正当化する。トランスジェンダーの排除はその例である。女性への脅威となる存在としてトランスジェンダーを悪魔化し、悪魔化した表象から「女性スペースを守る」という名目で女性の利益に適う主張を正当付けるのである。

 

 

「私だったかもしれない」と「私だった」の差

 

なぜこのような囲い込みが起きるのか。わたしはそのヒントを江南駅殺人事件後の追悼現場での出来事に求める。

 

2016年5月、ソウル江南駅近くのトイレで20代の女性が見知らぬ男性に殺害された。容疑者が女性に対する嫌悪を犯行の動機に挙げたことで、この事件はフェミサイドの一つとして人々に記憶された。事件後、江南駅10番出口には追悼のためのポストイットが次々と貼られるようになった。

 

そもそも、事件現場にポストイットを貼るという行為は遺族の感じた喪失を哀悼するものではなく、「「私だったかもしれない」という衝撃を受けた者たちが集まって哀悼と怒りをつなげる」行為であり、また、江南駅10番出口はそのための場所であった*2ポストイットに書かれた内容は「まるでトラウマを抱え生存した者の自己告白に似た内容で埋め尽くされていた」*3江南駅前に集まった人々にとって、殺された女性はただその死のみにより共有される存在であったが、「その死はまた「私」の死でもあった」*4。クォンキム・ヒョンヨンは、「「私だったかもしれない」というフレーズが生の偶然性と死の必然性に対する悟りを経由して、女性の生に対する自覚として、フェミニズムの政治として引き継がれたことは、ともすれば必然的なことだったのではないだろうか」と評価する*5

 

一方で、「私だったかもしれない」というポストイットの隣には「私はあなただ」という書き込みもあった。実は、両者はまったく異なる性質の言葉である。

 

私が常に殺されうるという自覚。女性を蔑視し、粗末に扱い、時には崇拝しながら、男性の他者としてしか存在できないようにする「女性嫌悪」社会が、まさにこの「通り魔殺人」の共犯だった。驚くべき政治的覚醒の瞬間だったが、自分が死にうるという可能性が実際に殺害された他者の場所を占有したことも事実だ。「他者」が消え去り、その場所に(「あなた」と全く同じ)「私」が登場することで、実際の死はその場所から消え去った。哀悼の対象は他でもない「私」になった。「私」は「あなた」だからだ。このような認識において「私」と「あなた」が同一ではないと主張するすべての差異は消去されるべきものになった。(中略)偶然にも生き残った者たちが、自身の生に責任を持つために社会に声を上げた政治的瞬間は、明らかに「生き残った私は何をなすべきか?」という問い、すなわち生に対するものだった。しかし、「私はあなただ」と言う瞬間、死の共同体を通じて生を語る政治的瞬間は消え去り、他者を存在しえなくする同一性の政治へと滑り落ちていった。*6

 

「私だったかもしれない」も「私はあなただ」も、生き残った「私が存在して発言している」という事実が重要である*7。しかし、前者が「生の偶然性と死の必然性に対する悟りを経由して、女性の生に対する自覚として、フェミニズムの政治として引き継がれ」る可能性を開くのに対し、後者はフェミニズムの政治の可能性を閉じるものである。

 

後者の問題は、生者の感覚が死者の空間を占有することにある。第三者の感覚が、ある特定の事象の空間やイメージを占有することで、その事象の渦中にいる当人の感覚がかき消される。「私はあなた」だからだ。「私」の感覚を「あなた」の感覚と同一のものとすることで、「私」の感覚が絶対化される。そこには「私」に対する反省規定も検証可能性も存在しない。他者の存在を消去して自身の主張を絶対化するとき、「私」の被害は他の誰よりも優先されるべき対象となる。これが囲い込みの心性の正体である。

 

 

「個人化」の時代

 

囲い込みの背景についてもう少し検討したい。というのも、「反差別」を名目とした昨今の囲い込みを心的な問題としてのみ捉えてしまうと、個人の良心や振る舞いの問題に回収されてしまうからである。筆者は、この問題は時代的背景を踏まえることで理解が深まるのではないかと考えている。そこで参照すべきタームとして挙げるのが「個人化」である。

 

社会学ウルリッヒ・ベックは、20世紀最後の四半世紀に先進国が「第二の近代」に入ったと述べ、この時代において生じている新たな事態の一つを「個人化」という術語で分析した*8。それまでの「第一の近代」では国家や家族、企業をはじめとする中間団体が個人と社会の間に存在し、個々人はそれらの社会形態や紐帯、規範に組み込まれていた。しかし、「第二の近代」では中間団体の存在意義が弱まり、その結果、個々人は階級や家族、職業システムから解き放たれ、個人と社会が直接関わりを持つようになった。ベックはこの事態を「個人化」の過程として分析した。

 

この過程は何を意味するのか。一つは、人々のアイデンティティが不安定になることである。階級や家族、企業に対する帰属意識が弱まることで個々人のアイデンティティは所与のものではなくなってしまう。「第二の近代」においてアイデンティティは「あたえられるもの」ではなく「獲得するもの」となった*9。そしてアイデンティティを獲得する過程で生じる責任やその結果はほかでもないその行為者自身の責任になり、個々人がその拠り所を得られるかどうかの責任も自身に委ねられてしまうのである。

 

 

「個人化」の時代のフェミニズム

 

「個人化」という切り口からフェミニズムについて考えてみる。女性の雇用の増加やセクシュアリティ、恋愛関係の変化は「第二の近代」以前から起きていたが、グローバル化や国家形態の動揺が顕著になった近年は地理的移動性、雇用機会の分化、社会移動、世代間変化が大きく促進された。この変化はエリザベート・ベック=ゲルンスハイムが言うように、女性の人生が「他の人のために生きること」から「自分独自の人生」へ移行していったことを示している*10

 

もちろん、このことは女性に対する「抑圧」がなくなったことを意味するのではなく、むしろ不明瞭かつ複雑になってきたとさえいえる。労働市場は性別によって分割された二重構造になっている。例えば、家庭外の仕事に就く結婚した女性は家庭内の労働から解放されておらず、家族のために家事労働をこなさなければならないことが多い*11。そのうえで自身の仕事の成功も期待されている。しかし、ポストの不足や不安定な職業の増加により、女性の労働市場におけるリスクは悪化している。「自分独自の人生」を歩むことは困難を極めるだろう。このような時代においては求められるのは、自分独自の人生をうまくやり過ごすための「自分だけのフェミニズム」である。

 

個人がすべてのことを乗り越えていかなければならない新自由主義社会において、自分の意味を確認することは他人との関係ではなく、自分との関係を通じて行われる。このとき、一部の女性たちには、自分だけのフェミニズムが一時的に必要となる。生存の個人化が強く進んでいる資本主義的絶対主義的社会において女性たちを動かす力は、「社会正義としてのフェミニズム」というよりも、各自の状況の中で自分の利益になりうるかどうか、すなわち「利益集団としてのフェミニズム」の性格を強く帯びるようになるからである。*12

 

囲い込みを目的とするフェミニズムのなかに社会正義は存在しない。彼女たちが求めることは「自分のパイを求める」ことだけであって「人類を救」うこと、すなわち公正な社会を実現することではないのだ*13

 

自分(あるいは自分たち)の利害を囲い込むことを優先する思想は自分と他者との間に序列をつくりだす。優先的に利益を享受するためには、自分が「正常」であるという正統化と、排除すべき他者がいるという正当化を同時に行わなければならないからだ。チョン・ヒジンの警句は傾聴に値する。

 

「先に/後で」の政治を主張する人たちは、自分自身を「後先」の基準にする。自分の時間が現代性(contemporary)なのだと主張することで、時代の唯一の主人公であろうとする。しかし、(特にジェンダー問題においては)「誰が先で、誰が後なのか」を問いただすよりも、そのような考え方自体が、まさに人間のヒエラルキーを前提とした発想であることを知るほうが大切である。歴史は語る。あらゆる権力の作動原理は、排除する主体が誰であり、排除される対象が誰なのかによって決定されるということを。そして、その権力によって「優先視される女性」の人権すら、「後に実現される女性」の人権によって決定されるという事実を。*14

 

 

群衆と党

 

では、「個人化」が進む時代で社会運動はどのように展開されるべきなのか。

 

ベックらとは別に個人化の問題を取り上げてきた学者の一人にジョディ・ディーンがいる。ディーンは今日の資本主義の編成を「コミュニケーション資本主義」の特性として分析することで知られる政治学者である。政治学者の水嶋一憲はディーンの理論を用いて、コミュニケーション資本主義の時代における個人化という現象を次のように説明する。

 

コミュニケーション資本主義の時代は、強いられた個人性の時代でもある。つまりそこでは、「個人的なことは政治的なこと」という支配的な権力構造を攪乱するための問題提起が、「政治的なことは個人的なこと」ないしは「個人的なことのみが政治的なこと」という、個人主義を基盤にしたアイデンティティ政治へと反転されてしまうわけである。けれども、政治的なものとは本来、個人的なものを突破して、未来の横断個性性に向けて開かれる運動であったはずだ。逆に言えば、個人性とは共有地コモンズとしての集合性を囲い込むための形態にほかならないのである。その意味で、個人化の強制は群衆の囲い込み運動に等しいともいえよう。*15

 

ディーンはまた自身の理論をベースに左翼政治に対する提言も行っている。その主張によれば、21世紀のインターネット以後の左翼政治にふさわしい集合的な政治組織は、近年、日本でも称揚されがちな水平的・自律的・協働的なネットワークという形態ではなく、長年、遠ざけれらてきた党という形態にほかならないというのである*16

 

党の役割とは「集合体のために集合的欲望を可能にするよう、われわれの環境にギャップを開けておく点にある」*17。群衆が、予測可能な規定状況を突破し、そこに亀裂を生じさせることで政治的主体の生み出される可能性が生まれる。党はその裂け目に入り込み、人民のためにそれを開けておくよう奮闘するのだ。「その党が群衆という出来事の平等主義的な解放=放出ディスチャージに忠実であるかぎり、それはコミュニスト党なのである」*18

 

2010年代以後の群衆闘争はコミュニケーション資本主義のネットワークと親和性が高い。例えば、#Metoo 運動は性暴力に対する反対からフェミニズムの政治の可能性を切り開いたが、そこから派生した一部の運動は「女性」の利害を囲い込むために悪魔化した表象をつくり出し、排他的な主張を拡散することでフェミニズムの政治の可能性を閉じてしまった。「平等主義的な解放=放出」のモーメントを個人主義的なアイデンティティ政治へ反転させることは、「反差別」でも、「反資本主義」でもない。

 

ディーンの構想するコミュニスト党は、「そうした危険に抗して、群衆が開示する平等の強度と欲望に忠実でありつづけながら、群衆が消え去った後もそれらを持続させ、組織された政治闘争へとそれらを水路づけていく働きを担うもの」なのである*19。政治も社会運動も閉塞化しつつある日本において、今日の社会状況は群衆と党との関係を再考する絶好の機会とはいえないだろうか。

 

 

*1:私(わたし)の立場については以下の記事で書いた。

zineyokikoto.hatenablog.com

*2:クォンキム・ヒョンヨン「性暴力の二次加害と被害者中心主義の問題」クォンキム・ヒョンヨン編、影本剛/ハン・ディディ監訳『被害と加害のフェミニズム』(解放出版社、2023年)、p71

*3:同、p71-72

*4:同、p72

*5:同。

*6:同、p72-73、傍線強調部は筆者。

*7:同、p71

*8:伊藤美登里『ウルリッヒ・ベックの社会理論 リスク社会を生きるということ』勁草書房、2017年、p94

*9:ジグムント・バウマン著、森田典正訳『リキッド・モダニティ』大月書店、p42。または、「ジグムント・バウマンによる序文 個人として、他者とともに」ウルリッヒ・ベックエリザベート・ベック=ゲルンスハイム著、中村好孝他訳『個人化の社会学』(ミネルヴァ書房、2022年)、xviiiを参照。

*10:エリザベート・ベック=ゲルンスハイム「「他の人のために生きること」から「自分独自の人生」へ 個人化と女性」ベックほか、同、p91-142

*11:同、p110

*12:チョン・ヒジン「被害者アイデンティティの政治とフェミニズム」クォンキム・ヒョンヨン編、前掲書、p240

*13:キム・ジナ著、すんみ・小山内園子訳『私は自分のパイを求めるだけであって人類を救いにきたわけじゃない』祥伝社、2021年

*14:チョン・ヒジン、前掲論文、p215

*15:水嶋一憲「ジョディ・ディーン」伊藤守編『メディア論の冒険者たち』(東京大学出版会、2023年)、p332

*16:同、p331

*17:ジョディ・ディーン「二重権力再び」フレドリック・ジェイムソン著、スラヴォイ・ジジェク編、田尻芳樹・小澤央訳『アメリカのユートピア 二重権力と国民皆兵制』(書肆心水、2018年)、p142

*18:水嶋、前掲論文、p331-332。またはディーン、同、p142を参照。

*19:水嶋、同、p332-333

社会運動の労働過程① 

三上の教え

 

北宋文人、欧陽脩の言葉に「三上(さんじょう)」というものがある。

 

文章を練るのに適した場所を指すもので、欧によれば「枕上(ちんじょう、寝床)」「馬上(ばじょう、乗り物の上)」「厠上(しじょう、トイレ)」がアイディアが浮かびやすいのだという。

 

この3つには共通点がある。どれもそこでは労働に従事していないのだ。

 

勤務中は業務を遂行するために集中する必要があり、とても他のことを考える余裕がない。創造的な思考は、労働から解放され休息できる時間と場所を確保することで可能になるということだろう。

 

社会運動という労働

 

ある賃労働者のぼやきを聴いた時がある。

 

企業別労組の組合員であるその人は、連勤が続いた後の休日に組合の分科会へ参加しなければならなかった。勤務形態がシフト制なこともあってその時は休日が一日しか取れず、分科会に参加した次の日からまた連勤が続いてしまった。貴重な休日を丸一日組合のために費やしたので休んだ気がしないとこぼしていた。

 

もっともである。いくら賃労働に従事していない時間があるといっても、あることに時間を取られるならそれは休んでいることにはならない。たとえその時間が組合活動、ひいては社会運動のためであったとしてもだ。

 

賃労働と社会運動が常に連続している時、そこには休息がないことを意味する。これは家事労働でも同様である。労働と労働の間にインターバルがなければ、それは自由時間がないのと同義である。

 

ここで言いたいことはただ一つ。社会運動も労働である。活動家は認めないかもしれないが、社会運動に参加する者は、運動のために自身の労働力を支出することで資本や権力に対抗しているのだ。

 

社会運動参加者に対する「査定」

 

社会運動を一つの労働過程とみなすことは「よきこと」の解明につながると考えている。

 

私(わたし)は「よきこと」について語るとき、その考察範囲を日本社会に限定するようにしている。その意図は「よきこと」とは企業社会という経済的構造によって規定された問題だと考えるからである。

 

なぜ社会運動のなかで暴力やハラスメントが起きるのか。それは企業社会のなかでしか通用しないはずの評価基準を運動家が社会運動内部にそのまま無批判に持ち込んでいるからである。

 

社会運動は本来、既存の価値観や社会規範、権力や社会構造を相対化しながら社会正義の実現を目指すものである。しかし、人々を組織化して一つの運動を形成しようとする際、運動家は既存の価値基準に頼らざるを得ない。なぜなら社会運動とは「好きな材料でつくるわけでも、自分で選んだ状況でつくるわけでも」なく「自分たちの目の前にあり、自分たちに与えられ、手渡された状況でつくる」ものだからである*1

 

運動家のなかには、自分たちの影響力を増大させることが社会正義の実現につながるのだと信じる人間が一定数存在する。彼らが組織化を試みる際に考えることは「自分たちの活動にどれだけ参加してくれるか」「相手は自分たちの価値観に共鳴してくれる人間なのか」ということばかりだ。つまり、他者に対する関心が社会正義ではなく「自分たち」の方を向いているのである。そんな傲慢な人間たちが考える「組織化」がろくでもないことは想像に難くないだろう。

 

日本的経営の人事・考課制度が「労働者がどれだけ(私生活を犠牲にしてまで)企業のために働いてくれるのか」を基準にしていることを踏まえると、運動組織が活動への参加や価値観の共鳴を評価基準に置いて活動を行うことの問題が理解できるだろうか。

 

「個人の受難」としての「よきこと」

 

企業社会における労務管理の研究に優れた業績を残してきた一人が熊沢誠である。熊沢は日本的経営の特質を能力主義に基づく労務管理に求め、日本企業の労働者が「モーレツ」に”自発的”に働く構造を明らかにした。下記は熊沢が過労死・過労自殺について述べた報告で、日本的能力主義管理の特徴を端的に示している。

 

この日本的能力主義管理の具体的な現れ方はすぐれて「労働条件決定の個人処遇化」ということでした。すなわち、仕事のなかみやノルマ、職務の範囲、配属、そして求められる残業量・・・といった具体的な労働条件が、上司の命令にしたがって労働者が働いた努力と成果に対する査定によって、個人別に決まるようになってきたということ、それが大きな影響を与えました。つまり、広義の労働条件のうち、労働協約とか労働法が一律に規定する部分がきわけて小さくなったのです。

私はこれを「労働条件決定の個人処遇化」と規定します。この個人処遇化は、労働者のしんどさが、「個人の受難」として現れるということです。この界隈では、過労死・過労自殺にしても、ハラスメントにしても、メンタルヘルス不全にしても、それは従業員の全員に及ぶというよりは、その職場の少数者の問題とみなされがちです。その事例を集計すれば社会的には大きな問題ですが、当該の職場では少数者のもので、企業内では「個人の受難」と扱われてきました。したがってそれは辛辣に言えば、「個人の責任」とされてしまう。<日本的能力主義の浸透⇒労働条件決定の個人処遇化⇒個人の受難=個人の責任>という流れがひとつの連関になっています。*2

 

日本型雇用の労務管理について述べたこの記述は、社会運動組織内部における労働のあり様そのものでもある。運動にはノルマがない。しかし、目標はある。社会を変革するという目標が。あまりにも途方もない目標である。目標が途方もないからこそ、活動家は多少無理をしてでも運動に身を投じようとする。活動のなかみやノルマ、活動の範囲、配属、そして求められる活動量・・・といった具体的な活動条件が曖昧になる。そのような活動下においても、ともに運動に身を投じてくれる仲間は評価されるだろう。厳しい条件下でこの人はどれだけ活動に参加してくれるのか。どれほどの時間と労力を運動のために費やしてくれるのか。活動家の厳しい査定が参加者に向けられる。査定をクリアした参加者は、次の活動に対する努力と成果に対する査定を受ける。こうして活動内容が個人化する。

 

活動内容が個人処遇化するということは、活動のしんどさが共有されないことを意味する。活動のたいへんさや疲労、実現可能性を示す指標が存在しないので、活動の失敗は容易に「個人の責任」へと転化する。総括は運動を前進させるための評価としてではなく、ただただ「個人の受難」として現れる。<日本的能力主義の浸透⇒活動条件決定の個人処遇化⇒個人の受難=個人の責任>という流れがひとつの連関になる。

 

職務=活動内容の無限定と属人的評価に基づく運動参加者の管理・統制。これが社会運動における「よきこと」の問題の核心である。

 

「強制された自発性」

 

運動家は「よきこと」について語ることに強い拒否反応を示す。「よきこと」を隠蔽ないし正当化する際によく用いられる文句の一つが「(彼の人らは)自発的に活動に参加している(から問題ない)」というものだ。

 

社会運動内部で暴力やハラスメントが起きたとしても、それらの事象は「暴力」や「ハラスメント」として認識されることはない。それは被害者と加害者の双方が「活動内容に納得したうえで自発的に活動に参加し、自らの決断に責任を負っている」と認識しているためである。

 

ここで再び熊沢の議論を紹介したい。下記は過労死・過労自殺に追い込まれる日本の労働者の主体性について述べたものである。

 

しかしながら、過労死・過労自殺をひとえに自己責任とする言説を嗤うことは、働きすぎに斃れた人びとのビヘイビアにはいささかの選択も主体性もなかったという認識に直結するわけではない。企業の要請する過重労働が責任感のつよい働き手を死に追い込む。どのケースについてもそのことに企業労務は最大の責任をまぬかれない。とはいえ、現代の労働が厳密な意味において奴隷労働でない限り、過労死であれ過労自殺であれ、それらは働きすぎを要請する企業の論理に対する、労働者のいくばくかは自発的な対応の結果として現れるのだ。過労死・過労自殺は総じて、この「階級なき」日本の労働者になじみの「強制された自発性」から生まれる悲劇の極北なのである。*3

 

「強制された自発性」は熊沢の労働研究における最重要概念の一つである。主体的・能動的に活動に参加しているかどうか。女性やマイノリティが”操り人形”として無理矢理活動に参加させられているのかどうか。そんなことはどうでもいい。それらは「よきこと」の問題を隠蔽するための議論のすり替えにすぎない。考えるべきは、社会運動参加者が多少無理をしてでも活動に貢献しようと「頑張ってしまう」、そのような力学が働く構造の問題である。

 

活動に対する厳しい叱責と制裁はその責めを受ける人間の「自己責任」であるというのが暴力をふるう側の論理であり、また、責めを受ける側も同様の思考を共有しているがために「暴力」や「ハラスメント」の存在が認識の外に置かれる。私たちは「よきこと」をしているのだから、「よきこと」を為す私たちの活動が暴力やハラスメントであるはずがない。もし私たちの活動に暴力やハラスメントが含まれると思うなら、それはあなたの活動に対する姿勢が不誠実だからであり、自身の失態を活動のせいにするあなたの「甘え」に由来するのだ。これが活動家の論理である。

 

暴力やハラスメントを自己責任として正当化する論理が参加者に受け入れられるのは、活動の中身がまさしく「よきこと」だからである。参加者からすれば、運動家は自分たちよりも社会のことを考えており、社会のために活動している人たちとして映る。実際、その評価を正当化する実績も存在する。「よきこと」を疑うことはもはや社会変革を否定するに等しいのだ。社会をよくしたいと思うなら、黙って我々活動家の言うことを聞いて活動に参加しろ。そうやって自身のプライドと良心をくすぶられたら、社会運動のために「頑張ってしまう」のも無理はないのである。

 

自由時間を増大させるには

 

日本的能力主義管理を無批判に受容する組織で社会運動に関わろうとすると、「強制された自発性」を発揮して「頑張ってしまう」。プライベートと活動の境がなくなりあらゆる時間が運動のために費やされる。そうなると思考も狭まり将来の展望がみえなくなる。それでいて活動家からも「お前が運動に貢献できないのは自己責任だ」と切り捨てられるのだからこれほどひどい話はないだろう。

 

自由時間が増大すれば社会活動に参加する時間が増える、運動家は好んで言う。実際、そういう側面は大きいだろう。しかし、せっかくできた自由時間を自分たちの運動の囲い込みに利用するのは違う。社会運動に縛り付けられる時間はもはや「自由時間」ではない。

 

自由時間の増大は、社会運動を含むあらゆる労働をサボタージュすることによって可能となる。これが真理である。社会運動に持続して参加するためには自由時間を増やすことが必要だ。常に疲弊している状態では優れたアイディアも浮かばないものである。社会を変革したい。社会を変えるために運動に参加したい。そう思うなら、まずは一息ついてはいかがだろうか*4

 

 

*1:カール・マルクス著、丘沢静也訳『ルイ・ボナパルトブリュメール18日講談社学術文庫、2020年、p16

*2:

kumazawa.main.jpこの報告でも書かれているように、熊沢は過労死・過労自殺を引き起こす労務管理がなされる要因の一つに労働組合の弱体化を挙げている。「よきこと」の問題が時折、労働組合内部でも起きることを考えると皮肉である。

*3:熊沢誠『働きすぎに斃れて 過労死・過労自殺の語る労働史』岩波書店、2010年、p364

*4:賢明でない読者のために付言しておくが、必要なのは労働のサボタージュであって、全面的休業すなわち「ストライキ」ではない。社会運動に持続して参加するためには、社会運動から適切な距離を置くことが必要という趣旨である。

おめでとう、そして、ありがとう

人気バンドSHISHAMOのドラマーの吉川美冴貴さんが、交際していた女性とパートナーシップの宣誓を行ったことを発表した。

 

 

 
 
 
 
 
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SHISHAMOを聴いていたのはもう随分昔のことだ。それも有名な2,3曲しか知らないにわかファンなのだが、報告を受けて昔の自分のことを思い出し、感傷的な気持ちになった。

 

SHISHAMOの代表曲に「僕に彼女ができたんだ」という曲がある。

 

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自分に彼女ができたのが嬉しくて周りに言いふらしたいけど、二人だけの秘密だから自慢したくてもできない。そんな恋心を歌った曲だ。

 

私(わたし)にはこの曲にまつわる、あまり嬉しくない思い出がある。

 

たびたびブログで紹介しているが、以前、ある社会運動組織に関わっていたことがある。その組織では個人の生活よりも社会運動を優先するべきだという価値観が支配的だった。ただ、運動に参加して間もない人たちと親睦を深めるという名目でカラオケに行っていた時期があり、その時間は自分にとって数少ない息抜きの時間でもあった。

 

しかし、本来は息抜きになるはずが、実際には人格を否定されるなどの辱めを受けることも少なくなかった。例えば、アニメを視聴する人間を毛嫌いするメンバーに、当時流行していたアニメの主題歌を無理やり歌わされてそれを嗤われるということがあった。最近、職場の人たちと久しぶりにカラオケに行く機会があったのだが、誰がどんな曲を歌ってもそれをバカにするといったことがなかったので、自分が受けた経験は特殊だったのだなとしみじみ感じた。

 

さて、カラオケの場で先の曲を歌った時も例にもれず不興をかってしまった。彼らからすれば、この曲は(社会のことに関心を抱かず)恋愛にうつつを抜かす男の歌だという意味で「キツい」曲なのだそうだ。そもそも自分に彼女ができたことを喜ぶような男は幼稚であり、少なくとも社会運動に関わる人間が抱いていい心性ではないと。歌った時の場の空気が微妙だったので自分が恥ずかしくなり、以後、自分の記憶からも曲の存在を消してしまっていた。

 

それから数年を経て今回、吉川さんの発表に接したことでこの曲のことを思い出した。そして、彼女ができたことが嬉しいのに、同性愛者であることをカミングアウトできないが故にもどかしい思いを抱く女性の内面を歌った曲であるという解釈が可能なことにも気づいたのだ。別の解釈に気がつかなかったのは悔しいが、あの時の私(わたし)では無理だっただろうと思う。この曲を歌うことすら嘲笑の的にされ、歌の存在を記憶から消し去り抑圧していた身としては、あの時の自分を肯定していいんだという嬉しさがあり、涙がこぼれてしまった。

 

男と女の情事以外を想定することができないような、ホモソーシャルの湯船に浸かる健常者のシスヘテロ左翼男性どもには、この曲を理解することなど所詮不可能だったのだ。「キツい」曲だと嗤ってくれたことでお前らはやっぱりクズなんだと安心することができた。クズでいてくれてありがとう!

 

「そしていつか、結婚できる日が来たらもっともっと嬉しいです!」という吉川さんたちのパートナーシップの宣誓を素直に喜んでいいのかどうかはわからない。パートナーシップは結婚と同等ではないのはその通りだし、そもそも「結婚制度は廃止するべきだ」という左翼から宣誓を言祝ぐことすらお叱りを受けそうだ。それでも、本人たちがカミングアウトして伝えてくれた吉報をまずは受け止めたいと思う。2人のためにも、わたしのためにも。

 

あの曲を好きだといったことで自分の尊厳を奪われるようなこともあったけれど、今回のことでかつての自分の尊厳を少しは取り返せたかもしれない、そんな気持ちでいる。おめでとう、そして、ありがとう。

しんどさは平等であるべきだ

 

生きとし生けるもののしんどさは平等なはずである。

 

戦争の時代の悲惨

 

柄谷行人がしばしば言うように、世界は戦争の時代に突入しているかもしれない。

 

ミャンマーの軍事クーデター、ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルによるパレスチナ人民に対する虐殺………ここに例を挙げきることができないほど今日の世界では一方的な支配や弾圧、殺戮が行われている。

 

それら一連の出来事に呼応して様々な抵抗が起きている。日本でも大規模なデモから数人規模のスタンディングまで幅広い方法による抵抗が行われている。様々なやり方で連帯を呼びかける方々、それに共鳴する方々には敬意を表したい。

 

苦しみの競争

 

しかし、出来事が悲惨で酷たらしいものであればあるほど、左翼は苦しみを競わせようとする。

 

戦争や虐殺で苦しむ人々の痛みに比べれば、それを経験せずに済む自分が/お前が今抱えている苦しみなど大したことはないと決めつける。

 

わたしは、しんどさに差をつけるような考え方をはっきりと間違いだと言うべきだと思う。

 

このようなことを言うと左翼は必ず反発する。

 

戦争で今にも殺されそうになっている人と、日々の生活に苦しみ藻掻いている人の苦しみが等価であるはずがないと言う。そう主張するのは左翼の直感に反するからである。

 

戦争や虐殺の犠牲になる人は圧倒的劣位に置かれている人々で、憐れみを受ける庇護すべき対象でなければならないという左翼の直感に反するからである。

 

わたしは、その直感を正面から否定する。

 

誰であろうと、どのような種であろうと、苦しみを受けること自体が不当なことであり、どのような苦しみであれそれは尊重されるべきものだからである。

 

苦しみの競争はしんどさに対する差別である

 

この記事を書こうと思ったきっかけはTwitter上である投稿をみかけたからである。

 

筆者とは関係ない第三者間でのやり取りで、フェミニストを名乗る一方が「ヴィーガンに対する差別は差別ではない」と主張していた。その趣旨は、差別とは「属性」に対するものを指し、ヴィーガンは属性ではなく思想信条によるものであるから差別ではない、というものだった。「思想信条に対する偏見や差別的扱いは存在しても、社会構造に組み込まれ選択の余地のない「属性に対する差別」」を並列に語ることは暴力的だ、とのことだ。

 

この方の主張の誤りを指摘することは簡単である。「思想信条に対する偏見や差別的扱い」を差別ではないことにしてしまうと、職業差別や宗教差別が正当化されてしまうからである。

 

「社会構造に組み込まれ選択の余地のない「属性に対する差別」」が他の差別より上位に扱われるべき問題であり、属性に対する差別と他の差別を同様に扱うべきではない。このような考えは差別の囲い込みである。

 

ひとの苦しみに優劣はないのに、しんどさは平等であるべきなのに、左翼はひとの痛みや悲しみに差をつけようとする。

 

痛みや苦しみ、悲しみに差をつけるということは、しんどさには差別があるとでっち上げるようなものだ。

 

お前が受ける抑圧は差別ではない。お前が受ける抑圧など他者に比べれば大したものではない。差別を囲い込み抑圧を競争させるようなことは非難されるべきだ。

 

国家の不正とマイクロアグレッションは何が違うのか

 

しんどさは平等であるべきだ。左翼はこれを全力で否定する。

 

しんどさには優劣がある。苦しみは平等ではない。痛みや悲しみを平等だとする考えこそ恥ずべき思考だという罵倒が寄せられる。

 

その根拠は差別の規模の違いにある。例えば、国家暴力と、日常生活で受けるマイクロアグレッションは、差別を行う主体も暴力の程度も異なる。二つのしんどさを同じように扱うことは左翼の直感に反する。

 

わたしは、2つの苦しみやしんどさに違いをつけるべきではないと考える。では違いは何で判断されるのか。

 

国家の不正とマイクロアグレッションは、解決のために費やされる社会的総労働量及び社会的総労働時間が違うのだ。動員される労働が違うだけなのだ。だから両者はその重要性、重大性において違いはなく、両者ともに反差別の重要課題として扱われるべきである。

 

しんどさに差がないということは、巨大な不正や抑圧、戦争や殺戮を過小評価することにはならない。むしろそれらと同様の抑圧が日常的に起きていることを明らかにする。お前の苦しみは彼らの苦しみより楽だと言うことは、当の「彼ら」の苦しみを易くすることにはつながらない。他者の苦しみをジャッジし競わせる人は、自らが「よき人」であることをアピールするためのステータスづくりに勤しんでいるだけなのだ。

 

ひとの苦しみに差はなく、それぞれの痛みや悲しみは尊重されるべきである。しんどさは平等であるべきなのです。