「不誠実かつ未熟」な書評家と「ケア」

昨年、朝日新聞に掲載された桜庭一樹著『少女を埋める』の書評に対して、著者自身が抗議したことが話題となった。

 

 

彼女の抗議に対する評者・鴻巣友季子氏の弁明と、それに対する桜庭氏の更なる応答、及び双方の応酬に対する社会的な反応は様々な様相を呈した。これについて思ったことを簡単にまとめようと思う。一連の出来事が落ち着いたら書こうと思っていたのに、気がついたら年が明けてしまった。けれども、桜庭さんが後日談となる小説『キメラ--『少女を埋める』のそれから』(以下、『キメラ』)を発表したので、タイミング的にはよかったかもしれない。

 

最近は小説を読む機会が減ってしまったため、この小説も話題になるまで読んだことはなかった。話題になったからというのもあるが、小説家が作品の書評について抗議することがあまりないことや、評者が「ケア」に引きつけて論じていた点に興味を持ち、実際に作品を読んで自分の意見を持ちたいと思った。

 

この騒動をめぐる外部の反応のうち、著者を批判する内容のものも見受けられたが、特に「(一般的に)小説家が自身の小説に対する書評に抗議するのはいかがなものか」というような反応が大きかったように思う。

 

芸術においてもおそらくそうなのだろうだが、ある人によって生み出された作品が一旦作者の元を離れたら、作者の意図とは関係なしに受け手の解釈に委ねられて当然(だから作者が受け手の解釈に注文をつけることは無粋だ)、という通念が世間にあると思う。確かにそういう側面はあるだろう。しかし、この作品についてそのような通念に基づく批判が成り立つかというと、わたしは疑問だ。

 

『少女を埋める』は「私小説」というジャンルで書かれている。わたしは、中学生時代は小説をそれなりに読み、大学に入ってからもいくつか有名な小説を読んだりしたのだけれど、私小説というものをちゃんと読んだのは多分初めて。

 

この作品では、MacbookUber Eatsなどの固有名詞が名称を変えずにそのまま登場している。主人公の名前が架空であることを除けば、ほとんどエッセイと変わらない。より正確に言えば、エッセイよりも文学らしい格調で書かれている。これが私小説なのだ。私(わたし)は私小説が、現実と地続きの小説であるということに気づき、「これが小説として成立するのだ」と、(個人的にはいくらか安堵の気持ちがありつつ)驚いた。だから桜庭さんが抗議の際、小説のなかで書かれている出来事を「事実」としたのも、私小説というジャンルの特異性を考えれば全く不思議ではないと思う。

 

それで、先ほどの批判に移るが、実際に読んだ自分からすると的外れな指摘だと感じた。批判している人はそもそも私小説というジャンルを知らないのではないかとすら思う。「小説の読み方を固定するな」と彼女を批判している人は、一般的な「小説=フィクション」の形式のイメージに引っ張られすぎて、作品を読まずに一般論を述べているに過ぎないと思う。

 

次に、今回の出来事の焦点となっている評者の解釈について、当該の箇所は以下のようになっている。

 

いよいよ蓋を閉めるというときになって、母がお棺に顔を寄せ、「お父さん、いっぱい虐めたね。ずいぶんお父さんを虐めたね。ごめんなさい、ごめんなさいね……」と涙声で語りかけ始めた。「お父さん、ほんとにほんとにごめんなさい……」と繰り返す声を、ぼんやりポーカーフェイスで黙って聞いていた。

内心、(覚えていたのか……)と思った。

自分は知らない、という人たちは、実際はすべてわかっているものなのだろうか。あの人もこの人も、みんな。(「少女を埋める」『文學界』2021年9月号、p43)

 

確かに、『少女を埋める』は空白の多い小説である。ここだけ切り取れば、虐待の可能性を示唆していると思ってしまうことは、理解はできる。しかし、小説全体を読み、文脈などを考慮すれば、このテキストだけを元に「介護で母親が父親を虐待していた」と解釈するのは、明らかに読者の先入観に基づいた誤読といっても過言ではないように思う。

 

テキストの解釈については、個々人の読解力の差や先入観、「多様な解釈」があるので、ひとまず置いておこう。それよりも、わたしが不信感を持ったのは著者の抗議に対する評者の反応だった。

 

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桜庭さんが「不誠実かつ未熟な評」と述べる通りだと私(わたし)も思う。誤読も解釈の一つと開き直ることは、私小説というジャンルの特異性、そしてその特異性から生じるセンシティブさや著者の経験を否定することになる。鴻巣氏には、書評も加害行為になり得るという自覚が欠けていると思う。

 

鴻巣が桜庭さんとのやり取りでいかに不誠実かつ未熟な対応をしていたかについては、後日談となる小説『キメラ--『少女を埋める』のそれから』に詳しく書かれている。これを読んで、わたしは鴻巣に対し激しい嫌悪感を抱いた。この人物の書いた文章は、曲解に基づく牽強付会な文章の醜悪さ・傲慢さを確認する以外の目的で読むことはないだろう。

 

つい最近も某書評家がTickTokerをバカにして炎上していたが、一部の書評家の方々のこうした傲慢さは一体何なのだろうか。

 

『キメラ』には書評のあり方に対する疑問も呈されている。

 

そもそも、と首をひねる……。小説は、一度発表されたら、なんと評されても、どう間違えられても受け入れるべきであり、一方で批評は聖域であり、間違いを指摘したりするのは不作法だ、小説側の覚悟の足りなさだ、という長年の不文律も感じる。でも、それってほんとうだろうか?(「キメラ--『少女を埋める』のそれから」『文學界』2021年11月号、p68)

 

書評家は数多の小説をジャッジする資格があり、かつ自らは批判に晒されることがなく、自分の意見は絶対的なもので、書評に批判があればそれは批判する側が間違っている……というのはわたしの邪推だろうか。

 

非常によく似た構図が「良きこと」の名の下に行われるハラスメントでも起こっている。「ハラスメントとは無縁であるはず」の社会運動、NPONGOの活動で、活動家たちのジャッジやハラスメントが日常的に行われている。活動家曰く、社会を変えることができるのは社会運動によってだけであり、運動の外からの批判は所詮「エアプ」による的外れな指摘でしかない。運動家は組織化のために活動家として育てる人間をジャッジしなくてはならず、それは弾圧から運動を守るためなのだ………。

 

書評家や活動家のハラッサーたちの傲慢さの根源は、自分が他者を「ジャッジ」する絶対的な存在であると勘違いするところからくるのではないだろうか。

 

それでいて自分が批判されたら、今まで全うな批判に向き合ってこなかったが故に、自分の犯した過ちより先に「自分が攻撃されている」という気持ちが先んじてしまい、自身の正当性を主張するために自分を擁護する意見にだけ耳を傾けてそれで満足しようとする。こうした光景が何度繰り返されてきたことか。

 

今回のことでさらに不快なのが、「不誠実かつ未熟」な批評家が「ケア」について語っていることなのだ。

 

最近、何かと「ケアの倫理」が話題にのぼる。ケアが議論されること、それ自体は良いことかもしれない。一方で、ケアについてまともに考えたことがない、これまで全く興味も示さなかった人間たちが「ケアって大事だよね〜」と訳知り顔で語る様ほど不快なものはない。

 

海外の社会運動ではセルフケアを含むケアの重要性が早くから指摘されてきた。それはフェミニズムの影響も大いに受けたものだとわたしは思っている。一方で日本の社会運動はどうか。運動を休もうと思うものなら「裏切り者」「意識が低い」と蔑んでばかりではないか。

 

書評家はどうか。ケアの重要性を訴える書評を書いておきながら、作家に攻撃するだけで作家のケアなどお構いなしか。自分の書評が無条件で受け入れられることがセルフケアにつながるとでも思っているのか。「ケア」と称して自分が気持ち良くなることを優先し、他者への加害行為を不問にすることが書評家という職業なのか。

 

わたしの関わった社会運動家たちは、ケアが大事と言いながら仲間のケアを全然しない人たちだった。彼らのなかでは、ケアされるべき人間と、ケアされなくてもいい人間が明確に分けられていた。ケアの対象となるかどうかは、活動家のジャッジによって決まるのだ。

 

現在、日本で浮き足立って語られている「ケア」は「愛」と同様に胡散臭いものでしかない。真剣にケアについて考えたいのならば、まずは人をジャッジすることをやめ、自身の加害行為と向き合うことから始めるべきだ。

 

 

 

自分が人を傷つけていることより、自分の加害行為に対する反応をみて「自分が傷つけられた」と防衛的になる人は信用できません。