どうして「男」の人って、余計な一言をつけたがるんだろう?

「どうして『男』の人って・・・」と思うことがしばしばある。

 

 

 

 

最近、私(わたし)はサービス業で働き始めた。シフトに入ってまだ数日も経っていないのだが、連日先輩から罵倒されている。

 

数日前、仕事の締め作業が最後まで終わらなかった。本当は備品の片付けを全て終わらした後に店内の掃除までしなければいけないが、そこまでいく前にシフトの終了時刻が来てしまった。「段取りが悪い」と先輩から注意され、効率よく仕事をこなすための手順も教えていただいたが、その際、

「こんなのできて当たり前だから!」

と言われてしまった。申し訳なさを感じながら業務を切り上げ、帰り支度をしていると、私(わたし)がやるはずの掃除を先輩がやっているのを見た店長から注意を受けた。

「効率悪すぎ。遊びでやっているんじゃないよ!」

この業界で働くのは初めてだし、働き始めてまだ数日も経っていないのだから、「できて当たり前」のことができないのなんて当然だと思う。そんな人に向かって「できて当たり前」と責めたところで、すぐに仕事が早くなるわけでもないし、言われても「はあ、そうですか」としか思わない。真面目にやっているし、遊び感覚で仕事をできるような身分でもないのだけれど・・・。

 

翌日出勤した際に改めて注意を受けた。店長の言い方は至って普通だったが、先輩は

「○日やっててこれができないのは異常だから!」

と私(わたし)にイライラしていた。この日から先輩の私(わたし)に対する態度が厳しくなった。指導が厳しいのは別に大したことではないのだけれど、ことある度に「調子乗ってんじゃねえよ!」と一言付け加えてくる。

 

 

 

余計な一言をつけて仕事ができないことを責められる、ということは、以前、私(わたし)がボランティアとして関わっていた団体でも経験した。

 

団体で定期的にイベントを開催することになり、自分もその運営に関わっていた。当初は参加する余裕があり、精力的に活動していたが、ある時期から私生活の影響で参加する余裕がなくなってしまった。他の運営スタッフもそのことは知っていて、運営に参加できなくなった後にあるスタッフと会った時も「それはしょうがないんじゃない」と認めてもらった。

 

しかし、年齢的にも活動内容的にも私(わたし)と距離が近かった人は、それを快く思わなかったらしい。その人には今後の予定について、あまり活動に関わる時間がないということは伝えていた。でも、後にその人から仕事を頼まれた際、

「なるべく早くお願いします。他の人たちが困るので」

というようなことを言われてしまった。まるで「あなたが怠惰だから他の人の活動に支障が出ている」とでも言いたいかのような言い方に内心傷ついた。

 

この程度ならまだいい方で、ひどい時は人の趣味・嗜好についても貶めてきたりする。例えば、あたしはアニメ鑑賞が好きでジャンルも問わずいろいろなアニメを観ていた時期があるが、団体の人たちはオタクを蔑視していたのでそれを咎められ、自分もアニメを観ることをやめてしまった(最近また観始めたけど笑)。日本のアニメは性差別的だからそれを観ることは性差別の再生産に加担するのだとか。でも団体にいる人のなかにはエヴァとかガンダムとか好きな人もいたみたいだけど。

 

アニメ好きだったことはことあるごとにいじられた。団体で任された仕事が評価されず、気分が落ち込んでいた時にふと昔観ていたアニメの話題が出てそれに反応してしまい、ある人から「お前はこういう時に元気になるよな」と呆れられた。

 

 

 

 

ここに書いたハラッサーは皆「シス男性」だ。少なくとも外見上は。ただ、外見だけでその人の性別やアイデンティティを判断することはできないし、するべきではないと思う。しかし、マスキュリニティの問題を考えるうえで、強烈な男性性を身に纏う人たちをなんとか表現したい。私(わたし)は、「(ジェンダー・あるいは身体の)ゆらぎの見えないシス男性」と表現するのが暫定的にいいと思う(その含意の説明はまた後日)。

 

「ゆらぎの見えないシス男性」(以下、「男」と表記)は、「厳しい指導」をほとんど「人格否定・パワハラ」と同義だと思っている。厳しい指導というのは、仕事の内容に対して厳しさを求めるものであって、人格否定を伴っていいわけではない。

 

しかも「厳しい指導」で放たれる罵倒は大抵の場合、無内容で意味が含まれていない。わたしは働いている間、一度も調子に乗ったような素振りはしていないのであるが、にもかかわらず職場の先輩はわたしに対して「調子に乗っている」と言ってきた。要は自分が人を罵倒することで快感を得たいだけなのである。あたしが調子に乗っていようがいまいが関係ない。人にストレスをぶつけて発散させたいだけなのだから。

 

 

 

 

 

 

社会運動における「男」による「厳しい指導」はもっと狡猾だ。まず、団体の方針とそぐわない、あるいは団体の運営陣が忌み嫌う思想・アイデンティティ・嗜好などを運動の参加者に見出し、それを「恥」だと思わせる。そして団体の方針に沿うような思考様式に「矯正」し、運動のために時間を使うよう私生活も掌握する。わたしが参加していた団体では、運動に参加した時点で恋人がいた人が何人かいたが、指導的立場にいる「男」たちはその恋人が「ダメな奴」かどうかを判断し、ダメな奴と判断された恋人と付き合っていた人たちに対して「運動と恋人とどっちに時間を使うのが大事か」と迫った。最終的に、判断を迫られた人たち全員が恋人と別れた。

 

また、「男」たちは、一度「恥」だと思い込ませた嗜好やアイデンティティを何年にもわたっていじり倒す。そして、散々いじり倒した挙句、「いじられることに慣れるな」「いじられて嬉しいと思っているんだろう」と新たに「恥」を上塗りする。

 

社会運動家の「男」たちは、「無能」を絶対許さない。「能力がなくても生きていていいんです」と外向けに広く呼びかけるその裏側で、同じ活動家仲間の無能力には容赦無く「総括」を求める。冒頭に書いた職場の人格否定と同じことが運動の場でも起きている。失敗に対して申し開きをする「甘え」も許さない。しかも、総括を求める一方で仲間のケアはしない。彼らにとって人にケアを求めることは「恥」なのだ。

 

「余計な一言」は、恥のスティグマを人につける際に最高のパフォーマンスを発揮する。余計な一言を言えば言うほど、言われた相手は自身の無能力さを恥入り、活動家として認められたい一心で運動のために時間を費やし、できることを増やすために「総括」を繰り返す。

 

運動家の「男」たちの放つ余計な一言には、ある種の「正当性」がある。活動家は、常に人々の模範とならなければならない。「欠点」があればそれを改善しなければならない。彼らは「余計な一言を言われる方が悪い」と本気で思っている。その一言で、相手は何年にもわたって苦しむことになるのに。

 

 

 

 

 

 

ここまで書いても、「男」たちが余計な一言をつける意図はわからない。ここに書いたことはあくまで現状分析にすぎない。どうして人を罵倒して快感に浸りたいのか。なぜ余計な一言を添えることが男性性と深く結びついてしまっているのか。「ゆらぎ」の見えない人たちの考えることはわからない。

 

 

 

 

 

どうして「ゆらぎの見えないシス男性」って、余計な一言をつけたがるんだろう?